MISIMA

秋月ねづ

 十一月の雨は暗く、冷たく染みるように降る。
 雨が、アスファルトや椿の木を打つ雨が、幾重にも音を束ねていく。
 車が遠くから近く、そしてまた遠くへと水溜まりを踏んで走って行き、そしてまた雨が何かを打つ音が聞こえる。
 僕は溜め息をつく。世界は灰色で息は白い。ストーブの中は赤く燃えて、薬缶は金属的な音で煮立つ。僕は立ち上がって、マグカップの中に湯を注いで、今日何度目かのインスタントコーヒーを立ったまま飲んだ。
薄暗い部屋。四畳半一間の部屋の真ん中で、旧式のワープロのディスプレーがぼんやりと光る。机の上には散らばった原稿用紙と分厚い国語辞典。僕はゆっくりと首を振って、蛍光燈の紐を引っ張った。一回目でまばゆい光。二回目もまだ眩しくて、三回目の小さな電球は意味がなかった。そして四回目で元に戻る。
 要するに天気が悪い。僕はワープロの文章を取りあえず保存して、ワープロの電源を切った。そして僕は窓際に腰をかけて手を窓に当ててみた。木の枠で分けられた硝子はそれ自体が氷のように冷えて、僕の手の平の感覚をあっと言うまに奪っていく。僕はマグカップを両手で覆った。コーヒーは驚くほど早く冷める。
 僕はぬるくて、ただ苦いだけのコーヒーをすすった。

 僕が、ここに腰をかけてもう二分程になるけれど、それより前から、窓の下に見える道の向いで制服姿の女の子が雨宿りをしている。
僕は立ち上がって、熱いコーヒーを注いで、急いで戻った。
 遠目に見ると、彼女はかなり濡れているようだった。空を見上げている彼女は、僕の印象では、彼女は雨が止むのをただ待っているというよりも、雨のことなんて別に関心はなくて、空に向かって何か別のことを考えてるみたいだった。
 僕は彼女が何を考えているのか気になった。
 何かに悩んでるんだろうか? 友人関係か、恋の悩みか。彼女を見てると、そんな低俗な悩みには見えない。だけど、あの年頃の子たちの悩みはどんなものであれ、重要なんだと僕は思う。
 彼女が雨宿りしながら、サッカー部の先輩のことを考えてたとしても、僕は応援したいと思う。彼女たちの世代に下らない悩みなんてない。考えること全てが次に繋がっていく素晴らしい年頃なんだ。
 僕は少し悲しくなる。
 僕はもう二十七だ。行動の全てが実になる時期は過ぎてしまった。下らない悩みは時間の無駄で、意味のない行動は非難される年なのだ。もう一度、彼女の年頃に戻れたら、どんなにステキだろう。僕は首を振った。そういう妄想は自分にとってマイナスなだけだ。
 雨はいつまでも変わらず降り続いて、彼女も動かなかった。それはちょっとした風景画みたいだった。モネ辺りを連れてくれば、良い絵を描くかもしれない。もし、描くと言えば、この場所を譲っても良い。
 空は灰色の雲が立ち込めて雨の止む気配は少しもない。僕は自分の玄関を見た。僕は生来だらしない性格で、雨が止んでしまうと傘の存在をすぐ忘れて、どんな高価な傘でも何処かに置き忘れてしまうので、決まった傘を持たなかった。故に玄関には、その時の服に合わせた色とりどりのビニール傘が並んでいる。
 僕は彼女に傘を一本あげることにした。
 立て付けの悪い玄関のドアを開けると、冷たい風が流れ込んだ。僕は自分の傘と彼女にあげる分の二本の傘を持って外に出た。雨音は部屋の中で聞くよりも大きく、そして複雑に聞こえる。僕は傘を広げてさび付いた階段を慎重に降りる。この階段は滑るのだ。僕は足早に道を渡って彼女に近づいた。
 近くで見ると、彼女は大層美しい少女だった。そして、僕が思ってよりも若かった。中学生くらいだろうか。彼女の腰丈のダッフルコートは、肩の部分の色が紺色から黒く変わるほど濡れて、前髪からはしずくが垂れていた。彼女は目が際立って奇麗だった。切れ長で瞳の色が薄くて、僕は引き付けられるように彼女の目を見た。僕は急に彼女とサッカー部の先輩の関係を応援したくなくなった。
 彼女は僕のことをボンヤリと見てから、僕の部屋の窓を指差した。
「あそこに居たでしょ」
 彼女は口を開いた。僕は肯いて、傘を差し出した。
「風邪引くから早く帰りな。これあげるから。サッカー部の先輩のことは家に帰って考えるといい」
 彼女は僕と傘を交互に見た。僕は作り笑いをした。彼女は急に現実に引き戻されたように溜め息を吐いた。
「馬鹿じゃないの?」
 彼女は少し笑う。聡明な子だ。
「ほら」
 僕が傘を彼女の目の前に出すと、彼女は首を振った。
「いらない」
 彼女はそう言うと、小走りに雨の中に出ていった。彼女は急ぐふうでもなく、雨から逃れるふうでもなく、遠くの方へ走っていく。僕は呆然と彼女を見送った。彼女はすごく遠くの方で立ち止まり振り返って、僕を見た。僕が手を振ると、また走り出した。彼女が見えなくなって、僕は手の中の傘を見た。僕は急に寂しくなった。
「傘、持ってってくれればいいのに」
 僕は家に戻る途中、路駐している車のウインドウに顔を映して、作り笑いをしてみた。
「何やってんだろう?」
 僕は首を傾げて、ゆっくりと部屋に戻った。
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