MISIMA

秋月ねづ

 玄関のチャイムがドアの向こうで聞こえる。麻衣の指がチャイムのボタンからそっと離されて、ジャンバーのポケットの中に戻された。僕は大きく息を吸う。
「はーい」
 女性の声と足音が聞こえ、僕は身を固くした。扉はゆっくりと開かれ、水谷ヨウコが姿を見せる。ヨウコは素晴らしく美しい女性になっていた。麻衣と似た茶色の髪は長く伸ばされて、無造作に束ねられている。薄い瞳は優しく麻衣に向けられ、口元は微笑んでいる。当たり前のことだけど、僕の記憶の中のヨウコよりも遥かに、彼女は女性だった。
「いらっしゃい。久しぶりね。さっきね。お母さんから電話があったよ」
 ヨウコは麻衣に、これ以上ないくらい親しみのこもった声をかけた。
「おねえちゃん。……こんにちは」
麻衣はそう呟いた。麻衣はこの部屋に居ると思われる自分の父親のことで頭が一杯なのだろう。ヨウコは麻衣の腕に手をかける。ヨウコは麻衣の腕を触りながら僕の顔を見上げ、そして凍りついた。
「ハル! ……何で?」
 ヨウコは驚いた表情を見せる。僕は出来るだけニッコリと笑う。これはヨウコと会った時のことを思い浮かべて何度も練習した笑顔だ。
「よう。元気か?」
 僕がそう言った瞬間、僕は水谷ヨウコに横っ面を思い切り引っぱたかれた。

「すっきりした」
 ヨウコはアイスコーヒーをかき混ぜながら、僕に言う。僕の頬はまだ軽く熱を持って、僕はそこを擦った。僕らは麻衣を父親と二人きりにして、近所の喫茶店に来たのだ。ヨウコはまだ不機嫌そうに僕を睨んでいる。先ほど麻衣に笑顔を向けた女性と同一人物だとはとても思えない。
「何だか知らないけどさ」
 と僕は言った。
「何だか知らないけど、俺とお前が最後に会ったのは、十五年前だぜ。確かにあの時、なんか喧嘩してたかもしれないけど、普通もう時効だろ?」
 僕の言葉を聞いてヨウコは眉をひそめた。
「ハル、あんた忘れてんの? 何でわたしが怒ってるのか。じゃあ、何で会いにきたのよ。謝りに来たわけじゃないんだ」
 ヨウコは窓の外を向いてそう言う。謝る? 僕は身を乗り出してヨウコを見た。
「ちょっと待てよ。俺、お前に何をしたんだ? ほら何ていうか、事と次第によっては謝るからさ。教えてくれないか?」
 僕がそう言うと、ヨウコは首を振った。
「何で教えなきゃならないのよ。私が怒ってるのは、何で私が怒ってるのか、あんたが忘れてることも含まれてるの。馬鹿じゃないの?」
 ヨウコは畳み掛けるようにそう言って、僕はもう沈黙するしかなかった。いくら思い返しても、怒っている小学生のヨウコは覚えているが、何でヨウコが怒ったのかは思い出せなかった。実のところ、今も思い出の中でもヨウコは怒ってばかりのようだ。僕は黙ってコーヒーをすすり、ヨウコは窓の外を眺めた。
「何で麻衣ちゃんを連れて、ウチに来ることになったの?」
 ヨウコは相変わらず外に視線をやったまま訊く。
「そうだ、大体あんた何で麻衣ちゃんと知り合いなのよ?」
 ヨウコはやっと僕の方を向いた。
「俺は今、misimaで仕事をしてるんだ」
 僕は今までの経緯の説明をした。麻衣と出会ったこと。友達と話したときにヨウコの話題が出たこと。
「じゃあ、わたしに会いたかったんだ?」
 ヨウコはそう言って、にこりと笑う。
「別にそういうわけじゃないけど、何か引っかかってるところがあってな」
 僕がそう言うと、ヨウコはまた目を怒らせた。
「引っかかり? そりゃ引っかかるでしょうよ。あんだけ約束したのに忘れてるんだから」
 ヨウコはそう言って横を向いた。約束? 一体僕はどんな約束をしたんだろう。僕らはまた黙った。ヨウコが教えてくれない以上、僕が何かを思い出さなければ、話が進みそうになかった。
「あっ」
 僕は思い出して、声を上げた。
「お前、両親が心配してたぞ」
 僕がそう言うと、ヨウコは唇を噛んだ。
「分かってるよ。そんなの。でもあの時、町を出たいなんて言えなかった」
 ヨウコがそう言って、僕は頷いた。
「あの町ちょっと変だもんな。お前なんてみんなに死んだとか言われてるんだぜ」
 僕がそう言うと、ヨウコは薄く笑った。
「あんただって、結局あの町に帰ってきてるじゃない。言い伝え通りよ。町に魅せられた」
「そうかもな」
 僕は言った。
「じゃあ、お前の親に元気だって伝えとくよ。お前も男と住んでるんじゃ、連絡しづらいだろ?」
 僕がそう言うと、ヨウコは笑い出した。何を笑ってるんだこいつは。
 その時窓ガラスが叩かれ、店の外に麻衣が来ていた。ヨウコは立ち上がり店の外に急いで出ていく。麻衣はとても嬉しそうに、ヨウコに向かって笑ってから、彼女に抱きついていった。僕にとってそれは不思議な光景だった。麻衣が、いくら仲が良かったとはいえ、今のヨウコに喜んで抱きつくのはちょっとおかしい。ヨウコが麻衣の父親と駆け落ちしたという僕の仮説はどこか間違っているのだろうか? 少し涙ぐんだ麻衣はヨウコから離れた。ヨウコが何か言うと、麻衣は何度か頷き、僕の方を一度見てからヨウコに何かを言って、二人で笑い合った。喫茶店のガラス越しには何を話しているのかさっぱり分からなかった。僕はため息をついて、伝票を握って席を立った。僕が外に出ると二人はニヤニヤと笑いながら僕を見ている。
「帰るよ」
 麻衣はそう言って僕を促した。僕は釈然としないものを感じながら、仲良く手を繋いで歩く二人の後について水谷ヨウコのアパートに戻った。僕が鍵を開けると、麻衣はすばやく乗り込んで僕もシートに座ってベルトを締めた。窓を開けると、水谷ヨウコが覗き込んで、麻衣に向かって手を振る。
「またね」
 麻衣は嬉しそうに頷いて、手を振り返し、水谷ヨウコは僕に冷ややかな眼差しを向けて
「理由を思い出したら、謝りに来なさい」
 と言った。僕は目を閉じて何度か頷いた。僕はシフトレーバーをdに入れて車を発進させ、麻衣は振り返ってリアグラスから何度も手を振り、僕は何だか不可解な気持ちでアクセルを踏んでいた。

「で?」
 僕は車を高速に乗せてから、麻衣に訊いた。
「どうだった?」
 僕がそう言うと、麻衣は不思議そうな顔をして僕を見た。
「何が?」
「ほら、お父さんと話してみて」
 僕がそう言うと、麻衣はニッコリ笑った。
「良かったよ。元気だったし、生きてたからね。いつでも会いに行って良いって言ってくれたんだ。あのね、あの傘をくれたのはやっぱりお父さんだったんだよ。でね、無くなったのはお母さんに会いに来て、自分で持って帰ったんだって」
 麻衣はそう言ったが、僕の知りたい情報は何も無かった。
「ヨウコとは何を喋ってたんだ?」
 僕がそう言うと、麻衣は声を出して笑った。
「それは内緒」
 僕はため息をついた。何だって言うんだ一体。
「何で麻衣とヨウコはそんなに仲がいいんだよ?」
 僕はそう訊く。
「昔から仲良かったよ」
 麻衣はこともなげにそう言って、僕は唇を噛んだ。
「分かったよ」
 僕はサジを投げた。もうどうしようもない。麻衣は靴を脱いで座席の上で胡坐をかいて座った。
「でもほんと、おねえちゃんには感謝してるんだ」
 麻衣はそう言う。
「お父さんがお母さんと別れてから、ずっとお父さんの面倒を見てくれたんだもん。お父さん家のこと一人じゃ何も出来ないって言うし、おねえちゃんが付いててくれて良かったと思うんだ」
 麻衣はそう言って、僕はため息をついた。誰か何がどうなっているのか教えてくれ! 僕の味方は誰も居ないのか?
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