雨垂れのロールシャッハ

秋月 ねづ

 僕は本棚の間を一つ一つ覗き込んで、竹内さんの姿を探した。竹内さんは雨の日には大抵図書館にいるはずだ。
 今日は雨。大粒の雨が盛大な音を立てて、僕のちっぽけな透明ビニール傘を叩いて、傘からはみ出したバッグやジーンズの折り返しを狙い、そいつを派手に濡らした。
 平日午後の図書館はいつも閑散としていた。こんな靴下まで濡れるような雨であっては尚更だ。だけど、個人的には雨の日は嫌いじゃない。僕は雨だからといって憂鬱になったりしない。僕にとって、竹内さんと過ごす『雨の日図書館』は、晴れの日に行く『山公園サルの檻』や『干からびワカメのテトラポット』に劣らない楽しみなメニューなのだ。
 僕は図書館に入り、カーペットに黒々とした足跡を残しながら歩き回り、社会科学コーナーから人文科学コーナーを経て、自然科学コーナーでやっと竹内さんを捕まえた。
 竹内さんはハーフパンツから伸びた白い足を投げ出して、印刷の大きな赤い字で、『社会人席』と書かれたデスクセットに座っていた。彼女のはねた茶色い髪は雨で湿っている。僕は安心してため息をついて、知らない人みたいに、竹内さんの隣の席に座った。バッグを肩から下ろして、毛足の短い灰色の絨毯の床に下ろす。竹内さんは僕にちっとも注意を払わずに分厚い本のページをめくった。それでも、僕が来たことは分かっているんだ、っていうふうに、彼女は口の中で飴玉を奥歯に当てて音を立てた。
 竹内さんは『青少年の精神障害』なる医学書を読んでいる。僕は竹内さんの読む本に一貫性など無いことは良く知っているので特に驚きはしない。先週はたしか『明朝の青磁』という本を読んでいた。僕は竹内さんがしているように椅子の背もたれに体を預けて、足を投げ出した。僕は竹内さんの傍に来ると不思議と安らかな気分になる。僕の濡れた傘を入れたビニール袋の底に水がブヨブヨと沢山溜まっている。目を閉じると雨が窓にあたる音が聞こえる。
「あんなに溜まるほど雨が降ってるんだよ」
 僕は傘を指差して言おうと思ったが、止めた。難しい本を読む竹内さんの前では、何を言ってもくだらない事のように思える。僕は黙ってブヨブヨとした水を見つめた。それは子どもの頃に遊んだ水風船のようだ。水道の蛇口にしなびた風船をつけて、水を出すと風船は頼りなく膨らみはじめる。適当なところで風船を蛇口からもいで、へそを結ぶ。そしてそれを投げる。その空中の水風船を僕は思い出したのだ。水風船は、今そのグレーのカーペットの上にへたり込むビニールの水のようにブヨブヨと飛んでいった。それはあんまり長く空中でブヨブヨとしていたから、僕はそれを良く覚えているのだ。それは他のもの、例えば石やボールを投げた時、と比べると不自然なくらい長く空中に浮かんで、それからアスファルトの上に落ちて、小さな凸凹に当たって潰れる。僕はいつもツルツルなところ、例えば鏡面とかプラスティック板とか、に上手い具合に落ちればちゃんと割れずに弾むんじゃないかって、小さな僕は思ったものだ。
「何を考えてるの?」
 と竹内さんが言う。気づくと彼女は僕を見ている。
「別に」
 僕はそう言う。彼女は椅子を動かして僕の近くに寄る。
「ねえ、あなたの幸せのイメージって何?」
 竹内さんは僕にそう訊く。僕は竹内さんのハーフパンツの足に手を乗せる。僕はよっぽど、『雨の日の図書館』と言おうと思ったけど、竹内さんがそういうことを聞きたいんじゃないことに気づいていたから、目を閉じて考えた。
 僕は言う。
「夏の良く晴れた日に歩くこと」
 僕は自分の考えを確かめるために一度、肯く。
「小さな頃、母親に『夕飯までには帰りなさいよ』って言われて、僕は家を出る。腕時計を見ると、夕飯までにはまだ三時間もあるんだ。
 僕は良く晴れた青い空を見ながら歩く。陽射しの中から、建物の下や木陰を潜り抜けて、また陽射しの下へ。
 そして、一時間ほど歩いたら、適当な気持ちのいいところを見つけて座る。海風があれば一番いい。涼しいし、いい匂いだからね。でも無くても構わない。そして座り込んだら、風景とか通り過ぎる人とかを眺める。普段は気にも留めないようなものをね。例えば、植え込みの葉っぱの形とか、エプロン姿のおばさん達の手首、鳥のクチバシ、スーツ姿のサラリーマン達のネクタイ、小さなビルの定礎。
 暫く眺めて飽きると、だいたい、夕飯まで後一時間。帰るのに丁度いい時間なんだ。僕は立ち上がって、来た道を帰る。
 家に戻ると夕飯の十分前。台所から母親が立てる、いろんな音が聞こえる。特に急いだ訳でもないのに、行きは一時間かかったみちのりを、帰りは五十分で帰ってこれた。僕は何故だかそれがスゴク嬉しく思える。
『何だ、ぜんぜん速いよ!』
 僕はそう言って、一人で笑うんだ」
 僕は竹内さんを見る。
「そういう感じかな」
 竹内さんはニッコリと笑う。そして僕のTシャツの二の腕を握る。
「いいね」

 そしてその日の午後は、竹内さんに『家』の絵を書けとか、この模様が何に見えるか? とか「自殺したいと思うか?」とか聞かれて過ごした。こんな雨の日の過ごし方として図書館は悪くないと僕はいつも思う。

 僕は高校時代、本は読まなかったけれど、こうやって図書館には随分通ったのだ。


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