第10章


『些細だからこそ』

「堀田……堀田ッ!」
 暗闇の中から彼を呼ぶ声が聞こえる。口元に暖かい感触がある。吹きかけられる熱い息、それは彼らがまだ生きているという証だった。
 堀田は体を動かそうとして……苦痛が体を貫くのを感じる。
「クッ……!」
 思わず声を上げ、それすらも痛みを伴う事に歯軋りをする。
「堀田? 意識が戻ったの?」
 目を開ける、堀田の目が段々と焦点を戻していき……そこに見たのは、心配そうな顔で見つめる深澄の姿だった。
 たらふく飲み込んでしまったのだろう、堀田はプールの水を吐き捨てると拙い足取りで立ち上がる。
「な……! 駄目だよ、まだ立ち上がっちゃ! 堀田はさっきまで……呼吸まで止まっていたのに……!」
「へぇ、それは危ない所だったな」
 まるで他人事のように言う堀田、深澄は『信じられない』と彼を見る。
「だけど止めても無駄だぜ? 俺は自分の生きたいように生きる、自分がすべき事を成し遂げるために。その途中で死んでしまう事があるなら……俺はそこまでの男だったっていう事さ」
 深澄を追い払うように手を振る堀田。しかしふらつく体のために、それだけで彼は倒れそうになる。
「……危ない!」
 深澄は堀田をとっさに抑える、抱きしめるように。
「……余計な事をするな、深澄。今も……そしてさっきもだ」酷薄な口調で堀田。「そうだ……何であんな危ない事をした? いや、それよりも前に何であんな場所にいた?」
 堀田の言葉に刹那、深澄は言葉を詰まらせる。だが次の瞬間、彼女は彼を睨み返す。
「私は……貴方のものなんでしょう?」
 堀田は押し黙る。そう、確かに彼はそう言った。それが本心であるかは別として。
「だから……だからよ、私は貴方に借りを返す必要があるの。私が貴方から脱却するために、私は貴方に死んでもらう訳にはいかないの!」
 感情が昂ぶっているのだろう、彼女は目を大きく見開き、それでもその目元からはとめどなく涙が零れていく。
「そうよ……何で堀田はそんなにも死に急ぐように、危険な場所へと行くの? 貴方は昔からそう、他人なんて関係ないって素振りでいつも他人に深く関わっていく。だから私は貴方の事が嫌いなのよ! いつも……そうやって傷ついている貴方の姿を見て、悲しそうにしていた秋庭の姿を貴方は知らないんでしょう? 私は……そんな貴方だから嫌いなの!」
 そして彼女はうつむく事なく、零れる涙を流しながらも堀田を見据え続けた。
「貴方が学校に向かっているって佐伯さんから教えてもらって学校まで来た。それで貴方たちが後者から落ちて行くのを見て、堀田が何を考えているのか分かって、私はためらわずに貴方を助けようとした。でも……それは決して貴方のためなんかじゃない。私は……私は過去の自分から先へ進むために、貴方に死んでもらう訳にはいかないから! 貴方のためなんかじゃない!」
「深澄、俺は死なない」
 叩きつけるような言葉の深澄に、確固とした口調で堀田は言い返した。
「え……何を言っているの? そんな事は人がどうにかしようと思って変えられるものではないでしょ?」
「それでも、俺は死なないんだ」
 自らの言葉に対する固い意思、それを彼女はその言葉の中に見出す。
「堀田……」
 何かを言い出そうとする深澄の口を、そっと手で押さえ堀田は聞く。
「もういい。それより……浅葱はどうしたんだ?」
 その言葉を聞いて、深澄の瞳が澱んだビーダマのように曇る。
「泉本さんは……」
 浅葱は視線を動かす。その視線を追って行って……堀田は見る。
 闇が落ち、視界が悪くなったプールサイド……そこで金網にもたれている浅葱の姿を。
「…………!」
 声も上げられずに堀田は駆け出す。体が一歩ごとに、頭を突き抜けていくんじゃないかと思える痛みを彼に伝える。だけど止まれなかった。
 輝きのない瞳、暗闇にそのまま溶けていってしまいそうな瞳。それが堀田をじっと見つけていた。彼はそれを見知っているはずなのに、何故か初めて見る物のように感じられて仕方なくて。
「『もしかしたら』なんて……ちょっと心配しちゃったよ」
 浅葱は言う、弱々しく無理に作った笑いを浮かべ。彼女の周りには血が溜まるように流れ出ている。あれはきっと生命だ、堀田は思う。
 浅葱の体から何か大切なものが少しづつ、だけど確実に流れ出ていってしまっている。取り返しがつかないほどに。
「心配? 浅葱がか? するだけ無駄さ、俺は殺したって死ぬようなたまじゃない」
 クスクスと笑う顔。「そうだね」そんな風に頷くな、堀田は思う。そんな風に何かが終わってしまいそうな顔で笑うな。
「わたしね……堀田にずっと言っていなかった事があるんだ」
「嫌だ」
 それが何かを聞く前に、堀田は浅葱の言葉を一蹴する。絶句する浅葱。
「だって……まだ何も言ってないよ? わたし」
「嫌だ、嫌だ、嫌だ! 何が何でも嫌だ! 今のお前からは何も聞きたくない、言わせたくない! 俺は……俺は……」
 駄々をこねるように、蜘蛛の糸を振りほどくように堀田は手を振り回す。そしてひざまずく。
「俺は……お前まで失ったら……もう、どうしていいか分からない」
 涙を一筋流しながら。
 そんな堀田を見て……浅葱は嬉しそうに、優しげな目を堀田に向けていた。
「何……笑ってるんだよ」
「堀田が……わたしの事を考えて、悲しがってくれている……それが、分かるからだよ」
 達観した口調、その言葉自体が彼女をどこかへ連れ去ってしまいそうな感じがして。
「わたしね……ずっと佳宏に隠していた事があるんだ。それを……ずっと伝えたかった、佳宏にだけは隠していたくなかった。あの……佳宏とサヨナラをした日から、ずっと」
 『覚えてる?』彼女の目がそう語りかける。忘れるはずはなかった。彼はその時の事を今でも覚えている。
 あの時……自分で言った言葉の意味が、彼にはまだ分からないでいたから。

 堀田は走っていた。浅葱が転校してしまうと知らされたからだ。彼は家を飛び出した。
 どうして……どうしてなんだ! 堀田は思う。確かに俺は浅葱と馴れ合いのような関係は築かなかった。だけど……こんな風にアッサリ別れるような関係じゃないと……。
「友達だって、思っていたのは……俺だけなのかよ」
 苦渋が滲む声。小学生だった彼に、転校とは二度と会えなくなる、そんな別離にしか感じられなかった。
 街を駆け回る、息が何度も切れ、その度に突き動かされるように足を動かす。
『何で俺は、ここまで必死になって浅葱を探しているんだろう?』
 彼は思う、気づいていなかったから。彼がそれだけの長い時間を共にした人間は佐々木以外には浅葱しかいなかった。その時間がゆっくりと心の隔たりを埋めていった。心が深く深く絡みつくように触れ合い、だけどお互いに触れてはいけない……傷ついた箇所にだけは知らん振りをしていた。
 人を傷つける事しかできなかった彼にとって……浅葱は初めてできた友達、だったのだ。
「浅葱っ!」
 そして彼は見つける、浅葱の姿を。人影のない夕陽に照らされた公園で。堀田は思い出す。そう言えばここは初めて浅葱を佐々木から紹介してもらった場所だったよな、と。
 彼女はブランコをキィ、キィと漕いでいた。堀田はその横に立つ、彼女が気づかない振りをしていたので、彼も何も言わずに荒い息をゆっくりと整えた。
 少し離れた大通りから車の音が聞こえる。凍てつく空気が彼らから確実に体温を奪っていく。浅葱は吐く息の白さが立ち上っていくのをずっと見ていた。
「転校……するんだってな」
「うん……」
 そしてまた黙る。言いたい言葉が喉元にこみ上げては、それを消す作業を堀田は繰り返す。
 何かを無用心に口に出せば、きっと彼女は泣き出してしまうだろう。それは堀田にも一目見て分かった。震える肩……それが最近背の伸びてきた堀田には、ひどく頼りなく見えて。
 それまで、堀田が浅葱を異性だと認識した時はなかった。全くなかったといえば嘘になる。少年は小学校の高学年になったあたりから女性に興味を示すようになる。だから言いなおせば『女性としてより、友達としての浅葱の方が堀田にとっては意識すべきものだった』となる。
 だけど……この時、堀田には浅葱の姿が不思議なほどに頼りなげに見えた。言いかえれば苦しくなるほどに可愛く見えた。それはきっと……保護欲とか言われる物だったのだろう。だけど、その時の堀田にはそんな事は分からなかった。女性に対してそんな事を思うのは失礼だとか、それとも彼女を支えてあげたいとか、そういう考えは思い浮かばなかった。ただ彼は混乱するだけ。
 自分の心を乱す、そんな感情に彼は翻弄されるだけだった。
「何で……何で……」
 その不安定な感情のまま、彼は思わず口に出してしまう。
 彼だけは責めるべきでない、そんな非難の言葉を。
「何で、俺にずっと言わなかったんだ!?」
 思わず口に出した声の、自分でも想像していなかった大きさに堀田は自分で驚いてしまう。そして、その驚きをどこにやっていいのか分からなくて……浅葱にぶつけてしまう。
「俺になんて言わなくても良い、ってそう思ったんだろ? なあ、そうなんだろ? そうだって言えよ!」
 叩きつける言葉。イメージしなくても分かった。彼が口に出す言葉は浅葱の胸の一番深いところまで届き、深く深く傷つけていっているのだと。
 涙は一筋、浅葱の頬に伝う。それを切っ掛けに、浅葱の瞳からは涙がとめどくなくあふれ出てくる。堀田はそれまで浅葱が泣いているところを見た事がなかった。だから彼は狼狽する。彼の知っている浅葱の姿はいつも笑っていたから。
「浅葱……ごめん」
 何で俺はこんな言葉しか出てこないんだろう。堀田は思う。傷つける言葉ばかり上手くて、上手く謝る事もできない。
「ううん……わたしこそ、ごめん」
 涙目をこすりながら浅葱、その声は微かに震えている。
「ホントはね……堀田には最初に言おうと思ってたんだ。だけど、言えなかった……わたしには、佳宏くらいしか自分を見せられる相手がいなかったから。こんな……こんな事で……」
 浅葱は言葉を詰まらせる。
「佳宏に会えなくなるなんて、嫌だった。そう言って佳宏がどんな顔をするか、考えるのが……怖かった!」
 叩きつけられる言葉。それが堀田の心を捉え、揺さぶり、離さない。堀田が思うより、ずっと浅葱は彼の事を必要としていた。それがシンプルな言葉で、最も届くように彼の胸に届く。
 傷つけ、人から遠ざかる事しかできなかった彼に……その言葉は水滴のようにじわりと染み込む。
「浅葱……俺は……」
 おずおずと堀田は手を伸ばす、肩に手が触れる、浅葱が顔を上げる。……彼は息を飲んだ。
 浅葱の視線はただ一直線に堀田を捉えて、そこから動こうとはしない。そんな風に人から見つめられる時がくるなんて、彼は想像もしていなかった。
鼓動が跳ねるように激しくなる、苦しさが喉元までこみ上げる、彼は自問する。
 俺は……何をやっているんだ?
「佳宏、わたしね……」
「もう、いい」
 浅葱の言葉を途中で遮り、堀田は微笑んでみせる。
「もういいんだ、浅葱。俺は……もう怒ってみせたりしないから」
 それはぎこちない……だけど彼にとっては精一杯の微笑み。浅葱の顔がくしゃりと歪み、止まりかけていた涙がまた滂沱のように流れ出す。
「佳宏……わたし、行きたくないよ……。ここにいたいよ。嫌だよ! 佳宏と離れたくないよ!」
 遠くもなく近くもない場所で、浅葱が寂しさに肩を震わせている。堀田は鼻の奥がつん、となるのを感じる。彼は一緒に泣き出してしまいそうになり、ぐっとこらえる。そんな風にして得られる物は、偽りの共感だけだと彼は思っていたから。
 堀田はイメージしようとする、傷つけるためではなく……彼女の寂しさを埋められるような、そんな優しいイメージを。
 だけど思い浮かばない。言葉が砕け、砂のように滑り落ちていく。かき集めてもかき集めても彼女に届く前に霧消していく。思い浮かぶのはそんな言葉ばかり。
 だけど何か言わなくちゃいけないはずだった。堀田は手探りで言葉を紡ぎ出す。
 彼女と自分を繋ぎとめる言葉のイメージを。
「浅葱……お前まだ、俺に隠している事があるだろ?」
 浅葱の目が見開かれる。彼女は驚きで息をすることも忘れているかのようで。
「いや……俺は責めたいんじゃない。別に隠している事を無理に聞き出したいとも思わない。ただ……もし浅葱がそれを隠している、その事を借りだと思っているのなら……返しに来い」
 堀田は浅葱の肩をつかむ、強く。
「返しに来るんだ、いつか俺が……どうしようもない暗闇の中で、痛切に誰かの助けを必要している時に。それに気づく事ができるのは……お前しかいないはずなんだ」
 堀田は気づく、自分の言葉が絡み付く様に浅葱にまとわりつき、そして二人を結び付けているのに。浅葱が嬉しそうに自分を見てくれているのに。
「だから……お前は忘れるな、お前だけは俺の事を忘れるな。俺は浅葱の事を忘れないから……だから、約束してくれ。借りを返すために……いつか俺に会いに来てくれると」
 それは再会の約束。浅葱は堀田をじっと見つめ……。
 ゆっくりと、頷いた。

 浅葱があの時と同じように笑っている。いや嘘だ。浅葱も俺も、もう昔のようには笑えたりしない。俺たちは大人に近づいてしまった。それは死に近づいたという事であり、純粋さから遠く離れたという事だ。
 でも……だからこそできる事も、わかる事もある。
「浅葱……俺はお前が何を隠していても構わない」
 堀田は言いきってみせる、それは本心だったから。
 『本当の自分』という言い方をする人間を、今までに堀田は何人も見てきた。そして、その誰もがくだらない人間だった。人間にとって『本当の自分』なんてものは存在しない。
 人として生きるのならば、言えない事なんてのは誰にでもできる。そうして隠さなくてはいけない部分が、自分が思っている『本当の自分』と他人が見ている自分に隔たりを与える。でも、それは当然の事。人は全てをさらけ出して生きる事はできない。
「お前はずっと傍にいてくれた……帰ってもきてくれた。お前が何を隠していようと……お前は俺の友達だ。多分、俺にとって……一番大切な」
「ううん……それじゃ駄目なんだよ、許してくれないんだ」
「誰が?」
「わたしが」
 おかしそうに浅葱は笑う。
「他の誰じゃなく……わたしが他でもない、わたし自身を……許せないの」
「……難儀だな」
「そうだね」
 生温い風が、水に濡れた彼らの衣服からそっと熱を奪っていく。震えるのはだからきっと、寒さのせいだ。堀田は思う。
「あの時……佳宏に言ってもらえた事が、ずっと頭から離れなかった。確かにわたしは……佳宏に隠している事があったし、それをずっと苦痛に感じていたから。誰にも言えなくて……この、人の感情を自分の事のように感じてしまえる能力を」
 浅葱は黙る事が辛い事であるかのように言葉を続ける。
「そう、わたしはずっと……物心がついた時からずっと、近くにいる人の感情を知る事ができた。その人がどんな感情を抱いているのか感じる事ができた。近くにいればいるほど、それは顕著に感じる事ができた……人から、それはそれは嫌がられるくらいに。わたしは母が好きで、いつも母の後を追うようにくっついていた、優しい母が好きだった。日溜りのような温もりが心地よかった。でも……それはTVの電源が不意に抜け落ちるように、たやすく終わりを告げたの」
 消え入りそうな浅葱の声、堀田は耳を澄ます、嫌な想像を必死に振り払いながら。
「小学校に入る少し前の時だった。保育園から帰ると、家の前に知らないおばさんがいたの。後から分かったんだけど、それは叔母だった。母は懐かしそうに、親しげに叔母に話しかけた。叔母も久しぶりの再会を喜ぶように笑いかけた。二人とも笑顔だった。でも……わたしには分かってしまったの」
 震える指。
「二人がいかに深い所で憎しみあい……互いを嫌悪しているのかが」
 苦しげな吐息。
「わたしは泣き出してしまった。母が、いつも優しかった母が、胸の中に蠢く闇を飼っている事に耐えられなかった……その時は。母の憎しみが、叔母の憎しみが、まるで自分の憎しみのように感じられて、気が狂いそうになった。そして、それから……母と距離を置くようになったの。母が……突然に泣き出したわたしを訝しく思っているのに気づいたのと……近くに寄らなければ、誰も周りにいなければ、何も感じずにすむと思ったから。だからわたしはずっと……人と距離を置く事を選んでいたの、小学生の頃……佳宏に出会うまでは」
「俺と……?」
 浅葱はコクリと頷く。
「うん……佳宏は他の人とは違ったから。佳宏の心はいつも、押し潰されそうな自己嫌悪に満たされていたから。わたしも……そうだった。だから……佳宏は嫌がるだろうけど……わたしはそうした佳宏の傍にいるのが居心地が良くて……自分だけじゃないんだって……思えて……。だけど、自分のそうした力を佳宏に隠している事がずっと……ずっと辛くて……」
「ああ……だからか」
 堀田は理解する。あの時、自分が言った言葉の本当の意味を。
「うん……でも。きっと、それでも佳宏が知らない事が一つ、ある……。わたしは……それを謝らなくちゃいけない。佳宏に……何一つ後ろめたい事がないまま、今度は本当に……友達になるために」
 浅葱は息を飲む。まるで最後の力をなんとか振り絞って、彼に伝えようとしているかのように。
「わたしね……本当は、クラスの女子が言っていた通り……佐々木と仲良くなりたかったの。佐々木の心はいつも凪みたいに落ち着いていて……傍にいて苦しくなるって事がなかったから。そう、だから……だから……わたしは、利用したの。佳宏を……友達だなんて思っていなかった、ただ……佐々木に近づくための駒みたいに、最初は思っていたの……」
「それが、辛かったのか……そんなに?」
「うん……些細な事なのかもしれない。だけど……わたしはずっと、そうやってただ利用するために佳宏に近づいた事を知られるのが嫌だった……そんな利己的な自分が嫌だった。だから……いつか言おうと思ってた。ずっと言えなかったけど……最後に言えて、良かった……」
 そして浅葱は眠るように、ゆっくりと目を閉じた。

「浅葱……待て、俺はまだ……ッ!」
 佳宏は浅葱を抱きしめる。そこに生命は感じられない。
「そんな……そんな些細な事をずっと苦しんでいなくて……良かったのに!」
 言いながら堀田はまた、理解していてもいた。隠していた事。それが些細だからこそ、浅葱は苦しんでいたのだと。
 彼女は堀田が思うよりも強く、もっと強く、彼にキチンと向かい合おうとしていたのだと。だからこそ、些細な事が許せなかったのだと。
「浅葱……目を開けてくれよ。今度はちゃんと伝えるから。些細な行き違いを時間で埋められるくらい、傍にいるから……だから!」
 堀田の思考は錯綜する。
『目を開けてくれ浅葱俺は伝えなくちゃいけない自分がいかに不誠実だったか自分がいかにお前が傍にいてくれて助かったかお前をかけがえのない友達だと思っていたか浅葱こんなに自分以外の人間の事で弱くなってしまう自分がいる事を浅葱浅葱隠している事があるのは俺の方なのにお前が必要なんだ浅葱浅葱浅葱浅葱』
 錯綜した思考は一つのイメージを生む。
 彼がずっと見てきた彼女のイメージ。
 優しく微笑む、浅葱のイメージ。
 堀田の口から甲高い音が響く、曽根が口にしたのと同じような。だけど、その音は違った。切実な優しさに満ちていた。それは彼の持つ浅葱のイメージ。それが浅葱自身を優しく包み込み……異変が、起こる。
 彼女の体から傷が消えていく。顔に血色が戻っていく。まるで引いた波が今度は寄せるように。
 堀田は歌い続ける。そう、彼は歌っていた。絶望の中で、泣きながら、それでも強く……光を込めて。
 そして彼の口から言葉が途切れた時……そこには規則正しい呼吸を繰り返す、浅葱の姿があった。
「自分に……人を傷つける事以外の力があるなんて、思わなかった……」
 堀田は呟く。
「ありがとな……浅葱。お前にはいつも……教えられてばっかりだ」
 立ち上がると強く拳を握る。堀田の瞳にはもう、迷いはなかった。
「待ってろよ、曽根……。俺は覚悟を決めた。もしお前の覚悟が半端なものだったら……」
 彼の口調に冷酷なものが混じる。
「死ぬのは、お前の方だ」
 振り返る堀田、彼は見る。そこに深澄が立って、自分を見据えているのを。
「深澄……お前はここで浅葱を見ていてくれ。そうしてくれると助かる。俺は……決着をつけに行く」
「決着……そんな顔をして?」
 深澄は泣き出しそうな顔で堀田を見る。
「ねぇ……堀田、貴方でもそんな顔をする時があるんだね……。自分がどんな顔をしているか分かる? 貴方……今にも目の前の人間を殺しそうな顔をしているよ……」
「気のせいだろ。俺は……誰ももう、殺すつもりはない」
 その後は、ただ黙って深澄の横を通り抜ける。
 そして校舎の前まで彼が移動して見たものは……柱に寄りかかって笑ってみせる早枝の姿だった。
「今度は……間に合ったみたいですね」

「一つ、分からない事があります」
 早枝を無視して階段を足早に登る堀田の背中に、彼女は問いかけた。
「曽根君は……どうして、そんなにも堀田君の事を憎んでいるんですか?」
 堀田は足を止める。合わせるように早枝も足を止め……そして彼は言った。
「簡単な事さ」
 一つ息をついて、彼は言い切ってみせる。
「俺はかつて最愛の人を殺した……その時、彼女の恋人だったのが……曽根だからだ」
 早枝は言葉に詰まる。とっさに何を言えば良いのか分からなくなって。
「佐伯……お前はここに残れ」
 言って堀田はまた階段を登り出す。
「これからはもう、俺とあいつだけの問題だ」

「お帰り」
屋上に戻るとそこには、星など見えない暗い夜空を眺める曽根の姿があった。彼は振り返りもせずに堀田に言った。
「待ちくたびれたよ」
「ああ、すまなかったな」
 堀田は落ち付いた笑顔で言う。その感情を推し量りかねる態度が、彼の覚悟を如実に物語っていた。
「それじゃあ早速、再開といこうか。何よりも傷つけあう事を……俺たちは望んでいるのだから」


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