ブリキの船

煎餅屋光圀
 分厚い安全靴の下でガラスの破片がジャリジャリと鳴り、懐中電灯の丸い光を目で追いながらも、その時僕は頭の中で志乃の事を考えていた。
 志乃が僕等の前から姿を消して一ヶ月が経とうとしている。
 突然部屋の外でクラクションが鳴り。
「良い物を見せてやるよ」
 そう言って僕を連れだした落合が連れてきたのは、市街から車で1時間ほどの郊外にある古い療養所。使われなくなって5年と言ったところだろうか?
 これは珍しく無いことらしいのだけれど、世間様に流通している認識(落合が言うには)として『物は所有する時にしか金がかからない』なんていう間違った理論がまかり通っているらしいのだ。無論、車などを持っている人などは維持費などがかかることくらいは知っているだろうし、処分する際にもそれなりの負担を覚悟しなくてはいけないことも分かっていると思う。それでもごく少数の人間しかきちんとそれを理解していないのだと彼は言う。
「金銭じゃない、要は熱量の問題なんだ」
 3Mほど先を歩く落合が懐中電灯で天井を照らしながらそう言った。僕の目の前を歩いている紅一点の平山さんはクスリと笑う。
「また始まった、まともに相手にしちゃ駄目よ。話長いんだから」
 平山さんが僕の方をちらりと見ながらそう言うと、落合は足を止めて軽く僕らを睨む。僕は苦笑しながら2人を見て落合に言った。
「だってさ」
 落合は振り向き呟く。
「うるせえよ」
 彼は足下の木片をけっ飛ばすと、闇の先に何かを見つけて子供みたいな歓声をあげた。
「おい見ろよ。中庭に車が捨ててあるぜ! エアーバッグとか生きてるかな?」
 そう言って早足でコンクリートの丘を越えて行く落合を、平山さんはあきれた顔で見つめていた。
「病気なのよ……アイツ」
 そう言ってため息をついた平山さんの目は何故か優しげだった。
 平山さんは落合の友人で、僕は初対面だったけど会ってすぐに好感を覚えた。でも、落合の友人にしては少し美人過ぎるかも知れないと僕は思った。
 僕は少しだけ笑って彼女に言う。
「落合とつき合いは長いの?」
 平山さんは「ん……」って口ごもると、懐中電灯をくるくる回して苦笑した。それは落合に合図を送っているようにも見えたし、彼女も無意識でやっているようにも見えた。
「いわゆる腐れ縁って奴よね。こういうのは話の中だけにしておいて欲しかったわ」
 そう言って平山さんは僕に微笑んだ。僕は彼女の言う腐れ縁って言葉がなんとなく想像できる。落合の様子がいつものソレと明らかに違うのだ。
「つき合いだけなら長いわね。その割に手も握ろうとしないのよ。完全に異性として見られて無いんじゃないかしら?」
 平山さんはそう言って苦笑する。
 今の状況に満足してない事はなんとなく分かった。
 細長い木片が幾重にも折り重なって鳥の巣縛の様な影を形作る。足下にはどこから漏れだしたのか、茶色く錆びた水が懐中電灯の光を照り返していた。
 平山さんは言う。
「近すぎるとお互いに汚い物を見ることもあるじゃない。それがもし受け入れられない物だったら、積み上げた関係自体を壊すことにもなるのよ」
 平山さんは鈍色の錆びた鉄クズを靴の先でひっくりかえした。
 鉄板の裏にはまるまると太ったナメクジが張り付いていて、彼女は軽く悲鳴をあげて僕に苦笑する。
「要するに、お互い踏み込む勇気が無いだけなの」
 僕は笑って頷いた。
 朽ちた漆喰は埃と一緒に有毒物質を放出していて、懐中電灯の光が幾重にも層を成す、キラキラ光る壁を映し出した。まるで粉雪の舞う暗い森のようだと僕は思った。
「凄いでしょ? いわゆる人の残した汚物ってやつよ。朽ち果てた建造物ってまるでレインボーモナカみたい、一つが失われると途端にその存在意義自体を失うの」
 そう言って落合の歩いて行った先を見つめて平山さんはため息をつく。
「レインボーモナカなんて七色そろってないと、たんなる悪趣味な玩具でしかないじゃない」
 上手い事を言う。僕は少し感心して平山さんを見た。
 志乃が僕等の前から姿を消したとき、僕はどうしてなのか分からなかった。分からなかったけど、心の何処かでは分かっていたのだと思う。
 最初から、僕等と彼女の間には決定的に何かが足りなかった気がする。それはきっと志乃がずっと探していて、僕はそんな物があるなんて気付きもしなかった物だ。そして気付かないまま積み上げてしまって自沈する船のような物。広い海に乗り出すのは不可能だと彼女は知っていて、そして彼女は一人で出ていった。港に僕等と月を残して。
「人の情熱の行き着く先はね、ガラスのお城なんかじゃ無くて、多分雪の降る瓦礫の森なのよ。何時まで歩いても出口なんて無いのかも知れない」
 平山さんは言う。僕は頷いて辺りを見回した。
 それでも僕は、志乃と行き着く先を見たかったと思う。だってここに降る波はこんなに綺麗で穏やかだ。
「志乃さんの事は、私も聞いたわ」
 平山さんは言い、そして僕を冷たい目で見つめる。
「あなたって傲慢で残酷な人ね」
 そう言って彼女は、足下に転がっている7UPの瓶を放り投げて薄く笑う。言葉が僕と彼女の間で羽を失い、地に落ちて汚物にまみれた。雪がその内に覆い隠してしまい、僕は返す言葉を永遠に失う。そんな種類のそれは沈黙だった。『おーい』
 遠くで落合の声がする。平山さんは一言。
「ごめんなさい」
 と呟いて瓦礫の山を越えていった。その後ろ姿は僕が思っていたよりもずっと弱々しい物に見える。
 僕は深くため息をついて足下を見つめると、そこに泥だらけのカセットテープが落ちていた。僕はソレを拾い上げてハンカチでくるむとズボンのポケットにしまいこんだ。

 落合は茶色く変色した白いセダンの傍らで、まるで子犬がチューインガムを見つけたかのようにはしゃいでいる。
「なあ、これエアーバッグが生きてるみたいなんだ」
 嬉々として言う落合の言葉に、平山さんはちらりと僕に視線を送り。僕も肩をすくめてため息をついた。
「何を考えてるんだ?」
 僕の言葉に落合はニヤリと笑う。辺りを見回し適当な廃材を見つけると。
「決まってんだろ?」
 と言って思いっきりバンパーを殴りつけた。
 毛色の違う2匹のドラ猫みたいな大きな音が耳に順番に飛び込み、僕の耳から氷のかけらを囓って逃げていく。セダンの室内では大きなエアーバッグが広がり、嘘みたいな早さでガスが抜けていった。
 落合は楽しそうに笑い。
「たまや〜」
 と言って、廃材を投げる。なるほど確かに花火みたいに見えるかも知れない。朽ち果てた療養所にしては洒落た演出だと思った。
「……馬鹿みたい」
 平山さんは冷めた目で落合を見ながら言う。落合は少し真面目な顔をして首を振る。
「馬鹿な事じゃ無いさ、これは儀式なんだよ。収束し凝縮された熱量が定められた場所に返る為のな……見ろよ」
 そう言って落合はセダンを指さす。
「エアーバッグだって使われるために造られたんだぜ。こうしてやるのが本望って物じゃ無いか!」
 確かに一理あるかも知れない。僕は感心して落合を見たけれど、平山さんの視線は冷ややかだった。
「エアーバッグなんて使われない方が幸せじゃない。変な理屈を付けて消化器の中身をぶちまけるような事は止めてくれる?」
 そう言って平山さんはため息をついた。
「くだらないし、何より迷惑だわ」
 ぐうの根も出ないような正論だった。
 僕と落合は顔を見合わせて苦笑する。
「それでも、可能性は全て試してみる価値があると俺は思う」
 それは平山さんに言うというより、主に僕に向けて言った言葉の様な気がした。
「可能性って何だよ?」
 僕が言うと、落合は少し苦笑する。
「だから良い物を見せてやるって言ってるんだよ」
 落合はそう言い、中庭を横切って腰の高さの雑草をかき分けた。
「来いよ」
 平山さんは冷めた表情で落合の後に続き。僕もその跡を追った。
 僕等の入ってきた入り口から反対の建物。その一階部分に続く非常口の錆びた鉄の扉を落合が開ける。
「覚悟しておいた方が良いわよ」
 平山さんが小声で振り返りもしないで言う。
 ただならぬ物言いに僕は不安を感じたが、それ以上は落合も平山さんも何も言わなかった。
「見せたい物はこの奥にある」
 療養所の中を歩き、くたびれたドアの前で嫌に真剣な顔をして落合は後ろ手に親指で指した。
「俺の言う全てがこの中にあり、そのかわり絶対的な何かが足りない世界だ……まあ」
 そう言ってニヤリと笑うと。
「見て見りゃわかるさ」
 と続けてドアを開けた。
 形容しがたい違和感が僕を襲う、それは異様な光景だった。
 十畳あまりの部屋の中に漠然と積み上げられた医療器具。ボロボロの黴びたカーテン。朽ちた机の上には錆びた聴診器が無造作におかれていた。ただそれだけの部屋なのに……
「昔の診療室さ、ここでの生活の全てはこの部屋を中心として営まれていた……いわゆる瓦礫の核の部分だ」
 そう言って落合は僕の背中を押す。
「入れよ」
 落合の言葉に僕はたじろぐ、冗談じゃない。
 頭の片隅に細長い針が突き刺さっている感じがした。下手に動かすと取り返しのつかないことになる。僕は背中に冷たい汗が流れるのを意識した。
 何かがおかしい、決定的に何かが狂っている。
 平山さんは僕の後ろで目を背け、部屋を見ないようにしていた。
「凄いだろ? まるで嵐のように螺旋を描いている。収束され、集められるだけ集めた熱量の放出されなかった行く末だ」
 落合はそう言い僕を見つめた。僕はこの部屋は歪んだ生命そのものだと思う。永遠の苦痛と解放を願う力だけがあり、そしてそれらは何度でも殺された。それでも終わりは永遠に訪れずただ時間の洗礼だけを受けている。
 この部屋には意志が無いのだ。
「お前に一つ言っておく事がある。志乃の事はもう忘れろ。それがお前の為だし、志乃の為でもある。このままだとお前の行き着く先には出口なんか無いぞ。行き着くのは歪んだ妄想と、閉塞された檻でしかない」
 落合は呟くように言い。僕は息を飲んでそれを聞いた。
 僕は今まで志乃の苦しみが分かっているような気がしていたけれど、それが傲慢な思い上がりだって事に否が応でも気付かされる。
 机の上の置き時計は12時20分を指し示して止まっていて、僕はそれを見て広島で見た原爆投下直後の写真を思い出した。そして想いは何時だって同じ。
「僕に何をしろと言うんだ……」
 落合は僕の方に哀れむような視線を送り、そのかわり何も言わなかった。忘れることは出来ない。それは落合にだって分かっているはずだ。
「……解放するのよ」
 平山さんが何かを確認するみたいに言う。
 言葉は暗闇で形を成し、もやの中を落下する朝露の一滴にも似た粋美の彩を放つ。
「目を見開いて、その束を手に取りなさい。積み上げられてしまった物はすでに失われた物なの。それは永遠に完成しないパズルと同じ物だったのよ。そして志乃さんと一緒に姿を消した」
 黄塵は清秀の風が運び、僕等の周りで輪を成して溶ける。
 平山さんの言葉は、僕の心に淡い波紋を穿った。
「貴方は理解をしなくてはならない。そして感謝をしなさい。全ての薄暗く悪い物は全て志乃さんが連れていったの」
 その通りだと僕は思う。
 志乃は僕が詰んでしまったブリキのがらくたに乗って、あの用水路のベンチから出航していったのだ。あの日の蒼い月に向かって。
 僕は平山さんを見た。平山さんは穏やかに笑って僕に言う。
「今すぐで無くても良いの。いつか貴方は祈りを捧げてそれを空に返しなさい……それが落合の望みなのよ」
 平山さんはそう言って落合に微笑む。落合は照れたように笑って呟いた。
「うるせえよ」
 僕は笑って落合を見る。
 平山さんは志乃の望みとは言わなかった。結局、僕は志乃が本当に望んでいたことなんて永遠に知る機会を失ったわけだ。
 でも、振り返って見て気付くこともある。
 何でも無い一言で、何かが決定的に変わる事なんてありはしないけれど。少なくとも僕は幸せなのかも知れないと思った。
 そして願わくば僕のブリキの船が、月まで沈まないでいてくれることを祈った。

「しかし……女って言うのはどうして、ああいう恥ずかしいことが臆面も無く言えるかね」
 車に戻ってくるなり、運転席に座って落合は言う。
 平山さんは飲み物でも買ってくると言って、近くに自動販売機を探しに行ってしまったままだ。
 僕は苦笑しながらポケットの中から、ハンカチに包まれたカセットテープを取り出し、カーステレオにかける。
 やけに軽快な音楽と供に、ひび割れた音でラジオ体操が流れ始めた。
「なんだよソレ?」
 落合があきれた顔でステレオをのぞき込む。僕は笑って答えた。
「儀式さ、これも一種のね」
 僕の言葉に落合はあきれた顔をする。そのままポケットからタバコを取り出して口にくわえた。
 アスファルトは陽光を照り返し、表面近くで薄い膜を形作る。世の中は深春から初夏へのワルツを踊る。
 僕等は無言でタバコをふかし、春の終わりを黙ってみていた。
 僕はその時平山さんの事で落合に言いたいことがいくつかあったんだけど、どれもこれも上手く形にならなかった。ただ一言だけ。
「あの娘は良い娘だよ」
 と僕は言い。落合は。
「知ってるよ」
 と答えた。

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