Column


February 14 - column - 幸福な死について

 今日も今日とて仕事だった。
 そしていつも通りの道を自転車で走る。
 いつもと違う存在に気がついたのは道のりを半分、過ぎた時だった。
 歩道に溢れんばかりの花束。僕は信号待ちで自転車を止める。そこに立てかけられた  看板にはこう書かれていた。
『13日6時30分頃、この近辺で死亡ひき逃げ事故がありました。目撃された方は 下記の電話番号に……』
 僕は嫌な気分になる。誰のせいでもなく、自分のせいだ。
 その看板を見たと同時に僕が思ったのは『可哀相だな』でも『怖いな』でもなく、た だ『小説のアイデアに使えないかな』だったから。
 僕の思考は錯綜する。『死んだ人間は夢半ばが良いな』『幸福な死から遠ざかれば遠 ざかるほど虚構としてのリアリティが出る』『でも幸福な死ってなんだろう、望みを 全て遂げ、苦しみもなく死んでいく事なんて誰にできるのだろう?』『幸福な死と無 残な死、その二つを両極において、何か表現はできないだろうか?』
 そして、そんな事ばかり考えている自分にちょっと嫌気がさす。
前にとある女性作家のエッセイでこんな文章を読んだ事がある。
「身内の人間を亡くした時、悲しいと思いながらもどこかで『この感情は小説に使え る』と考えている自分がいた」
 僕もそうだ。不謹慎なアイデアほど使いたくなる。深く考えこみたくなる。
 それは僕が稚拙ながらも表現に憧れるからだ。
 どうせなら誰も使っていないような深い闇を表現したい。闇を描く事が人生を浮かび 上がらせることだってあると思っている。そのためには誰を傷つけても構わないと 思っている。
 だから僕はきっと幸福な死というものがあるなら、それから最も遠い存在の一人だと 思う。
 いくら表現を考えても、求めても、決して飽きる事はないだろうから。
 だけどどれだけ貪欲で幸福から遠ざかっても、それは僕にとっての生だ。求めても求 めても決して生きているうちに充足しない。それこそが僕にとって生きるという事な のだ。そしてきっと、この文章を読んでいる貴方にとっても。

 ちなみに、バレンタインから意図的に話をずらしているのはわざとです。
 ……うまい棒のチョコ味は美味しいなぁ。

(凩 優司)

February 13 - column - ダイエット

 久しぶりに友人の女の子と電話で話した。彼女はお酒が好きで、三食よりも酒。もちろん滅法強い。そのせいか細いのだが、下っ腹がたるんでいるといつも嘆いていた(見たことはない)。近況を尋ねると2kg痩せたという。
「ダイエットした」
「どうやって」
「わたしさ、食べないじゃない? だから酒を減らした」
 彼女が酒量を落とすというのが意外すぎて、覚悟のほどが知れた。
「どうして?」
「ヨメに行きてえ」
「……」
 彼女とぼくは同い年。確実に三十路が轟音とともに迫っている。


February 12 - column - 十年後

 最近学生をやっているので、高校生のころなにを考えていたか思い返してみたりする。知識が少ないから思考に幅はないかもしれないけど、十年前と現在と悩んでいることはあまり変わらない。
 自分に向いている仕事はいったいなんなのだろうか。
 誰かを愛して、愛されることがあるんだろうか。
 もう少し上手く人と接することはできないだろうか。

 しかし、一つだけ変わったことがある。
 昔は「四十歳くらいで死にたいな。死んでもいいや」と考えていたのだが……
 今は「ことを成すのに時間が足りない。せめて五十歳まで」と感じ始めている。
 きっとまた十年後には「せめて六十までは……」となっているだろう。
 そうものだ。


February 11 - column - 退屈な映画:SEOUL

 観てきました。期待していたのだが、脚本が悪い。
 思いついたことをなんの工夫もなく並べていった結果、シーンに面白味も情報も詰まっていない。いわゆる「水っぽい」脚本。基本ができていない。この脚本家が商業ベースで執筆できるということが邦画の悲劇ですな。
 一つのシーンに二つ以上の情報を入れる。情報を濃くテンポをよくし、緩急をつける。一つ一つのシーンには有機的な意味合いを持たせる……一緒に見に行った友人の迦楼羅は冒頭で見限ったそうだ。間延びしたシーンの展開に。
 ただ彼が言うのはこうした失敗作を出してしまう土壌を考えなくてはならないということ。たとえば会社が資金も納期も定めていたのであればどんなにつまらなくとも撮り終えなくてはいけないだろう。脚本もハリウッドのように売り込むわけではなく、執筆が依頼されて締め切りもあるのなら仕方がないだろうとのこと。明らかにこの脚本家は経験不足です。
 サラリーマン映画人なら面白いものが撮れるわけがないな。
 韓国との共同制作ということで脚本も共同かと思いきやそうではない。役者とアクションのみ韓国クルーのようだ。
 共同脚本ならもっと面白かったのではないかと考える。韓国映画熱いからね。


February 10 - column - 話すことは聞くことですけど

 安心してください。あなたのことじゃありませんよ。


February 9 - column - 今週の重大ニュース

 ぼくは学校で女の子から「クラスで一番キライな人です!」と布告されてしまいましたイェーイ!(泣)


February 8 - column - ドフトエフスキー

「ホームページ持ってるんだって? アドレス教えてよ。なんのページやってるの?」
 学校で親しくなった人からこのページのURLを尋ねられることが多くなった。公表をなるべく避けているのは、自作の小説を読まれるのが恥ずかしいからだ。書かなければいいのにと思うかもしれないが、読んでもらいたいという欲求と同じくらい自分の内実をさらしてしまうのは照れくさいものなのだ。
 趣味は小説を書くことだと話すと感心されることが多い。そして、なんか小難しいこと書いてそうだよねー、と言われる。人生とはなにか、真実とはなにか追求していそうだと。
「ドフトエフスキーみたいな作品書きそうですよねー」
 と言われたこともある。ぼくはいつもそんなに気難しそうな顔をしているのだろうか?


February 7 - column - 妹よU

 妹が居間の棚の前をうろうろしている。
「どうした?」
 ぼくが声をかけると棚を探りながら答える。
「あのね。わたし時計どっかに置きっぱなしにしちゃったみたいなんだけど。あ、こんなところにいた」
「いた? あった、だろ?」
「ハイハイ」
「お前ね、その言葉の使い方どうにかしてくれないか?」
 妹は物を見つけたとき「いた」と言う。「あった」とは言わないのだ。「綿棒ならここにいるよ」「スープの中に髪の毛がいる〜」比喩として意味は充分理解できるが、なんにでも活用するのは勘弁してほしい。幼い印象を与えるとともに、頭が弱いと判断されることもある。少なくとも、ぼくはそう断定するだろう。さらに言葉は伝播する。そのうちぼくも「いる」と口にしかねない。
「頭の悪さをそんなに宣伝したいのか?」
 妹は生返事で居間を去ってしまう。

 ちなみにぼくが一番嫌いなのは、自分の一人称を名前で称する女性だ。妹もその癖がありなんども叱りつけてようやく矯正した。


February 6 - column - 妹よ

 妹がドアをノックして部屋に入ってくる。本棚の前をうろうろしているので声をかける。
「なんだ?」
「お兄ちゃん最近本買ってないね。学校の本は買ってるけど」
「……お前が読むのはマンガ。本じゃない。本なら買ってる」
「ハイハイ」
「マンガは本じゃないぞ!」
 妹は踵を返し、ドアを抜けて閉めようとする。
「なら書籍?」
 書籍はもっと違う。

 本なら買ってます。「ローマ人の物語」とかね。金もないのに……


February 5 - column - 話すことは聞くこと

 どうも上手く話ができないなー、と感じることがある。会話はキャッチボールに喩えられることが多い。たまたま帰る方向が一緒で、避けるほど苦手ではない。でも、気を置かずに喋れるわけではない。どうも会話が途切れる。途切れるから焦って矢継ぎ早に話題を持ち出す。いまひとつ盛り上がらず、ボールは二人の間に落ちてしまう。
 空回りしているとき、忘れがちなのは、主導権が話し手にはないということだ。会話の主導権はむしろ聞き手にある。だいたいの人は自分の話を聞いて欲しいと思っている。興味を持ってうなずけば、余程引っ込み思案な人でないかぎり口を開く。タイミングよく相槌をうち、たまに語尾をそのまま鸚鵡返しに問う。それだけで随分相手は話しやすくなる。
 もし会話が続かなくても話し手は上手くしゃべれない自分を責めるはずだ。聞き手はじっくりと耳を傾ければいい。じっくり耳を傾ける。これが実に難しいことではあるのだが。
 自分が話し下手だと思っている人。ぜひ試してみてほしい。
 当たり前だけど、そうして共通の話題が見つかっていけば、親密度も増していくというものだ。


February 4 - column - 田中真紀子は悪くない

猛烈に頭が悪いだけ。


February 3 - column - 微妙な朗報

保田圭(モーニング娘。) 2月22日に「保田圭写真集」を発売。


February 2 - column - 目が覚めた後に頬に涙が伝った跡が残るような、そんな夢の話

 人間っていうのは毎日夢を見るものだって、何かの本で読んだ記憶がある。
 でも目が覚めると同時に忘れてしまうのだと。だけど印象的な夢を見た時は結構覚えている時が多いと思う。
 例えば……悲しい夢とか。
 ここに一人の男がいる。彼が誰であるかなんてのはどうでも良い事だ。
 彼は夢を見た。その夢の中で、彼は女の子と一緒にいた。
(ああ、そうだ。彼は彼女の事が好きだったんだ。だけど彼と彼女は本当の意味で結ばれる事が出来なかった)
 夢の中で彼は女の子とずっと長い時を過ごす。
(そうだ、彼は幸せだった。一緒に歩く道も、繋ぐ手も、彼女がそこにいるという事実が彼を幸せにせずにはいられなかった)
 ずっと、こんなふうに過ごせれば良いのに。
 彼は文字通り夢想する。だけどそれは叶わぬ夢。
 やがて彼は目を覚まし、彼女がそこにはいない事に気がついてそっと涙を流す。
「……なんで俺、26にもなってエロゲのヒロインと恋人になる夢なんて見てるんだよ」
 もう一度言う。
 彼が誰であるかなんていうのは些細な事に過ぎないのだ。

(匿名希望さんからの投稿)

February 1 - column - ネクタイ

 ぼくの通っている学校は職業訓練校といって、失業者のための教育を行う学校だ。昼間はフリーターあがりから、リストラされたお父さんまで仲良く机を並べている。夜間には中高年のためのパソコン基礎講座が開講されていて、働きながらキャリアのリフレッシュが可能だ。
 その夜は課題の作成が長引き、教室に居残って作業をしていた。ほかにも数人熱心な人間が作品を作り込もうとパソコンに向かっている。突然扉が開いて、背広姿の中年男性が顔を出した。黒く太い縁のメガネ。緩めた襟元と乱れたままの頭髪。さえない風貌はいかにもリフレッシュが必要なサラリーマンといった印象だ。さらに見ればネクタイは完全に裏返っている。気づいて直す気配もない。
「あれ、今日は、隣のパソコンの授業、ないんですか?」
 キャリアのリフレッシュはともかく、まずネクタイをちゃんとしようよ。

 職業訓練校にはシニア向けのカリキュラムも用意されている。中にレストランサービス科という課程がある。この不況下でも、レストランサービス科の就職率は群を抜いて高いそうだ。ホテルや高級レストランだけではなく、一般企業に就職する人も高確率で内定をとってくるという。笑顔や立ち居振る舞い。言葉遣い、応対。サービスするという視点に立った気遣いが好印象となって伝わるようだ。

 眼に見えることがすべて。たかだかネクタイ一本でも人物の評価は決まってしまう。
 若いころは疑問に感じたが、いまは留意して活用すべきだと考えている。


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