MISIMA

秋月ねづ

 『水谷ヨウコ』を理解すること。それだけが、僕の心の中から離れないモヤのようなものを払ってくれるような気がして、僕は動き始めた。僕は手始めに飯塚くんに車を借りた。
「ぶつけないでくれよ」
 彼がそう言って、車のキーを僕に渡したが、彼の中古の白いカローラは新しい凹みが出来たとしても、彼自身気づかないんじゃないかというくらいボロボロだった。
「気をつけろよ」
 飯塚くんは続けてそう言ったが、二度目のは車でなくて僕を気遣ってくれたようだった。僕は頷いて運転席の窓から手を出して彼の腕を軽く叩いた。 「君の分の仕事は僕がするんだからな」
 彼はそう言ってから、僕が有給と無給をつぎあわせて無理やり作った休暇に対する、今日何度目かの恨み言を呟いた。
「頼んだよ」
 僕は笑ってそう言って、車の窓を閉めてクラクションを鳴らして車を出した。  飯塚君のボロカローラは思ったよりも軽快に走って、僕は東海道線を横切って隣町へと向かった。まずは水谷家へ。彼女の足跡を僕は辿っていくのだ。僕は鼻を利かせて彼女のもとへとひた走る猟犬だ。僕は口笛を吹きながらアクセルを踏んだ。動き出してしまえば、僕の心は随分と軽くなった。カローラを走らせていくと景色が徐々に自分のものになっていった。かつて僕が暮らした町だ。僕はスピードを落として周りを眺めた。年を経たとはいえ、この辺りの景色は昔を思わせるそのままだ。僕は窓を開けて臭いを嗅いだ。何か昔を思い出すヨスガになる臭いを求めたのだが、それはどことも変わることがなくて僕は幾分落胆した。僕は昔遊んだ田んぼの傍に車を停めて、外に出て煙草を吸った。 水谷家は典型的な地主の家という感じだった。とてつもなく広い敷地に大きな平屋の家。納屋や蔵。僕がカローラを家の前まで乗り入れると、大きな犬がそれを見て吠えた。
「何かヨウコのことを知ってるのか?」
 ヨウコの父親は僕が水谷ヨウコのことを探してると言うと、少し早口になって僕に詰め寄った。
「何も」
 僕はそう正直に言ってから、父親と母親に、自分が小学校四年生の時に転校して以来、十七年間彼女と会ってないことを話した。喧嘩したままだったことも。

 僕と彼女の父親は縁側に腰を下ろした。母親がお茶を持ってきてくれて、僕はお礼を言う。
「それで僕も彼女のことを知りたいと思って来たんです」
 父親は不思議そうに僕を見た。『どうして今更?』彼の目はそう言っているようだった。『とうの昔に失踪してしまった、ただの小学校の同級生の女の子に関らなくてもいいじゃないか? 君には君の人生があるんだろ?』
 どうして? 僕にそんなこと分かるはずも無かった。僕だって、その答を探すために彼女を求めているのだ。
「思い出したんです」
 僕は仕方なくそう言った。
「彼女のことを。ずっと忘れていた。何故か分からないけど、急に思い出したんです。それで彼女に会おうと思ったんです。何でだか分からないけど、どうしても会わなきゃならないと思った。でも、もう彼女はこの町にはいない」
 父親は頷き、僕は続けた。
「何処にいるか誰も知らない」
 父親はもう一度頷いた。
「ここに戻ってくる可能性は?」
 父親は静かに寂しそうに首を振る。
「ヨウコはこの町ではもう死んでしまった」
 またそれだ。僕はため息をついた。その言葉を聞くたびに僕の心は深くえぐられるような気がする。
「それはどういう意味なんですか?」
 僕は父親に訊いた。
「僕の友達も似たようなことを言いました」
 僕はそう言って、水谷ヨウコの両親の顔を見た。
「この町では、昔から良くそういうふうに言うんだ。この町に住んで、この町のことを心底憎んでしまう人がいる。ここは不思議な所で本当に心から町を愛してる人とか、もの凄く嫌いになる人とかが多いんだ。愛してる人は何も言わずに一生この町で生きるけど、憎んでしまった人は必ず出て行く。必ずだ。町を憎みながらここで生きることは難しい。そしてヨウコはこの町を出て行った」
 父親は憔悴してため息をつくように言った。
「そうなってしまったら、もう二度と戻ってくることはないの」
 母親が付け加えるようにそう言った。母親の目は潤んでいる。父親が口を開く。
「ヨウコはこの町を本当に憎んでいた。あの子が高校になるまでこの町に居たのは、母が、あの子のおばあちゃんが居たからなんだ。おばあちゃんはあの子を理解していた。おばあちゃんだけが、と言っても良いかもしれない。あの子はおばあちゃんの面倒を良く見ていた。そう、おばあちゃんがあの子とこの町を辛うじて繋ぎとめていたんだ。その証拠におばあちゃんが死んで、葬式が終わって、ほら、葬式の間はテンテコマイだから、おばあちゃんを埋葬して、葬儀社の人やら、弔問に来てくれた人やら、食事やらと色々用意して片付けて、ぐったりして、あれ、ヨウコは? って言ったらもう居なかった。葬式の間はちゃんと居たんだ。よく働いて片付けもして、いつ居なくなったのか私も家内も親戚連中も全然分からなかった。みんな口を揃えて、あれ、さっきまでそこに居たんだけどねえ……。と言うだけだ。それっきりだよ」
 父親はそこまで言うと、目を伏せてお茶を啜った。そして母親がお茶菓子代わりに出したリンゴを齧った。
「手紙は時々来る。だけど、内容は、探さないで心配しないで、とそれだけだ。消印はほうぼうからで一つの所に居ないみたいだ。私はもう仕事もしてないから、あちこち探したんだが、何せ手がかりが何にも無い。手紙を出す頃には引っ越しているんだろう。ということは分かった。あるところで不動産屋さんがヨウコの顔を覚えてたんだ。で、部屋を引き払った時期を調べてもらったら、手紙を出した頃と重なるんだ。あれは頭のいい子だったからね。私が探しに来ることぐらい分かってたんだ」
 父親はそう言って、肩を落とした。
「性格のいい、優しい子だったんですよ」
 母親は涙を流しながら言った。僕は遠い所を一人で転々とする水谷ヨウコのことを思い浮かべた。
「手がかりは全く無いんですか?」
 僕はそう訊いてみた。
「住む場所の好みとか」
 父親は首を振る。
「北だったり、南だったり、あちこちだよ」
 そうですか。僕はため息をついた。父親の憔悴が移ってしまったようだった。僕はすっかり手がかりを失ってしまった。僕はもう既に電話で彼女と仲が良かったと思われる人たちからは情報を集めていた。小学生の同級生から始めて、僕と面識のない高校のクラスメイトまで。だけど、答は一貫していた。彼女が消えて以来会ってない。手紙も無い。電話も無い。結構仲良かったんだけどね。彼女達は寂しそうにそう呟くだけだった。水谷ヨウコは一体何をやってるんだろう。ぽそぽそ降る雨みたいに知り合い全体に寂しさを撒き散らして。あいつは一体何処に居るんだ? 

 僕はお礼を言って、カローラに乗り込んだ。二人はそのままの姿勢のまま縁側に腰掛けて僕に会釈をした。僕がエンジンをかけて、窓を開けてもう一度、頭を下げると、父親は立ち上がって車の側まで歩いてきた。
「あの子には従妹がいるんだが、私の姉の娘だけど、あの子とは仲が良かったから、話してみたらどうだろう? 年はヨウコよりもだいぶ上なんだけども、あの子、慕ってたみたいだから、もしかしたら、何か手がかりになることがあるかもしれない」
 そう言って、父親は僕に道順を説明した。そこは僕の部屋の近くだった。父親は広告の紙の裏に大きく、安西裕子と書いて僕に渡してくれた。
「もしなんだったら、ここに電話するように言ってくれ。丁寧に話してくれるようによく言うから。まあ大丈夫だとは思うけど」
 父親はそう言って、僕はもう一度お礼を言った。
「何か分かったら私たちにも知らせてください」
 母親はいつの間にか近くに来ていてそう言った。
 僕は肯いて、車を出した。車は砂利を踏んで動き出す。水谷家から遠ざかっていく時、バックミラーを覗くと二人は小さく手を振っていた。犬も吠えている。
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