MISIMA

秋月ねづ

「教えられることは何もありません」
 安西裕子は静かにそう言った。彼女の目は僕のすべてを見通すようだ。僕が水谷ヨウコの話を始めたときから、彼女は侵しがたい『悲しみの膜』のようなものに包まれてしまったみたいだった。
「何でよお母さん。知ってる事を話してあげてよ」
 麻衣は母親の膝に手を置いてそう言ったが、裕子が目を向けると気まずそうに黙って俯いてしまった。
「安西さん」
 と僕は言った。
「多分あなたには何か話すことの出来ない事情があるのでしょう。それは仕方のないことです。しかし、あなたが何か情報を下さらなければ、僕の辿るべきラインはここで途切れるんです」
 僕は安西裕子の目を見た。その黒い瞳は麻衣の薄い色とは対照的だった。僕の願いを彼女の目は力強く拒否していた。僕は溜め息をつく。彼女からは何も聞けそうにない。僕は続ける。
「それでも僕は時間の許す限り水谷ヨウコを探し続けるつもりです。何故それほど彼女に執着するのか? 何の為に探しているのか? 正直言って自分でも分かりません」
 僕は少し微笑む。
「水谷ヨウコに会ってどうするのか? もしかしたら彼女は幸せに暮らしていて、僕に会ったところで、やあ久しぶり。お互い元気そうね。じゃあさようなら。と言うだけかもしれない。でもそれならそれで僕は元の、何も無いけど平穏な日常に安心して戻れると思うんです」
 僕がそう言うと、安西裕子は理解を示し肯いたが、その表情は相変わらず寂しそうだった。
「あなたはヨウコちゃんが幸せに暮らしていないかもしれないと心配しているのね」
 裕子はゆっくりと言って、僕は首を振った。
「いや、それはどうでしょう? 確実なことは、僕が後悔しているということです。僕は過去で、僕が当時することが出来た、何かをやり忘れてきてしまった。そしてそれが何なのか? 確かめようと思うんです。今でもそれを取り返すことが出来るのか。もう手後れなのか? それは水谷に会うとこで結論が出るでしょう」
 僕はそう言いながら、僕の古い友達の言葉を思い出していた。彼はこう言った。
『お前なら、何とかしてやれたかもしれないな』
 そう僕は後悔しているのだ。

 僕は電話番号だけを残して、安西家を辞した。そして暗い自分の部屋に戻ると、畳に寝転んだ。僕はどうしたら良いのだろうか? 裕子に言った通り、水谷ヨウコへの手がかりは彼女で途切れた。
 結局、安西裕子は何一つ教えてくれなかった。何故だろう? 何故、安西裕子はあんなにも寂しげな表情を見せるのだろう? 安西裕子と水谷ヨウコは仲が良かったと、水谷氏は話した。それだけに裕子のあの表情は僕を不安にさせた。水谷ヨウコはなにか良くない状況にいるのではないだろうか? だが、今の僕に出来る事は何も無いのだ。
『あなたはヨウコが幸せに暮らしてないかもしれないと心配しているのね』
 そうだ。その通りなんだ。僕の脳は裕子の言葉を何度も呪文のように繰り返した。

 その時ドアが叩かれ、開かれた。
「あたし」
 麻衣はそう言って、暗い部屋に入って来る。僕はゆっくりと起き上がり畳に座りこむ。麻衣は僕の正面に腰を下ろした。
「ごめんなさい」
 と麻衣は言う。
「私には理解できないの。お母さんがあなたにお姉ちゃんのことを何も教えない理由が」
 麻衣はそう言って、僕は肯いた。
「あなたは少し変だけど信用は出来ると思うし、おかあさんもその辺を心配してるんじゃなさそうなの」
 麻衣は俯く。
「だから余計、おかしいなって思う。おかあさんの、あの態度」
 僕は安西裕子の姿を思い出す。彼女は儚く悲しみに包まれて質問を拒否する。
「私、あなたが帰ってから、何で教えてあげないの? って訊いたのそしたら、お母さんは静かに笑って首を振った」
 麻衣は顔を上げて僕を見る。
「それがね。私がお父さんのことを聞いた時と同じような感じだった」
 そう言う麻衣の目は窓から入る街灯の明かりを受けて静かに濡れる。僕はそれにぞっとするような魅力を感じた。
「私、恐い」
 麻衣は言う。
「おかあさんは何で隠すんだろう?」
 そう言って、彼女はもう一度俯いた。
 麻衣の話を聞きながら、僕は思い浮かんだことがあった。きっと麻衣もそのことを不安に思っているんだろう。
『水谷ヨウコの失踪は麻衣の父親と関係があるのかもしれない』 水谷ヨウコが姿を消したのは十年前だ。

「お父さんが亡くなったのは何年前?」
 僕がそう訊くと、麻衣は体を震わせた。この質問は激しく麻衣の心を揺さ振ったみたいだった。僕は後悔したが、避けては通れない。麻衣は俯いたまま口を開く。
「私が小学校に入る前だと思う。少なくとも九年以上は前。ううん、もっと前かも。幼稚園の時もお父さんの記憶、余りないから」
 麻衣はそう言った。時期的には合う。麻衣は顔を上げた。麻衣の目には涙が溜まってる。
「お父さん死んでないのかな?」
 麻衣は頬に涙を流しながら言う。麻衣の表情は深い悲しみと同時に薄く喜びも混ざっているように見える。僕は視線を落とした。
 水谷ヨウコは麻衣の父と共にこの町を出た。そして二人は一緒に何処かで暮らしている。そう考えると、僕の心は引き裂かれるように痛んだ。その痛みは麻衣の為のものでもあり、裕子の為でもあったが、何より自分自身の痛みだった。僕は水谷ヨウコを愛するが故に探しているのだと実感した。少年の頃の儚い恋心は僕の中で生き続けていたのだろう。僕は無性に煙草が吸いたくなった。 「今日はもう帰りな」
 僕は手で顔を覆ってしゃくりあげる麻衣の肩に手を置いてそう言った。
「明日の夜、もう一度、お母さんと会って話してみよう」
 そう言ったが、僕は水谷ヨウコを探し続ける意味を見失いつつあった。でも僕は確認しなければならなかった。いま水谷ヨウコがどんな状態なのか。

「迷惑はかけません」
 と僕は安西裕子に食い下がった。麻衣には席を外してもらっていた。
「僕はあなた方の今の状態を少しも動かさずに、手を触れないで確認だけして帰ってくることも出来ます」
 僕がそう言うと、裕子はため息を吐いて首を振った。
「もう既にそれは無理でしょう」
 裕子は言う。
「入りなさい。麻衣」
 裕子がドアを見て言うと、引きつった笑みを浮かべながら麻衣が入ってきた。立ち聞きしていたのだろう。
「わかりました」
 裕子は言う。彼女の表情には疲れが増しているようだ。
「ヨウコちゃんの居場所を教えましょう」
 裕子はそう言って、目を閉じた。
「麻衣、あなたも連れて行ってもらいなさい」
 裕子はそう言って、そっと立ち上がって、テーブルカウンターの上で何かを書いて麻衣に渡した。そして黙って居間を出て行く。麻衣は僕にその紙を見せた。その住所は、僕がこの町を出てから長年暮らした街だった。
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