MISIMA

秋月ねづ

 僕がこの町に住みはじめて、もう半年が過ぎた。
 はじめは他人の部屋みたいに思えたこの四畳半一間も今は僕にしっとりと馴染んでる。
 僕はこの町に戻ってきたのだ。
 小学校の三学年と四学年の二年間を過ごしたこの土地は、何処に住んでいても、なにかしら僕にとって特別な感情を抱かせた。郷愁、そういう風に言うのが適切かもしれない。二十分ほど歩けば海に、一時間ほど歩けば温泉観光地に辿り着くこの町を僕は郷里みたいに感じていた。僕はこの町に不思議と引かれてしまう。僕が幼い頃住んだ場所はここからすこし遠いのだけれど、僕はそこ、ここの四辻や古い民家などを見るたびに大抵軽い既視感を覚える。すれ違う人たちを見ると古い知り合いのように思える。僕にとってここはそんな錯覚をしてしまう特別な町なのだ。

 雨の音に合わせて、僕はボールペンでテーブルをトントンと叩く。外は暗さを増していく。

 さっき雨宿りしていた女の子もそうだ。僕にとって彼女は、そんなはずはないのだけれど、昔好きだった同級生の女の子みたいに思える。実際、十以上年が離れた彼女にそんな感情を抱くのは頭がおかしいのだけれど、不思議と変な気はしない。ここは全てのものが僕にとって愛すべき、とてもノスタルジックな町なのだ。

 もしかしたらそれは僕が自分の生まれた場所を知らないことと関係があるかもしれない。

 僕の勤める観光協会の同僚の飯塚くんは詮索好きで、僕のことを色々知りたがる。何処で生まれたのか? 親の仕事は何か? 年は幾つなのか? 学歴は? 恋人は? 兄弟は?
 僕は彼に言う。
「僕は晴れた日の多い、瀬戸内海に浮ぶ島で生まれたんだ。父親は漁師で、家で鶏を飼ってる。小さいころ僕は山に登って、消しゴムぐらいに見えるフェリーに手を振った。フェリーは白い跡を残して消えていく。
 父親は高校に行く必要はないと言ったけど、母親が頼んで通わせてくれた。恋人はいない、高校に好きな子がいたけど。兄弟は妹が一人いる。今年の春、高校を出て、漁師になるのが嫌でここに来たんだ」
 飯塚くんは言う。
「嘘だろ」
 僕は肯く。

 僕は彼の質問に正直に答えることも出来る。でも、答えられないことや、答えたくないことがある。それが僕を全体的に黙らせてしまう。ある部分は答えて、ある部分は答えないという状況がとても嫌なのだ。「それは言えない」とか言うのはとても感じが悪いし、真実と真実の間に嘘を挟むのはとても悪質だと思う。どちらかと言えば、全てが相手に分かるような単純な嘘の方が平和なんだ。それでも嘘には違いないのだけれど。
 幸い飯塚くんは気を悪くしたりしない。彼は詮索好きなのにも関わらず、基本的に良い人なのだ。
 僕は今日女の子に振られた話を、明日事務所で飯塚くんに話そうと思った。嘘をついてる罪滅ぼしに話題を提供するのも悪くないアイディアだ。僕が女子中学生だか高校生だかに振られた話なんて彼は大喜びするだろう。彼は女の子の話題が大好きだから。尤も彼が好きなのは、自分がモテた話と他人が振られた話だけれど。

 案の定、飯塚くんはとても喜んだ。
「変質者寸前だね」
 彼は嬉しそうに言う。
 今日もまた雨で、今日のは強く、事務所の隣家のトタンを激しく叩く。
「でも、そんなカワイイ子なら俺も見てみたいな」
 僕は首を傾げる。
「きっともう来ないよ」
「そんなの分からない」
 飯塚くんはこめかみに指を当てる。
「君の話を聞いて俺が思うに、彼女はただ雨宿りしてたんじゃないと思うよ。何か別の理由があったんじゃないかな?」
「そうかな?」
 僕は軽く笑う。飯塚くんは神妙な顔で肯いた。
「君は知らないと思うけど、五年前にあそこの交差点で交通事故があった。結構でかく新聞記事になった。高校生が車にはねられたんだ。彼は野球部のエースで甲子園を期待されるような逸材だったんだけど、即死だった。
 突然、子供が飛び出したんだ。彼は反射的にレフトフライを追いかけるみたく車道に出て跳ねられた。幸いと言うのか、彼のお陰で小学生は助かった。彼が身代わりになったんだ。その助かった小学生の女の子は多分、もう中学生か、高校生になってると思うよ」
「まさか? じゃあ、もしかしてあの子が?」
 僕は悲壮な感じで言って、飯塚くんは肯いた。
「なかなか上手いだろ」
 飯塚くんは言う。
「オリジナリティーに欠ける」
 僕は首を振って溜め息を吐いた。
「その方が逆にホントっぽいだろ?」
 飯塚くんは笑う。
「高校生が外野手の方がいい」
 僕がそう言うと飯塚くんは考え込んだ。
「じゃあ、そうしよう」
 飯塚くんは軽くそう言って、仕事に戻って行った。僕は鼻歌を歌いながら電卓を叩く彼の横顔を見て、そっと溜め息をついた。

 雨が小止みになって辺りが真っ暗になる頃、僕は仕事を終えて、自分の部屋に戻った。ネクタイを緩めながら、電気の紐に手を伸ばした時、ふと思い出してカーテンの隙間を広げた。街灯の明かりにボンヤリと浮ぶ軒下に彼女の姿は無かった。僕は命の恩人の死を雨の中で悼む彼女を思い浮かべて少しだけ悲しくなった。僕がもし、彼女の代わりに死んだ、将来を嘱望された外野手のスラッガーだったら
「ちっとも気にしてないよ」って彼女に言えるのにと思った。
 どうやら飯塚くんは僕よりも嘘が上手いみたいだ。
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