MISIMA

秋月ねづ

「私、お父さんのことあんまり覚えてないの」
 安西麻衣は水平線を眺めながら言う。今日は良く晴れて、冬特有の澄んだ海が遠くまで見える。僕らは昨日の夜と同じ防波堤の上に並んで座っている。
「あるのは、大きな二つの想い出と小さな沢山の記憶のカケラだけ」
 麻衣はそう言って、僕は遠い宇宙の二つの惑星といん石群を思い浮かべた。
「一つはここの想い出。お父さんは私をおぶってここに立って私にここの眺めを見せてる。何を言われたかは覚えてないけど、お父さんはすごく嬉しそうだった。多分ここから南は海がキレイに変わるって言いたかったんだと思う。私、お父さんの気持ちが良く分かるの。だって私たちの町の海はちっともキレイじゃないもの」
 僕は黙って麻衣の横顔を見た。麻衣は薄い色の目で遠くを見ている。
「ずっとここに来たいと思ってた。でもお母さんに頼む訳にはいかなかった。お父さんの話はお母さんには出来ないから。ありがとう。ここに来れて嬉しい」
 麻衣は呟くようにそう言った。麻衣の目はここの景色を焼き付けるように水平線に引きつけられたままだ。麻衣の極端に薄い茶色の目が海と空のブルーに染まっていくようだ。僕らは黙ってしばらく、海を見続けた。

「二つ目の想い出は?」
 少し時間が経ってから僕は訊いた。
 麻衣は僕の方を見て楽しそうに微笑んだ。麻衣の目は薄い茶色のままだ。そして彼女は風に乱れる後ろ髪を撫で付ける。
「お父さん、物心つく前に死んじゃったから私、お父さんのこと殆ど覚えてないの。仏壇とかもおばあちゃんの家にあるとかで私のうちにはないしね。お母さんは寂しそうに、写真見ると私駄目なの、とか言うから、見たいともなかなか言えなくてね。だから顔もうる覚えなの」
 僕は肯いて煙草を咥えた。麻衣は先を続ける。
「でね。わたしが小学生の頃なんだけど、お父さんの幽霊を見たの。
 雨が沢山降って来た日に傘を忘れて、たまたま一人で学校帰り、あちこちで雨宿りをしながら歩いて帰ったの。そういう時って真っ暗でしょ? 冷たくて、私、心細くて泣きそうになってた」
 僕は肯いて想像する。雨雲で真っ暗な空の下で、小学生の女の子が濡れて一人、軒下に立っている。軒からひっきりなしに滴る雨垂れが、ぬかるんだ水溜まりで跳ねる。
「わたしが立っていた軒下に男の人が一人近づいてくるの。その人は私の側に立って、私に自分の傘をくれて、これを差して行きな、って言ったの。その人は私の代わりに軒下に入って、私はその傘を持って外に出た。
 私が振り返ると男の人は手を振ってくれたけど、私はそのまま帰った。でも帰りながら足が震えたの。あれはお父さんだって思った。顔はちゃんと見れなかったけど、お父さんが私を心配してきてくれたんだって思った」
 麻衣は溜め息をついた。
「確証は何にもないんだけどね。その傘も想い出にとって置こうと思ってたんだけど、消えちゃったんだ。帰ってきて傘立てに入れたはずなんだけどね。その後すぐ見に行ったらもう無かった」
 麻衣は寂しそうに微笑んで僕を見た。
「それがお父さんの二つ目の想い出、だと勝手に思ってるんだけどね」
 僕はその話を聞いて納得がいった。
「それで、あそこに立ってたのか?」
 僕は麻衣と最初に会った日のことを思い出していた。麻衣は恥ずかしそうにした。
「そう、それからずっと私、雨が降りそうな日も傘をわざと持たないで学校に行くの。そして雨が降ったら時間をかけて雨宿りをしながら帰って来る。もしかしたら、またお父さんが傘を持ってきてくれるんじゃないかと思って」
 麻衣は僕の顔を見る。
「そしたら、こないだはお父さんの代わりに、怪しげなお兄さんがビニール傘を持って出てきた」
 麻衣は楽しそうに言う。
「でも、私に傘をくれようとしたのは八年間でお父さんとあなただけだよ」
 僕は煙草をコンクリートで揉み消す。
「あれ、ずっとやってたんだ」
 僕がそう訊くと、麻衣は肯く。
「変な子だよね。天気予報が『曇りのち雨』だと楽しくなる。そんな人居ないよね。梅雨の季節が一番好きな女」
 麻衣はそう言って、また海を、遠くを見た。
「ほんとにキレイ」
 麻衣はそう呟く。僕は肯く。淡いブルーが沖に行くにしたがって濃さを増して行く。風は冷たいが爽やかな潮の匂いを孕んでいる。僕は立ち上がって沖を見た。
「おぶってやろうか?」
 僕はそう言って、麻衣を見下ろす。麻衣はハッとしたように僕を見上げたが、俯いて首を振った。
「いいよ……」
 僕は笑ってもう一度座り直す。麻衣は俯いたまま足を振っている。

「……ごめんね」
 麻衣は言う。
「え?」
「だましてゴメンね」
 麻衣はもう一度言った。
「ヨウコお姉ちゃんの居場所を知ってるって嘘ついた。あなたは本気で探してるのに、私それを利用した」
 僕は笑って、麻衣の頭を撫でた。
「別に構わないよ。麻衣はずっとここに来たかったんだろ? 車が無いと来れないもんな。役に立てて良かったよ」
 僕はそのまま寝転んで空を見上げた。
「それにしても、水谷ヨウコは何処に居るんだ?」
 僕はそう言った。
「私も知らないんだ。私がお姉ちゃんを知ってるのは、昔お姉ちゃんが何度も家に来たからだもの」
「そうか」
 僕は空を見続けた。
「私が学校から帰るとお姉ちゃんが来てて、お母さんと話してる。その後、しばらく一緒に遊んでくれたんだ」
 麻衣はそう言った。僕はそれに少し違和感を感じた。
「それってどの位前だ?」
 僕は麻衣にそう聞いて、麻衣は首をひねってから、
「私が大体、小学三年生か四年生くらいの頃だから、七年前くらいかなあ?」
 と言った。
「水谷ヨウコが町を出たのは十年前だぞ」
 僕は起き上がってそう言う。
「じゃあ、お姉ちゃんは戻ってきて?」
 麻衣がそう訊いて僕は肯いた。
「そういうことになる」
 僕は肯く。
「帰ろう!」
 麻衣は立ち上がって僕に言った。
「きっとお母さんは知ってるよ」
 麻衣はそう言って、防波堤の上を駆けていった。
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