第3章


 『連鎖する意』

 扉を開けたそこには、光が満ちていた。
 午前中に過ぎていった通り雨は綺麗にやんで、陽の光は水滴にキラキラと反射する。まるで磨き立てのビーダマのように。
「ここにいたんだ」
 人のいない屋上を、早枝は歩く。目的の人物へと。
「佐伯か……」
 堀田は振り返りもせずに言った。その言葉に棘はなかったが、かといって関心があるようにも聞こえなかった。少し肩透かしを食らったような感じがしながらも、早枝は堀田の隣へと歩み寄る。
「……何を見てるの?」
 昼休みは半分を過ぎ、校庭にはチラホラと生徒の姿が見うけられる。生徒の誰かを見ていたのだろうか?
「下を……見ていたんだ」
「どういう事?」
 堀田は卑屈な笑みをもらす。
「言葉通りさ。人間っていうのは下を見て安心するものだろう? 誰だってそうさ、上ばかり見ていたら気が狂ってしまう。自分より少し下を探すのさ、佐伯。そうしてなけなしの優越感を手に入れるんだ。弱い自分自身を、いつだってごまかすために」
「でも……それは、ごまかしだって気づいた段階で意味を失ってしまう行動なんじゃないんですか?」
「そうだよ……いつまでも楽にはなれないのさ。だから無謀にも上を目指そうとしてしまう。そこに少しはマシな自分がいるような勘違いをして。なあ佐伯、上を見ろよ。視界の全てを空で埋めてみろよ。そうしたら、いつまでも落下し続けるような……そんな感覚を覚えないか? 俺は感じるんだ。そして……上を目指すという事は、そういった喪失感にいつまでも絶え続けていかないといけないって事なのさ」
 それは独り言。口に出す事によって自分の考えをまとめるような。
「何か……昨日と雰囲気が違いますね」
「……俺の事か?」
 落ちついた笑みを湛えながら頷く早枝。
「そうか……そうなんだろうな。昨日は、悪い夢を見たからな」
「悪い夢を?」早枝は疑問に思う。「その割に機嫌は良さそうに見えましたけど……」
 堀田は苦笑する。
「……良く言われるよ。機嫌が悪い時の俺は、ひどく機嫌が良さそうだと、ね。きっと、根っからの天邪鬼なのさ」
「じゃあ……そんなに機嫌が悪くなる程の夢だったんですね」
 早枝は言ってから『しまった』と思う。そんな事を重ねて問われ、いい思いをする人間はいないはずなのに。
 だけど、堀田は早枝の言葉を聞いて、妙に楽しそうにしてみせた。
「そうさ、俺は今までに幾つも取り返しのつかない事をしてきた。それが俺を責めたてるんだよ。きっと……俺が罪を忘れないようにって意味なんだろうさ。あの……赤い夢は」
 おどけたように堀田は口にする。そうやっておどける姿は妙にしっくりときていて。そんな夢の事は気にもとめていないように早枝には見えた。
 彼が隠そうとする、その手に気づくまでは。
 彼の手は力が抜けたように、だらりとしている。それなのに手の甲だけが過剰な力を抑え込むかのように、苦痛を堪えるように震えていた。
「俺はね。最も愛していた女性を、言葉で傷つけて殺してしまった事があるんだ。そして……その言葉を口にしたのは、自分の意思に他ならなかった。俺には、そういう能力があるんだ。人の心を抉り取り、傷つける事のできる能力が」
 そして彼は、それが何でもない事のように口にした。
「佐伯が、言葉を形として目で見る事ができるようにね」

 早枝はその言葉を笑い飛ばそうと試み、そして失敗する。
「どうして……」
 今にもかすれそうな声で尋ね返す早枝。彼女には他人にはない能力があった。堀田が言った『言葉を形として見る事ができる能力』がそれである。例えば人を傷つける言葉は刃として、人を癒す言葉は光として、彼女は見る事ができる。
 だけどそれは誰も知るはずがない情報であるはずだった。早枝がそのような力を持っていると知れたら、間違いなく父のシンパにそれを利用される。彼女が全く望みもしない方向で。
 だからこそ彼女は、その能力が露見されないように心を砕いてきたと言うのに。
「どうして貴方が、それを知っているの!」
 驚きを隠せもせず、大声で問いかける早枝。
 見つめる早枝、その視線の先には……早枝よりも驚愕の表情を浮かべる堀田の姿があった。
「へぇ……」
 力を抜き、屋上の柵にもたれかかる堀田。
「なるほどね、だからか……だから、あの時『共振』のようなノイズが聞こえた訳か」
 おかしそうに笑ってみせる堀田。
「堀田君も……聞こえていたの?」
「ああ。まるでチューニングのあっていないラジオが、最大音量で耳元にあるようだったぜ。何かと思ったよ、遂に自分がオカシクなっちまったのかと思った」
「……私もよ」
 クスリ、と微笑み返してみせる早枝。ようやく落ちつきを取り返したのを、確認するように。
「俺はね……その力でずっと人を傷つける事しかしてこなかったんだ。そういうイメージしかできなかったんだ。俺の力は、イメージ通りの言葉を口にする事ができる力。今は佐伯が驚く顔をイメージした。そうすると俺はイメージを具現化する言葉を口にする事ができるんだ。俺自身は知らないはずの事を」
 堀田は指でそっと柵の水滴を拭う。まるでそこにある光を消すように。
「自分では、その言葉がどういう意味を持っているのか……ほとんどの場合、分からない。ただ、そのイメージ通りの言葉が口にできたのだと分かるだけ。そしてね、佐伯。俺はずっと人を傷つけるイメージ、人の顔が苦痛に歪むイメージしかしてくる事ができなかったんだ。それがどれだけいけない事なのか、理解する事もできずに。だから……俺はこの街を歪めてしまった」
「街を歪めた?」
 意味が分からずに佐伯は繰り返す。
「ああ、この街はずっと歪み続けている。俺が歪めたからだ。佐伯は8年前に起こった、群発自殺の事を覚えているか?」
「覚えていますよ」
 歌手や役者が死亡した時に、連鎖的に自殺が発生する社会現象がある。後追い自殺であるはずの現象。それがこの菫咲の街でも8年前に起こったのだった。
 ただ他の事例と違うのは、それがどうして発生したのか分からない事。
 自殺者は皆『この街に住んでいる』という共通点しかなかったのだ。
「俺は生まれ、意識を持つようになり、やがて自我が生まれ……そして気づくようになった。俺には人を傷つける言葉を紡ぐ能力があるのだと。それが幼い頃は特別な事であるように思えた。俺だけが人とは違う事ができるのだと。そして傷つける事を楽しむようになる。まるで……虫を潰して遊ぶみたいに無邪気にね。だけど、それは孤立を深めるだけだった。面と向かって人を傷つけ……相手にされなくなるのは寂しい、でも人を傷つける事は楽しい。だから俺は卑怯な……そして卑劣な手段を取る事にした」
「それは?」
 予想が外れていれば良い、早枝は思う。
 だけど予想は違わず、堀田は予想通りの言葉を口にした。
「電話をかけたのさ。そしてイメージした。電話の向こうでクラスメートや……街ですれ違うだけの人々を、傷つけ、苦しませ、傷を抉り胸から血を流し続けさせるような……そんなイメージを。大抵の場合はうまくいかなかった。具現化できるほどのイメージを、受話器越しに想起させる事は難しかったから。でも稀に成功する事もあったんだ。そして……」
 歯を食いしばる音が聞こえた気がした。そんな錯覚を起こさせる程、堀田の表情は苦痛に歪んでいて。
「それからだよ、この街で原因不明の群発自殺が発生したのは。……この街は歪み続けているんだ。他でもない、俺がした事によって。だから俺は……この街の歪みを糺さなくてはいけないんだ」
『それで……貴方の罪が拭われる訳ではないけれど、ね』
 屋上に第三者の声が響く。早枝は跳ねるように振り返ると、そこに見知った顔を見つける。
「咲坂さん……」
「忠告が聞いてもらえなかったみたいだね……佐伯さん。堀田は人殺しだから信じない方が良いって言っておいたのに……」
 そう言って咲坂深澄は微笑んでみせる。幼い感じの笑み。『可愛らしい』と評されているその笑みが、早枝にはひどく怖いものに見えた。
「ねぇ、そうだよね。堀田は信じるに足りるような、そんな人間じゃないよね? 人殺しだもんね? 私……ちゃんと覚えているから。貴方が死に追いやった侑ちゃんの事を……」
「それはだから……俺のやった事じゃないって言っているだろ?」
 堀田は不快そうに眉を吊り上げる。あからさまな敵意。だけど深澄はそんな視線をたやすく受け流してみせる。
「侑ちゃんは堀田のすぐ傍の家に住んでいたんだから。区画の違いで小学校は違っていたけれど、それだけ近くに住んでいれば……十分に貴方が傷つける対象にはなったはずだよね?」
「確かに俺は笈川侑の事を知っていた。だけど、俺は彼女の事を傷つけたりしなかった。あんな……いつも困ったように笑う人間を傷つけても……楽しくなかったから」
「それを信じろって言うの? 堀田がどんな事をしてきたか、私は知っているのに?」
 堀田は何も言わず、ただ唇を噛み締める。
「逃げるの?」
 黙ったまま立ち去ろうとする堀田の背に、深澄が声を投げる。彼は振り返らなかった。ただ一言、屋上に残して彼は去る。
「俺は自分のやった事を、やっていないなんて言わない」
 堀田の姿が階段に消え、深澄は苦笑を漏らした。
「……聞いた? 堀田の卑怯さを。彼は罪を告白して、それで自分だけ楽になりたいだけなのよ。だから個別の罪を責められると、ああやって自分はやっていないって嘘をつくの」
「でも……彼がやっていないと言うなら、本当にやっていないんじゃ?」
 早枝は反論する。確かに彼のした事は許される事ではないと思う。しかしそれでも、堀田が自分にとって都合の悪い事をごまかし続けて生きていくような、そんな人間に早枝は思えなかったから。
 そんな早枝の言葉に、深澄は過敏な反応を示す。
「堀田の……肩を持つの? あいつは侑ちゃんを殺したんだよ? 私は知ってるの。彼女をあんなふうに傷つけられるのは、堀田しかいなかったんだから!」
 感情を叩きつけるように吐き出す深澄。それと対照的に早枝は自分の気分がゆっくりと静まっていくのを感じる。
「『彼ならできた』って言うの? その理由は?」
 早枝の言葉に、深澄の視線が鋭く、冷たい物になる。
「侑ちゃんは強い女の子だった。人からの中傷に負ける女の子じゃなかった。彼女を傷つけられたとしたら、堀田のあの気味の悪い能力だけ……それが理由よ」
 そして深澄は語り出した。
 笈川侑が死を選ぶ事になった、その時の事を。

 侑ちゃんのお母さんは、小さな頃に出て行ってしまったって言ってた。それも当然だと思う。あんな人が父親だったら、誰でもそうする。私はそう思う。
 侑ちゃんのお父さんは、一言で言えば生活能力のない人だった。いつも夢を追っていて、話す言葉は面白かった。だけど、現実の中で彼は余りにも子供だった。
 いつまでもアルバイトをして生活をしていて、自分は人とは違うんだって何の根拠もなく思いこんでいた。プライドばかり高くて、仕事でミスをする度に喧嘩をして職を変えていた。
 堀田の言うとおり……侑ちゃんはいつも困ったように笑う子だった。それはきっと父親のせいだったんだと思う。侑ちゃんは彼のせいでずっと肩身の狭い思いをしていたから。
 侑ちゃんは優しくて、とても可愛い子だった。なのに父子家庭だからとか、父親がだらしないとか、いつも侑ちゃんにはどうしようもない事で陰口をたたかれていた。それでも侑ちゃんは負けなかった。誰も彼女を曲げる事も、その微笑みを奪う事も出来なかった。私はそんな侑ちゃんの事が凄いと思った。好きだった。だから友達になったの。
 四年生の夏休みを今でも覚えてる。侑ちゃんの家に遊びに行ったら、夏祭りで買ったんだろう安っぽい髪飾りがあったの。それが本当に大切そうに、宝物のように机に敷かれたハンカチの上に置いてあった。
 『夏祭りの時に……好きな男の子に会った時にもらったの……。いつもはその子、優しくしてくれないから……嬉しかった……』
 目を閉じて、大事そうに記憶を呼び起こしている侑ちゃんは本当に幸せそうで。私はそんなささやかな事で幸せを感じられる侑ちゃんに、いつか必ず本当に幸せになる日がくる事を疑おうともしなかった。
でも……そんな願いですら、神様は叶えてくれなかった。
小学校五年生の時、この街で群発自殺が続いていた頃。侑ちゃんのお父さんが喧嘩で人を殺してしまったの。酔っ払い同士のつまらない喧嘩。問題は彼がナイフで切りかかり、三人を殺してしまったっていう事。酔っているからとはいえ、そんな自制心すらも持っていない人間だった。侑ちゃんのお父さんは。
 この街は大騒ぎだった。その時の事くらいは覚えているでしょ? そう、あの事件がそうだったの。
 侑ちゃんは本当に一人きりになってしまって、家に閉じこもるようになってしまった。というより、出るに出られないと言った方が正しいんだけど。彼女の家の周りには人だかりができたわ。それは事件には何の関係もない人たち。彼らは自分たちの『正義』を疑わなかった。TVが悪質な犯罪だと言えば言うほど、彼らは自分の行動を省みなかった。そうして彼らは侑ちゃんにはどうしようもなかった事で、侑ちゃんを責め続けたの。『人殺し!』『どう償うつもりだ!』って。彼らは責めるべき、どんな理由も持っていはしなかったのに。
 私は人目を避けて裏口から侑ちゃんの家に入って、御飯を渡したりした。友達が困っているからこそ、何か手助けをしてあげたいと思った。侑ちゃんは元気がなくて、だけど私がくると、少しだけ嬉しそうに笑ってくれた。そうやって理不尽な悪意に屈せずに笑ってくれる侑ちゃんを、私は涙が零れそうなくらい誇らしく思ったの。
侑ちゃんが生気のない声で電話をかけてきたのは、お父さんが捕まってから一週間が過ぎた時だった。
『深澄ちゃん……お別れの電話をかけようと思って』
 頭を不意に石で殴られたような感覚がしたわ。その日も私は侑ちゃんと会っていて。そんなお別れをする事になるなんて、侑ちゃんは素振りも見せてはいなかったから。私がいかに懇願しても、侑ちゃんは聞いてくれなかった。
『もう……駄目なの。私は、この世界で何を信じればいいのかを見失っちゃったから……。今ね、信じられるのは深澄ちゃんだけなの。今までありがとう、凄い感謝してるよ。それでね……一つ頼み事があるんだ。もし……もし深澄ちゃんが、私がいなくなる原因を作ったって思う人を見つけたとしても、責めないで欲しいの……。……今でも好きだから……本当は優しい人なんだって、ずっと思ってきたから』
 それで電話は切れたの。私は走った。息が苦しくて、足がもつれて、だけど走るのをやめようとは思わなかった。そして侑ちゃんの家に着いたわ。
 そこで私は見たの。もう……二度と笑わなくなってしまった……侑ちゃんの息絶えた姿を……。

 そうして深澄は語るのをやめる。校庭から聞こえてくる生徒の声が、余りにも遠く感じられる。それだけの敵意に、深澄の声は満ちていた。
「堀田はね。彼の忌まわしい力で侑ちゃんを傷つけたの。そうに決まってるの。侑ちゃんがあれだけ傷つき、苦しむ、そんな事ができる人を、私は他に知らないんだから」
「……やっぱり、その意見には頷く事はできませんね」
 早枝は言う。確かに堀田ならできたかも知れない。『自分が知らない事』ですら人を傷つけるイメージのもと創り出す彼の能力なら或いは。
 だけどそれは可能性にしか過ぎないと早枝は思う。深澄の話を聞き、侑という女の子は普通の人間にくじけさせる事ができるほど芯が弱くなかったという事は理解できるし、堀田には動機がない訳でもない。けれど彼が本当にやったのだという証拠もない。
 証拠がない。だから疑うのは失礼だ。そうした性善説に基づく日本人の考え方を早枝は好きではない。彼女は確実に堀田を疑った。しかしそれでも、堀田が侑を傷つけたのだという予想には違和感を感じたのだった。
「残念だけど……佐伯さんには分かってもらえないみたいだね」
「そうですね……私は堀田君を疑うに足りる人物だとは思えないから……だから、証明をするわ」
「証明?」
 訝しげな表情の深澄に、早枝は深く頷き返す。
「彼にはそれは出来得なかった。もしくは彼以外の人間がそれを成し遂げたと言う証拠を。私には堀田君が……そういう事をする人間だとはどうしても思えないから」
 深澄はその言葉に悔しそうな顔をする。
「どうして……そこまで堀田の事を信じるの? 彼みたいな人に、信じるに足りるどんな理由があると言うの?」
「彼は……私と同じだからよ」
 早枝は視線を深澄から逸らす。
「咲坂さんには分からないでしょうね……人から理解されない、そんな位置に生まれてしまった人間の事なんて。でもね、私には分かるんですよ……。そうした人間がどれだけ『理解される事』に飢えているかが……私がずっと、そうでしたから」
「堀田となら、理解しあう事ができるなんて思っているの?」
「……そうですね」
 不敵に、と。そう形容される笑みを佐伯は湛える。
「それは素敵な勘違いだと、私はそう思っているんですよ?」
 深澄は背を向ける。その背には誰もが分かるように、クッキリと『もう話す事なんてないわ』と刻印されているように見えた。
「堀田を信じるなんて、ね……。もう少し佐伯さんは賢いと思ってたわ。あなたたちは似ているのかも知れないわね。堀田が自分からあの能力の事を話したのは、佐伯さん……貴方でまだ、二人目のはずだから」

「そんな事を言っていたか……」
 夕方。日が翳ろうとしている午後6時。早枝は堀田の携帯に電話をかけてみた。堀田は相変わらず気のない相槌を打っていたが、さりとて迷惑そうな感じではなかったので、早枝は深澄との事を話してみる事にしたのだった。
「案外、その通りなのかも知れないぜ? 俺は嘘吐きさ。人を傷つける事には鈍感で、人から傷つけられる事だけには敏感だ。案外、咲坂が言っているのが真実なのかもしれない」
「そうですね」
 早枝は素直に肯定してみせる。すると受話器の向こうで堀田が黙りこむ。早枝は吹き出した。受話器の向こうで堀田がふくれっつらなのが見える気がして。
「……何がおかしいんだよ」
「別に? それを言うなら、どうして堀田君は不機嫌そうなの?」
 『……ちぇっ』って声が聞こえた気がした。早枝は我慢できなくなって、大声で笑い出さずにはいられなかった。
 そんな時、不意に呼び鈴がけたたましく鳴った。
「ん? なんだろ……ちょっと待っててください」
 堀田の耳に、足音が去って行く音が届く。そして1分ほどたって、早枝は戻ってきた。
「ごめんなさい、宅急便が来ちゃって……」
「いや、別に気にしてないよ」
「うん。でも……何を送って来てくれたんですか?」
「え?」
 堀田の声が裏返る。一瞬、何を言われたのか分からなかったのだ。
「佐伯……『その宅急便の送り主には、俺の名前が書いてある』のか?」
 今度は早枝が息を飲む番だった。
「……はい。何かわざと下手に書いたような字で……だから最初分からなかったんですけど……確かに、堀田佳宏と書いてありますけど」
「……面白いね」
 堀田は受話器の向こうで舌なめずりでもしているのではないかと、そう思わせる口調で言う。
「可能性は三つだ。俺がその荷物を送ったのにとぼけている。俺がその荷物を送ったのに忘れている。最後は……誰かが俺の名前を騙って荷物を佐伯に送りつけた。以上の三つさ」
「開けない方が……良いですよね?」
「そうだな……それが何なのかは、俺には完全には分からない。ただ、佐伯には理解できないだろうプレゼントが入っているだろう事しかな」
「『プレゼント』?」
 堀田はその疑問には答えなかった。
「今から行く。それまで、佐伯は宅急便には一切触れるな。いいな?」
 そして電話は切れた。早枝は違和感を感じる。それが何なのか分からなくて、そして送られてきた荷物を見て理解する。
 堀田は自分の名前が騙られた事に怒ってはいなかった。それどころか……。
「何で……堀田君はこの荷物が届いた事に、あんなに嬉しそうな声をあげていたの?」

 早枝の家に辿り着いた時、堀田は不愉快そうな表情を浮かべていた。だけど態度がそれを裏切ってしまっていた。彼はソワソワと、まるで新しい玩具を与えられた子供のように、それに早く触れたがっていた。
「で、その荷物はどこにある?」
「これよ……」
 早枝は、重そうに荷物を運んでくる。
「重そうだな……良いぜ、想像通りさ」
 早枝がゆっくりと荷物を床に下ろす。待ちきれないように堀田は手を伸ばす。
「ちょっと離れてろよ?」
 良いながら箱を閉じているガムテープを乱雑に剥がしていく。そして蓋を開けると、そこには黒いビニール袋に包まれた物体があった。
「まあ、そうだろうな……零れちゃうからな」
 すでに、それが何であるのか分かっている口調だった。早枝は何故か嫉妬を感じる。どうして彼は……私には分からない事を、先に理解する事ができるのだろう? と。
 そしてビニール袋が破られていき……堀田の言葉通り、破れた端からそれは零れてくる。早枝は悲鳴を飲み込む。
 そこから零れて来たのはどす黒い血液に他ならなかったから。
「良いぜ! 良いぜ! 期待を裏切らないね。そうだよ、そうこなくっちゃな……」
 動揺もせずに、堀田はその中にある物を引っ張り出す。今度こそ早枝は、喉から漏れる悲鳴を抑えきる事はできなかった。
 そこからは現れたのは肉塊。
 切り取られた犬の生首がそこにはあった。
「最高だね、何て不器用な奴なんだ。ん? となると……」
 堀田は手を伸ばし、生首を手で強く揉み始めた。
「ああ、そうだ。やっぱりだ。この犬じゃなくちゃ話がおかしい。あれ? じゃあ何であんな言葉に……」
 血まみれになった堀田の両手。それでも彼は、まるでそんな事は大した事ではないというように、思索にふけり始めた。早枝は苛立つように声をかけた。
「堀田君! 何? 何が分かってるの? 分かってるなら教えてよ! 誰が一体、私にこんな悪意を向けてきたの!?」
「『悪意』?」
 想像にない言葉を聞いた、とばかりに眉をひそめる堀田。だが次の瞬間「ああ!」と声を上げる。
「佐伯はこれが悪意でされた事だと思っているのか。違うぜ。これは悪意なんて真直ぐな物じゃない。これはもっと歪んだ……そして純粋な気持ちからされた事なんだ」
 理解できなかった。早枝はそれを悔しく感じる。何か自分一人だけ取り残されているような感覚。
「じゃあ……じゃあ、誰がこれをやったって言うんですか?」
 質問を変えてみる。だが、それにも堀田は答えなかった。
「それは言えない。俺から言うのは……きっと、アンフェアだろうから。考えれば分かる事だと思うぜ?」
「考えるって……どうやって、こんな事をする理由を考えるって言うの?」
「簡単さ」
 堀田は血まみれになった手を上げて言う。その姿はおぞましく、それなのに彼には似合っているように見えて。
「他人からの悪意が、どのようにして自分に向けられているか、なんて考えるからいけないのさ。他人の考えなんて、誰にだって分かる事はできないのだから」
「じゃあ、どうすれば良いって言うんですか?」
「データを集めるのさ」
 ウキウキと堀田は言う。まるでこれから先、まだ楽しい事が起こると予感しているかのように。
「データを集め、構築する。でも、それだけじゃ駄目なんだ。それでは自分の理解できない範囲での事を予測する事はできない。だから再構築するのさ。自分の理解が及ぶ範囲で、自分の都合の良いふうにね」
「でも……それで分かる事と言うのは、真実ではなく、歪められた物になってしまうんじゃないんですか?」
「それで良いのさ」
 堀田は立ちあがる。
「真実なんて、人の数だけ存在するのが基本なんだろうからな」
 歩き出し「手を洗わせてもらうぜ」と手洗い所に向かおうとする堀田。それからふと思い出したように「ああ、そうそう」と続ける。
「こういった感情を佐伯が向けられる事を嫌がるならば、無くす事はできるぜ。その代わり……調べてもらわなくちゃいけない事があるけどな」


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