MISIMA

秋月ねづ

 僕は車を北へ走らせた。助手席で麻衣はいつものように靴を脱いで膝を抱えてる。麻衣は自分で持ってきたテープをカーステレオのデッキに入れ、曲と一緒に歌い始めた。カローラは海沿いの高速道路をひた走る。一時間ほど十曲とちょっとでテープが終わりカチッとひっくり返ったところで、僕はため息をついた。色んなタイプの歌があったけど一曲も知らなかった。僕の部屋にはテレビもラジオも無いので、新しい曲を知らないのは当たり前と言えばそうなのだけど、僕は何だか寂しい気持ちになった。
 麻衣は助手席の窓から外を見ながらテープの二順目を歌い始めた。麻衣の歌声は高くて細い。麻衣の声は古いテープデッキの割れた音に混じって流れた。『僕が最後に覚えた歌は何だったろう?』僕は朝の日差しを右腕に受けながら、そう考えていた。車はスムーズに流れていく。長い左カーブで、僕はハンドルを傾けて腕を固定して、アクセルも軽く踏んで足を固定した。それだけで車は滑るように走っていく。最後に覚えた歌は一向に思い浮かばない。
「ねえ、これから行くのって、どんなところ?」
 歌うのを止めて、麻衣は訊く。
「いい所だよ。僕が小学五年生から去年まで、十四年間住んでた所なんだ」
 僕は次々と車の下に吸い込まれていくセンターラインを見ながらそう言った。
「ねえ、じゃあさ、ヨウコお姉ちゃんと同じ所に、暫く住んでたってことじゃない? 何か変なの」
 麻衣はそう言って、あはは、と笑った。考えてみればそうかもしれない。僕が上の空に咥え煙草で街を歩いているときに、水谷ヨウコとすれ違っていた可能性だってあるのだ。
「そうだね。もし、その時に遭えてればこんなメンドウなことにはならなかったかもな」
 僕はそう言った。事態は時間が進むほどに色々な人を巻き込んで混乱していくようだ。
「そう。そうなってたら、あたしもこんな遠くまで連れてこられないで済んだのにね」
 そう麻衣は言った。そして、僕らは沈黙した。僕は僕が暮らしたあの町の幾つかの街角を思い出していた。車は午前中の落ち着いた日差しを浴びて走っている。

 パーキングエリアに入って車を止めると僕は伸びをした。僕は比較的小さな規模のパーキングを選んで入ることにしている。小さなパーキングエリアにはどこかノンビリした雰囲気があって僕は好きなのだ。僕らは車を出て、僕はジュースの自動販売機にコインを落とし込んだ。
「何飲む?」
 僕が言うと、麻衣はヒョコヒョコと近づいてきて、僕の顔を見上げた。
「何でも押しな」
 僕は煙草に火をつけながら、そう言った。麻衣は真剣な顔をして自動販売機を睨みつけて一通り見てから、オレンジジュースのボタンを押した。
「ありがと」
 麻衣はそう言って、ジュースを拾い上げた。僕はいつも大人びた麻衣のちゃんと子供らしい面を見た気がして少し微笑んだ。
「何よ?」
「いいや。どういたしまして」
 僕は自分の分のコーヒーを買った。僕らは閑散とした小さなパーキングのベンチに座った。空気が澄んで山がキレイに見える。風もなくポカポカと温かい。 「あと、どの位で着くの?」
 麻衣は訊く。
「一時間くらいかな」
 僕は山を見ながら答えた。僕はそのまま山を見ていたが、そのまま何も反応が帰ってこないので麻衣を見た。彼女は俯いている。
「どうした?」
 僕は訊いた。
「ねえ、行くの止めない?」
 麻衣は顔を上げて言う。僕は笑おうとしたけど、彼女のその声も顔も真剣だった。
「だってさ、今まで通りでしょ? 元通り。ああ私達、友達になれた。だから、どっちかって言うとプラスでしょ? あなたもあたしも元の生活に戻って、平和に暮らせないかな? 私がお姉ちゃんの代わりってことで」
 麻衣は身を乗り出して、僕の膝に手を置いた。
「ダメかな?」
 麻衣は薄い瞳に涙を浮かべて言う。僕は首を振った。
「もう、僕も君も始めには戻れないんだよ」
 と僕は言った。
「ごめんね。もしかしたら、僕が現れなければ、ずっと知らないでいられたかもしれない。でも、僕と君、二人とも何かがあるって分かっちゃった。今、このまま帰ったとしても、きっと気になって仕方ないよ」
 僕はそう言って、麻衣の頭を撫でた。麻衣は自分の頭から僕の手をとって力を込めて握ってから離した。
「分かってる。冗談。言ってみただけ。ただね。今なら、そうすることも出来るんじゃないかなって思ったんだ」
 麻衣は立ち上がって遠くの澄んでよく見える山の方を向いた。麻衣のジャンバーの裾が揺れる。麻衣は僕の方を見た。
「あんまりいい予感がしないんだよね」
 そう言って、麻衣は泣きたいのか笑いたいのか良く分からない表情をした。

 パーキングエリアを出てから麻衣は目に見えて無口になった。音楽を消して、窓を開けてドアに頬杖をついている。窓からは冷たい風が流れ込んで麻衣の髪を浮かす。僕は煙草を咥えて火をつけた。看板には目的地の名前が見える。あと十キロ。窓から入ってくる強い風が僕の咥えた煙草を見る見る短くしていく。僕は自分の側の窓も大きく開けて灰をはたいた。
「大丈夫だよ」
 と僕は言った。
「え?」
 麻衣は聞き返す。開いた窓から吹き込む風と走行音に邪魔されて聞こえなかったのだ。僕はもう一度、同じ言葉を言おうとしたが、その言葉には何の確証もないってことに気づいた。
「何でもないよ」
 僕はそう叫んだ。高速の降り口が近づいて、麻衣は窓を閉めた。僕も煙草を投げ捨てて窓を閉める。自分の着ているビニールのアノラックの腕に触れてみると凍るように冷たくなっている。僕は暖房のつまみを捻って強くした。
 この間まで暮らしたこの町に降りてみると、長年住んだ街なのに酷く落ち着かない気持ちになった。僕がこの街を出たときの気持ちを律儀に仕舞っておいて、出してきたみたいだ。でも、僕の住んでいた所は少し遠くて、水谷ヨウコの住所に行くために近くを通ることは無いのだ。水谷ヨウコの住んでいるところは名前を知っている程度だ。その距離感が僕を少しホッとさせていた。色々な事情で僕は実家に近づきたくも無いのだ。
 隣を見ると麻衣はじっと外を見て座っていて、見た目、落ち着いているようだったが、内心では僕以上に混乱しているんだろう。僕は地図をハンドルの上に乗せて調べながら車を走らせた。水谷ヨウコの家への道はそう難しくない。 時計を見るとお昼過ぎ、僕は水谷ヨウコのアパートの前に立っていた。僕は車の中を覗き込んだ。
「着いたよ」
 僕は麻衣に言う。
「うん」
 彼女はそう言って頷いたけど動かなかった。フロントガラスを見据えている。僕はカローラに寄りかかって煙草に火を点けた。空を見上げると雲の無い青空だ。ヨウコの住むアパートは住宅地の真ん中にあって殆ど音がしない。時折、遠くで鳥の鳴く音や布団を叩く音が聞こえる。僕は煙草を踏み消して、もう一度カローラの窓を覗き込んだ。
「分かった。ちょっと待って」
 麻衣はそう言うと、大きく息を吐き出した。
「よし。行こう」
 麻衣は勢いよくドアを開けて、僕は慌ててドアの前を退いた。麻衣は外に出ると、アパートを見上げた。
「よし!」
 麻衣は握りこぶしを作ってそう気合を入れて、僕を振り返った。
「行くよ」
 麻衣はそう言って早足で歩き出して、僕は慌ててその後に付いて行った。
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