MISIMA

秋月ねづ

 激しく窓を揺する風は潮の匂いを孕んで、硝子を抜けて僕の枕カバーを湿らせる。僕は寝返りを打って、その匂いを吸い込んでまどろみの中にユックリと沈んだ。

 僕は昔のことを夢見ていた。

 小学生の僕がボールを持っている。ゴムのサッカーボールだ。僕は手の中で回したボールをグラウンドに置いて、友達の方を見る。友達は小学生用のサッカーゴールの広さを確認するように両手を広げて、僕は十分な距離を見て下がる。強く蹴る為の助走だ。僕は一度目を閉じてから開く。そして走り出す。ボールが僕の足の甲にめり込んでから飛んでいく。
「あー」
 ボールは僕が意図したよりもかなり右に飛んでいった。ゴールを外れたボールは校舎の壁に当たって跳ねて、側を歩いていた女の子が僕をきつく睨んだ。

 目が覚めて窓を見ると、もう朝の明るさだった。
僕は枕元にある時計を手にとる。まだ起きる時間までには間があった。僕は夢のことを思い出していた。僕は誰とサッカーをしていたのだろうか? 思い出せる当時の友達の誰かであるようで、違うような不思議な感覚がして、思いを巡らすうち僕は徐々に目を覚ましていった。
 じゃあ、僕を睨んだ女の子は? それも思い出せなかった。僕は小学校の友達の女の子となるとほとんど顔が思い出せなかった。その子は友達ではなかったかもしれないが、何となく夢の中での気まずさが、僕がその子をよく知ってるような気分にさせた。
 僕はゆっくりと立ち上がって、畳から冷える床板へと歩いて薬缶に水を入れた。この部屋ではガスコンロのつまみまでが凍ったように冷たく、コンロはカリカリといつもより金属質な音を立ててから火を吐き出した。
 流しの曇った窓を指先で拭うと遠くの方の道を車が白い煙を出して走っていくのが見えた。暫く経つと僕の素足の指先が感覚を無くしていって、僕は自分の温みの残る布団の上に戻った。
「水谷ヨウコ」
 不意にその名前が口を衝いた。僕は思い出した。僕を睨みつけた女の子の名はヨウコだった。僕は同時にその気まずさの意味も思い出していた。僕と水谷ヨウコは僕の夢に出たサッカーの前日、口喧嘩をしていたのだ。喧嘩の内容はもう忘れてしまったが、僕のあのシュートが僕らの仲を決定的に悪くした。故意ではなかったが、彼女にはシュートコントロールの繊細さなんて分からなかったし、僕も敢えて説明する勇気を持てなかったのだった。

 薬缶が激しく鳴き声をあげて僕は立ち上がった。僕は水谷ヨウコとの幾つかの想い出について考えていた。マグカップにインスタントコーヒーを入れて、お湯を注ぐ。僕はコーヒーを立ったまま啜りながら、水谷ヨウコの失われたイメージを、想い出から漠然と固めていった。柔らかい髪、細い腕、薄い茶色の瞳。僕は不意に、水谷ヨウコが、先日雨宿りしていた子と重なって驚いた。それ以後はいくら考えようとしても、どんな道筋を辿っても最終的に、水谷ヨウコがあの雨宿りの子になってしまって、僕は首を振って考えるのを止めた。
「僕はもう二十七なんだ」
 僕はそう呟いた。目覚ましが鳴って僕の起きる時間を知らせる。僕は流しにコーヒーを置いて、畳の上の目覚ましを止めて、窓のカーテンを開けた。
今日は、雨は止んで軒下にはただ水溜まりだけがあった。

 日曜日、二年間だけ通った小学校に僕は来ていた。僕はジャンバーのポケットに手を突っ込んで、サッカーボールを蹴る子供たちを眺めていた。サッカーが盛んな土地柄、僕らの頃と光景はちっとも変わらない。ただし彼らのボールはちゃんとした革で僕らの時代とは違った。ゴールが小さく思えるのは僕が大人になったせいだろう。
 夢を見た日以来、僕はその夢のことが気になって仕方が無かった。
「遅すぎんだよ」
 僕の昔の友達は言った。 僕は本当に仲の良かった友達に久しぶりに連絡を取った。彼はもう結婚して子供もいた。彼は僕がこの町にもう暫く前から居るくせに連絡をしなかったことを怒っていた。
「のんびりなんだ」
 僕はそう言って煙草を咥えた。ボックスを友達の方に向けると彼は首を振る。 「お前が煙草を吸うのを見るのは変な感じだな」
 彼はそう言う。当然だ。僕らが会うのは十五年ぶりなのだ。
「で? 思い立ったという訳だ」
 彼はそう言って、僕は煙草に火をつけながら肯いた。
「夢を見たんだ」
 僕は指先の煙草を少年達の方に向けた。
「あんなふうにシュート練習してる昔の夢さ」
 僕がそう言うと彼は軽く笑った。
「僕がフックをかけたボールが枠を外れて、この壁に当たるんだ」
 僕は自分の背にある石壁を叩いた。
「よくあることだ」
 彼は肯く。
「俺も百回くらい当てた」
 僕も肯く。
「その時、ここに女の子が歩いて来てた。当たらなかったけどね、ギリギリ。でも、それは僕と喧嘩をしていた女の子だった」
 僕はそう言ってもう一度サッカーをする少年達を眺めた。
「水谷だな」
 彼は言う。僕は肯く。僕らは揃って石段の上に腰を下ろした。水谷と僕の喧嘩は有名なものだったから、僕と親しい彼が知っているのは当然だ。
「お前、ホント遅すぎんだよ」
 彼は溜め息を吐いた。
「水谷はもう居ないよ」
 彼は少し悲しそうな顔で言った。
「居ない」
 僕は彼の言葉を繰り返した。彼のその言葉には不自然なほどの深刻さが込められていた。僕は続きを促すために彼を見た。彼は目を伏せる。
「お前が居れば何とか出来たかもしれないな。でも、遅すぎたよ。もう十年も経つ」
 彼は言う。
「水谷ヨウコはこの町ではもう死んだ人間なんだ」
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