積乱雲とリノリウム


秋月 ねづ

 水色の空に浮ぶ、もくもくとした白い雲が、もうすでに夏休み気分の僕らの気持ちを引き立てる。 僕は駅から高校までの道で出会った、何人かの仲の良い友達と手のひらを打ち合わせ、お互いの幸せな夏休みを祝福した。 僕らはこの夏休みの間に、めいめいに中学の知り合いの女の子を呼んで、複雑に絡み合ったいくつものダブルデートやトリプルデートを企画していた。 その為かみんなの高まっていく期待が、僕に対するハイタッチやら、誰かのオレンジ色のTシャツとか、遠くからの口に手を当ててする含み笑い、に溢れているのが分かった。 僕らは校門を潜り、海風の通りぬける廊下を歩いて教室に向かう。その横を竹内さんはいつものように、挨拶もせずに通りぬけて、先に階段を上っていった。 彼女と僕は同じクラスで隣の席だ。竹内さんとは授業中たまに話しをするけど、彼女は絶対に僕と挨拶をしない。何故かは分からないけど、絶対にしないのだ。
 竹内さんの階段の上り方は変わっていて、一段飛ばしでゆっくりと上っていく。 スピード的には普通に一段ずつ上るのと変わらない。それどころか少し遅いくらいなんじゃないかと思う。 だけど、竹内さんはいつもの通り、カーキ色の短パンから白い足とバスケットシューズをゆっくりと伸ばして一段飛ばしに上がっていく。 それは何かの思想のようにも見える。竹内さんは思想家のように階段を上った。
 僕も竹内さんも時間には正確な方なので、その竹内さんのカーキ色短パンの裾やら、彼女お気に入りの生成りパンツの膨らんだサイドポケットを眺めて、僕は毎朝階段を上ってきたのだ。 それも今日からはしばらくおあずけになる。

 そして、僕らは席についた。僕の席に企画の調整に来ていた何人かの友達も、先生の登場と共に自分の席やクラスに急いで戻り、先生は何種類かのプリントを皆に配り始めた。 僕は蒸した教室の中に風を呼び込もうとして、手を伸ばして窓を開けた時、手に雨が当たった様な気がした。 僕は確認のために手のひらを窓の外に出すと、いく粒かの雨が僕の手のひらを打った。こんなに晴れてるのに……。
「あっ、舌打ち」
 隣の竹内さんが僕にそう言った。
「ごめん」
 僕は無意識に舌打ちをしていたのだ。
「雨? 雨キライなの?」
 竹内さんはそう僕に訊いた。
「雨は好きだな。夏の雨は。でも、今日はちょっとね」
 僕は足を上げて買ったばかりの濃紺のジーンズを見せた。ノンウオッシュのジーンズはカバンや靴にとって致命的に色落ちする。
「今日濡れると、靴が真っ青になる」
 僕はそう言うと竹内さんはにっこりと笑った。
「青い靴だってステキよ」

 僕らは体育館に移動し、終業式が始まった。
 終業式での先生の話はそれほど苦痛ではない。それは僕らにとって今学期最後の我慢だからだ。 突然の雨は幾分僕の気を沈めたけれど、竹内さんとの短い会話はそれを帳消しにしてくれた。僕は竹内さんと話すのが好きなのだ。 竹内さんのことを考えながら僕は、校長の話を聞いて、ジーンズとブルーの靴のことを考えながら、生活指導の注意を聞いた。 ブルーの靴はブルーのジーンズには今一つ合わなかだった。面白味に欠ける。問題は深刻だ。
 でも、終業式が終わった時にはもう雨は上がっていた。

 僕らは教室へ戻り、カバンを背負う。気の早い奴らが、我先に教室を飛び出していく。 ゲーセン、買い物、ご飯。今日の空いた午後をどう過ごすかを議論する声が飛び交う。
 僕はすれ違う友達とそれぞれ挨拶をして教室を出た。僕は待っていた他のクラスの男友達と廊下を歩いて行くと、朝と同じように、竹内さんが僕を追い越した。
「良かったね。晴れたね」
 彼女は振り向いてそう言って、ニッコリ笑った。
 僕が肯いて
「また来学期」
 と言うと、彼女は最初とはちょっと違った笑みを浮べ、
「またね」
 と言った。彼女の変わった笑顔の意味は、僕の友人達の趣味悪い陰謀と共に、僕は夏休み中盤に理解することになるが、なにはともあれ、これが彼女の僕に対する記念すべき初めての挨拶だった。
 そして彼女は階段の下で彼女を待っている数人の女友達の声に答えて手を挙げると、モーグルスキーヤーみたいに階段をタタン、タタンというリズムで降りて行って、友達の中に飛び込んだ。彼女たちは声を立てて笑って、学校の外に向かって歩き出した。

 そして、僕らの高校に入ってはじめての夏休みがはじまった。


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