デート前夜秋月 ねづ |
彼は紙袋を下げて仕事から帰ってきた。
僕は書きかけたノートの上にシャープペンシルをぽとりと落とした。 「ただいま」 彼は紙袋をそっと畳の上に置いた。 「今日は暑かったね」 彼はそう言いながら紺のスーツの上着を脱いだ。パッとしない色のネクタイを外して、 パッとしない柄のYシャツを脱いで洗濯機に放り込んだ。 「何か食べたかい?」 彼は冷蔵庫を覗き込んでそう言った。 僕は首を振った。僕が煙草を取り出して咥えるのを見て、彼は嫌そうな顔をした。 「煙草は窓際で吸ってくれよ」 僕は肯いた。 窓の外は生暖かい風が流れて、夕暮れが満遍なく景色を赤く染めている。彼はベランダに出て、 干してあったパジャマを丁寧に取りこんだ。僕は煙草に火をつけて緩やかに流れていく煙を眺めた。 僕は煙草を半分ほど吸った。彼は洗いざらしの薄くなったパジャマに着替えて、ちゃぶ台の前に座る。 「ねえ。ちょっと」 彼は僕を呼ぶ。僕は窓枠にもたれて彼の方を見た。西日が部屋のドアの方まで低く差し込んでいる。 僕の影が大きく部屋を満たした。彼の持ち上げた白い紙袋がまぶしく光る。 僕がそのまま見ていると、彼はいつまでもその袋を捧げているので、 僕は煙草をキリンラガーの缶の中に入れた。 底の方に残っていたビールに触れて煙草の火がじゅうと音を立てて消える。 僕はちゃぶ台の彼の正面に座る。彼は目を輝かせて袋の中から黒い箱を取り出した。 彼は慎重に箱を開ける。中身は薄い布に包まれた女性用のハンドバックだった。 「君はこのブランドを知ってる?」 彼は僕にそう訊いて、僕は頷いた。有名高級ブランドの一つだ。このハンドバック一つで十万以上するはずだ。 「そうか。有名なのかな」 彼は寂しそうに言って、僕は肯いた。彼はビデオの巻き戻しみたいに正確にハンドバックを箱に戻し、紙袋に詰めた。 「明日、日曜日だろ? あの子とデートなんだ」 彼はそう言って、照れくさそうに笑った。 僕は昨日の夜中に彼が電話で何度もこのバックのブランド名を繰り返し言って覚えさせられていたのを思い出していた。 先月は違うブランドのワンピースで、先々月はネックレスだった。 「明日こそ、付き合ってくださいって言おうと思うんだ」 彼はそう言う。 「でも、あの子の前に出ると言えないんだよね。僕だめなんだよ。そういうの苦手なんだ」 彼はそう言いながらも満足そうに見えた。 「さあ。ご飯作るよ」 彼はそう言って立ち上がった。僕は赤いTシャツの中に手を入れてお腹を掻いた。
「お休み」 彼はいつもよりも安らかに眠る。なんていったって明日はデートなのだ。 to short story index |