真夏日のテトラポッド


秋月 ねづ

 僕と彼女は今日もテトラポットに座っていた。 ここは僕と彼女の家のほぼ中間地点にあたるので、かなり便利なデートポイントなのだ。 近くに駅もなく、海水浴に適する砂浜もなければ、駐車場もない、という辺ぴな場所だったが、 だからこそとても静かで波の音が低く響いていた。
 陽射しがヒステリックに落ちてくる中、僕は釣竿を振っていた。 もっとも、釣りのポイントとしては最低で、ここで魚が釣れた試しはなかった。 彼女はキャップを目深に被り、大抵は読書をしていた。 これだけ陽射しがあると、本はそれ自体が太陽みたく眩しいので、サングラスも必要だ。 彼女は『グレート・ギャッツビー』だとか、『日はまた昇る』だとか『大学入試に出る英熟語2000』だかを読んでいた。 そしてそれに飽きると、海に素足を浸けたり、カニを採ったり、僕の青イソメをイジメたりした。
 僕は軽くロッドを振って、飛んでいった浮きが海に落ちて水が撥ねるのを見た。 口の中には薄くなって舌を切り裂きそうに尖った、不二家のペコちゃんキャンディーがあって、僕はそれを噛み砕いた。
 彼女は『夜間飛行』を読みながら、膝に挟んだポテトチップスを右手で食べている。 ページをめくろうとするたびに、彼女は僕が魚を入れるために海水を入れて置いてある、 透明ブルーのプラスチックバケツの中に手を入れて光の層をかき混ぜた。 バケツの海水が青海苔だらけになっても、僕は別に文句を言わない。 余りに魚が釣れないので、彼女のフィンガーボウルだと考えたって何ら差し支えない。
「もうすぐ一年になるね」
 彼女は本から顔を上げて言った。彼女は本を見てても、読んでないこともある。
「そうねえ」
 僕はキャンディーの白い棒を口で持て余しながら言った。
 そう、僕らが付き合うことになってから、そろそろ一年が経つ。 一年前にはただのクラスメイトだった。その事実は僕を奇妙な気分にさせた。
「一年前のことを考えると不思議だな」
 僕はそう言いながら、リールを回し、緩やかな風をはらんでカーブした余分な糸を巻き取った。
「私達が付き合ってるのは、あなたの、あの不埒なイベントのお陰だものね」
 彼女がそう言う。僕は吹き出しそうになって、口から飴の棒を手で取った。
「不埒……」
 僕がそう呟くと、彼女は笑った。
「どう考えても不埒じゃない? あんな総当たりのダブルデートなんて。リーグ戦みたい」
 彼女はポテトチップスを摘まんだまま僕を指した。
「結果オーライだろ」
 僕はそう言って、彼女の手からポテトチップスを取って食べた。
「五十嵐は佐々木の連れてきたと子と仲良くなったし、篠永は自分の中学時代の同級生何人かと旧交を温めた。 他の奴だって携帯電話のメモリーに何人か女の子が増えたはずだ。 そして俺にはこんなに美人の彼女が出来た」
 僕はそう言いながら、彼女の頭に手を伸ばしたが途中で払われた。 彼女の顔は『美人』のところで少し緩んだが、また引き締められた。
「そんなこと言って、またやるつもりなんでしょ。ああいう不健全なイベント、大好きだもんね」
 彼女は僕を睨みながら言った。僕は笑った。
「やらないよ。もう誰も乗ってこないしね。そんな顔で睨んでるから」
 彼女は二年生になり同じクラスでなくなってから、少し嫉妬するようになったようだ。 一緒に階段を上って同じクラスに入るのと、階段で別れて違うクラスに行くのはそんなにも違うのだろうか。 休み時間とか何してるのか分からないのが、嫌なんだろうけど。それでも昼休みには会える。
「でも、あのイベントにお前が来た時は驚いたな。やられたと思ったよ」
 そう言いながら、僕は含み笑いをした。基本的に、中学時代の女友達を呼ぼうという決まりだったのだ。 まれに幼なじみとかが来ることもあったが、その時のクラスメイトを呼ぶのは完全に反則だった。
「佐々木くん、そういうの好きだからね」
 彼女はそう言ったが、僕はそれが彼女自身の発案だったことは知っていた。佐々木を問い詰めたのだ。 佐々木は口止めされていたようだが、すぐにニヤニヤしながら白状した。
「竹内が休み時間に俺の席へ来て、こう言うんだ。驚いたぜ。
 佐々木くん、ハルくんと夏休み中に遊ぶんだって?
 出来たら、そん時に私も呼んでよ。って。
 でも、俺は全部理解したね。竹内の大まかな作戦も見えたし、それに乗って、 俺がもうチョイ詰めればハルをアッと言わせられると思ってさ。それは乗るしかないでしょ。 最終的にオイシイのはハルばっかりだけど、ハルのあっけに取られる顔が見たかったからな」

 僕はそれを思い出して、今の彼女のしかめっ面が可笑しくて、笑いを堪えた。 でも佐々木の思惑通り、僕はそうとう驚いたのだ。
「佐々木くんもキレる人だからね」
 彼女がそういうのにも、僕は素直に肯いた。

 僕は彼女が待ち合わせ場所に現れた瞬間を忘れないだろう。
 その日も良く晴れて陽射しが強かった。多分、ダブルデートツアーのど真ん中くらいだった。 僕と僕の中学同級の女の子と、佐々木は既に来ていた。佐々木と女の子とを引き合わせて、 僕らは佐々木の呼んだ女の子を待った。佐々木は楽しそうだった。 僕は呑気に僕の連れてきた子を佐々木が気に入って良かったなどと思っていた。 佐々木はしきりに、今日来る子はお前のタイプだからとか言って、僕を期待させた。
 駅の改札から一人の女の子が白昼の強い陽射しの中に現れて、僕は目を細めた。 佐々木がその女の子に向かって手を上げて、彼女の茶色くはねた髪と短パンから伸びる白い足には見覚えがあって、 漠然と何処かで会ったことがあると僕は感じた。すぐに分からなかったのは混乱してたからだと思う。 ホントに来る可能性の無い人が現れたのだから。彼女は僕らの前まで来た時に、やっと僕は分かった。 何故? 竹内さんのはにかんだ笑い顔と佐々木の満足そうな顔を見比べて、僕は『はめられた』と思った。 爆発的に佐々木は笑いながら、僕の連れてきた女の子に事情を説明した。 僕はしきりに悔しがる振りをしたが、内心では嬉しかったと思う。 僕は二、三の害の無い軽口を叩いて、気持ちを落ち着けた。それは僕が経験したことも無い種類の驚きだった。

「俺あの時、すごく嬉しかったんだ」
 僕は素直に言った。そして、立ち上がってゆっくり糸を巻き取り始めた。そろそろエサを付け替える時間だ。
「ウソ!」
 彼女はそう言って本を読む振りをした。 そして、僕が糸を巻き終わって、エサを付け替えようと、針を掴んで座り込んだ時、 彼女は顔を上げてサングラスをずらし、僕の顔を見た。
「ホント?」
 僕は微笑んで肯いた。
「ホントに?」
 彼女はもう一度聞いて、僕はもう一度肯いた。
「嘘!」
 彼女はそういってサングラスを戻して、本に目を伏せた。そして目を落としたまま彼女は呟く。
「でも、もしホントだったら嬉しいかも……」
 僕は彼女に見えないように含み笑って、立ち上がる。 えさを付け替えたロッドを思い切り振って、遠くの方に浮きを落とす。 そしてロッドを置いて、テトラポットの先端を一つ飛んで、彼女の隣へ腰を下ろす。
 僕は手を伸ばして、彼女のキャップを取った。 彼女は水をかけられた猫みたく2、3度頭を振るった。そして、サングラスを取ると、嬉しそうに笑う。 僕は彼女の頭をゆっくりと抱え込んで、去年の夏よりも幾分長くて茶色い髪を撫でた。 彼女は僕の肩辺りで深呼吸をする。
 彼女の髪の匂いが不意に、彼女が学校の階段を上っていくイメージになって、僕はとても懐かしい気持ちになった。
 リノリウムの床と、彼女の短パンの後ろ姿。僕が彼女を見ていた気持ち。僕たちはこんなに近くにいる。僕は満ち足りてため息を吐いた。
「ため息」
 彼女が僕の肩に湿った声で言う。僕は少しだけ笑った。
「ねえ、知ってた?」
 僕は訊く。
「俺の方が先に竹内を好きになったんだよ」
 彼女はゆっくり顔を上げた。前髪が少し額に張りついて、頬が染まっている。僕は彼女の額の前髪を指で剥がした。
「嘘!」
 彼女はそう言って恥ずかしそうに笑う。そして、もう一度、僕の肩に顔を伏せた。 そして小さな声で呟いた。
「もし、ホントだったら、スゴク嬉しいかも……」

 僕はゆっくりと彼女の髪を撫でる。


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