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 凩 優司
 僕がそれに気がついたのは、二年目の春だった。
 それ、というのは、とある奇妙な出来事。
 毎年、春になると僕は部屋を片付け、不必要になった物を押入の中にしまい込むのだが。
 その不必要な物を入れた段ボールが、最初は七箱あったのが、一年目は六箱。そして、二年目は五箱になっていたのだ。何かを買った覚えも、捨てた覚えもないのに。第一、買ったのなら増えていなくてはおかしい。
 一年目は、気のせいだと思った。
 いつも一杯に物がしまわれるはずの押入に、何故か段ボール一箱分だけ空間が空いているのは。
 しかし二年目になって、それは疑惑へと変わる。
 確かに空間が広がっている、と。段ボール一箱分の空間は、まるでその存在を誇示するように二箱分に広がっていたから。
 だけど、僕はその時も深くは考えなかった。
 何か、しまわなくてはいけない何かを、忘れているのだろう、とただ思っただけで。
 だけど、それが何かは思い出せなかった。
 だから、忘れた。いつか思い出すだろうと、楽観的に考えて。そのうち、部屋の中から『それ』が出てきて「ああなんだ、これをしまうのを忘れていたのか」と、気づけるだろうと。
 けれど、僕がしまい忘れたそれに気づくことはなかった。結局、見つからなかったから。しまい忘れた何かなんて。僕はただ、それから一年経った後に、押入の中に段ボール三箱分に増えた空間を見つけただけだった。
 疑惑は、確信に変わる。
 僕の部屋から、何かが消えていっている。しかし僕は、その消えていっているはずの物に、まるで心当たりがない。
 だけど、僕はその時になっても、その現実を受け入れることが出来なかった。しかし。
 次の年に段ボール四箱分に増えた空間を見て、僕はいよいよ、ぞっとする。
 気味が悪かった。
 その気味の悪さを払拭しようと、その時の僕は消えているはずの何かを探そうと、部屋を隅々まで調べはじめたのだった。
「……大掃除とはまた、時期はずれね」
 これ以上なりようがない、というくらいに乱雑になった僕の部屋を見て、恋人の玲奈はあきれた声をあげた。
「まあ、そういうな。ちゃんと訳があるんだからよ」
「訳?」
「ああ」
 いぶかしむ玲奈に、僕は言う。
「見つからない物があるんだよ」
「何を探してるの?」
「……それがわからない」
 玲奈は眉をひそめる。
「……あなた、大丈夫?」
「多分」
 軽口を叩きながら、僕は片づけを途中でほっぽりだし、壁に背をもたれかける。
「駄目だぁ。見つからない。……何なくしたんだろ?」
「何で、その物もわからないのに、何かをなくしたってわかるの?」
「ああ、それは……」
 説明を聞き終わった玲奈は「へえ」と気のない相づちをうった。
「興味なさそな感じだなあ」
「興味ないっていうか……だって、それ。どうしようもないことでしょ?」
 僕はテーブルの上に置いておいたマイセンライトに手をのばしながら言う。
「まあな。でも俺は気になっちゃうんだよ。それだけの量の物がなくなっていて。しかもそれは大事な物であったような気がするから」
「それは気のせいよ。きっと」
 煙草に火を点け。煙を吹き出しながら俺は言い返した。
「気のせいって。実際に物はなくなってるんだぜ? いくら俺でもそこまで間抜けじゃないって」
「私が言いたいのは、そういう事じゃなくって……」
 玲奈もPMに火を点けながら言う。
「大切な物であったような気っていうのが、気のせいだって言っているの。本当に大事な物なら、生活していく上でそれがないのに気づくものでしょ? なのに、ずっとあなたは気がついていない。なら、それは大事そうに見えても、本当に大事な物ではないのよ、きっと」
「そう……のなのかなぁ?」
「そうよ、きっと」
 そう言って玲奈は笑った。
 僕はその笑顔を見て。玲奈を信じてみようと思った。
 だから、忘れた。
 なくし続けている大事な物なんて、何一つないのだと。
 その年は。

「相変わらず糞汚い部屋だなあ」
 開口一番、友人の亮はそう言った。
「うるせえなあ。お前が来るのに、いちいち部屋なんか掃除してられるかよ」
「まあ、そんなもんか。ほれ。お土産」
 そう言って亮は僕に日本酒の一升瓶を手渡した。
「お前も好きだねえ」
「なんだよ、その言い方は。飲まないのか?」
「飲むに決まってるじゃねぇか」
 いつも通りの軽口を叩くと、僕は奥からコップを二つ手に持って戻る。亮はなにも聞かずに僕のCDラックをあさると適当にコンポにそれをのせる。“StrawberryFields Forever”が流れ出す。コップに、透明な液体が注がれる。
 今までに、何度となくくり返されてきた光景だ。
「しっかしよう。汚いってのにも、限度がねえか? こんな所に呼ばれる玲奈さんが、俺はかわいそうだよ」
 友人の言う、その言葉が「ちくり」と俺の胸を刺す。
「大丈夫だよ。玲奈はもう、ここには二度と……こないから。傷つけてしまったから。彼女を」
 僕の言葉に、亮は一瞬だけ顔にかげりを見せる。
「そうか……」
 亮はポツリと、そう一言だけもらした。
 話題を変えよう。話しても、聞いても、楽しい話じゃないし。僕がそう思った時。
 亮の方からすすんで話を変えてくれた。
「……しっかしよぉ。それにしてもこの部屋の乱雑ぶりはひどいな。今日は特に。なんだ?最近は仕事でもようやく忙しくなってきたか?」
「仕事はあいかわらず、食っていくのがやっと位しかないよ。甘くないね。そうじゃなくて。今日が特に汚いのには、理由があるんだよ。ちょっと、捜し物をしててね」
「捜し物? 人間としての尊厳か?」
「そんなもんはとっくの昔に捨てたさ」
「お、ようやく認めたな」
「……この野郎」
 こいつと話していると、いつまでも本題に入れない。別に時間だけはあったのだから、それでも良かったのだが。僕はさらっと本題にそのまま入ってみる。
「実はな……」
 そう言えば去年の今頃も、こうやって同じ事を玲奈に話していたな、と思い出しながら。僕は亮に説明をした。
「……へぇ。そんな事があったのか。で、また今年も捜し物をしているということは……」
「そういう事だ」
 僕は言って、押入の戸をガラッっと開けてみる。そこには、段ボールが二箱。つまりは、五箱分の空間が空いているという事実がそこには厳然と存在していたのだ。
「奇妙なことがあるもんだな……。話、作ってないよな?」
「作ってねぇよ。第一、そんな作り話のために、俺はわざわざこんなに部屋のものを、ひっちらかしたりしねぇよ」
「それは……そうだろうな」
 キャスターマイルドに火を点けながら、亮は思慮にふけりはじめた。しかし、しばらくしてから亮が口にした言葉は「駄目だぁ」だった。
「どうやっても、そんな事の理由はつけられないよ。お前が何か忘れてるって可能性が一番高そうだが……」
「俺は、何も忘れてない」
「って言うだろ。じゃあ……誰かが、毎年一個ずつお前の部屋から色々な物を捨てていってる……ってのもなぁ。お前が気づかない訳はないし。いっそ、水分みたいに蒸発したってのがいいんじゃないか?」
「おいおい」
「冗談だよ。だが、それじゃあ……」
 亮はおどけて両手をあげてみせた。
「八方ふさがりって、訳だな」
「そっかぁ。お前にわからないんじゃ、俺に解りそうにもねぇなぁ……」
 言って僕はマイセンライトに手を伸ばす。火を点ける。紫煙がたちこめる。
 そして煙はやがて天井に昇りきる前に消える。僕の生きてきた証が、やがて時が経てば全て失われてしまう事と、同じくらいに確実に。
「まあでも、それが本当に大事な物なら、そのうち思い出すさ。思い出さないなら、逆にそれは大した物ではないのさ」
「同じ事言うんだな……」
「ん? 何か言ったか?」
「いや……」
 僕はもう一度煙を肺の中に吸い込むと、ゆっくりと吐き出してから言った。
「ただの、独り言さ」

 春の日差しの中、電話が鳴った。
 忙しさの中、ようやく眠りについた僕は、苛立たしげに携帯に手を伸ばした。
「……もしもし」
「何。寝てたの? こんな時間に」
 聞き覚えのある声が聞こえる。だけど、今は聞きたくない声だった。
「お袋か……。なんだよ」
「なんだよ、じゃないでしょ。最近はそっちから全然連絡とってこないんだから。最近はどうなの? ちゃんと働いてるの? こんな時間に寝てて」
「働いてるよ。当たり前じゃねぇか。昨日は野暮用があって、仕事できなかったんだ。で、今日の午前が〆切の仕事があったから、さっきまで仕事して、今眠りについたとこだってぇのに」
「野暮用? あなた、定職にもろくについてないのに、遊び歩いてるんじゃないでしょうね」
「遊んでたわけじゃねぇよ。野暮用ってのは……」
 枕元から煙草を探し当てると、苛立たしげに火を点ける。
「友達の……葬式に行ってたんだ」
「お葬式?」
 母の、驚いた声が聞こえる。
「え? どなたが亡くなられたの?」
「お袋が知らない奴だよ。だいたい、30も近いってのに、お袋に友達関係を全部言う気になんかならねぇよ」
「親に向かって、なんて口をきいているの!」
 耳を電話から話していて良かった。それでも十分に聞こえるくらいの声で、お袋が叫んだからだ。
「はいはい。わかったよ。で、何の用だよ? 俺はもう、眠くて仕方がないんだが」
「何の用って……いつも言ってるじゃない。そろそろ、こっちに帰ってきなさいって……。お父さんも、こっちに戻ってきたら、仕事を見つけるの手伝ってくれるって言ってくれてるのよ? だからね……」
「嫌だ」
 母の声を、僕は一言のもとに切り捨てた。
「俺は戻らない。悪いとは思ってる。でも。負け犬みたいに、何も成し遂げないで、そっちに戻ることは、俺にはどうしてもできない」
「でも、あなたそう言って家を出てから、何年たっていると思ってるの? もう、自分のことだけ考えて生きていけるような年じゃないのよ?」
「年齢は関係ない」
 もう苛立たしさを隠そうとは、僕はしようともしなかった。僕が悪いのはわかっている。それは嫌ってくらいに。だけど、ここでお袋の言うことをのむ訳には、どうしてもいかなかった。
 煙草をもみ消すと、僕はこれ以上ないほど、きっぱりとした口調で言い切る。
「もしこのまま、俺が駄目なままでいるとしても。俺は自分の生き方を変えるつもりはない。ずっと、ずっと。……死ぬまでだ」
 母が、僕の名前を悲痛に叫んだ気がした。だから、僕は携帯の通話をオフにすると、そのまま電源を切った。
 そして忌むべき物を見るように携帯を見ると、その携帯をしまおうと僕は荒っぽく押入の戸を開いた。
 そして、僕はまた現実に直面することになる。
 そこには、一箱の段ボールがあった。
 段ボール六箱分の、空間と共に。
 もう、考えたくなかった。何も。
 だから僕は、逃げ出すようにその携帯を押入の中に叩き込むと、布団を頭までかぶって、深い眠りの中におちていった。
 全てから、目をつむるように。

 まだ寒さの残る春の夜。家に帰ると、僕は最初に清めの塩を体にふりかけた。
 父の、葬式から帰ってきたのだった。
 僕たちの世代は『死にリアリティを感じられない世代だ』と、雑誌で読んだ事がある。
 僕も、その例に漏れないようだった。
 僕には『この世界には、もう父はいないのだ』という事実を、どうしても自分の中に上手く感じ取ることができなかったから。
 だから、あんな事ができたのかも知れない。
 僕は、泣く母を兄に託すと、そのままとんぼ返りでここに……僕の家に、帰ってきたのだった。
 他でもない、自分自身をあきらめないためにという、独りよがりな思いのために。
 その時になって、僕は自分のしたことに気づく。
 僕は、どうしていつまでも駄目なままなのだろう。
 僕は、どうしていつまでも大人になれないのだろう。
 だけど、僕は気づいてもいた。
 僕には所詮、他の生き方はできないだろうという事に。
 それが、免罪符には決してなり得ないことがわかっていながら。
 やりきれない思いに、僕は手を強く壁に叩きつける。
 しかし、振り上げた僕が叩きつけた物は、壁ではなかった。
 そこにあったのは、押入の戸だった。
「今年も……か?」
 僕は唇を歪めると、ゆっくりとその戸を開いた。多くの嫌な予感と、少しの期待を持って。
 そして、僕の期待はかなえられる事になる。
 そこには、何もなかった。
 そこには、段ボール7箱分の、ただ空間だけがあった。
 僕は、奇妙なおかしさがこみあげてきて。
 乾いた笑いをたて続けた。
 うっすらと涙さえ浮かべながら。
「何も……何もない。もう……」
 だけど、何もなくなってから。何もかも失ってからわかる。
 何かがあるというのは、何て不自然なのだろう、と。
 それだけ、何もなくなった押入は自然だった。
「だけど……」
 僕は無意識のうちに呟いていた。
「だけど誰も、何も持たずに生きていけやしないよ……」
 僕は、不自然が欲しかった。
 不自然であるがために、いつか必ず壊れるとしても、不自然がほしかった。不自然な何か、が。
 だから、僕は立ち上がった。
 そして、不自然な何かを抱え込むために。出会うために。
 失うことがわかっているのに。
 僕はそっと、玄関の扉に手を伸ばした。

 扉の向こうにある何かと、触れあうために。

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