第9章


んだ音を立てろ』

 日曜の……そして午後7時の校舎は薄暗く不気味で、当然のように人の姿など見当たらなかった。
「せっ! ……と」
 掛け声をあげ、校門の柵を乗り越える堀田。その背中に不意に声が投げかけられる。
「……どこに行くのかな?」
 反射的に堀田は振り返ると身構える。
「ふーん、随分とピリピリしてるんだね」
 そこに立っていたのは……浅葱だった。
「何で……浅葱がこんな所にいるんだ?」
 至極、当然な質問。「うーん……」浅葱はだが、その質問に答えるのを躊躇する。
「昨日……ずっと学校で堀田が難しそうな顔をしていたから、気になって……ってのじゃ駄目かなぁ?」
「ああ駄目だな」
 浅葱は肩をすくめる。「まいったな……」緊張感を感じさせない口調で笑ってみせる。
「あのね……わかるんだ」
 6月の日暮れ。風は少しだけ冷たく、忘れていた何かを思い出させるような匂いで満ちている。
「あの時……転校する前の日。わたしに手を差し伸べて……堀田が言ってくれた言葉。それを聞いた時から……わたしは佳宏の事がわかるようになったんだよ」
「ふん……」堀田は背を向け歩き出す。「お前に……俺の何が分かるっていうんだ」
 その後を追う浅葱。
「『ついてくるな』とは……言わないの?」
「言っても無駄なんだろ?」
「うん」
 簡潔な返答に堀田は苦笑を漏らしてみせる。
「じゃあ……勝手にしな」
 堀田は校舎の中にためらわずに足を踏み入れた。
「どこに……向かってるの?」
 階段を上りながら浅葱は尋ねる。
 純粋な恐怖を誘うように、校舎の中は何一つ物音のしない静寂の世界だった。その静寂をかき分けるように、二人は一歩また一歩と階段を上る。
「屋上に、さ」
 堀田は楽しそうだった。まるで屋上に長い間、会っていなかった恋人が待っているみたいに。
「そこで……俺を待っている奴がいるんだ。嬉しいよ……俺はずっと奴が覚悟を決めてくれるのを待っていた。だから……奴から呼び出しがあって本当に嬉しい、今にもイッちまいそうなくらいさ」
 言いながら堀田は指を鳴らす、楽しげに。だけど浅葱は気づいてしまう。
 その指が、微かに震えているのに。
「佳宏、怖いなら……引き返した方がいいんじゃないかな?」
「怖い? まさか……そんな風に思う事は俺には許されない。俺は行かなくちゃいけない。俺は……俺は……」
 堀田は歯をギリッと噛み締める。
「俺だけは奴に背を向ける訳にはいかないんだ」
「佳宏……しなくてはいけない事も、してはいけない事も、この世界には本当はないんだよ?」
 堀田は浅葱の方を振り返り……そして唇に浮かんでいた冷笑を消す。
 浅葱の表情が、あまりにも真剣だったから。
「この世界にあるのは物理的に『できる事』と『できない事』だけ。ただそれだけしか、本当はないんだよ。佳宏は……それを間違えないでいて欲しい」
「じゃあ……」堀田は息を飲む。
「俺は……一体どうして其処へ向かおうとしているんだろう? 歪みを糺すため? 罪を償うため? それとも……」
 それは自問。彼は目を閉じ、自分の中へとより深く入っていく……そして。
「そうか……そんな簡単な事だったのか」
 目を開いた時、そこにためらいは残されていなかった。
「俺にはしたい事があるんだ、だから行かなくちゃいけないんじゃなく……行きたいんだ。成し遂げたいんだ、今の俺にならきっとできるはずの……最善の結末へ向けて」
 堀田にしては珍しく、感情に突き動かされたような話し方。それが彼を年相応に見せている。
「……仕方ないな」
 言って浅葱は堀田の肩を叩く。
「ん?」不思議そうな表情の堀田に、浅葱は笑いかけてみせる。
「行こう。佳宏が行きたいなら……私は止めないから。そして……佳宏が悲しみに押し流されそうになったら、わたしがちゃんと……それを伝えてあげるから」

 日が暮れた後の屋上は暗闇に満ち、街の明りだけが浮かび上がるように輝いていた。浅葱は足を怖々と踏み出す。漆黒に塗りつぶされた足元は、ただそれだけで不安をかきたてる。
 その浅葱の横を、堀田はすっと通り過ぎてみせる。まるで恐れるどんな理由もないかのように。
「さぁ……来たぜ。もうすでに来ているんだろう?」
 虚空に向かって声をかける堀田。だが反応は感じられない。
「ここに……誰が来ているの?」
「お前も知っている人間さ……そして俺と同じ楔に刻まれた、な。奴が言うには……俺はここで死ぬんだそうだよ」
「死ぬ……って、それで……どうして佳宏はわざわざ来たの?」
「そんな事を言われてまで、か? 簡単さ……俺も殺したいほど奴を憎んでいるからな。相思相愛……ってな位さ」
 軽口を叩く堀田、その腕に浅葱が手を伸ばした時だった。どこから甲高い音が聞こえてきた……口笛のような。そして。
『シャッ!』
 音を立てて何かが飛んできた。二人は跳ねるようにそれをかわしてみせる。「え……」浅葱はそれが通り過ぎる時、その姿を見た。
 鈍く輝くナイフの姿を。
「……チッ!」
 堀田が舌打ちをする。その頬からは血が流れている。どうやら完全にはかわしきれなかったようだ。
「不意打ちとは……俺好みだね」
「そう言ってもらえると思ったよ」
 カツン、と音がして暗闇から誰かが現れようとしている。
「……初めから気づいていたのか?」
「ああ……気づいてた。俺をそこまで深く憎む奴は……お前しかいないからな」
 そして彼は姿を見せた。
「待たせて悪かったな……なあ、曽根」

「曽根君……って、どうして……。い……今ナイフを投げつけてきたのも、ひょっとして曽根君なの……?」
「ナイフ? そんな物、投げつけられたか?」
 愉快げに堀田は言う。
「え……だって今……」
 振り返る浅葱、その瞳が急激に開かれる。
「どうして……」
 そこには何もなかった。ナイフの飛んできた印も、ナイフ自体も。「そう言えば……」浅葱は思う。ナイフが地面に叩きつけられる音すらも彼女は聞いていないという事に。
「堀田は……どうやら分かっているみたいだな?」
「ああ、ちゃんと分かっている。お前は……人に言葉を見せる事ができるんだな?」
 黙って頷いてみせる曽根。
「どういう事なの?」
 浅葱が不安に気圧されそうな自分をこらえるかのように、堀田の袖をつまみながら尋ねる。
「曽根はな、言葉を形にして人に見せる事ができるのさ……幻覚のように。だけど幻覚と違うのは、その言葉を見た人間にはそれが本物と同じように感じられる事だ」
 言いながら証拠を示すように頬を指で撫ぜてみせる。そこには先ほどのナイフでつけられた傷があった。
「だから、その言葉の形に人間はたやすく傷つけられる……証拠は何一つ残らない。曽根の力はそんな……」堀田はそこで言葉を止める。「……なんてな、全部ただの冗談だよ。そう、嘘だ。俺の言う事に何一つ真実なんてない、俺の言葉を信じるな、俺が口にするのはただの……戯言さ」
「わたし……そんなに『信じられない』って顔してた?」
 困ったような……泣きそうな顔で浅葱が問い返す。
「してた、んだろうね……でも、それは佳宏の想像からはきっとずれていると思うよ」そして浅葱は寂しそうに笑ってみせた。「だってわたしは……佳宏の言葉を何一つ疑う事なく信じたから。だから驚いたの。わたしには佳宏が何一つ嘘なんてついていないのが分かったから……」
 言いながら、浅葱はそっと涙を一粒こぼす。
「わた、わたしは多分……佳宏が思っているようなまともな女の子じゃないから。分かっちゃうんだよ……ごめ……ごめんね……」
 浅葱の瞳からは二粒、三粒と涙が零れていく。だけど堀田には、彼女が何で泣いているのか分からなかった。
「浅葱……?」
 堀田が手を伸ばそうとしたその時だった。
「……何やってるんだ?」
 曽根の言葉の後に、甲高い音が響く。まずい、そう思って堀田が手を引く。しかし遅かった。
「……死ぬぜ? そんな風に警戒をしていないようじゃ」
 ジャキッ! 音を立てて床から槍が飛び出してきた。彼らにはそう見えてしまった。
 槍に弾き飛ばされ、堀田の右手が跳ね上がる。ザックリと切れた中指から血飛沫が上がる。
「佳宏!」
 叫んで駆け寄ろうとする浅葱。しかし槍―現実にはないはずの―が前を塞ぎ、通る事ができない。
「これが……幻なの?」
 そう呟き終わった瞬間、浅葱の目の前から槍の姿が消える。
「え……きゃっ!」
 倒れこみながら彼女は見る。今まで槍があったその場所。そこに何一つ物体があった痕跡など残っていないのを。
「そこで止まるな! ……来るぞっ!」
 堀田の言葉に、何も考える事なく浅葱は床を蹴った。
「……くっ!」
 浅葱がいた場所にナイフが次々に刺さっていく。紙一重の距離で。
 だが……その全てをかわし切ることはできなかった。
「きゃあぁぁっ!」
 浅葱の背にナイフが一本生えていた。何もないはずのそこは、だけど深く傷ついて血を流す。
「女だからって見逃してもらえると思ったかい? ……甘いね、それでより深く堀田が傷つくというのなら……僕は君から傷つける事を選ぶよ」
 言いながら浅葱に一歩、また一歩と近づく曽根。その瞳に人間らしい感情は浮かんでいなかった。彼は堀田よりも純粋だった。
 純粋に人を傷つける事だけを考えている。
「……曽根ッ!」
 堀田が飛びかかる。「無駄だよ」甲高い音が響く、それは歌のような言葉たち。
 それが堀田に幻を見せる。
 足首に固く巻きつく足枷の幻を。
「うぁっ!」
 派手に倒れこむ堀田。そんな彼の姿を曽根は冷ややかに見下す。
「……愚かだな、それで僕をどうにかできるつもりでいたのかい?」
そう言って曽根は口笛を吹く、嘲るように。そして次の瞬間、堀田の手には新たに手枷がはめられていた。
「不様な格好だ、堀田……君にお似合いだよ」
 曽根は堀田の頭に足を乗せると、そのままためらわずに力を入れて踏み抜いた。
「ぐ……がぁっ!」
 苦悶の叫びを上げる堀田。彼の耳元でミシミシと音がする。
 自分の頭蓋骨が割れてしまおうとする、そんな気が狂いそうな音が。
「軋んだ音を立てろ、堀田。その音がこんなにも僕を……昂ぶらせてくれる」
 愉悦に満ちた表情、それを曽根は湛えていた。足を踏みしめるたびに、その下から聞こえてくる苦痛の叫び。それが足りない、まだ足りないと彼は力を込め続ける。
 だけど、やがて聞こえていたのは彼が望まない、侮辱するような笑い声。
「は……あはははっ!」
堀田は笑っていた。
「何がおかしい!」
「おかしいさ……こんな不完全な力で調子に乗っているお前を見ていればな」
「不完全……だって?」
「ああ、そうだ……一つは浅葱が教えてくれた。お前の力は無い物を有ると人に感じさせる力。だけど、そんな誤った認識はいつまでも続かない……」
 その時、堀田を縛りつけている枷が堀田の意識から消えた。
「こんな風にな!」
 堀田の体が跳ね上がり、曽根を襲う。頭を狙った蹴り、でもその蹴りはすんでの所で曽根の腕に防がれる。
「……危ないね、そんな危ない事をする奴は……」言って曽根は口笛を吹いてみせる。「ちゃんと……閉じこめておかなくちゃね」
 カシャン! 堀田の周りを囲むように檻が出現する。四方を囲まれ脱出できるような隙間はどこにも見当たらなかった。
「さぁ……どうする? そこからお前に何ができる?」
 自らの優位を確信するように曽根は歩み寄る。堀田は腰に手を当てながら呟いてみせる。
「何もできないと思っているなら……俺はお前を見下すぜ?」
「へぇ……じゃあ、そこから何かしてみろよ。いくら堀田が『これは現実ではない』と思い込もうとしたって、そんな事じゃそこから出る事は適わないぜ?」
「『俺は』そうだろうな」 言って堀田はスッと腰から手を離すと……。「だけど……意思のない無機物はどうかな?」
 堀田が振りかざす手にはベルト。それが檻を通り抜け曽根へと向かう。
「ぐっ!」
 ベルトのバックルが曽根のこめかみを直撃する。血飛沫が舞う。その瞬間、彼の意識から檻が消える。
「浅葱!」
 叫んで堀田は駆け寄る。そこには血を流し苦しむ彼女の姿があった。
「おい……大丈夫か!」
 堀田の声を聞き、なんとか笑みを浮かべて顔を上げる浅葱。
 その笑みは、すぐに凍りついた。
「佳宏っ!」
 切羽詰ったその口調に振り返ると、堀田の表情も同じように凍りつく。
 二人はそこに……何もないはずの昏い空に、埋め尽すほどのナイフの姿を見たから。
「やるじゃないか、堀田……期待以上だよ。今度は僕が期待に応える番だね」
「義理堅いな、俺は別に構わないんだぜ? お前からのプレゼントなんて気味が悪くて受け取れないぜ」
「そう言うなよ……」言って不敵にダラリと力を抜いてみせる曽根。「気に入ってもらえると思っているんだ。ずっと君に届けたかったのだからね」
 耳鳴りがひどくなる。堀田は足に力をこめる。そうしないと立っている事すらできそうになかった。
「さあ行こう……憎しみ合う事のできる素晴らしい場所へ。傷つき傷つけあう……そんな人として当たり前の行為をするために」
 浅葱が悲鳴を上げる、堀田は歯軋りをする。夜空からナイフが降り注ぐ。
「……一旦引くぞ、浅葱!」
 言いながら堀田は浅葱の腕をつかみ、そのまま走り出す。
「どこに行くつもりだい?」
 クスクスと曽根、その口調は無邪気にすら感じられる。
「どこに逃げようと……無駄だよ、僕は絶対に君の事を許さないから……」
 逃げる二人をナイフがかすめていく。絶え間ない苦痛、流れる血が滑るように滴っていく。
「い……嫌ぁっ!」
 浅葱が錯乱の声を上げる。「待つんだ!」堀田の声も届くことはなく、彼女は必死にナイフから逃げ惑う。
「くっ……!」
 浅葱をかばうように走る堀田。その足もやがて止まる。「あ……」浅葱の目が驚愕に見開かれる。
「誘いこまれたんだよ、俺たちは」
 浅葱がいるそこは屋上をし切っている柵の前。そして逃げ道を塞ぐように曽根がその前に立ち、背後には幾百ものナイフが切先を二人に向けていた。
「つまらないね……もう少し抵抗してくれよ」
 獲物を弄ぶような口調。
「悪いな……何なら俺の方は1回仕切り直しても構わないんだぜ?」
「遠慮しておくよ。そこまで見くびる事はできないな」
 切迫した空気がチリチリと辺りに満ちる。
「佳宏……」
 浅葱が不安げに堀田の袖を握る。
「大丈夫だ……」
 言って堀田は浅葱の手を握る。それが気休めだという事は浅葱にもハッキリと感じられる。
 二人は確実に追い詰められていた。
「さぁ……傷つけよ、堀田。お前は傷つかなくちゃいけない……その理由は自分でも分かっているんだろう?」
 ナイフが幾つも幾つも降り注ぎ、そして少しずつ堀田を傷つけていく。だが。
「……何の話だ?」
 ふてぶてしく答えてみせる堀田。曽根の顔色が紅く変色する。
「曽根、お前は何も分かっていなかったんだな。こんな事で……俺を傷つけられると思っているのか?」
 ギリ、と曽根が歯を鳴らす音が聞こえた気がした。浅葱は見る。曽根の瞳の奥に感じられる悪意、それが更に大きく変質しようとしているのを。
「ああ、思っているさ……こんな風にすれば君が傷つくってね」
 シュン! 何か通り過ぎた音が聞こえた気がして、堀田は振り返る。
 そこには、苦痛に満ちた表情の浅葱がいた。……その胸にはナイフが刺さっていた。
「浅葱っ!」
 手を伸ばす堀田、だけど届かない。浅葱はふらりと体を揺らすと……そのまま倒れる。
 柵の向こう側へと。
 堀田は駆け出す、柵から体を乗り出し浅葱を抱きしめる。だがまた屋上に戻るには勢いがつき過ぎていて。
「馬鹿が!」
 曽根の嘲笑の声。だがしかし、堀田の目は……諦めていなかった。
「馬鹿はお前さ」
 言って堀田は……柵を蹴る。
 そして勢いをつけて屋上から飛び降りた。
「く……」
 視界に映るのはプール。澱んだ水が湛えられているのが見える。校舎の隣にあるそこへ、堀田は着水する事を望んだのだった。
「勢いが……足りない!」
 だけど二人の体はプールの上に行く前に失速し、そのまま落下を始める。堀田は目を閉じる。
「何か……何か手はないのか!」
 その時、聞き覚えのある少女の声が彼の耳に届いた。
「堀田!」
 彼は目を開ける、そして見る。
 同じように柵を蹴り、堀田に向かって飛びこんでくる深澄の姿を。
「……えいッ!」
 深澄がぶつかった衝撃で三人の体がもつれ、そして落ちていく。
 鏡面のように月を照らす水面の上へと。
「うわあぁぁぁっっ!」
 彼は着水する、派手な音が耳元でする、水が彼らを包みこむ。
 そして彼らはプールの底に激しく叩きつけられ……。
 堀田佳宏の意識は深い闇の中に飲まれていった。


to BSindex