第6章


 『・2・3。いつも最初は

 閉塞。私たちはいつも何かに閉じ込められている。早枝は授業を受けながら、そんな事を考えた。世界に、国に、学校に、家庭に、そして自分自身という檻の中から私たちは抜け出る事ができないでいる。
憂鬱な授業、モノクロームな景色、理解するには程度の低過ぎるクラスメイト達。だけどきっとそれは誰もが同じ事だ。自分が他人を見下しているように、他人も自分の事を見下しているのだろう。この世の中はそうやって微妙なバランスを保っている。
 そんな均衡など、誰一人として求めていないのだとしても。
 チャイムの音がする。皆が席を立つ。そうやって一日は確実に流れ去っていく。輝かしい未来のために、或いは確実に近づいた死のために。
「いよう、佐伯」
 目の前に人が立つ。それは彼女にとって少し意外な人物だった。
「なんですか? 曽根君」
「……随分と冷静なんだな」
 言いながら曽根は一枚のプリントを早枝の机の上に投げ出してみせる。それを見て彼女は微笑んで見せた。
「ええ、冷静ですよ? ……誰がやったのかは分かっていますし」
 そこには早枝の事が書かれていた。『好意的』と呼ばれる物から最も遠い描かれ方で。そこに描かれた文章は早枝に対する中傷であり、そして人格すらも否定するような劣悪なものだった。それは『彼ら』の存在をも忌避させるような文章であったのだが、でもそれで恐らく構わなかったのだろう。
 そこまで『彼ら』に憎まれている早枝の存在に、わざわざ近づこうとする人間はいなかったから。彼女は孤立を深め、だが気丈にそこに立ち続けて見せていた。
「でも……」早枝は少し首を傾げてみせる。「どうして堀田は……あんなふうに自分がやった事を明らかにしたんですかね?」
 何も書かなければ、その怪文書は志賀たちが行った事だと誰もに見なされただろう。志賀たちが早枝に対して敵意を向けていると、そうクラスメイトは認識していたから。
 だけど……その怪文書の最後には、こう記されていた。
『新しい情報を発見した人は、こちらまでお教え下さい。yosihiro-h@24i.net』
 そして携帯の番号と、携帯の方のメールアドレスも一緒に記されていた。
「一体どんな利益があるんでしょう……そうやって名前を出して私を傷付けることに」
「分からないか? そうか……そうだろうな」
 何もかもが分かっている口調で曽根はそう答えてみせた。
「分かる必要はないさ、佐伯はただ堀田をどうやって傷付けるか……それだけを考えていれば良い。どうして堀田がそんな事をしたのかは、君には関係ない事だろうから」
「曽根君は……何を知っているの?」
「僕は何も知らない。僕はただ『こうなんだろうな』って想像をしているだけさ。それが愉快でも不愉快でも、ね」
 薄笑いを浮かべながら曽根は言う。
「曽根君って……堀田に似ているんだね、今まで気づかなかったけど」
 ふとした呟き。早枝は想像していなかった。
 その一言が、どれだけ曽根の逆鱗に触れるかを。
「今……何て言った?」
 それは深い暗闇から伸びてくる手が、無造作に背筋を撫で上げるような、そんな声だった。
 咄嗟に足を引く早枝。だが、それは間に合わなかった。
「くっ……!」
 曽根の手が早枝の首に襲いかかり、そして締め上げる。気丈に微笑み返す早枝、だけどその瞳は睨みつけるように曽根から離れなかった。
「……随分と感情的な人だったんですね、曽根君は」
「黙れ」平坦な声で曽根は返す。「それ以上、何か言ったら容赦しない」
 ギリギリと曽根の手に力がこもる。細身の体のどこにこんな力が、と思わせるだけの力で。
「僕はね、嫌いなんだよ。誰かに似ていると言われるのがね。特にそれが堀田となんて……最悪だ。これ以上はとても望めそうにないくらい最悪だよ」
 早枝は曽根の手を外そうと彼の手首を掴んでみせる。だけどびくともしない。力では敵わない。そう理解した早枝は、躊躇う事なく次の行動に移る。
「……ッ!」
 驚きを隠そうともせずに曽根は早枝から手を離した。彼女は曽根の小指を握ると、そのままへし折ろうとしてみせたのだった。
「危ないな……でも、そのくらいじゃないと奴の相手をする事はできないか……」
 楽しげに聞こえる口調で曽根は言い、そのまま早枝の元を立ち去ろうとする。早枝はその背に言葉を投げつける。
「曽根君は……何を望んでいるの?」
「堀田が誰からも傷つけられる世界を、さ。だから頑張ってくれ」
 振り返りもせずに曽根は言い放った。
「奴が何もできず、ただ打ちのめされる……そんな素晴らしい世界に、僕たちが変えていけるように」

 志賀隆徳が堀田の姿を見かけたのはちょうど、太陽が頭上に瞬き光を惜しげもなく降り注いでいる……そんな昼休みの事だった。
 堀田はただ遠くを見つめながら、指先で窓の桟を叩いていた。
 定期的な音を立てて。
「……何をしているんだ?」
「ん?」
 陽気そうに堀田は振り返る。
「ああ、数を数えていたんだ」
「数を?」
 言っている意味が分からなかった。志賀は歯を軋ませる。掴みどころのない堀田の態度からは、彼が何を考えているのか量り知る事はできそうになかったから。
「そうさ、1・2・3ってね。いつも最初は1さ。そうやって何度も数えなおすのさ。一番初めは1からじゃなくちゃいけないんだって」
 煙に巻くような態度だった。志賀は眉をひそめながら問う。
「……堀田、何を考えているんだ?」
「何の事だ?」
 言いながら堀田は振り返る。窓枠に腕を乗せ、壁にもたれかかりながら。
「佐伯の事だよ」
 志賀は言いながら窓際に足を寄せた。
「何故、佐伯をあんなふうに裏切ったんだ? お前、佐伯とは仲が良さそうに見えたぞ。それがどうして俺たちと同じように、佐伯を傷付ける側に回ってきたんだ?」
 それを志賀はずっと気にかけていた。堀田はつい先日、佐伯の事について志賀に対抗してみせた。そうまでしてみせた堀田が、何の理由もなく佐伯を裏切る側に回るとは、彼にはどうしても納得できなくて。
「ああ、そんなのは簡単さ。『ただ、そうしたかったから』それだけだよ。脊髄反射と同じさ。俺は自分がしたかったら、どんな事でも躊躇わずに実行するさ。それが人を傷付ける事でも……人を裏切る事でも、ね」
 堀田は舌で唇を舐めてみせる。そこから覗いた舌の紅さがまるで血の紅さのようで、志賀はゾクッとする。
「だから志賀、俺の事なんて信じるな。俺はお前の味方なんかじゃない。ただお互いに佐伯の敵だって、ただそれだけさ。だから志賀は滋賀の事だけを考えていれば良い」
 そして堀田は背を向ける。
「そうすれば……いずれ解き放たれるだろうさ。どうしても受け入れる事ができない、卑屈だった自分を……その歪みを」
「……堀田!?」
 叫ぶように声を上げる志賀。だが堀田はその声が聞こえなかったかのように教室の中へと戻っていってしまった。

 その日の夕方……堀田は夕食を一人で取ると、部屋に戻り電話をかけた。
 受話器の向こうから、意外そうな、そして嫌悪のこもった声が聞こえる。
「ああ、俺だ。堀田佳宏だ。うん? 用事がなければ電話なんてかけないさ、わざわざお前に。そうだろう? ああ、用件と言うのは頼み事だ。そんなに嫌そうな声を出さなくてもいいだろう。ずっとお前が知りたかった『真相』が、それによって分かるはずなのだから。……今は言えない。ただ、それを持って来てもらえれば、俺が嘘を言っているかどうかはハッキリするだろうさ。そう、とある物を持ってきて欲しいのさ。それは……」
 そして堀田は品物の名を口にした。電話の向こうで息を飲む声が聞こえる。
「そう、それが必要なんだ……。明日の放課後、屋上で待っている」
 用件を告げ、堀田はそれ以上は何も話す事はないとばかりに電話を切る。
 そして彼は一度だけ、ぎゅうっと強く目を閉じてみせた。
 覚悟を決めるように。

 放課後。屋上へと登る階段の途中で、早枝は一つ大きく息を吸い込んだ。この階段を登り終えれば、そこには彼らが待っている。彼女はそれを知っていたから、その前に気持ちを落ちつける必要があったのだ。
 窓の向こうには青空。早枝の心とはそぐわない、それは天気だった。
「でも……」早枝は呟く。「だからと言って、私は真実を知る事を拒む訳にはいかない。それは私が知りたいと望んだ事なのだから」
 カツン、と早枝の足が乾いた音を立て、彼女は屋上を登る。
 そこには5人の人間がいた。
 志賀。志賀の連れである岩瀬、須々木、信永。そして……堀田。
「やぁ、来たね」
 開会を告げるかのように陽気な堀田の声。誰もが表情を押し殺す中、彼だけが高揚する気分を抑え切れないかのようにはしゃいで見せていた。
「それで……用事は何なんですか?」
 早枝は尋ねる。彼女はまだ、ここに呼び出された訳を知らなかったから。彼女はただ志賀の名前で『屋上で待つ』という手紙を受け取っただけ。
「知るかよ……」
 だが志賀は不愉快そうに応えを返す。
「俺はただ堀田に頼まれただけだ。俺の名前で佐伯を呼び出せと」
 早枝は堀田の方を向く。彼はその視線に軽く頷いてみせた。
「そうさ、俺が呼んだのさ。『佐伯を呼び出して欲しい』って頼んで。『そうすれば誰よりも深く傷付けてみせるから』って。君と志賀を呼んだのさ。どちらか片方では無理だからね」
 そして堀田は指を鳴らす……始まりの鐘の音みたいに。早枝は息を飲む。どんな予想外な息苦しさが襲ってきても大丈夫なように。
 太陽に雲がかぶさり……刹那、視界が暗く歪む。そして堀田は言った。
「それじゃあ……始めようか」


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