第1話


きらりんフェルトとパトラのたびのはじまりっ

 空はとても広くて高く、空気は澄み切って せせらぎのように早い。
 秋の訪れを感じるのはいつも夕方。
 もう見慣れてしまった鉄道の窓に赤い斜光 が照り返して私の頬を染めるの。こんな光の 中だと、パトラの黒い毛並みも赤く燃えてる 様に見えるから不思議ね。首から下げた金の クロスも、クリーム色したストールも、この 時間の光の中では全て赤く染まってしまう。
 私は夕日の赤がとても好きです。旅をして いる私にも、時間は平等に流れているって感 じられるからかも知れないけれどね。
 窓の外、金色の小麦畑で働く農夫達。家に 帰ればその手で子供達を抱くのでしょうか? それとも街に繰り出して、仲間達とお酒でも 飲むのかな?
 私は窓の外に広がる情景を見つめ、少しだ け微笑みました。
「綺麗だね、夕焼けの小麦畑って赤い絨毯み たい。朝には金色の、また違った顔を見せる んだろうね」
 窓の外をボーッと眺めているパトラも私と 同じ事を考えているのかな? 私は思いなが ら呟き、向かいに座るパトラに微笑みます。 パトラも私を見つめ微笑むと。
「うん、クレージュの穀倉地帯はこの地方で 一番大きいからね。今年も豊作の様だし、エ ール酒の出来もまた一段と良いんだろうなあ」
 とか言いって宙を見つめ、嬉しそうににや けた顔をしました。期待した私が馬鹿なので しょうか? 私はそんなパトラを見つめてた め息をつきます。もう、本当にこの子はお酒 のことしか頭に無いんだから……
「……もういいよ」
「?」
 パトラはきょとんとした顔で私を見て、私 はあきれた顔で窓の外を見つめました。こん な酔っぱらいの猫なんかに、センチメンタル な乙女心なんか分かるわけが無いのよ。きっ と心の中では(ああ、これが全部お酒になっ たらなあ)とか(次の街ではエール酒が旨い んだろうなあ)とか考えてるに違いないんだ から……私はもう一度ため息をついて立ち上 がり、窓を開けて空気を入れ換えます。11 月の乾いた空気は肌に気持ちよく、あの懐か しい土の香りがしました。
 小麦畑を吹き抜ける秋の風。真っ赤なさざ 波が穂をゆらし、耳に小さく聞こえる稲穂の ざわめき。目を凝らせば遠く、小麦畑の中で 遊ぶ麦わら帽子の子供達。秋の夕暮れは早く、 少しでも長く遊びたいのか、小麦をかき分け て懸命に走っていきます。稲穂の波間に揺れ る二つの麦わら帽子を見ていると、なんだか 不思議な気持ちになってきました。あれは男 の子と女の子だね、兄妹かしら?それとも小 さな恋人同士だったり? 私は自分の考えに クスリと笑い、窓に置いた左手を右手で抱い て目を閉じました。懐かしいような、それで いて酷く曖昧なこの感覚。
(羨ましいの? フェルト?)
 私は自分の声に頷き、それから首を振って 苦笑しました。考えてもどうなる物でも無い のにね……
 欲しいと思っているのは当たり前の事なん です。誰かの背中を追いかけて、くたくたに なるまで走り、暗くなったら手を振って「そ れじゃ、また明日」ってお別れをする、帰り 着けば暖かい笑顔とお帰りのキス。抱きしめ てくれる腕。暖かな時間……
「……駄目」
 私は呟いて、自分の思いをうち消しました。 私はまだ、弱くなる訳にはいかないの……
 無言で目をつぶり窓を閉めると音が消え、 さざ波が遠くに感じられました。それでも、 心の中に起こった波紋は大きく、目頭が熱く なってきます。
 私が座り込み俯くと、膝の上にパトラがや ってきてスカートにじゃれつき、それから私 の手をなめました。私はパトラの頭をそっと なでて、それから目頭を擦って笑います。
「あはは、な、なんか目にゴミが入っちゃっ たみたい。窓の外の風景があまりにも綺麗だ ったから」
 私がそう言うと、パトラは少し辛そうな顔 をして一言。
「そう……」
 って呟き、膝の上で丸まって一緒に窓の外 を見つめました。赤光が私の顔に刺し、唇を 咬んでも目に染み言って困っちゃう。これじ ゃ私が弱い子みたいじゃない。パトラが私を ちらりと見て、それから俯いて窓の外を眺め ました。
「フェルトの膝の上が一番気持ちがいいんだ。 しばらくこうしてても良いかな?」
 私の顔を見ないでパトラがそう呟き、私は 頷いてパトラの背中を撫でました。私の手よ りも少し暖かいパトラの体温は、私を安心さ せてそれから微笑ませてもくれるんです。
「パトラって暖かいね」
 私は微笑んで呟くけど、パトラは答えずに 寝たふりをしていました。
 窓の外では子供達が列車に気付いたらしく 無邪気に手を振り、私も微笑んで手を振返し ます。私たちに手を振ってる訳では無いこと は分かっているんだけどね。パトラは片目を 開けてそんな私を見つめ、それから窓の外を 指しました。パトラが指した先、列車の進行 方向進行方向に街が見えます。それから夕闇 にそびえる高い影も。私がパトラを見つめる と、パトラは心得たとばかり頷いて。
「あれはね、アルバート寺院の大聖堂だよ。 そびえ立つ2つの塔は法と秩序をそれぞれ司 ってる。法歴115年に建造、この地方の文 化の中心地で、クレージュの象徴的な建物だ ね」
 と言い、それから欠伸をしました。いつも 思うのだけど、パトラはなんでそんな事ばか り知っているのかしら? 前に一度聞いたこ とがあるのだけれど。「フェルトが世間知ら ずなだけだよ」とか言ってはぐらかされまし た。話したく無いことでもあるのかなあ?  良く考えると私はパトラの事を何も知りませ ん……
「……ねえフェルト。今日はクレージュの街 で宿をとろうよ。もう少し進めるけどさ、こ の先に大きな街は無いしね」
「ん……? あ、ああそうだね」
 パトラがいきなり声をかけたので、私はあ わてて頷きます。もう一度聞いてみようかと も思ったけど、どうせはぐらかされるのが落 ちでしょうね。私は苦笑してため息をつきま した。すると、列車は速度を落とし、続けて 2度ブレーキの音が聞こえて来ます。いけな い、降りる準備をしなくっちゃ。
 私は慌ててパトラをバスケットの中に入れ、 コートのポケットからキップを取り出して確 認しました。えーと……私はポケットの中の 小銭を確かめてみます。うん、大丈夫だね。  それからストールをまき直し、コートの襟 を合わせて頷きました。
「よし、準備完了……パトラ人前でしゃべっ ちゃ駄目だからね」
 私がバスケットに向かってそう言うと、パ トラは。
「誰に向かって言ってるの?」
 と言います。私は苦笑してトランクを掴むと 静かに立ち上がり。後部車両に歩いて行きまし た。

 駅を降りるとメインストリート、中央街が 南北に広がります。駅の周辺は明るく、夕刻 をいくらか過ぎた時間でも人が沢山いてとて も賑やかでした。大きな馬車が何台も通り過 ぎ、露店からは肉を焼くとてもいい匂いが流 れてきて、私は思わず微笑みます。
「賑やかだね……とっても裕福そうだし。小 麦のお陰で生活も安定してるって事かな?」
 私がそう言うとパトラはバスケットの中か らくぐもった声を上げました。
「それは表向きだけだよ、穀倉地帯で働く人 間はほとんど奴隷みたいな扱いを受けている。 この町では貧富の差が激しいんだ」
 そう言うとパトラはバスケットの中から首 を出し、中央街から一本はずれた裏通りをさ しました。暗くて細い裏道に裸足の子供が数 人固まっていて、露店を物欲しそうな目で見 つめています。
「……罪人の子供達だよ。ここクレージュだ けが例外では無いけれど、大きな寺院のある 街ではサラセン人への迫害が酷い。彼等はオ ルドルの聖典によって産まれたときから罪人 なんだ。彼等の祖先がオルドルの聖地を焼き 払い、踏みにじった時からね」
 パトラが言っているのはきっと、聖戦のこ とでしょう。まだ法歴が施行される前 旧暦 630年の事。何があったかよく知れないけ ど。
「でもそれは過去の、祖先の罪でしょ? 今 のあの子達には関係が無いじゃない」
 私は堪らなくなって、パトラを見つめて言 いました。声の大きさに少し驚いたのか、パ トラは目をまるくし、それから苦笑します。
「それは、そうかも知れないけどね……いい かいフェルト。昔大きな戦争がオルドルの教 えを信じる人とサラセン人の間にあった。フ ェルトも知っていると思うけどね。オルドル の聖典では聖戦なんて書かれちゃいるが、そ んな綺麗な物じゃない。仕掛けたのはサラセ ン人、でもその前にオルドルが行ったサラセ ン人への迫害も酷い物がある。もとからある 神を捨て、改宗か死を選ばせたんだから」
 パトラはため息をついて私を見つめました。 少し疲れているみたい、パトラはまるで見て きたことの様に話します。もう200年も前 の話を。
「……それはどっちが良いとか間違ってるっ て問題じゃない。勝ったのはオルドルで、サ ラセン人は負けて改宗した、それだけの事だ よ。もしあの戦争でサラセン人が勝っていた ら立場は今と逆で、迫害ももっと酷かったか も知れないんだ」
「でも……」
 勝者は何をしても許されて、敗者は何をさ れても受け入れろって言うの? もうずっと 遠い昔の勝敗なのに……
 私がスカートの裾を強く握ってパトラを見 つめると、パトラはふっと笑って私を見つめ 返しました。
「フェルト、みんながみんなそう思っている 訳じゃ無い。僕だって今が正しいなんて思っ ちゃいないさ。なんとかして変えようとする 動きは各地で起こってはいるんだ。サラセン 人に選挙権を与えようって運動だって起きて いるし、改宗した以上洗礼だって受けられる。 聖職にだって就けるはずだよ、まあ、まだい ないんだけど……
 とにかくだ、そういう事って凄く長い時間 と根気が必要な事なんだ。今フェルトが感じ ている憤慨は間違っていない、だけど一朝一 夕で変えられる物でも無いことは覚えて置い た方が良いね」
 パトラはそう言いきって、講釈は終わりだ とばかりにバスケットの中へと潜りこみまし た。パトラの言うことは確かにそうなのかも しれないけど、私は考えてしまいます。20 0年かけて出来なかったことが、何時出来る って言うんだろう? 産まれて来る時にすで に決められている罪って何なのだろう? 産 まれて来ない方が良かったって事? 私はそ うは思いたくないんです。
 誰かが罪を犯したとして、その人と同じ要 素があるから危険だって思うのは間違いだよ ね。間違っていることは今すぐにでも止めさ せたい、パトラみたいに何でも割り切ること は出来ないよ。私は遠く露店を見つめる子供 達を見つめて思いました。
「ねえ、おねえちゃん」
 不意に、女の子が私のスカートを引っ張り ました。私よりもずっと小さい女の子、よく 見ると素足で服もあまり上等では無く、あち こちに繕った後があります。私はトランクを 傍らに置き、しゃがみ込んで目線を合わせる と、女の子ににっこり笑いかけました。
「なあに?」
『いまだ!』
 突然かけ声が上がり数人の子供達が私達の 方に走って来ます。パトラは右手のバスケッ トの中から低くて短い警戒のうなり声を上げ ました。
「フェルト、トランクから目を離すな!」
 パトラが一言それだけを言ってバスケット の中から飛び出します。私がトランクに手を 伸ばすと、目の前の女の子が右手のバスケッ トを両手で掴んで引っ張りました。
「何をするの? 放して!」
 私は驚いて女の子に言うけれど、女の子は かまわずにバスケットをひったくろうとしま す。
「お願いだからやめて! どうしてこんな事 をするの?」
 私がそう言ったのと同時に、パトラが女の 子の腕に飛びつき。爪を立てて引っ掻きまし た。
「きゃっ!」
 女の子は悲鳴を上げてバスケットから手を 離し、パトラを睨むとそのまま走り出します。 「パトラ!」
 私の声に振り向きもしないで、パトラは私 の横を矢のように走り抜け、近くに走って来 ていた男の子にそのまま飛びかかりました。 あれは……私のトランク! 男の子は私のト ランクに手をかけて、パトラを右手で払いの けます。パトラがひるんだ一瞬の隙に男の子 はそのまま走り出しました。
「返して! それは私のトランクよ!」
 私は立ち上がり、男の子を追おうとしまし たが。それと同時にいくつもの小石が飛んで きて、私とパトラを狙います。
「きゃっ!」
 悲鳴を上げて私はとっさに頭をかばいまし た。いくつかは私の腕と肩にあたり鈍い痛み が走ります。パトラは軽快に左右に飛んで小 石をかわし、そのまま追いかけようとしたけ れど。私の方を見て、舌打ちして戻ってきま した。
「泥棒よ! だれかあの子を捕まえて!」
 私は大きな声をあげて、細い路地に逃げて いく子供達を指さしましたが。周りの人々は 何事も無かったかのような顔をしています。
「無駄だよフェルト。間抜けな旅行者がトラ ンクを盗まれるくらい、ここでは珍しく無い のさ……」
 パトラが私の側に来て小さい声で囁きまし た。私は唖然として、男の子達の消えていっ た路地を見つめて呟きます。
「でも……」
「誰だって、やっかい事はごめんだ。裏路地 は奴らのテリトリーで治安も悪い、入ってい って無事に帰れる保証は無いさ……それより も自分の油断を反省しろ」
 私はパトラを見つめて何かを言いかけ、何 も言えないことに気づいて黙り込みました。 パトラが私を厳しい顔で睨みます。
「油断だろ? 子供が話しかけて来たからっ て、ほいほいトランクから手を離すのは考え が甘いからだよ。誰かの手助けを期待するの も甘い。奴らは生きていくためなら盗みだっ てするし、平気で嘘も付く。言っておくが、 見ず知らずの人間なんて誰も助けちゃくれな いんだ」
 パトラはそう言って、前足で地面を蹴りつ けため息をつきました。
「奴らに同情するかい? 現実を見ろよ!  奴らはもっとしたたかに生きているさ。男は 裏路地で盗賊紛いの事をし、女は物心が付く 前に娼館に売られる。フェルトの思ってる理 想論じゃ誰一人救えはしない!」
 そう言うと、パトラはバスケットの中に首 を突っ込みなにやら漁り始めます。
 甘い……んでしょうか? 人の心の中に根 付く闇はこんなにも深い。失った物は、着替 えと旅費の大半……お金で買える物ばかりだ けど、それ以上に大きな物を失った気がしま す。厳しい現実、何も言い返せなかった自分。 知らず知らずの内に両目から涙があふれてき て、私のコートの裾を濡らしました。
「フェルト、今いくら持ってる?」
 パトラがバスケットの中からそう声をかけ るけど、私は嗚咽をもらしてただ泣くだけし か出来ません。パトラはそんな私を見てバス ケットから顔を出し。厳しい目をして私に言 いました。
「そうやって、泣いていれば誰かが助けてく れるのか? トランクが戻って来るのか?  泣いてるだけでは何も出来やしないぞ。自分 が正しいと思うなら、理想があるなら立ち上 がってみろ!」
「……うん」
 パトラの声に私は2度頷き、涙を拭いてポ ケットに手を入れました。そうだね、パトラ の言うとおりだ。何が出来る訳じゃ無いけど、 まず涙を拭いて立ち上がらなきゃ。全てはそ れからでしょ? 私はもう一度頷きポケット の中のコインを全部手のひらの上に載せます。 バスケットの中から顔を出したパトラが、そ の上に金貨を一枚乗せました。
「何かあった時の為に取っておいたんだ。全 部で……2リーブルとちょっとか、切りつめ れば1週間は大丈夫だな」
 パトラがそう言い、私は頷いてパトラの頭 を撫でます。
「そうだね、その間にお祖母様に連絡しなき ゃね」
 私がそう言うと、パトラは私の顔を見て少 し安心した様な表情を浮かべました。それか らそっぽを向いて、ややぶっきらぼうに言い ます。
「まあ、怪我も大した事無いし、形見のクロ スも無事なんだ。被害なんて少ない方さ」
 ……ひょっとして、慰めてくれてるのかな? 私がそう思って、パトラを見つめると、パト ラは顔を赤くして俯きました。ふふふっ照れ てるの? 私がパトラに笑いかけると、パト ラは私をチラッと見て、それから後ろを向き ます。
「な、なんだよ……僕は怒ってるんだからな」
「分かってるよ」
 私はパトラの背中に笑いながらそう言い、 パトラは黙って歩き出しました。なんだかん だ言っても、パトラは優しいんです。

 11月の夜は肌寒く吐く息は白い、本格的 な冬の訪れを前に厚手の防寒着が恋しくもな ります。3ヶ月前が真夏だったなんてちょっ と信じれれない、この季節はいつも思うんだ けれどね。早めにコートとストールを出して おいて正解でした。
 ポケットに残った小銭でお祖母様に電報を 打ち、露店で暖かいミルクを買うと残ったの は2リーブルとちょっと。私とパトラは少し でも安い宿を探そうと夜のクレージュを歩き 回ります。こうして見てみるとパトラの言っ た事は本当みたい、表の通りを一歩入れば裸 足の子供達でいっぱいです。荷物は盗まれち ゃったけど、こうして食べられるだけでも幸 せなのかも知れない。私は人々の心に根付い てる闇の深さを改めて実感しました。
「ねえパトラ。オルドルの聖典ってさ、人が 幸せになるための神様の言葉が書かれている んだよね? それが人を苦しめるってどうい うことなのかな?」
 大聖堂の前の広場で噴水に座り、暖かいミ ルクを飲みながら私はパトラに聞きました。  パトラは私の傍らで、容器に入ったミルク と格闘しながら答えます。
「つまりさ、オルドルの神って言うのは全て の人を救ってくれる訳じゃ無いんだよ。上に 立つ者は祝福され、下を這いずる者はどんな に祈ろうと届かない。それは改宗したって変 わらないって、ごく簡単な事さ」
(そうかしら?)
 私は広場を行き交う人々を見ながら少し考 えました。人は聖典を免罪符の様に使い人を 差別しているだけで、神様は嘆いていらっし ゃるんじゃ無いかって。人って本当は平等な はずなのに……私はそう考えてから少しだけ 可笑しくなりました。これは、当たり前の幸 せさえ手に入れることの出来ない私が、言え る事じゃ無いのかも知れない。
「……見えない物を信じる信じないは勝手だ けど、オルドルの神や聖典は人が作り出した 物だ」
 パトラが呟くように言い、私はパトラの方 を見つめて頷きます。パトラは行き交う人々 の方を見たまま静かに続けました。
「人の手が入ることによって真実は曲げられ、 客観性を失う。その瞬間全ての人に等しかっ た物は失われ、神は死を迎えるんだ。本当の 神様は心の中にしかいない、そしてそれは目 に見えず、耳にも聞こえず、名前すら無い物 なんだよ。あのでっかい大聖堂はさしずめお 墓って所だね」
 それからパトラは自虐的な笑いを浮かべた め息を付くと、私を見つめて少し疲れた様に 言いました。
「人が真の意味で理解し合うのは不可能かも 知れない。人が言葉を生み出して、他人の言 葉の中から自分に近い物、都合の良い物を選 択しようとしている限りね。本当は言葉なん て無い方が分かり合えるのかも知れないんだ。 もう途方も無い時間ずっと……ずっとそんな 事ばかり思い知らされてきた」
 パトラは俯いてそれから血がにじむほど唇 を咬み、地面を前足で蹴りつけました。もし かしたら一番割り切っていないのはパトラな のかも知れません。矛盾だらけ、自ら原因を 作りながら目の前の犯罪を見過ごす人々。根 底に流れる他人の価値観、人の作った偶像に 支配される街。正しいことっていったい何な の? 足下を見つめうなだれるパトラを見つ め私は思ったの。私の知らないパトラの過去 に何が合ったかは分からないけど、いつか話 してくれる日が来ると私は信じています。今 の私には何も出来はしないのは分かってる、 でも人は成長する事が出来るはずだよね。そ う、その日が来たら私はパトラの力になりた い。私はそれまでに出来るだけ大人になって いよう。両手でそっとパトラの小さな体を抱 きしめて、私はそう心に決めたんです。

 宵闇の中、街頭の明かりを数えながら中央 街を歩きます。
「パン屋さん、お花やさん、靴屋さん、ケー キ屋さん……パトラの好きな飲み屋さんもあ るよ」
 薄ぼんやりとした明かりに映し出されるい ろいろな形の看板。その一つ一つを指さしな がら私は微笑んで読み上げます。パトラはそ んな私を見ながら少しだけ笑いました。
「お店と言うのは主に3つに分けられる。衣 食住に密接に関係する無くてはならないお店。 衣食住にも関係するが無くても別に困らない、 生活や意識を豊かにする為のお店。花屋なん かがそうだな。3つ目は警察、銀行、教会、 街の公共施設。それらの街としての機能を司 る……まあ、これは店とは少し違うのだけど、 人が集団で住むには必要な物。主にこの3つ だな。このうち2つ目と3つ目の割合が大き いほど生活水準が豊かな街と言える」
 パトラがそう言い、飲み屋さんの中をうっ とりした目で見つめます。私はそれを見て微 笑みました。
「飲み屋さんは2番目だね」
 私が笑いながらパトラに言うと、パトラは 少し憤慨して言います。。
「何を言っている。酒は文化であり、芸術で あり、薬であり、必需品だ。カテゴリーで分 ければ1つ目のしかも上位に位置する。僕は 教会には行かないが、酒には祈りを捧げる敬 虔な信者だ」
 変な理屈、それはパトラだけじゃない。そ う言って胸をはり主張するパトラを見つめ、 私は可笑しくて吹き出しました。パトラって 時々妙に人間くさい時があるのよね、しかも まるっきり子供なの。お酒は文化で芸術だっ て……パトラのセリフを思い返し、私は再び 吹き出します。そう言えば……私はちょっと 不思議に思った事を聞きました。
「ねえ……クスリって何?」
「ん? ああ、薬と言うのはな。病気になっ た人を直すために使う物だ。古くから病気は 悪霊の仕業とされてきていたが、科学の発展 と供に病気の仕組みも解明されてきたんだ。 つまりは科学的に病気を治そうって試みで、 医者という専門家もいる。例えばフェルトが お腹を壊したときにホウライの葉を煎じて飲 むだろう? つまりはそれが薬であり、その 手の専門家が医者だ」
「ふうん、つまりはおばあちゃんの知恵袋の 偉い人だね」
「……ちょっと違うけどな。まだあまり一般 的な物では無いから仕方が無いが……ほらア レが医者だよ」
 パトラがそう言って通りの先の看板を指し ました。大きな白い看板に赤いクロスの模様。 私はてっきり教会関係のお店かと思っていた けど、違うみたい。
「医者……というか医療そのものは教会と関 係が深い。まだ病気が悪霊の仕業と思われて いた時代、それを治療するのは教会の役目だ った。つまりはその名残だな」
 パトラはそう言って得意げに頷き、私は感 心してお医者さん(お医者屋さん?)の建物 を見つめました。すると突然ドアが開かれ、 中から子供を抱いた女の人が突きとばされて 出てきます。
「なんだろう? なにかあったみたいだけど」
 私は慌ててパトラに視線を投げ、パトラは やけに冷ややかな目でそれを見つめています。
「ねえ、パトラ……」
「よせよフェルト、大体の察しはついている。 断言しても良いが僕らには何も出来ない」
 でもさ……どうしてパトラがそんなに冷静 なのか私には分かりません。白衣の男の足下 にすがりつく女の人を見て、私はパトラに言 いました。
「そんなの分からないじゃ無い、私にしか出 来ないことだってあるかも知れないよ」
 そんな私を見つめ、パトラは怖い顔をしま す。
「フェルト! 自分が何でも出来るって思う のは大間違いだ。君が安っぽい正義感を振り かざして首をつっこみ、その事で傷つく人が いるって事も知っておけ!」
 パトラはそう言い放ち私を無言で睨みます。 私はパトラを見つめ返して首を振りました。
「フェルト!」
「わかんないよ!」
 私はそう言ってパトラを置いて走りだし。 パトラは。
「勝手にしろ!」
 と言ってそっぽを向きました。

「駄目だと言っているだろう、迷惑だからも う帰ってくれ!」
「お願いします、この娘はこんなに苦しんで いるんです。どうか、どうかお願いですから 看てやって下さい」
 白衣の男が子供を抱いた女の人を怒鳴りつ け、彼女は男の足下にすがりつきひたすら懇 願していました。私が状況を掴めずにただお ろおろとしていると、後ろからパトラがやっ てきます。そして彼女が抱いた子供を見て一 言。
「流行病の一種で、気管支と肺と腸をやられ る。栄養が足りてればそんなに怖い病気では 無いが、貧しい地域で流行ると死病になりか ねない……あの子は重病だな、すぐにでも手 を打たないと手遅れになる」
「それじゃ、お医者さんに看てもらえば良い んだよね?」
 あの娘が死ぬ? 私は怖くなってパトラに すがりつくような視線を投げます。でもパト ラはちょっと辛そうな顔をして、静かに首を 振りました。
「……無駄だよ。さっきも言っただろ? 貧 しい地域では死病だって。医療と言うのはと んでもないお金がかかるんだ。貧しい人々は 医者にかかることは出来ない」
「でも……人の命に関わる事なんだよ?」
 私がパトラを見つめてそう言うと、パトラ は俯いて何も言いません。
 なんで……なんで何も言ってくれないの?
「パトラ?」
「僕にどうしろって言うんだよ!」
 私がパトラに呟くと、パトラは私を見て吐 き捨てる様に言いました。それから自虐的な 笑みを浮かべます。
「さっきも言ったよな、僕らには何も出来な いって。こうなることぐらい予想してたさ、 ああ、分かっていたとも。あの娘は朝を待た ずに死ぬだろうよ、そして僕はまた何も出来 ないんだ……」
 乾いた笑い、自分の手を蔑んで見つめる瞳。 パトラは私を見つめ、それから冷たい針の様 な目で私を刺します。
「自分にしか出来ないことがあるかもって? じゃあそれを今すぐやって見ろよ! どうせ 何も出来やしないんだろ? あの女に同情し て泣くくらいなら僕にだって出来るんだ。あ の女はそんな事望んじゃいないさ!」
 そう言い切ってからパトラは俯き、それか らパトラは小さく呟きました。
「……言い過ぎたよ、反省する。でも謝らな いからな……言わせたのはフェルト、君なん だ……」
 涙が頬を伝わって流れて落ちる。膝は震え て足下がおぼつかない。パトラはもう何度も こんな場面に遭ってるんだ……その度にこん な思いを繰り返して来たんだね。私がこんな 思いしないように怒ってくれたんだよね。分 かるよ。今、パトラの気持ちが痛いほど分か る。だけどまだ分かっちゃいけないんだよ。 だって私はまだ何もしてないんだもの。
 私は唇を咬んで涙を拭きました。そうだよ ね、泣くだけなら誰でも出来るんだもん。私 は振り返り深呼吸をします。
「何をする気だ?」
 パトラが後ろから私に声をかけます。私は パトラに視線を投げて強い口調で言いました。
「決まってるでしょ、お医者様に言ってあの 娘を助けてもらうの。私にはそれしか出来な いんだもん!」
 私の声にパトラは驚き、それから私の肩に 飛び乗って頬をひっぱたきました。頬を打つ 高い音が耳元で響いて、私はパトラを睨みま す。でも、パトラは少しも動じないで私の目 を見据えて言いました。
「いい加減にしろ! 無駄に傷口を広げてる だけだってまだ分からないのか?」
 パトラの言葉に私は頬を押さえ、強い口調 で言い返します。
「分かんないもん! あの娘はまだ生きてい て、それを何とか出来るのはお医者さんだけ なんでしょ? だったらやるしか無いじゃ無 い!」
 私はパトラを睨むけれど、パトラは私を厳 しい目で見つめ目を反らしません。
「ああ、そうだとも。あの娘を救えるのはあ の医者だけだ。でもなあ、その薬代はどうす るんだよ? あの医者が負担するのか? 薬 だって空から振ってきやしない。あの医者だ って生活があり、家族がいるんだ、意地悪で あんな事をしているんじゃ無いんだぞ!」
 パトラの言葉に、私は何も言えません。悔 しいけれどパトラの言うことの方が正しい。
「情に訴えてあの娘を助けてみろ? あの医 者の家族が今度は路頭に迷うことになるって どうして考えないんだ。そりゃあ、誰だって あの娘を助けたいさ。そんな事はフェルトだ けじゃ無く、僕だって、あの医者だって思っ てるさ!」
「じゃあ……じゃあ、薬が出せなくったって 看るだけでも、看てもらえるように頼んでみ る!」
 私がそう言うと、パトラは再び私の頬をひ っぱたきました。それから、俯いて呟きます。
「お願いだからそんな事を言うのはやめてく れ。残酷だ……残酷だよフェルト……看るだ け看て、あの医者は女の人になんて言えば良 いって言うのさ。『薬があれば助けられる』と でも言うのか? それとも『朝までに死ぬだ ろうって』そう言えばあの女の人が楽になる とでも本気で思ってるのか? あの医者はね、 恨まれる事なんて100も承知で、帰れって 言っているんだよ。何もしなかった自分を恨 んでくれって覚悟を決めて、ああ言っている んだ! 君にそれだけの覚悟はあるのか?」
 パトラの言葉を私は泣きながら聞きました。 パトラは少しだけ優しい目をして、私の頬を 撫でます。
「医者って言うのはね、聖職なんだよ。誰も がこの世から病気を無くしたい、苦しむ人を 助けたいと思って医者になるんだ。でも現実 は見ての通りさ、医療を求める者は薬も買え ない貧しい人ばかり・・・・・・時には病気の子供 を抱いた母親でさえ追い返さなくてはならな いんだ。この状況で一番辛いのはあの医者か もしれない……通りすがりの僕らがしゃしゃ り出て行って、あの人達に何が言えるんだよ?」
 パトラはそう言って苦しそうな表情を浮か べ、それから俯いて首を振りました。そんな 言い方って……私に何を言えっていうの?  私に出来ることは何も無いの? ねえ、答え てよパトラ! 私が痛いほど唇を咬んでパト ラを見つめると、パトラは俯いたまま呟きま した。
「割りきれ……とは言わない、こんな事が正 しいとも思わない。でも、これが現実なんだ!  分かるだろう?」
「分かんないよ!」
 私が答えると、パトラはもう一度私の頬を ひっぱたきます。私は頬を押さえて蹲り、嗚 咽を漏らしました。
「わかんないよ、そんなの……どうして誰も 望まないのにあの娘が死ぬの? どうして正 しくもないのに、世の中はこんな風なの?  神様は何をしてるのよ!」
 私は泣きながらパトラにすがりつきました。
「ねえ、答えてよパトラ! パトラは何でも 知ってるんでしょ?」
「いい加減にしないか! 辛いのは君だけじ ゃ無いんだ! あの医者や、女の人のほうが 何十倍も辛いんだぞ!」
 パトラは声をあらげて私に言います。それ から病院の方を指して言いました。
「そんなに、聞きたいならあの人達に聞いて みろ!『どうしてこんな世の中なんですか?』 ってな。それがどんなに残酷な事かは考えな くても分かるだろ! 君がやろうとしたこと はそういうことだ!」
 肩で息をしながらパトラは私を睨み、それ から地面を蹴りつけました。
「こんな事、これから先何十回でも、何百回 でもあるぞ! その度に君は泣き叫び『何で 何で?』って聞くのか? はん! そいつは ご立派なこった。君は一体何様のつもりなん だ? いい加減、そろそろ分かっても良い頃 だと思うがね……」
 パトラはそう言ってため息をつき、それか ら泣き叫ぶ私の頭に自分の手を乗せて首をふ りました。
「ごめん……また僕は言い過ぎたかも知れな い。でもね、大人になるって、そう言うこと なんだよ。やりきれない事、辛くて悲しい事。 世の中の大半はそういう物で出来ていて、正 しいことなんてホントに小さい、奇跡みたい な物なんだ……フェルトにもその内分かるさ」
 パトラはそう優しく言うけれど、パトラの 言ってることは多分正しいけれど。それを認 める事が大人になるって事なら、それは間違 ってるって思うの。だって世界はもっと綺麗 な物で出来ているんですもの。私はそれを強 く信じてる。そうでしょ? お母さん。
 私は今、パトラの言葉で大切な事に気づい たわ。私が何をしなくっちゃいけないか、何 が今大切なのか。これは安っぽい正義感かも 知れない、偽善かも知れない。こんな事をし ても何が変わるって訳じゃ無いことは分かっ てる。その為にパトラに迷惑をかける事も、 後で苦労することだって。でもね、そう言う ことじゃ無いのよ! 私は意を決して立ち上 がり、パトラに微笑んで男の方に歩き出しま した。
 男は泣き崩れる女の人を見て、一瞬辛そう な顔をすると、黙って扉を閉めようとします。 でも、私はほとんど無意識に、閉まろうとす る扉を掴んでいたの。
「君は?」
 男はいらついたように言い、私を睨みます。 私は、俯いて唇を咬みしめると、無言でパト ラの方に視線をなげました。
(パトラ、ごめんなさい)
 心の中でパトラにそう謝って、ポケットの 中にあるコインを男の手のひらに載せました。
 子供の理論だね。これは賢いとか、偉いと かそういう事じゃ無いの。私以外の人はみん なが笑うかも知れない、怒るかも知れない。 でもね、私の中でただ一つだけ、これだけが 真実で、正しいことなのよ。
 男はそのコインを見つめると、俯いて目を つぶり無言でため息をつきます。
「あなたは馬鹿なことだって笑いますか?  それでもね、これが私にとっての真実なんで す……全部で2リーブルと1デナール。これ しか無いけど、足りないかも知れないけど。 これで買えるだけの薬をあの娘に頂けません か?」
 私がそう言ってそっと手をどけると、私の 心が不思議に凪いで行って、私は笑うことが 出来たの。ほらね、きっとこれが正しい事。 もう一度同じ場面にきたら……ううん、何度 だって私はこうするでしょうね。
 私はそう思い、微笑んで男の顔を見ました。
「……君が何者かは知らないが、君がこんな 事をする義理はない。意味だって無い。」
 男は私を見つめると、静かにそう言います。
「聞きなさい……今日君はこの人をたまたま 知って同情した、そして自分のお金を出そう としている。なるほど、このお金さえあれば あの娘は助かるかも知れない。大した美談だ が、そんな事は君の自己満足にしか過ぎない んだよ。
 私は医者だし、金さえ貰えば治療だってし よう。しかし、もし君がたまたまここを通ら なかったらあの娘は助からなかった。そんな 事この街のいたる所で起きているんだ、ここ にだって一日に何件だってくる。君はその人 達全てを救える訳じゃ無いだろう?」
 男はそう言って、お金を私の手の中に返そ うとしました。でも、私は首を振って否定し ます。
「あなたの言ってることは分かります。私の 事を馬鹿な娘だって笑っても良いです。でも ね、その言葉に頷くことだけは絶対出来ませ ん。だって、そうしたらあの娘死んじゃうも の……あなたは意味が無いって言うけれど、 私にとって意味なんかそれで十分なんです」
 私はそう言って笑いました。男は冷めた表 情で私を見つめているけれど、良いんですそ んな事はどうだって……
「全ての人が救えないのは100も承知です。 私だって、出来ることならそうしたいけれど 方法が分からないの。だってこれに正解なん て無いんですもの……そうでしょ?
 大人の正論や一般論、こうするべきだ、そ れは間違ってる……人は私にいろいろな事を 言うわ。人それぞれにいろいろな答えはある けれど、誰一人としてあの娘を助けてくれは しないでしょ? 目の前で起きている正しく 無いこと、それを見過ごすことが正論て言う なら、私はそんなもの要りません。私は自分 で答えを出します。間違ってたって、笑われ たってかまわない!」
 私はそう言って男を見据えました。言いた いことの半分も言えません、これじゃ駄々を こねてるだけ……でも、そんな事どうだって 良いのよ。自己満足でも、わがままでも良い、 お願いだからあの娘を助けて!
「言いたいことを言ってくれるがね、それで も私は自分のしていることを間違ったことだ とは思わない」
 男は私を見つめてそう言い、私はそれに頷 きます。男はそんな私を不可解そうな目で見 つめて言いました。
「正直言って分からないよ。どうしてそこま でして見ず知らずの他人を助けたいって思う のか……君とこの娘は関係無いんだろう?」
 男の言葉に私は首を振りました。自分でも 可笑しいのだけれど、上手く答えられないの。 これは、大切なお金なのにね……でも一つだ け分かってる事があるんです。
「これはね……全て、自分の為なんです。こ の世界はもっと綺麗な所だって信じてる。た だそれだけ……本当にそれだけなんです。別 に分かって貰おうなんて思ってません」
 自分の事、自分の為……世の中は複雑でと ても難しいけど、その瞬間になにが一番大切 なのかが分かっていれば大丈夫。嫌な事も真 実、許せないことも真実だけど、世の中って そういう物だけで出来ている訳じゃ無いもの。 私はそんなの絶対認めない!
 私は胸をはり、両目で相手をしっかりと見 据えて言いました。自分の信念の為に何が出 来るの? 私にはそれしか出来ないでしょ? 男はそんな私を黙って見つめ、それから少し 微笑んで私の頭を撫でて言います。
「言っておく……これは安っぽいヒロイズム で、まるっきり子供の理論だ。自己満足で一 人や二人助けたところで現実は変わらない。 それでも良いのだね?」
「それでも……」
 私は少しだけ笑いました。
「それでも、あの娘が助かるんでしょ? 私 はその方が良い……」
 言った言葉に男は私を見つめると黙って頷 き、それから女の人に言います。
「その娘を診察室に入れなさい」
 女の人は私に何度も頭を下げると、子供を 抱いて診察室に入って行きます。私はそれに 笑顔で手を振り、男は私を見つめて苦笑しま した。
「もう何も言わないが……そんな事ばかりし ていると、いつか……いやなんでも無い」
 男はそう言って扉を閉めようとします。わ たしはその扉を掴んで一言だけ言ったの。
「それでもね、私にとってこれが唯一の答え なの」
 私は言って微笑みかけると、男はちょっと だけ驚いた顔をして、そらから黙って扉を閉 めました。私は目の前の扉に額を当てて、そ れからうんって頷きます。
「あの男が言うことの方が正しいよ……」
 パトラがそう言い、私は振り返って頷きま した。そんな事は私が一番よくわかってる。 私の言うことはきれい事で、あの人の言うこ とが正しい事だって……
「うん、そうだね。私は自分の自己満足に、 パトラを付き合わせてるだけなのかも知れな い……」
 パトラはそんな私を見て。
「分かってるならいい……」
 と言って振り返り、それ以上何も言わずに 歩き出します。寒い11月の夜の事でした。

「寒いね……」
 私がそう言ってパトラに微笑みかけるけど、 パトラはそっぽを向いて何も言いません。
 通りを幾分か戻った広場、あの大聖堂前の 噴水に座りながら私とパトラは身を寄せ合っ て震えていました。
 怒らないんだね……私が間違ってるんだか ら怒鳴って、なじってくれて良いのに。
「ごめんね、パトラ……」
 私はもう何回目になるか分からない言葉を パトラにかけました。でもパトラの答えをい つも同じ。
「もういいよ……」
私はパトラの声にため息をつき、それから 星空を見上げました。澄み渡った空に浮かぶ 少しだけ欠けた月、満天の星空。あの綺麗な 星々が人の良心の輝きだったらなあ。私はそ う思って星空に微笑みました。私に一つ、パ トラに一つ、お医者さんにも、あの娘にもそ れぞれ一つずつ。そしたらこの星はとっても 綺麗に輝くんだろうなあ。きっと、宇宙のど こにいても見つけられるくらい、綺麗に鮮や かに。宇宙の闇も夜も、この世界もまだまだ 暗いけどね。
 私はそう考えてから、パトラを抱き寄せて 呟きました。
「私は考えが足りなくて、情けないほど子供 だね……パトラにも迷惑かけちゃうし」
 私の言葉にパトラはまったくだとばかり頷 きます。お願いだからもう少しフォローして よ……私は苦笑してパトラを見つめました。
「でもね、お母さんならきっと同じ事をして いたと思うよ」
 私がそう呟いて微笑むと、パトラは少し辛 そうな顔をしてそっぽをむきます。私はパト ラの頭を撫でて微笑みました。
「知ってしまったこと、知らなければ良かっ たこと。世の中には色々辛いことがあって、 私はまだほんの一部しか知らないと思うの。 それでもね、あの娘を救えて私は本当に良か ったって思ってるよ……ううん、救われたの は私の方なのよ。あそこでパトラの言葉に折 れてしまう私なら、私はきっとこの先どこか で、立ち上がれなくなる日がやって来ると思 うのよ……現実は想像以上に辛いしね」
 私がそう言ってパトラに笑いかけると、パ トラは困った顔をして私を見つめます。何か を言いかけて止める、そんな事を2度繰り返 したけど、結局パトラは何も言いませんでし た。
「だけど、1つだけ……言葉、信念、良心、 屁理屈……わがままとも言ってしまえる物だ けど、私にとって大事な物がなんだか分かっ た気がするの。それは星のような、淡雪のよ うな、ともすれば見失って溶けてしまうよう な物かも知れないけど。でもね、それは確か にここにあるの」
 私はそう言って胸の真ん中に手を当てまし た。これが生きてるって事、これが私。
「偽善や、自己満足かも知れないよ」
 パトラがぼそりと呟き、私はそれに微笑み ました。そうだね、その通りかも知れない。 でもねパトラ、これが私なの。打算も、算段 も無い、正真正銘の私の心なのよ。
「だれもが一つずつ持っているのに、目に見 えず、耳にも聞こえず、手でも触れない神様 みたいな物……それには名前なんか無いの。 そしてそれは見せることが出来ない……行動 でしか証明出来ない物なんだね」
 私がそう言って、パトラを抱きしめて背中 をなでました。これが、この光が全ての人に 見えたらなあ……
「パトラには、見える?」
「……見えるよ」
 凄く、凄く小さい声でパトラがそう呟き、 私の両目から涙があふれました。
 見えない物。それはパトラを傷つけ、私を 立ち上がれなるほど深い所に連れていくかも 知れない。世の中の、人の心の闇は深くて暗 いから……怖い、怖いよパトラ。何か恐ろし い者に心臓を捕まれたようだよ。
 でもね……それでもやっぱり、私はそうす るしか無いんだと思うの。だって、人は、私 はその為に産まれてきたんだから。
 怖いけど、私の側にはいつもパトラがいる し辛くなんかないよ。でも時々寂しくなった らその時は……
「私を支えてね……」
 私は呟いてパトラを抱く手に力を込め、パ トラは黙って私の胸で心臓の音を聞いていま した。
 その夜、私はパトラを抱いてしばらく泣き 続け、そのまま眠ってしまいました。パトラ はずっと、抱きしめた私のての上に自分の手 を重ねて、私の胸に頬を埋めていてくれます。  寒いのに、心だけは暖かいそんな不思議な 夜でした。

 吐く息は白く、朝靄にけぶって溶けるよう に消える。私は自分の息を見つめながら、少 し急いで走って行きます。朝一番にパンを焼 く臭い。馬車の往来はまだ少ないけど、今日 も朝がやって来ました。
「パトラ……まだ起きないでね」
 私は一人呟くと、広場を渡りパトラが眠っ ているはずの噴水まで走ります。しかし、私 が戻ったときには、パトラはすっかり目を覚 ましていました。
 パトラは私を冷ややかな目で見つめて言い ます。
「どこ行ってたのさ……」
「あっ、あはははははっ、いや、ちょっと散 歩……」
 私がそう言うと、ますます冷ややかな目で 私を見ます。
「ふーん……で? その紙袋はなんだよ?」
「えっ! こっ、これはその……パンと牛 乳……」
「ふーん……」
 パトラはそう言い放ち、私の目を凝視しま す。私は目を反らして紙袋の中から2人分の パンと牛乳を取り出し、噴水の脇に並べて置 きました。
「い、いや、あのね。ポケットの中にコイン がまだあったから、お腹空いてるだろうなっ て思ってね……」
「コインねえ……」
 パトラはそう言って私をじと目で睨み、そ れから怒ったように言います。
「フェルト! ストールはどうしたのさ!」
「きゃっ!」
 私はパトラの声に耳をふさいで目をつぶり ます。パトラはそんな私を見てあきれたよ うに言いました。
「お腹なら確かに空いてるよ、でもなあ、そ の為に防寒着を売る奴がどこにいるんだ!」
「でも・・・・・・」
「でもじゃ無い! まったく君はどこまで馬 鹿なんだ、そんな事をして僕が喜ぶとでも思 ったのか?」
「馬鹿じゃないよ、馬鹿って言う方が馬鹿な んだよ……」
 私が涙目でそう言うと、パトラは物も言え ないって顔をしてそっぽを向きました。
「フェルト一人で食え、僕はそんな物要らな いからな」
「パトラ……」
 私が呼びかけても、パトラはこっちを向き ません。私はうなだれて紙袋の中に暖かいパ ンと牛乳をしまいました。
「……パトラが食べないなら、私もいらない」
 私がそう言うと、パトラはあきれた顔でこ っちを振り向き。
「君って奴はどこまで子供なんだ……」
 と言います。私は少しだけ笑って、それか らパトラに言いました。
「子供だもん、パトラが食べてくれるならわ がままだって言うよ。私はパトラに食べて欲 しいんだもん」
 私がそう言うと、パトラは何も言わずに私 を見て、それから長いため息をつきました。 私はにっこり笑って、袋の中からパンを取り 出すとパトラの前に差し出します。パトラは 何も言わずにパンに噛み付き、そっぽを向い て食べ始めました。私はそれを見て思わず笑 ってしまいます。だってこんなに嬉しいこと は無いでしょう?
「ねえパトラ、あの娘元気になったかなあ?」
 私が微笑んで尋ねると、パトラは私を見つ め、それから俯いて疲れた様子で言います。
「君って奴はどこまで……もう、そろそろあ きらめが付いてきたけどね」
 パトラはため息をついてうなだれます、私 はそれを見て笑いました。
「食べ終わったら、見に行ってみようね」  私はそう言って頷き、それからパンに囓り つきました。

 私たちがお医者さんの前にやってくると、 昨日の女の人が私に気付いて手を振りました。 よく見ると、影に隠れてもう一人人影が見え ます。それと、見慣れた物が一緒に……
「あーっ! あれ私のトランクだ!」
 私がそう言って走り寄ると、人影は彼女の 後ろに回り込んで震えていました。彼女は悲 しそうな顔をして、私の前にひざまずき謝り ます。
「ごめんなさい、家の子が昨日大金を持って 病院に現れたので、問いつめたんです。そう したら、黒猫を連れた旅行者の女の子から盗 んだって……もしかしてと思ったら案の上で した」
 私はパタパタと手を振り、それから笑って 答えます。
「あっ、いえ、こちらが間抜けだったんです。 もう返ってこないと諦めてた物が返ってきた んだし、もう気にしてませんよ」
「しかし……昨日は助けてもらった上に、こ んな無礼を……ほらっ、お前も謝りなさい」
 女の人が促すと、男の子が前に出てきまし た。私より少し年下ぐらいかな? その子が 涙ぐみ、頭を下げると消え入る様な声で。
「ごめんなさい……」
 って言ったんです。私はなんて言うか、怒 って良いんだか、笑って良いんだか複雑な心 境で。とりあえず頑張って怖い顔をして聞き ます。
「君は、あの娘のお兄さんだよね? あの娘 の為に盗みをしたの?」
 私の問いに男の子は俯いて頷きました。
「それは悪い事だって分かってる? もう絶 対に人の物を盗まないって、私に誓える?」
 私が尋ねると、男の子は涙を拭いて頷きま す。私は笑って男の子の頭を撫で、それから 軽く抱きしめました。
「じゃあ特別に許してあげる。特別だよ」
 男の子は頷きそれから火がついた様に泣き 始めました。私が苦笑しながらパトラを見つ めると、パトラは声には出さないで(甘いん だよ)って形に口を動かします。良いじゃな い甘くったって。私は口元で笑い、それから 舌をだしてパトラを見ました。
 すると、不意にドアが開いて白衣の男が出 てきます。やや疲れた顔で私を見ると笑みを 浮かべ、それからタバコに火を付けて私に言 いました。
「助けたよ、これで文句は無いだろう?」
 私は男の言葉に嬉しくなって、男の子の手 をとり喜びました。どうしよう、あんまり嬉 しすぎて涙が出そう。男の子もホッとしたの かへたり込み、そらから涙を浮かべて喜びま す。男は紫煙を吐き出すと私を見つめ、それ からため息をつきました。
「君は……世の中が砂糖菓子ででも出来てる とか思ってるんじゃ無いだろうな?」
 男の言葉に私は微笑んで首を振りました。 まさかそんな事思ってる訳無いじゃない。
「ふふふっ、本当はね砂糖菓子なんかよりも もっと素敵な物で出来ているんです」
 私は男の目を真っ直ぐ見つめてはっきりと そう言い切りました。男は私を見つめて苦笑 し、一言。
「子供だな」
 って言います。子供の理論でも、わがまま でも何でも良いの。そう考えた方が素敵でし ょ?
 私が微笑むと、男も少しだけ優しい顔をし て笑いました。思ってたよりもずっと優しそ うな笑顔で私は思わず笑ってしまいました。 男は私を見て怖い顔を作ると、照れ隠しに言 います。
「君は旅行者だったな、目的地は……そう言 えば昨日はどうしたんだ?」
 男がそう言い、私は少し口ごもりました。 どうしよう? 誤魔化した方が良いのかな?  私がそう思っていると、男は私を睨んで言 います。
「この寒空に、野宿か?」
 私が黙って頷くと、女の人は驚いた顔をし ました。
「どうしてそんな事をしたの? 女の子はも っと体に気をつけな……」
 女の人は言いかけて、はたと口ごもりそれ から私を抱きしめます。
「ごめんなさい、あの子達の為に貴女がそん な事を……」
 それから、自分のしていたマフラーをほど き私の首にかけました。編み目の綺麗な手編 みのマフラー。私は何も言えずに女の人を見 つめると、彼女は笑ってもう一度私を抱きし めました。
「それはね、貴女の真心へのお礼よ。大した 物じゃ無いけど受け取ってくれると嬉しいわ」
「えっ? ええっ?」
 産まれてから始めて手編みのマフラーなん かをもらった私は、嬉しさよりもとまどいの 方が大きくて素っ頓狂な声をあげてしまいま す。私は女の人に抱かれたままパトラの方に 視線をなげました、パトラはただ笑って頷き ます。いいのかな……? いいんだよね。
 私は彼女の背中に手を回して、頷くと小さ い声で囁きました。
「ありがとう……」
(お母さん)
 最後の方は心の中でだけだったけど、この くらいはパトラも許してくれるよね? 私は 少しだけ微笑み、それから彼女の腕をすり抜 けます。ずっとこのままだったら私は立てな くなりそうで、少しだけ怖かったの。
「こういう時にこんな無粋な話はしたくない のだが。大事な事だし早めに済ませておこう」
男は呟いて懐から皮で出来た袋を取り出し、 私にわたします。随分重たいけど……
「これは……?」
 私が尋ねると、彼女は微笑んで言いました。
「今朝ね、親戚中をまわって集めてきたんで す。どこに出しても恥じない立派なお金だか ら納めて下さいな……」
「でも……」
 私は二人を交互に見つめます。女の人は笑 い、男はただ黙って頷きました。
「でも……昨日のお金じゃ薬代には足りな いんでしょ?」
 私が尋ねると、男は私の頭をみてため息を つきます。
「デナール硬貨で189枚。2リーブルには 少し足りないが、今用意出来る限界だそうだ」
 男の人はそう言い、ポケットの中から12 デナール取り出して、革袋に入れました。朝 靄の静寂の中で、硬貨同士が擦れ合う高い音 が響き渡り、すぐに馬車の木輪が立てる音に かき消されます。
「お釣りだよ、あれっぽっちじゃ3日分の薬 代にもなりはしない。まあ、きっと明日には 起きあがれると思うがな……」
 そう言うと、男はタバコを投げ捨て、その ままドアの向こうに消えていきました。ドア を閉めるときに片手を挙げて、私の方にそっ と微笑んでいたのが見えたけど。もしかした ら照れているのかな? そう考えると少しだ け可笑しくなります。私は笑いながらパトラ を見つめました。
「ふふふっ、あのお医者さんパトラにそっく りだね。口が悪くて怖いんだけど、凄く優し いの。私は大好きだよ」
 私がパトラに呟くと、パトラはそっぽを向 いて。ニャーって鳴きました。

 天高く馬肥ゆる秋。私たちは西行きの列車 に乗ってクレージュの街を後にしました。
 窓から私は手を振って、知り合えた人たち に微笑みかけます。やがて駅が見えなくなる けど、私は首もとに巻いたマフラーを抱きし めて笑いました。そんな私を見てパトラがた め息をつきました。
「そのマフラーってさ、確かに手編みではあ るけど。あのストールの方が高くて良い物な んだぜ?」
 パトラが無粋にそんな事を言うけど私はち っとも気にしません。だって、これはお母さ んの臭いがするんだもの。これは私の宝物で す。
「いいんですう、これは心が暖かくなるから」
 私がそう言うとパトラは苦笑を浮かべ、そ れからため息をついて私を見ました。
「時々さ、君を見てると自分が情けなくなっ てくるよ……人って分かり合えるんじゃ無い かって、思ってしまう自分がいるんだ」
「?」
 囁くように呟いたパトラの言葉をほとんど 聞き取れず、聞き返した私にパトラは「なん でもないよ」って答えるだけ。なんだかなあ。 まっいいや、その内分かるよね。
 私は心で呟き、パトラを見つめていました。 パトラは小さく欠伸をし、私はそれを見て笑い かけます。
 法暦261年11月。
 蒼天高く鳥は鳴き、青草萌えて馬が行く。
 旅の終わりは見えないけれど。
 列車は私とパトラを乗せたまま、広く豊か な草原を、風を巻いて進んで行きました。


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