MISIMA

秋月ねづ

『水谷ヨウコはこの町ではもう死んだ』
 水谷ヨウコのことを思って、僕の心は十七年前の幻想の世界に迷い込み、もがいて、いつまでもそこから抜けることができなかった。僕は薄曇りで暗い部屋の中に座って、ワープロのディスプレーが放つ緑色の光の中で自らの思索の中に沈んでいた。
『お前がいたら、何かしてやれたかもしれないな』
 古い友達は僕にそう言った。本当にそうだろうか? 僕は彼女の為に何ができただろうか? いや、何もできやしなかったろう。彼が僕のことをどう思っているのかは知らないが、僕は、現在僕が無力な男であると同じように、いやそれ以上に、過去に於いても無力な子供だったのだ。
 僕は煙草を咥えたまま畳の上に転がった。僕はため息のように天井に向けて煙を吐いた。
 正直、僕は水谷ヨウコが抱えていた悩みを想像することさえ出来ないでいた。友達の話によると、水谷ヨウコがこの町から姿を消したのは、彼女が高校二年生の夏だったそうだ。僕は咥えていた煙草を、溢れる吸い殻をかきわけて灰皿にスペースを作って、もみ消した。
 僕は目を閉じて水谷ヨウコを思い浮かべる。小学生の頃、彼女が僕の隣の席に座っていた時の姿だ。僕らはまだ喧嘩をする前で、僕は薄い茶色の髪をポニーテールに結った彼女の横顔を盗み見ている。僕の記憶の中にある快活な彼女の横顔からは、彼女の悩みなんて少しも見えてこない。
「僕には関係の無いことだ」
 僕は声に出してそう言った。彼女が姿を消したのも、もう何年も前なのだ。しかし、そう口に出してみても僕の心は落ち着かなかった。僕は手を伸ばして煙草のボックスを取って、中を覗いて、舌打ちをしてから、ボックスを握りつぶして何処かへ放り投げた。それは乾いた音を立てて畳の上を転がる。僕は中身が入ってないことくらい、さっきから知っていたのだ。
 僕は目を閉じてすべてを忘れようとした。僕の喉は吸いすぎた煙草で焼けてヒリヒリ痛んだが、喉のずっと奥の方ではまだ煙草を激しく求めていて、僕は我慢できず身を起こして立ち上がった。テーブルの上の小銭を掻き集めて、サンダルを突っかけてドアを開けると、廊下を急いで階段を駆け下りた。道を渡って、自動販売機に小銭を一枚ずつ叩き込んだ。十枚の硬貨をもどかしく入れて、ランプの点いたボタンを拳で叩くと、煙草のボックスが僕のもとへとゆっくりと舞い落ちた。僕は手を伸ばして、煙草を取ってビニールフィルムを千切りとって、煙草を一本咥えた時に気づいた。
「ライター忘れた」
 僕は失望に包まれて水溜りに両膝を落としそうになった。

 その時、彼女はやって来て僕の前で立ち止まった。
「水谷」
 僕の口から煙草が落ちて水溜りに浮かんだ。違う。水谷ではなかった。雨の日の少女だ。彼女は僕の口から落ちた煙草を眺めた。僕は少女の顔を見ながら、あんなに吸いたかった煙草が今はそうでもないことに気づいた。
「水谷って?」
 彼女は僕を訝しげに見ながら訊いた。
「君は僕の同級生だった水谷さんによく似てるんだ。もう十五年も会ってないけど」
 彼女は首を傾げた。
「私は水谷さんじゃない」
 彼女はそう言って、僕は肯いた。
「もちろん。君はどう見ても十三、四だけど……」
「十六!」
 彼女はそう言って僕を睨んで、僕は彼女に右手を見せた。
「そう、君はどう見ても十六だけど、水谷はもう二十七なんだ。生きてればね」
 彼女は気を悪くしつつも、その話に興味を引かれたみたいだった。彼女は僕を横目で見た。
「亡くなったの?」
 僕は首を振った。
「少なくともこの町ではね」
 彼女はまた怪訝な表情をした。それを見て、僕はまた無性に煙草が吸いたくなってきた。僕はポケットに手を入れて、煙草の箱を握った。
「取りあえず部屋に行かないか? お茶でも入れるから」
 そう言ってから僕は彼女の顔が不信感を深めたのに気づいた。
「ああそうか。じゃあ、ちょっと待ってて。ライターを取ってくるから」
 僕は急いで部屋に帰ってライターを握って、階段を降りて、自動販売機の前に戻ると、女の子の姿は無かった。
僕はため息を付いて、自動販売機に寄りかかって煙草を一本吸った。
「何だって言うんだ、全く」
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