泥臭い海の文系の魚と理系の山羊

秋月 ねづ
『私はもうこの町にも、あなたの側にもいられないの』
 彼女はそう言って旅立った。
 この泥臭い海の町を捨てて、僕の側を離れて。
 決してこの町が悪かった訳じゃない。僕はそう思う。
 坂が多くて、きな臭い外国の匂いがする町だけど、居心地だけはいい。
 みんながそう思ってる。
 みんな合い言葉みたいに
「いつかこのクソみたいな町から出ていってやる」
 っていうけど、それを言うときはいつだって楽しそうに笑う。
 まるで、親友に軽口を叩くみたいだ。
 でも彼女は出ていった。じゃあ、それは僕のせいなのか?
 それも僕には分からない。どっちにせよ、この町も僕も振られたんだ。それがホントだ。
 だけど正直に言うと、僕は彼女をまだ引きずっている。
 一年前と変わらないくらい僕は彼女が好きなんだ。
 だから彼女と会うって、
 彼女の部屋を見に行くって、いうことになって(どういう話からそうなったのかは省くけど)
 僕はかなり不安になっていた。
 彼女の前でみっともない姿をさらすかもしれないって。
 もう一度やり直そうって彼女の足にすがり付いて泣く。
 僕は少し可笑しくなった。僕ならやりかねないな。
 僕は深呼吸をした。毅然としよう。
 彼女とはもう終わったんだ。
 彼女だってもう意識してないから僕を部屋に呼ぶんだろう。
 だから尚更、僕は平気な顔をして彼女を悔しがらせてやろう。
 楽しい会話をして、彼女をいい気分にさせる。『僕だってそう捨てたもんじゃない』
 僕が帰る頃には、きっと彼女はそう思うんだ。

 電車をいくつか乗り換えて、彼女が住む町に着く。
 僕の住む町からはずいぶんと遠くだ。
 五分ほど歩くと古ぼけたアパートがあって、それが彼女の家だった。
 僕は軋む階段を上がって、彼女の部屋のチャイムを押す。
「はい」
 そう返事があって、ドアが開いた。
 彼女は長い髪を後ろで一つに束ねて、白いTシャツと紺色のジーンズを着けている。
「久しぶり」
 僕がそう言うと、彼女は少しだけ笑った。
「そうね、久しぶり。入ってよ」
 僕は流しと一緒になったような玄関で靴を脱いで、彼女の部屋に入る。
 風呂やトイレすらない六畳一間の部屋はひどく質素で、
 家具は冷蔵庫とちゃぶ台くらいしかなかった。
 窓の前に、何やら分解しかけた機械があって、
 周りには訳の分からない部品が散らばっていた。
「なにこれ」
 僕はその機械を指差した。多分オーディオ機器なんだろうけど、
 僕はバラバラになったオーディオを見るのは初めてだった。
「ああ、CDプレイヤー。友達に貰ったの。壊れたんだって」
 彼女はその機械をちらっと見て言った。
「簡単な故障なのにね。人間なら捻挫くらい。
 それで廃棄処分だもの、たまんないわ」
「捻挫ね」
 僕は自分の手首を握って軽く動かす。
「僕らは医者じゃないからね、わかんないんだよ。彼が……」
 僕は分解された機械を見た。
「軽い捻挫なのか、死に至る病なのか」
 彼女は鼻で笑った。
「それ以前の問題よ。大事にしてないだけ。
 ほんとに大切なら医者に連れて行くわ。
 病状も分からないうちに捨てたりしないでしょ」
 彼女はため息混じりに言う。
「まったく」
 僕は肯いて、プラスチック部品を持ち上げて眺めた。
 僕にはそれがバラバラにされたCDプレイヤーのどの部分に当たるのかさっぱり分からない。
 捻挫したのは手なのか、それとも足なのか。
 僕はそれをそっと元の位置に戻した。
「まさか、伝染病じゃないだろうね」
 僕は両手を広げてみせた。彼女は少しだけ笑う。
「つまんないよ。座って。お茶飲むでしょ」
 彼女は冷蔵庫を開ける。
「ああ。いいもの持ってきたんだ」
 僕は鞄の中から、彼女のために買ってきたワインを出した。
 彼女はしょうがない、っていう風に笑って、開けかけた冷蔵庫を閉める。
「相変わらずね。悪いけど、ここにはフルートグラスなんてないよ」
「いいよ、なんでも」
 僕がそう言うと、彼女はコップを二つ出した。
 僕は栓を抜いて彼女のコップに注いだ。
 彼女は僕の手から、瓶を奪い取って僕のコップにワインを注ぐ。
「イタリアのシャンパンね」
 彼女はそう言って、僕の顔を見た。
「そう」
 僕は肯く。
「へへ、変わったね。あの頃なら注意されたわ。シャンパンじゃないよって」
 彼女はそう言って笑う。
「あの頃私、結構勉強したのよ。シャンパンって言うのは
 フランスのシャンパーニュで作られたモノだけ。
 フランスの他の地方はヴァンムスー、
 ドイツはシャウムヴァイン、イタリアはスプマンテ、
 スペインはエスプモーソ、英語圏はスパークリングワインってね。
 でも炭酸の入ったワインはみんなシャンパン。
 今の私にとってはね。
 どう? 私の言いたいことわかる?」
 僕は肯いた。彼女はCDプレイヤーだったモノの前に座って、
 コップを僕のコップにうちあわせて笑った。
「かんぱあい」
 彼女はその酒を少し飲んだ。
「美味しい」
「だろ」
 僕は彼女の顔を見ながら言った。
 残念ながら(僕にとってだけど)、
 彼女は高校生の時よりもすこしだけキレイに見えた。
 高校生の頃よりも自然な感じなんだ。それがキレイに見える。
「懐かしい」
 彼女は言った。
「ねえ、覚えてる?
 私が初めてシャンパンを飲んだのもあなたと一緒だった」
 彼女はドライバーを持って、
 CDプレイヤーの中のネジを締めながら言った。僕は肯く。
「あの頃、あなたは私よりもずっと上の美学を持ってたわ。
 色んな事を知ってて、いいものを選ぶことが出来た。
 あなたを見ると私の持ってるもの全部ガラクタに見えたもの。
 私はあなたの後をトレースして習った。ワイン、カクテル……」
 彼女は手に持ったドライバーでグラスをかき混ぜるジェスチャーをする。
「それに雑貨、洋服、冗談まで、
 あらゆるセンスをあなたから教えてもらった。
 それで、わたしはあなたと近いものを選べるようになった」
「どういたしまして」
 僕はコップを持ち上げて笑った。
「僕は嬉しかったんだ。
 君はすごいスピードで素敵になって、生意気なこと言って。
 僕は君のことを好きだって気持ちが会うたびに大きくなった」
 彼女は慎重にプラスチックの部品を箱の中のしかるべき場所に置いて、
 またネジを締めた。
「わたしもあなたのこと大好きだったし、
 あなたと対等に話し合えるって事が嬉しかった。
 でもあなたとあの町は、私をぬるま湯にドップリ漬けたの。
 心地良すぎたのよ」
 僕は黙って彼女の話を聞いた。
「私自身が何が出来るか、私自身の美学を、
 私自身の選択を試さなきゃならないって、そう思った。
 そう考えたら、見えなかった色んなモノが見えた。
 機械とかそういうモノがね。
 私そういうのが好きなんだって思えた。
 だから、あの町を出て、理系の大学を受けたの。
 それってすごく勢いが必要で、恐いことだったんだけど……」
 彼女はそこまで言って少し止まる。
「やらなきゃならなかった?」
 僕は彼女の後を引き継いで言った。
 彼女は肯いて笑った。
「そうしなきゃ、きっと今頃、あなたの奥さんになるために短大でも通って
 ガーデニングかなんかしてたんじゃないかな。
 そんなの私らしくないわ」
 僕は笑った。
「そうかな。僕には、それはそれで素晴らしい進路みたいに聞こえるけど……。
 それに似合うよきっと。
 フリルのついたエプロンだってね」
 彼女が少し微笑む。
 僕はワインを一口飲んで、目を閉じた。
 そうか、そんな未来も有り得たんだ。
 僕はその想像の未来の中で笑う自分を少しだけ羨んだ。
「でも、それはきっとあの頃の僕の見てた夢だよ。
 天気のいい日にキレイな庭に二人して座って、
 お茶を飲んだり、ワインを飲んだりする。
 サンドイッチを食べる。ビザ生地をこねる。それで笑うんだ」
 僕は微笑んだ。
「あなた、泣いてるの?」
 彼女にそう言われて、涙が滲んできてるのに気づいた。
 おかしい。僕は笑った。
「こういうのって、なんとなく悲しいよね」
 押さえ切れず涙が頬を伝う。僕は懸命に笑う。
 彼女が近づいてきて僕の涙を拭った。
「馬鹿ね」
 彼女は僕の頬に手を当てて、
 零れ落ちる涙を何度となく拭った。
「私、あなたのそういう所が嫌いなのよ」
 彼女は苦しそうにそう言って、僕の口元にキスをした。
 そして、ゆっくり離れた。
「ロマンチスト」
 吐き捨てるように彼女は言った。
「あなたが、あなたがそんなだから、
 私は見てしまうの。大きな幸せの夢を。
 私が自分一人では絶対掴めないほど大きな幸せが
 あなたとあの町で暮らせば手に入るわ、たやすくね」
 彼女はそう言って下を向く。
 そしてもう一度僕を見上げた時、彼女は一筋涙を流した。
「そう確信してるの。悲しいことにね」
 彼女は泣きながらそう言った。

 僕はもう彼女の部屋を出て帰りたいと思った。
 いや、帰るべきなんだろう。
 こんなことを言ってもしょうがないけれど
 正直、僕は戻りたかったんだ、
 二人で過ごしたあの頃に。
 もしかして有り得たかもしれない幸せの未来。

 でも、いつだって僕は一人でゆっくり帰っていくんだ。
 僕を優しく包む、愛すべきあの町に。

index/ novel/ shortstory/ fantasy/ bbs/ chat/ link