引越し

秋月 ねづ
 煙草の灰が畳に落ちて、春風に飛ばされていく。僕の荷物はすべて引越し屋が手際よく運び去って、さっきまでドタドタと騒がしかった分、今はよけい静かで鳥が何度も鳴いている。
 大学の四年間暮らした六畳一間のこの部屋は、もう僕の部屋では無くなって、不動産屋が鍵を取りに来るまでは僕の部屋だけど、あともう僅かな時間しかない。
 もうこの雑巾の浸かったバケツだけがここにある僕の持ち物のすべてなんだと思うと、引越し屋のトラックが失踪してしまったらどんなに楽になるだろうって僕は寝転んだ。
 青森の新居、ガランとしたフローリングの部屋に、僕とバケツと雑巾の三人暮らし。全くアーバンライフってイメージだろ? 僕は喉が乾いたら、大きな青いバケツで水を飲む。クール。雑巾は? 知らんよ。リンゴ畑の見えるベランダの手すりにかけておけばいい。
 見上げれば、慣れ親しんだ我が「黄ばんだ天井」それは証。四年間に僕が吸った煙草の量。帰ってこない敷金。そんなことはどうでもいいんだけど、今日はやけに、何もかもが僕の心に染みるみたいで、僕はセンチメンタルに侵されてるんだろうって、寝転んだまま煙草の吸いさしを窓に向かって投げた。
 煙草は春風に押し戻される。引渡し間際だって言うのに、畳に新しい焦げ跡が出来て、僕は跳ね起きて、慌てて雑巾で畳を力いっぱい擦った。修正。雑巾を持ちあげると焦げは依然として残っていた。修正失敗。いつもそう。
 僕は雑巾をそっと焦げの上に乗せて目を閉じた。そして手のひらを焦げの辺りにかざす。三分間我慢。次にもう一度、あの鳥が鳴くまで。
 鳥は鳴かず五分ぐらい過ぎて僕は目を開ける。僕はカーテンも取り去った窓の外を、青い空を見上げた。マザーグース紛いな空だ。「あの鳥どこへ向かったの? それとも誰かが殺したの?」
 僕は視線を落として雑巾を除ける。確かな黒い焦げ。イッツ・リアル。それでいいのだ。そんな手品が使えたなら、今日の僕は僕自身の存在さえ消しかねない。僕は固く絞った濡れ雑巾を頭に乗せた。

 瞑想。

 僕は立ち上がって部屋の隅へ。かつて、といっても今朝まで、冷蔵庫があった場所だ。ここに冷蔵庫があり、その隣に本棚があり、ちゃぶ台があり、戸棚があった。ここに僕が座り、そしてあの子が座る。何て確かな記憶力。
 何で僕はあの子に好きだって言わなかったんだろう。あの子が愛媛に帰り、僕が青森へ向かう前に。僕らが背中を向けて反対に歩き去る前に好きだって言えなかったんだろう? 僕が告白していれば……、最後の日に「リンゴを送るよ」って言う代わりに「君のことが好きなんだ」って言っていれば、彼女だって「私はミカンを送るわ」って言う代わりに何か別の台詞があっただろう。もっと気の利いた台詞が聞けたはずなんだ。例えば?「あたしにとってあなたはいい友達だったわ」OK! なんて素敵な想像力! 僕はクルリと一回りしてお辞儀をした。僕はリアリストだな。正確な自己分析だ。履歴書に書けばよかった。得意な科目・英米文学 健康状態・極めて良好。そして、いささか悲観的だが現実的性格。

 僕は窓に腰を下ろして、煙草に火をつけた。今頃彼女はドコにいるんだろう? 僕が窓の外を眺めているとチャイムが鳴った。僕は煙草をバケツの水に投げ捨てて、玄関へ向かう。
 ドアを開けるとそこに居たのは、不動産屋のお兄さんだった。お兄さんはニッコリと笑う。彼は挨拶もそこそこに部屋にあがった。そしてあらゆるところをチェックしている。その間、僕は窓の外を見ていた。チャイムが鳴った時、実は僕は期待していたのだ。もしかしたら彼女が来てくれたかもしれないと。
 撤回しよう。僕は全然リアリストなんかじゃない。全く妄想屋さんだ。
 お兄さんが僕を呼ぶ。事務手続き。僕は壁に紙を当ててサインをした。それが終わると彼は鍵を要求する。僕はポケットから鍵を出し、愛媛県の形をしたキーホルダーから鍵を外した。
 えひめ。金属のキーホルダー。三年生の春、あの子に貰ったものだ。たぶん嫌がらせ、いや、完璧に。実家から戻ってきた彼女はお土産を要求した僕の目を閉じさせた上で、手の中にこれを包み込んだ。「モチロン使ってくれるよね?」僕が適当に頷いてポケットに入れようとすると、彼女は「待って」と言って『えひめ』を僕から取り上げた。そしてもう一方の手の平を出して「鍵」と言った。その頃、僕は鍵を素で持っていたのだ。そして僕がポケットから鍵を出すと、それを奪い取って、『えひめ』と繋いだのだ。「失くしちゃうからね」と力を込めてリングの中に鍵のお尻を押し込んで、彼女は僕の手の中にそれを戻した。
 僕は不動産屋さんのお兄さんに鍵を渡すと、手の中で『えひめ』を握りなおして、ポケットに戻した。それは鍵がついていないだけで酷く軽くなった。事実。

 僕らは部屋の外に出た。お兄さんは鍵をかけて満足そうに頷いた。
「この部屋はどうでした? 四年間住んでみて」彼は別れ際に僕にそう訊ねた。
「酷く、名残惜しいですね」
 僕はそう言ったけど、それは本心だった。

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