第5章


 『人をつける、それは楽しい事』

「……やぁ」
 彼らに声をかけたのは、堀田の方だった。
「今日は天気が良くないね、今にも泣き出しそうな空だ」
 さも、旧知の間柄であるかのように。だが彼らの方は、そんな堀田の親しげな口調に反発すら漂わせて息を飲む。
 彼ら……志賀を除く、予言メールの信仰者たちは。
「……何の用だ?」
「嫌だな、そんな固くなるなよ。別に因縁をつけに来た訳じゃないんだからな」
 休み時間の廊下、生徒たちは堀田たちを気にも止めずに過ぎていく。そこで今にも弾けそうなほど、空気がピリピリとしているのに気づく事なく。
「じゃあ……何をしに来たんだよ」
「用がなければ話しかけちゃいけないのかい? 俺たちはクラスメートじゃないか。なぁ……須々木、岩瀬、信永」
 不意に名前を呼ばれ、体を強張らせる三人。「嫌だな、どうした? 知ってるぜ、当然だろ? クラスメートの名前くらい」
 ニヤニヤと笑いながら堀田は言葉を続ける。
「そう、色々と知っているさ。須々木の家は年老いた祖母がいたり、岩瀬には年の離れた妹さんがいたり、信永の家はラーメン屋さんなんだっけ? 大変だよな」
「……何が大変だって言うんだ?」
「大変だろ? 須々木の家は共稼ぎだ。昼間、家に残されるのは祖母だけ。寝てる時、顔に濡れたハンカチを落とされるだけで寝たきりのお婆さんは命を落とすかも知れない」
 堀田は岩瀬に向き直る。
「岩瀬の妹さんは登下校の時に不審者に跡をつけられていた事があるんだろ? 幼児性愛主義者ってのは結構いるみたいだからね。もし悪戯をされて、それがP2Pでインターネットに出まわったりしたら、画像にしろ動画にしろデータを消す事は二度とできないだろうね」
 声を出そうともしない三人を気にした素振りも見せず、堀田は信永に向き直る。
「信永の家では水をセルフサービスにして、お客さんが自分でポットから注ぐ仕組みになっている。もしその中に無味無臭の下剤でも混ぜられたら、一気に複数のお客さんに被害が出るだろう。その後に『次は毒を混ぜる』って怪文書でも民家のポストに投げ込まれたりしたら、同情はされるだろうけど、きっと誰も信永の家に飯を食べにくる事はなくなるだろうね」
 『な?』そう問いかけるような笑みで堀田は三人を見た。
「大変だろ? これが大変じゃなくて、何が大変だって言うんだ?」
「……堀田ぁっ!」
 信永が動いた。堀田の服を掴もうとする。それを紙一重で堀田はかわしてみせた。
「何、熱くなってるんだよ。俺はお前らの事を心配して言ってやってるんだぜ?」
「信じられるかよ! そんな事が!」
 堀田を取り囲むように三人は立ち位置を変える。
「俺を信じられない、か。良い事だな。何であれ信じる前に疑ってみるのは当然だ。信じるものと信じないものをちゃんと分ける為に。何もかもを信じるという事は、何もかもを信じていない事と同じなのだから。だけど……それにしては」
 堀田は切りつけるように言葉を吐き捨てた。
「お前ら、人の事を信じ過ぎているんじゃないか?」
「冗談じゃない、俺たちはお前の事なんて信じてないぞ」
 岩瀬が反論する。堀田はいかにも的外れな言葉を聞いたと肩を竦める。
「そうじゃない。俺の事なんて、俺自身ですら信じる気にはならないさ。俺が言っているのは……志賀の事さ」
「志賀?」
 不思議そうに問い返す須々木。「そうさ」堀田は頷く。
「お前たちと一緒にいる志賀隆徳の事さ。お前らは随分あいつの事を信じているみたいだが……お前たちはあいつの事を疑ってみせた事があるのか?」
「疑う? 志賀の? 何を……志賀の何を疑うっていうんだ?」
一歩詰め寄る須々木の肩を岩瀬は掴む。
「相手にするな。こいつはただ、俺たちの間に不信感を植え付けようとしてるだけだ」
「そう思いこみたいなら、そうすれば良いさ」
 意外なほど突き放した口調で堀田は言う。
「俺はただきっかけを示しただけさ。志賀が本当の事ばかりを言っている訳ではないと、それを君たちに教えるためにね。それでようやく気づく事ができるか、できないかは……君たち次第さ」
 そして堀田は背を向け、そこにはそれ以上……一言も残してはいかなかった。

 夕暮れの時刻。だけど太陽はすっかり雨雲に隠され、奇妙に白い電灯の光と……そして雨の音だけがそこにあった。
浅葱はその教室の中で一人立ちすくむ。
「……どこ行っちゃったんだろ?」
 降りしきる雨の音は他の全ての音を埋め付くし、世界にはまるで彼女しかいないような感覚を浅葱に与えていた。
 彼女は視線を堀田の机に動かし、そこに鞄が置き残されているのを確認する。
「まだ帰ってないよね……」
 浅葱は授業が終わった後に担任に頼まれ、小テスト用紙を職員室まで運んできたところだった。今にも雷鳴が轟きそうに暗闇が落ちる廊下に、人影は見えない。
 胸騒ぎがした。浅葱は非科学的なその衝動を一瞬たりとも疑わない。彼女は跳ねるように床を蹴ると駆け出す。
 校舎を駆け抜ける。だけど堀田の姿はどこにも見えない。胸騒ぎだけが痛いくらいに彼女を急き立てる。
「どこ? どこにいるの佳宏? どこで……泣いているの?」
 彼女にはそれが分かった。一人きりで堀田は誰にも見せずに泣いている。だからこそ……彼女だけは気づいている事を伝えなくちゃ、と。
 だけど結局、校舎の中に堀田の姿はなかった。「あと……残されている場所は?」浅葱は自問する。そして気づく。堀田がいそうな……だけどこんな雨の日にいるはずがない、そんな場所を。
「でも……佳宏ならいるかも知れない」
 彼女は走り出す、何かに引かれるように。雨の降る音が強くなる。階段を駆け登る。彼女は突き当たりにあるドアを思いきり開け放し……。
 そこに堀田はいた。
「……何やってるのよ!」
 降り止みそうな素振りを見せない激しい雨の中、堀田はただ立ち尽くしていた。口元だけがただ微かに動き続けている。何かを呟いているのだろうか。
「佳宏……佳宏っ!」
 雨の中をくぐり、浅葱は締め上げるように学生服の袖を引っ張った。それでようやく堀田は浅葱の存在に気づき。
「ああ……浅葱か。どうしたんだ?」
 そう、不思議そうに問い返す。
「どうした、じゃないよ!」
 浅葱は声を荒げる。そうしてさえ、声が掻き消されそうになる。強い風に吹かれた雨は叩きつけるように二人を濡らして行く。
「なんで、こんなところにいるの? いくらなんだって風邪ひいちゃうよ。ほら……」
 手を引いてみせる浅葱。だが堀田はそこから動こうとはしなかった。
「別に良いんだ、良いんだよ浅葱。苦しくなるのはむしろ好都合さ。ずっと苦しくなれば良い。うなされれば良い。苦痛が足りないままじゃ、自分が犯してきた罪に押し潰されちまうんだよ!」
「罪?」尋ね返す浅葱に堀田は頷き返す。「そうさ。俺は自分の意思で人を殺した事があるんだ。自分の持つ力によって。最も愛した人を……」
 そして彼は思い出す、自らが犯した罪の記憶を。
 彼が最も愛した……秋庭史麻という名の、少女の記憶を。

 史麻に初めて出会った時、堀田は中学一年生だった。入学式を終え、木漏れ日の中を歩く堀田の目に彼女が映る。
 時間がブツンと音を立てて切り取られた気がした。
 一目惚れ、という奴だった。心臓が直に握り上げられるような、そんな感覚に囚われる。それは彼が今までに感じた事がない位に甘美で、そしてまた苦痛をも伴っていた。
 彼女は慈愛に満ち、控えめで大人しく、しかし筋の通った芯を持つ少女だった。誰もが彼女の優しさに触れ、その温もりに包まれる。時に彼女は突き放すように厳しい事も口にした。それで嫌われても構わないと覚悟を持って。だけど、そうした忌憚のない意見によって彼女の事を嫌う人間は一人もいなかった。史麻が相手の事をおもんばかって厳しくとも取れる意見を言っているのは誰の目にも明らかだったから。
 彼女はいつも、人の批判をする時は辛そうにしていた。まるで責められているのは彼女自身であるかのように。
 だからこそ……彼女は自分を責めているのだと、そう感じる者はいなかったのだ。誰もが彼女の言葉に自分を戒め、そして確実に前へと進んで行く。彼女の言葉を真直ぐに受けとめて。
 ただ堀田以外は。
「どうして……堀田君は私の嫌がる事をするの?」
「お前が嫌いだからさ、史麻。お前みたいな偽善者がな。だから教えてやってるのさ、この世界にはどれだけ悪意が満ち満ちているのかを」
 史麻を傷つければ傷つけるほど、クラスメイトは堀田から距離を置き、疎遠になっていく。だけど彼はその結果こそを求めていたのかも知れない。見られなくてすむから。堀田の瞳がいかに嫉妬に満ち、彼女を捉えているのかを。
 史麻には四つ年上の従兄がいた。学校が終わると彼女は躊躇わずに彼の方へと駆け寄り、そして自身がいかに好意を彼に向けているのかを隠さなかった。堀田はそうした史麻の姿を見る度に苛々を止める事もできず、更に深く彼女を傷つけたいと願わずにいられなくなる。それはきっと歪んだ独占欲。ただ相手も自分をも傷ついていくだけの。
 そうした関係が少しずつ形を変えていくのは、彼らが中学三年生になってからだった。史麻の従兄は2つ県を隔てた大学に合格し、下宿をするために家を出ていった。寂しそうな表情を隠しながら、クラスメイトに接する史麻。そんな彼女にそれ以上、冷たく当たる事は堀田にはできなくて。
 ゆっくりと、春の陽射しに凍った雪が溶けていくようにゆっくりと、二人の関係は改善されていった。互いを見る瞳に暖かいものが少しずつ増えていく。微かだけど、だけど確実に。
 そうやって上手く変わっていけると、そう堀田は思っていた。だけどそれがただの勘違いでしかなかった事を、彼は思い知る事になる。
「……え?」
 放課後の教室。史麻の言葉に堀田は動きを止める。
「……付き合ってる人が、いるんだ」
 もう一度、史麻は繰り返す。だけど彼が問い返したいのはそんな事じゃなくて。
「いつから……?」
「三ヶ月前から。隣の中学に通っている人でね。従兄に似た人でね……」
違う。堀田は思う。俺が聞きたいのはそんな事じゃない、と。
「へぇ、代わりが見つかったんだ。良かったじゃないか」
 声が知らずのうちにキツク変わっていく。史麻は悲しそうに顔を横に振る。
「そうじゃない……そうじゃないんだって、堀田君……」
堀田には分かっていた。自分には彼女を責めるべき、どんな理由もないと。彼は気持ちを言葉で確認する事もしないで、ただ史麻の隣にいただけだった。それだけで分かり合えていると、彼女が自分の傍にずっといてくれるのだと、勘違いをしていた。何て馬鹿な自分。どんな約束も二人の間にはなかった。ただ時折見せてくれる親しげな笑み。それだけで彼女が好意を持っていると思い込んでいただけなんだ。
 堀田は笑う。自嘲的に。これ以上ないほどそれはカワイテいて。
「堀田君……あのね……」
「いや、何も言わなくていいぜ」
 これ以上、何も聞きたくないと拒絶を込めて堀田は言葉を遮る。
「良かったな。これでわざわざ嫌がる事ばかり口にする、傷つける事ばかりする男の事なんて相手にする時間はなくなるぜ。なあ、嬉しいだろ? 嬉しくないはずはないよなぁ? 気にかけているように見せても、本当は早くこんな奴とは縁が切りたかったんだろ?」
「違う!」
 強く踏み出す史麻。だけど、その後に言葉が続かない。彼の瞳は暗く、理解する事を拒み続けていたから。
「違う……違うんだって……堀田君……」
 さめざめと泣く、というのはこんな感じなのかな。まるで他人事のように考える堀田。でも、それと同じだけの強さで『違う……』と感じている自分がいる。『違う、俺が言いたいのはこんな事じゃない』って。
 何だろう、何を俺は言いたいのだろう。堀田は考える。だけど出て来ない。口を開けば史麻を傷つける言葉しか出て来ない気がする。……それで良いのだろうか。彼女を傷つければ……誰よりも深く傷つければ、俺は楽になれるだろうか。俺が求めているのは、そんな刹那的な快楽なのだろうか?
 答えが見つからずに、彼は口を開く。どんなイメージも沸く事がなく。
 ただ、彼の気持ちを伝えようと。
「俺は―」

 雨が堀田の頬を伝う。
「俺は彼女を傷つけた。あんな事を言えば彼女が傷付くって分かっていたはずなのに。俺は自分のエゴのために彼女を傷付けてしまったんだ! それからしばらくして彼女は交通事故で死んだ。俺は何一つ……彼女に謝る事すらも出来なかいまま。俺が殺したんだ、俺が殺したんだ。俺はそれを知っているんだ!」
 堰き止められていた感情が一気に押し流されるように、堀田は言葉を続ける。
「もう良い……もう良いよ……っ!」
 浅葱はすがり付くように堀田の体を抱きしめる。そうしないと彼がどこかに行ってしまうような気がして。堀田は首を下に傾け、浅葱の姿を捉える。だけどその視線は彼女を通り過ぎ、何か別な物―遥かな彼方を見つめているように見えた。
「そんな事……そんな辛い事、もう思い出さなくても良いよ!」
「駄目だ。それじゃ駄目なんだよ……浅葱。俺は思い出さなくちゃいけない、自分がした事を。それがどれだけ楽しかったのかを。俺は知っているんだ。人を傷付ける、それは楽しい事なんだって。そこから目を逸らしたら、俺はこれから先も間違いつづけてしまうんだよ」
 言っている事が分からなかった。分かるのはただ、これから堀田が何かをしようとしている事だけ。
「佳宏は……何をしようとしているの?」
「これから、人を傷付けようとしているのさ」
 くぐもり聞き取りにくい声で彼は言う。
「深く、抉り取るように人を傷付ける。そうする事によって、それ以上に傷付けあわずに済むように。だけど不安がいつまでも消えないんだ。誰からも俺は理解されないだろう、誰も信じてはくれないだろう。それは当たり前な事。求めてはいけない事。なのに……」
「なのに、辛いんだね……」
 浅葱は優しく堀田を抱きとめる。
「大丈夫だよ、誰もが佳宏の事を理解できなくても、誰も信じてくれなくても……ここに一人、無条件に佳宏を信じている人間がいるから。願うよ。過去の佳宏が間違いを犯してきたのなら、今度は間違わずに済むように。きっと……誰よりも、何よりも強く」
 降り止まない雨。だけど雨音はもう、彼の耳には届かなかった。彼は歯を食いしばる、何かを堪えるように。そして一つ息をつくと……。
「……ああ」
 一度だけ強く、頷いてみせた。

 明けて翌日、昨日の雨が嘘のように空は高く晴れていた。早枝はいつものように学校に向かい、そしてクラスの前まで行く。
 いつもと違うのは、そのクラスの中から聞こえてくる『声』だった。
「志賀君が言ったんですよね? 『佐伯早枝には人の心を読む事ができる』って。私は……それを一度も否定していませんけど?」
 聞き間違いではなかった。それは……自分の声だった。早枝は躊躇わずにドアを開ける。そこには……MDをスピーカーから流している少年たちの姿があった。
 志賀。志賀の連れである須々木、岩瀬、信永。それに……堀田。
「どういう……事?」
 早枝は歩み寄る。周囲から奇異の目を向けられている事なんて、気にしている余裕はなかった。
「どういう事も何も……」堀田は嘲るように笑うと、MDを止めながら言った。「クラスの皆に教えていたのさ。佐伯がいかに狂気じみた、異端な存在であるのかを、ね」
「志賀君の……仲間だったって訳?」
 低くこもるような声。それは雄弁に彼女の怒りを示していた。
「仲間? ……まさか。何でそんな二元論で考えるんだ、佐伯は。敵の敵は味方、か? そんな考えばかりしているから、お前には分からない事ばかり増えていくのさ」
唇を噛み締める早枝。キッと堀田を睨みつける。
「俺はただ、お前も嫌いなだけだよ……佐伯。うつむけよ、屈辱に身を震わせな。傷付けよ、俺はお前みたいに意固地な奴が傷付くのを見るのが最高に楽しいんだ」
 「なあ」言いながら手を佐伯に伸ばす堀田。その手を佐伯は強く叩きつけてみせる。「へぇ……?」
 酷薄な笑みを浮かべる堀田。俯いて肩を震わせるのは早枝。泣いているのだろうか? 誰もがそう思った。だけど……。
「ふ……ふふっ……」
 早枝は笑っていた。楽しそうに、これ以上なく楽しそうに。
「何がおかしい?」
 志賀が動揺しながらも問い返す。
「おかしい? おかしくなんてありませんよ? 私はただ、嬉しいんです」
 早枝はスッと指を堀田に突きつける。
「今までずっと、本気で叩き潰そうと思える人間はいなかった。そういったレベルの人間とは出会えなかった。でも、堀田佳宏……私と似た場所に立つ貴方を、今度こそ手加減せずに叩き潰せるかと思うと……」
 早枝はクスリ、と笑みの形に歪む唇に指を這わせてみせた。
「嬉しくて仕方ないですよ? 覚悟してくださいね。私はそう簡単には潰されませんよ。堀田君だって……そのくらい予想していてくれたのでしょう?」
 唖然とする皆を前に、堀田は肩を竦めてみせる。
「いや……意外だよ。そんなに気丈でいられるとは、な。でも、どうやら……」
 二人だけに通じる理解。それを共有するかのように、堀田も早枝に笑いかけてみせた。
「どうやら、その方が面白くなりそうだな」


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