It's time to say good-by

 凩 優司
「……もう私たち、お別れみたいね」
 時は流れる。
 それは無情なほどに、残酷に。
「もう、そんな事を言うなよ。そんな……悲しいことを」
 俺は君に言った。
 本心から。
 だけど。そう、俺は知っていた。
 知っていたはずだった。
 時が流れれば、出会いと同じように、やがて別れもやってくるだろうという事を。
 君がいつか、別れの言葉を口に出す時がやってくるだろうという事を。
「悲しいことでも……それは事実よ。私たちは、どうあがいても、こうやって一人に戻っていってしまうのよ」
「一人に、か。……そうかも知れない。君はよく言っていたね。『人間は誰もが一人だ』と。『人が自分以外の誰かとわかりあえるというのは、幻想だ』と」
 こんな時だというのに、俺はひどく優しげな想いで、微笑みさえ浮かべて、君に話しかけていた。
「……俺も、そうだよ。俺も、ずっとそう思って生きてきた。だけど今は……君が言っているように、それが全くの無駄であるとは思わない」
「無駄ではない、ね……。……じゃあ、あなたは今、それについてどう考えているの?」
 君も、笑っていた。まるで、これから訪れる長い別れを、何とでもない事だと思っているかのように。
 そして俺は思い出す。
 君のそうやって自然に浮かべられた笑みに、自分がどれだけ救われてきたのかを。
「今では……俺は……それは無駄ではなく、貴重なものであると思っているよ。そう、ひどく貴重なものだと。俺と君が、たとえ本当に解りあうことができなかったとしても。君なら俺の事を解ってくれるかも知れない。或いは、俺なら君のことを解ってあげられるかも知れない。そういった幻想を共有できる相手に出会えたということを……俺は、本当に、今では貴重なものであると思っているんだ」
「あなたらしい言葉ね」
 君は僕の言葉に微笑むと、そっと手をベッドから出した。俺は何も言わず、その手の上にそっと自分の手を重ねる。それくらいしか、俺にはしてあげられなかったから。
 どうしてだろう。
 どうして俺は、こうやって別れの時が来るまでに、君にもっと色々な事をしてあげてこなかったのだろう。俺には君に、そうしてあげる事ができたはずなのに。
「……そんな顔をしないで、あなた」
 後悔の念が、顔に浮かんでいたらしい。ちょっと困ったような表情で、君は俺に言葉をかけた。
「私も本当は、あなたに会えた事を貴重に思っているわ。だって私はあなたを……愛しているのですから」
「……知っているよ。俺も同じように、君を愛しているのだから。今までも、今も、これからも、ずっと」
「……知っているわ」
 そう言った君の手に、不意に力がこもる。
「……どうやら、本当にもう、お別れみたいね」
「そうか……」
 にわかに、その時周囲が慌ただしくなった。いよいよ、本当にお別れという事なのだろう。だけど、俺には他に何もできなかったから。
 俺は君の手を握りながら、ずっと君の目を見つめていた。
 そしてやがて……君の手に込められていた力が、ゆっくりと抜けていった。
 耳に『ピーッ!』と耳障りな機械音が届く。
 医者の『……ご臨終です』という言葉が聞こえる。
 その全てを、俺は無視した。
 ゆっくりと、俺は君の……妻だった女性の手から、自分の手を離す。
 そこにあるのは、皺の多い手。
 二人が刻んできた時間を物語る、皺の多い手。
 そして俺の手にも、君と同じように皺は刻まれているのだった。
「大丈夫だ……」
 俺は無意識のうちに、君に話しかけていた。(大丈夫だ。俺も必ず其処に行く。そう、遠くもないうちに。だから君は、そこで俺が来るのを待っているといい。心配しないで。だって、心配しなくても……)
 誰の上にも無情なほどに、確実に、時は流れ去っていくのだから。

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