羽根イメージ 涼やかな羽根
煎餅屋光圀
 それを何に例えようか?

 踝まで埋まる黒い灰の中をかき分けながら、僕とネコは一歩一歩確かめながら急勾配の斜面を登っていた。
 檻の中の古い記録によると、以前にこの山を越えた人間はもう200年前まで遡ることになるらしい。当然のように道なんて上等な物は存在しなかった。
 道の無い斜面は僕等の体力と気力を容赦なく削り取っていき、僕等がまだなんとか立っていられるのは、僕等の中にあるプライドとやり場の無い怒りに似たものの為だと思うが……でも、そろそろ限界が近いようだ。
 吹き付ける風はとても強い。生き物の存在しないこの大地では当然見渡す限り遮蔽物はなく、ビーズのようなガラスの破片が容赦なく斜めに僕等の体を打つけていく。一寸先はもやのかかったような黒い霧に覆われ、その全ては有毒な微粒子の黒い灰の壁であった。それらは僕等の肺と喉を焼く。僕等は鉄と砂利の味のする唾液を何度も飲み込むことになり、その度に吐き気と戦う。
 状況は最低の底を抜いていて、とても正気じゃいられないはずなのに、心が一刻事に落ち着いていくのが僕には分かった。
 僕の前を歩くネコが突然蹲り、咳と一緒に血を吐きだす。
 僕はソレを黙って見つめている振りをしていたけれど、内心では笑いたくなる気持ちを抑えるので必死だった。

 僕等は運が致命的なほどに悪くて、僕はそれ以上に頭が悪かった。
 檻の医務室の中、僕はリッカの亡骸を見つめてソレを確信すると、青白い唇に一つキスをして、リッカの指から指輪を外して部屋を出る。何故か分からないけどその瞬間、指先が震えた。
 部屋の中ではもう、泣いている者は一人としていない。
 時間は僕等の心をちっとも癒しはしなかったけれど、状況を判断する冷酷な隙間をそれぞれの胸に穿ち始めていて、その内それは絶望を呼ぶのだろう。その危うさはきっと僕を傷つけようとするに違いない。
 ソコにある悲しみの雰囲気は、僕を打ちのめして駄目にしてしまう。僕はリッカが死んだことを素直に悲しめないでいた。でもそれが悪いことだとは少しも思わない。状況はこんがらがった糸のように複雑で、解きほぐすたびに鋭い痛みを伴って僕の胸を刺す。僕の中の整理がつくまでには、まだまだ長い時間が必要みたいだ。でも、その頃にはもう、僕は上手く泣けないだろう。
 今まで気付かなかったけれど、ある種の喪失感と言う物は、悲しみよりも大きな感情を産む。僕はそれを知っていて、それに備える事の出来なかった。
 とりあえず今はまだやることがある。リッカが僕にそれを望んだのなら、それはきっと僕にしか出来ないことなんだろう。僕は指輪をポケットに入れ、老人達に背を向けた。自分を納得させる理由も人それぞれだ。
 檻は、全長250Mを越える超弩級のスペースシップで、リッカの産まれてから死ぬまでの世界の全てだった。船にはいささか立派過ぎる名前が付いていたけれど、ぼくらはそんな名前にまったく興味が無かった。檻とはネコが付けた名前だ。名前は役割に付くべきだと彼は言う。それは正しいと思った。
 僕は歩き慣れたチタニウムの床を踏み、エレベーターを上がって展望台に出る。展望台と言っても外は黒い塵に包まれ何も見えはしない、場所に便宜上の名前を付けただけの物だった。ソコには当然のようにネコがいて、リッカの育てていた花に水をやっている。
「なにをしてるんだい?」
 僕はネコに尋ねる。ネコは僕の方を見ようともしない。
「花に水をやっているんだ」
 とネコは短く言い放ち。
「リッカとの約束だからな」
 と小さく付け加えた。植木鉢からは水が溢れていて、展望台の固い床に小さな水たまりを作っていた。水は僕たちにとってとても貴重な物だ。でも誰も彼に止めろとは言えないのだろう。
 死んだ人間との約束は重い。その点でリッカは狡いと僕は思った。

 リッカは僕の2つ年上でネコは僕の1つ下だ。僕等の世代は3人だけで、後は頭の固い偏屈な老人達とレクチュアラーと言われる人工頭脳が、僕等の知っている限りの生命体の全てだった。リッカと僕は人口子宮から産まれ、ネコはイルムという女性から産まれた、いわばネコだけが正当な最後の人間っていう訳だ。その後は何故か人工授精は上手く行かなかった。船の装甲に限界が来ていて、外部の有毒物質が保存されている種に悪い影響を与えているんだろうって、技術官は言っている。僕は単純に種としての限界が来ているんじゃないかと思っていた。余り関係のない話だけど、先が無いっていう点で僕等の考えは一致している。
 とにかく、僕等に残された選択肢はあまり上等な物とは言えなかった。
 僕とネコは当然の様にリッカを愛し、老人達は当然の様に僕等の子供を望む。
 リッカが13になり初潮を迎え、僕等に精通が始まると、僕等は毎晩リッカの部屋に行かされた。
 それは権利とか義務とか倫理と意志とかそういう物に関係なく、ただの望みであった。そこに悲しみがあるとすれば、拒否が出来ないという事だけだろう。それは勿論、立場的にも感情的にもという意味での話だけど。
 暗い部屋の中でリッカの白い体が動く。僕は椅子に座りサイドボードの上に置いてある水差しで喉を潤しながら、ネコとリッカの行為を見つめていた。
 リッカはベットの上で口元に手を当ててくぐもった声を上げ、ネコは目を瞑って首筋にキスをする。関係のない話だけど、ネコは首筋に、僕は太股の内側に、僕等はリッカの体にそれぞれ自分だけの印を刻んでいた。その印は多分ずっと消えることはなく、僕の心にざらざらとした砂をまき続けるのだろう。
 ネコが終わったら次は僕の番だ。リッカの肌や臭いや体温は、多分僕のこんな孤独を簡単に埋めてしまうに違いない。そしてそれは正しい事だと、老人達も、レクチュアラーも、ネコも、リッカでさえも口を揃えて僕に言う。「それは良い事だよ」「それは正しいことなのさ」「貴方は間違っていないわ」って。
 そんな言葉に簡単に頷いてしまう僕は弱く、その言葉で癒され、その言葉を一番望んでいるのは他ならぬ僕自身だった。

 黒に近い灰色は、黒ではない。
 だからこれは正しいと信じることにする。
 最低だ。

 もう何度こんな夜を過ごしただろう……僕は悲しくなって泣こうとしたけれど、なぜだか上手く泣けなかった。泣く理由が見つからないのに酷く悲しい、多分自分の感情の一部が死んでしまったんだろう。まるでいつか本で読んだ箱の中の半分死んでる生き物のようだ。誰かが箱を開けてくれるまでの短い命かも知れないけれど……観測者よ、残念ながら僕はまだ生きている。
 僕の心は少し痛んでいて、泣きたいのに何故か笑えた。
 不意にネコが僕の名前を呼ぶ。ネコはローブを身に纏い、僕の飲みかけのグラスから生ぬるい水を飲んだ。
「エリア、お前の番だぜ」
 ネコが僕の肩に手を置いて言う。見ればリッカは裸のままベットの上で荒い息をしていた。僕はネコの手を邪険にならないように払いのけて呟く。
「今日は止めておくよ。体調がどうにも思わしくないんだ」
 僕の言葉にネコは眉をしかめ、そのまま額にてを当てた。
「よせよ」
 僕は笑ってネコの手を払い、立ち上がる。
 お前は格好いいよ。余計なことを考えない分だけ俺より頭も良いだろう。
 こんな時代にうだうだ考えている奴は馬鹿だ。僕もネコもリッカもそれは痛いほどに知っている。知っていて考える事を止めない僕は馬鹿だ。
 こんな悲しみの詰まった部屋から希望が産まれず、ただ自分をすり減らしていくダケなのは分かっている。それだけに、ここに居ることは僕には耐えられなかった。
「寝る前に医務室へ寄っていけよ」
 部屋を出るときネコが僕に声をかけた。僕は頷いて部屋を出て、風が音もなく扉を閉めた。

 リッカの部屋を出て、僕は医務室に出頭し不安を訴えた。
 医務官は睡眠薬を調合しレクチュアラーのセラピーを受ける様に僕に言う。
 それは僕のいつもの手だ。
 僕は不自然に明るい廊下を進み、細い路地を曲がって艦橋に出た。艦橋には巨大なガラスケースに入ったレクチュアラーと言う名の鼠がいる。彼は実に色々なことを知っていて、僕等の些細な疑問には全て答えてくれる。彼はある意味親切で、それ以上にとても残酷な存在だった。
「やあ、エリア」
 彼は僕を見つめてそう言う。僕は苦笑してガラスケースに寄りかかる様に座った。
「君は3日と開けずに来るな。前回は33時間と27分前に来た」
 彼は困ったというより嬉しそうに僕に言う。彼の喜びは他人の役に立つ事。それは彼の存在意義とも言える物で、産まれた時からその役割を与えられもう2000年も生きている。
 そんなに長い時間生きていられるのは精神構造に手を加えられているからだと、前に彼自身が教えてくれた。彼自身に生じた悩みは、彼の中のロジックで補完できるように作られているらしい。
「羨ましいね」
 と、その時僕は言ったけれど。
「そうでもないさ」
 と彼は苦笑して答えた。未だにその意味がよく分からないけれど、2000年という時間を経た重みと真実が、その中には確かに感じられた。
 言葉の重みや説得力は、時間が与えてくれる物なのか? なんだか自分の考えに素直にうなずけない……
「……ねえ」
 僕は彼に尋ねる。
「2000年生きるって、どういう感じがするの?」
 僕の言葉に彼は少し笑って答えた。
「どうって事ないさ。鈍色の草原で手も足も動かせずに、体中からだいだい色のキノコが生えてくるのを肌で知り、それを頭が2つある兎が食べているのを見ている感じ……とでも言えれば、何かしらの答えにはなったのかも知れないけどね」
 彼ははそう言って、ガラスケースをコツコツと前足で引っ掻いた。
「ただ生きているだけなら2000年が3000年になろうと変わらないさ」
 僕は少し頷いたけれど、納得したと言うよりも誤魔化されたような気分になった。彼はそんな僕を見て言う。
「じゃあ、逆にエリアに聞くよ。エリアが産まれてから今現在まで15年経っている訳だけど。15年生きるって、どういう感じがする?」
 その問に、僕は少し考えた。考えたけれど、薄っぺらくて平坦な、ただ流されて行くだけの15年にどれだけの意味があるのだろう?
 僕は首を振り。
「どうって事ないね」
 とだけ言った。どうって事無いっていうより、0を表す言葉はそれしか無かっただけだったけど。
 彼は静かに頷き。
「そんなもんさ。15年が1000年になろうと2000年になろうと、何も変わりはしない。それが答えだよ」
 と言う。僕も頷くしか出来ない。
 君の「どうって事無い」と僕の「どうって事無い」にはかなりの違いがあるけれど、答えとしては100点で、違いが分かっただけでも聞いてみる価値はあった。
 彼は僕を見つめてため息をつき、それから少し苦笑する。
「君はいつも難しいことを聞いて来るんだな」
「なにが?」
 僕は少し笑って尋ねる。彼は肩をすくめた。
「しかも本人には自覚が無い……いいかい? 君の問には幾つも答えがあるのに、君が望んでいる正解は一つしかない」
 彼の言葉に僕は苦笑した。そうかも知れない。
「でもまあ、人の問とはすべからくそういう物を含んでいる物だ。感情は数式とは違う」
 彼はそう言って少し疲れたように笑った。
「よく分からないよ」
 僕が言うと彼は首を振る。
「愚痴だよ……あまり言い感情とは言えない」
 僕は少し笑って頷いてあげた。彼には彼なりの悩みがあって、それはやっぱりしっかり根をはって深いのだろう。彼の中のロジックがそれを処理するのに時間がかかるのかも知れない……
「1足す1は?」
 僕は試しにレクチュアラーに聞いてみた。レクチュアラーは苦笑して首を振る。
「一般的な答えは2だよ。数学的に言えば0もありえるし、2進法で言えば10、観念的に言えば大きな1にもなる……でも君の望んでる答えはどれでも無いね。答え無しもまた答えなり。違うかい?」
 僕は頷き立ち上がった。
「思ったより難しいね」
 とレクチュアラーは笑い。
「君は頭が良い」
 僕はそう答えて部屋へと戻った。

 睡眠薬の魔力は強い。
 何も考えられずに魂が闇の奥に引きずり込まれる感じは、ある意味クセになりそうな原始的な快楽に近く、たとえて言うなら自分の命をギャンブルのチップにするような危うさがあった。別に僕は勝とうが負けようがそんな事はどうでも良いのだ。勝ってしまえばまた僕は賭けるのだろう。負けは一度しか訪れないし、その後の事も考えなくて良い。勿論老人達はそんなに強いクスリを調合してはくれないけれど。
 そんな事は言っていても、結局は余計な事を考えずに眠れるのが一番良い。自分で命を絶つ覚悟なんかはなっから僕には無いんだ。目を覚まさなければ良いっていうのは本心だけど、それは自分の所為であってはいけない。自分が本当に人間のくずだと思い知らされるのはこんな瞬間なんだ。
 僕は水も無しにクスリを飲むと、そのままベットに横たわる。
 眠りに落ちる瞬間、悪い夢を見ませんようにと祈りを捧げてみたけれど。祈った相手は神様じゃ無いような気がした。

 僕等に生じた悩みの根は深い。しかもその原因を無くすことは不可能だった。
 今日はリッカの定期検診の日、いつからだったかもう忘れてしまったが、僕とネコは医務室の前でリッカを待つのが通例となっていた。
 老人達の悲痛な顔に疲れ切ったリッカを、一人にしておく事は僕等には出来ない。僕等に出来る事なんてそう大したことでは無いけれど、それでも彼女のために何かの役には立ちたかった。いや、僕は多分邪魔なだけだったんだけど。
 リッカは女の子でとても傷つきやすい。最悪なことに僕は時々ソレを忘れる。
 ネコはなんていうか、女の子の扱いがとても上手かった。リッカを不用意な一言で傷つけるような事は絶対しない。リッカを傷つけるのは主に僕の役目で、ネコはそれを慰める役。とても分かりやすい図式であり、頭の悪い僕にとっても彼の存在はありがたかった。
 誰にだって不安はある、僕はそれにリッカを巻き込んでしまう。ただそれだけの事なんだけど。気を付けていても、それは隠しきれる物じゃ無いんだ。
 人の傷つき方にはそれぞれ違う形があって、リッカの場合は全てを止めてしまう。そしてただただ黙って静かに泣くのだ。僕はそれを見るのが耐えられなかった。リッカの涙は、僕の心の深いところにまで染みいって来て、僕は溺れてしまわないように逃げまどうしか出来ないでいる。それを見かねたネコはリッカのねじを巻きつづけた。
 動き出したリッカは必ず僕に言う。
「ごめんなさい」
 その一言を聞くたびに、言葉は徹底的に僕を打ちのめした。

 ネコが僕に言う。「もう少し上手くやれよ」
 僕はネコに言う。「お前がいなければな」
 その言葉は冗談だったけど、半分だけ本心だった。

 日付の感覚が酷く曖昧になる。
 それはその日だったかも知れないし、また違う日だったかも知れない。
 またそれは夢であったのかも知れない……本当の所はよくわからなかった。
 僕は夜中に不意に目が覚めて、すぐに暗い部屋の中に人がいるのが分かった。
「ネコだろ?」
 暗闇の中で答えは無いけれど、僕は何故だかそう確信する。目的も何となく分かっている。僕には出来ないことだ、僕とネコの差っていうのはこういう所に如実に現れるんだ。分かりやすいだけに打ちのめされる。
 暗闇の中でカチリと音がした。それはわりと聞き慣れた音、ハンドブラスターの安全装置を解除した音だ。ネコの息は荒い。でもその分だけ僕の心は静かになっていって、恐怖は全くと言って良いほど感じなかった。
「分かってるよ。そうする理由も意味も」
 僕はそう言って目を瞑り、自分の心臓の音だけを聞いていた。いつもより少しだけ脈が速い。その時また一つ僕の中で恐怖という感情が死んだのが分かった。僕は少し笑った。
「ハンドブラスターの安全装置を外した音を、すぐ近くで聞いたことがあるか?僕は10日に一回ぐらいの割合で聞くよ。でもそれを最後の一回にすることがどうしても出来ないんだ」
 僕は呟き、声を上げて笑う。ネコは暗闇の中で動かない。
「本心を言おうか? 君が引き金を引いてこの茶番を終わりにすることを、君以上に僕や、リッカや、老人達が、みんながみんな正しいと思っているよ」
 僕は言い、目を開いてネコを見る。
「遅すぎたぐらいだ。躊躇せずに撃てよチキン野郎!」
 暗闇の中に閃光が3つ走って、僕の枕に3つ穴が空いた。僕は瞬きもせずにそれを見つめ、指先一つ動かさなかった。
「お前のような奴には、リッカは渡さない」
 ネコはとても静かにそう言う。ネコは泣いていた。
「お前の方が、俺を殺したいと思っているんだろ?」
 ネコが言い。僕は首を振る。
「君は何も分かっていない」
 僕がそう言うと、ネコは笑ってブラスターを床に落とした。
「分かってないのはお前だよ」
 そう言い残して、ネコが部屋から出ていった。

 僕は老人達に言う。
「僕とネコを一緒にリッカの部屋へ行かせるのはやめて下さい」
 僕の言葉はあっけないほど簡単に了承された。

 それ自体がどんな形をしていたのか思い出せない。
 あの夜以来、僕とネコの関係はとても表面的な物だけになってしまっていた。
 一番最初に気付いたのは、予想通りリッカだった。
 裸のリッカは僕の腕の中でクスクス笑う。僕はリッカの頭を撫でて苦笑した。
「なにがそんなにおかしいの?」
 僕は聞いてみた。リッカは目を細めて笑みを浮かべると僕の腕に軽く噛み付く。僕等が別々の夜を過ごすようになってから、僕はそれまで以上に上手くやれている。痛みよりは少し鈍い快感の方が大きく、それ以上にくすぐったかった。
「2人とも若いよね」
 リッカはそう言って僕の心臓の上に頭を載せてその音を聞く。それはリッカのクセだった。どうやら生きてるって実感が沸くらしい。
「喧嘩の原因はなんなの?」
 リッカは僕の右手に指先を絡めてそう聞く。僕は少し笑い。
「喧嘩なんてしてないさ」
 と言ったけれど、ソレは本心だった。
 僕等は喧嘩なんてしてない。僕はネコに撃てと言い、ネコは撃たなかった。ただそれだけの事だ。
「そう? ネコは違うことを言っていたけど?」
 そう言って リッカは僕の目を下からのぞき込む。イタズラっぽく笑って呟いた。
「ネコはあなたが嫌いなんですって。見てるとイライラして来るって言ってたわ」
 僕は頷き。
「まあ、そうだろうね」
 と答え、
「僕もイライラするよ。僕自身に」
 と付け加えた。
 僕の答えにリッカは少し悲しそうな顔をする。
「わかってないのね」
「わかってるさ」
 僕は答え。
「みんな同じ事を言う」
 と言う。リッカは僕の頭を胸に抱き。
「問題はとても簡単なことだし、答えはもっと馬鹿みたいに単純なの。貴方自身がそれを難しくしちゃってるのよ。それは若さの所為であるし、ネコも貴方自身もそれが耐えられないの」
 と呟いた。
 それが僕にだけ向けられた言葉ならどんなに嬉しかっただろう。でも、リッカはきっとネコにも同じ事を言うんだ。多分そっちが本心なんだろう。
 リッカ、君は優しすぎるよ。そしてその優しさこそが僕等を駄目にするんだ。君もそれが分かってない。
 僕は悲しくなって、リッカの乳房にキスをした。

 大昔、まだ人間に空と広大な大地と海が与えられていた頃。人は愛する人に指輪を贈り永遠の愛を誓う習慣があったそうだ。
 昔、僕等3人で古い書物を読んだときにそれを知った。
「いつかぼくらは3人で海に行こう」
 ネコが言う。リッカは笑って頷き、僕も笑った。
 海は僕等の憧れだった。行けるはずのない場所は、絶望よりはむしろ希望を産んだ。その頃の話だ。今では誰も口にしない。
「その時、ぼくはリッカに指輪をあげるよ。リッカは僕にちょうだい。だって僕はリッカが好きだもん」
 ネコが言い、僕も言う。
「狡いよそんなの。僕だってリッカにあげるんだよ」
 僕とネコは子供っぽい喧嘩をし、とっくみあいになった事を覚えている。リッカは泣いていた。老人達が僕たちを止めるまでで、そんなに長い時間では無かったけれど。
「愛する人にに贈る指輪は一つじゃなきゃ駄目なの?」
 リッカはそう言って、老人達はそれに答えなかった。
 それから僕等はレクチュアラーに聞きに行く。思えばレクチュアラーがこの時、適当で優しい嘘を言ってくれれば何の問題も無かったはずなんだ。僕等は聞く人選を誤った。
「贈る指輪は一つだけ。それに貰えるのも一つだけだよ」
 その時の言葉は、その後の僕たちを呪詛のように縛り付けた。
 ネコとリッカはその後、あまりレクチュアラーに近寄らなくなった。考えてみると積極的に彼に近づこうとする人間は少ない。真実というのは時に人を傷つけ、だれもそれを否定できるほど強くは無い。その事を知っていて、そう判断したんだから彼等は頭が良いのだろう。僕だけが、いつまでも彼と対話を求めた。
 でもそれはレクチュアラーの所為では無いのも確かだ。僕が言いたいのはそれだけなのかも知れないけど。
「僕はリッカに指輪を贈らないよ」
 僕はその時確かにそう言った。
 ネコとリッカは何も言わなかった。
 その後死ぬほど後悔して。不眠症は未だに続いている。

 3人でかわした約束は重い。
 2人がそれを忘れても、僕だけは死ぬまで覚えているだろう。

 あの夜が明けた翌朝、リッカの左手に指輪が光っているのを見た。
 思っていたよりも感情が動かない。多分また僕の中で何かが死んだ。
 早くこの日が来ることを、僕は本当は望んでいたのだと気付く、でも少し遅すぎた。ネコを恨む理由があるとすればそれだけだった。
 僕はリッカの指輪の事には、一切触れなかった。
 いや、触れなかったんじゃ無い、出来なかった。それが正解。
 理由なんか無い。
 用意していた言葉は「おめでとう」だった。
 僕の部屋がまた一つ、言葉の死骸で埋まった。

 −12月23日、リッカが妊娠した事が分かった。−
 僕は日記の最後にそう書いて、その日以来日記を付けるのを止めた。
 DNA鑑定の結果は僕等には知らされなかったから、父親がどっちなのか僕等には分からないけど。僕は本心から僕で無いことを祈り、僕であって欲しいと願っている。僕はその頃重度の不眠症に陥っていた。
 その日からリッカは花を育て始めた。
 展望台に植木鉢を並べて、あきれるほど大漁の水を消費していたけれど、老人達は何も言わなかった。リッカはクスリと笑う。
「ご褒美なの」
 そう言って水を蒔くリッカはとても楽しそうで、横顔は今まで見たリッカの中で一番綺麗だった。
「こんな世の中に子供を産む事に不安は無いの?」
 僕はそれを言葉にして聞いてみる。口に出してから、僕は死ぬほど後悔した。リッカが傷つくのが分かっていて、僕はそれを口にしたんだ。
 でも、リッカは笑う。
「何を恐れるって言うの? 私がいて、エリアがいて、ネコがいて、そしてこの子がいるの。足りない物なんて何も無いじゃない」
 僕は首を振る。
「明日は?」
 リッカは笑った。
「寝て起きたら、それが明日よ」
 リッカはとても強くて、2年の年の差以上の隔たりを感じ、言葉には確かな重みがあった。母親とはこういう者なのかも知れない。
 僕は何も言い返せなかった。

 リッカが産気づいたのは、出産予定日より1月以上早かった。
 長老が僕とネコを呼び軽く説明をしてくれる。
「残念ながら子供は駄目だろう。このままでは母胎が危ないんだ」
 長老の言葉は重く、僕はただ黙って頷いた。ネコは。
「リッカに会わせてくれませんか?」
 と間髪入れずにハッキリと言った。長老は少し考えてから頷く。
「エリアはどうする?」
 ネコは僕に言う。僕は頷くしか出来なかった。

 駄目だ、僕はネコに何一つ勝てやしない。
 自分の中に傷つく部分がまだ残っていることが、僕にはなんだか笑えてくる。

 僕が医務室に入ると、青白い顔でリッカは弱々しく微笑み手を差し伸べた。
 僕は両手でリッカの手を握り、ネコはリッカの髪を優しく撫でた。
「大丈夫、心配しなくて良い」
 ネコが小声でそう呟くと、リッカは安心したように頷く。
「ねえリッカ、子供の名前は決めたの?」
 ネコが言う。リッカは頷いた。
「コリエル……ネコとリッカとエリアから一文字ずつもらったの。駄目かな?」
 その言葉にネコが笑った。
「駄目じゃ無いよ、とても素敵な名前だ。なあ、エリアもそう思うだろ?」
 ネコは僕に顔を向けとても辛そうにそう呟く。僕は黙って頷いた。
「ほら、エリアも良いって言ってるよ」
 ネコはそう言って立ち上がる。限界だろう、僕は酷く冷めた目でネコを見つめてそう判断した。人間としては多分それが正しいと思うけど、僕がネコに求めていたのはそんな物では無いんだ。
 僕はリッカの手を優しく握って言う。自分が想像していたよりも、感情は動かない。
「リッカ、落ち着いて聞いてくれ……」
 僕の言葉を聞き、ネコは僕の胸ぐらを掴んだ。
「お前!」
 僕はネコの目を見据えて言う。
「君の行動はある意味とても正しいと思うよ。でも今僕等がしなくちゃいけないのはそんな事じゃない」
「ねえ、何の事よ?」
 リッカが僕等を見て少し笑う。その強がりが僕にはわかるんだ。
 僕はリッカに微笑みを投げて、ネコに言う。
「離せよ」
 その言葉は強くも弱くもなくて、それだけにネコは僕の言葉にうなだれて手を離した。
「本当は、ネコが言うのだと思っていたよ。僕はその点で君を軽蔑する」
 僕はそう言ってネコの背中を押し、リッカの側に座る。
「真実だけを言うよ」
 僕はリッカに優しく言った。リッカは強い決意で頷く。
 リッカはもう、僕の言葉に動きを止めはしないだろう。ネコがねじを巻く必要もない。彼女は母親で、多分僕等の何倍も強い。
「子供が未熟すぎるんだ。このままでは多分助からないだけじゃなく、リッカ自身も危ない。長老は子供をおろすって言っていた」
 リッカは思ったよりも静かに笑った。僕も笑って頷く。それだけで僕にはリッカの考えていることがよく分かった。
「長老達はある意味正しい。これから先の人生を考えれば子供はまた出来るだろう」
 僕は出来る限り静かに言った。僕の中の大半も同じ意見だった。
 リッカは僕の目を捕らえて離さない。多分僕の中の真実を見抜くだろう。はなっから隠し事が出来るほど僕は器用じゃない。
「本心を言えば、僕は多分それを望んでいると思う……自分でもよくわからないんだ。でも、僕の意見なんかよりも、それ以上にリッカ自身に決めて欲しいって願ってる。リッカが決めた事なら、僕はどんな選択だって支持するよ。狡いかも知れないけど、そういうことなんだ」
 僕はそう言って、それ以上の言葉が出なかった。
 リッカは小さく頷いて、顔を上げた。
「ネコはどうしたら良いと思う?」
 リッカはネコに言う。ネコは後ろを向いたまま小さな声で呟いた。
「俺は……リッカに生きていて欲しい」
 ネコの言葉にリッカは静かに頷いた。

 数日後、手術の前に僕等はそれぞれリッカの部屋に呼ばれた。
 リッカの体力はもう限界に近いところまで来ていて、子供を産むことは不可能と判断されたみたいだ。最後まで自分で産むんだとリッカは言っていたけれど、手術で子供を取り上げることを彼女は渋々承諾した。
 医務官は僕等に最後になるかも知れないと言う。その上で、どちらが先にリッカに会うか決めろと言った。僕は黙ってネコに後を譲った。

 部屋の中でリッカは僕に微笑む。
 頬は痩せてコケ落ち、あの綺麗な横顔は見る影も無かったけれど。今までで一番素敵な笑顔だと僕は思った。
「やあ……」
 僕は思わず赤面してしまい、それだけ言うのがやっとだ。リッカはそんな僕を見てクスリと笑う。
「君は、とても綺麗だ……今までずっと言えなかったけれど」
 僕は言う。それは本心で、その言葉だけで愛おしさがこみ上げてきた。
 僕の頬を涙が伝わる。僕は泣けた事を素直に嬉しいと思った。
「私は多分……死ぬわ」
 リッカは微笑んで僕に言う。
 その瞬間、僕はリッカの頭を抱きしめて何度も口づけていた。
 用意してきた言葉は沢山あって、理性で言わなくてはいけないことも分かっている。「手術の後に聞くよ」「弱気になるなよ」「深刻な事は全て終わってからにしろよ」全部が全部嘘っぱちだ! 僕はリッカを抱きしめて、僕だけの物にしたい。それだけが真実で、後の事なんか知ったこっちゃない。
「リッカ…………リッカ……」
 僕は泣きながらリッカの名前を何度も呼んで、リッカは僕の頭に手を乗せてしたいようにさせてくれた。
 僕はなんでこんなに弱いんだ。こんなに後悔するぐらいなら最初から長老やネコの言うとおりにしておくべきだったんだ。
 奴らの言っている事が真実じゃ無いか! 子供なんて優しい嘘にくるんで殺してしまうべきだったんだ。
 僕はリッカに……いやリッカだけでは無くネコに、長老に、老人達に、みんなに謝った。誰か僕をこのまま殺してくれれば良いのに。
 リッカは僕の頬に手を当てて、僕の唇にキスをした。
 ゆっくりとリッカの唇が離れて、リッカは首を振った。
「違うのよ、私は感謝してるの。貴方だけが私を母親でいさせてくれたの」  
 違うよ、僕は首を振る。リッカは僕にキスをした。
「貴方は強いわ」
 違う! 僕は首を振った。僕の両目から涙が溢れた。リッカは僕にキスをした。
「貴方は私無しでもやっていけるわよね?」
 出来ないよそんな事。
「頷いて」
 リッカは僕の目を見て言う。僕は身動きが出来ない。
「お願い……頷いて」
 リッカはもう一度言った。
 僕は、ただ黙って頷くことしか出来なかった。リッカはそれを見て微笑む。
 リッカがこの瞬間に求めているのが強い僕なら、僕はこの瞬間だけでも強くなろうって思う。
 微笑んで僕はリッカに言った。
「出来ないよ……そんな事」
 僕は言ってリッカを抱きしめる。
「でも、努力はしてみるよ」
 リッカは微笑み、僕に2つキスをくれた。
「愛してるわ」
 リッカはそう言ったけれど、やっぱりそれも僕だけに言った台詞じゃ無いだろう。僕はリッカに何も言えない。
 室内は驚くほど静かで、世界中に僕等2人しか居ないみたいだった。本当にそうなら良かったのに。僕は静かに立ち上がり、リッカに最後のキスをする。
 リッカは立ち上がる僕の腕を掴んで言った。
「お願いがあるの」
 僕はただ黙って頷いた。

 コリエルは産声を上げなかった。
 リッカも一緒だから寂しくないだろうって、僕は思う。
 リッカと話をしたときあれほど流れた涙が、全然出なくて僕は困った。
 これで一つリッカとの約束が終わった。「コリエルを恨まないで」
 約束通り恨んではいないけど、泣けない僕は……多分壊れた。

 それぞれがそれぞれに思うところがある。
 ネコがリッカとの約束を守って花に水をやるように、僕も約束を果たさなければならない。簡単なことだ。ネコにこの指輪を返すだけ。ただそれだけ。
 リッカがそれを僕からネコに渡すことを望むのなら、僕はそれをしなくてはならない。僕は自分の感情を殺してポケットの指輪を手でもてあそんだ。
 言うのは簡単だ。実際に指を動かすのは酷く難しい。僕にはどうしてもそれが出来なかった。
 ネガティブな理由を見つけだし、それに名前を与え、それを奥歯でかみ殺し擦り潰す。時にそれは「嫉妬」だったり「孤独」だったり「弱さ」だったりし、僕は上手にそれらを砕いて行ったけれど、手はどうしても動いてくれなかった。
「なあ……」
 不意にネコが振り向き、僕に言う。
 室内光は十分に明るく、完全密封された船内には吹き荒れる風の音は聞こえない。僕にはネコの言葉が僕を責めているように聞こえる。
「……」
 でも言葉は続かなかった。
 ネコが僕に言いたいことは沢山あるだろう。
 例えば、あの時撃たなかった事を後悔しているとか。
 例えば、リッカに子供を産ませるのは間違いだったとか。
 例えば、俺の方がリッカに愛されていたとか。
 なんでお前なんかがいるんだでも良い。何でもいいから言ってくれ!
 その言葉はきっと僕にきっかけをくれるだろう。そして僕は指輪を渡して死のう。そう決めると心の水面に優しい風が吹いた。
 しかし、ネコが言った言葉は僕の予想とは違った。
「海ってどんな物だろうな」
 ネコはただそれだけを静かに言う。
「……海?」
 僕が聞き返すと、ネコは少し笑って何も見えない窓の外を指さした。
「あそこに山がある、勿論この窓からは見えはしないから確かめようも無いが、標高は4000Mを僅かに越えるぐらいだって話だ」
 そう言ってネコは僕を静かな目で見つめる。
「もっとも大戦前の地図でしかないけどな。でもその向こう側、数キロ先には海があるらしい」
 そう言って笑うネコに、僕は言った。
「行ける訳ないだろ? 外は放射能と有毒な塵に包まれた死の世界だ。自殺しに行くようなものだよ」
 僕の言葉にネコは静かに首を振る。
「違うだろ? そんな事はどうでも良いことだ。それに……」
 ネコは笑い僕の目を見据えてハッキリと言う。
「自殺も何も、そもそも俺等は生きてすらいない」

 僕はいつものようにガラスケースに寄りかかって座る。
 何も考えずに思いついた物を片っ端から口にして、僕は自分をすり減らして行く。レクチュアラーはただ黙って僕の話を聞いていた。
 ネコがなんであんな事を言いだしたのか、本当は僕にも分かっていた。
 僕等は産まれてから今まで、まるで生きていた実感が無いんだ。
 リッカの行動を一つのファクターとして捕らえれば、彼女はあの時確かに生きていた。僕等にその情熱は無い。ただそれだけの違いだ。
 見せられて始めて分かった。僕が泣けない訳も……
 僕は話をしながらそこまでたどり着くと、その日初めての質問をする。
「生きるってどういう意味だろう?」
 僕は静かに聞いて、彼も静かに答えた。
「君の生きるって言葉に、意味なんか無い。でも価値は確かにある」
 その言葉に僕は笑う。
「まるで無理問答だね」
 僕の言葉に彼は頷く。そうだよね。こんな事にはなっから答えなんてある訳が無いんだ。僕は頷いて再び尋ねる。
「僕等は……人類はこれからどうなると思う?」
 彼は首をすくめて答えた。
「知らないよ。ファクトリーで新しい種同士の結合はこれからも続いていく。今現在、君がファクトリーで産まれた最後の人類ではあるけれど、未来永劫そうだとは限らない。この船には掃いて捨てるほどの精子も卵子も保管されて居るんだ。老人達が死に絶えても人類は終わらないかも知れないよ」
 彼の言葉に僕は笑った。年々船の腐食は続いていて、保管されてる種なんてあてに出来ないことは、僕だけじゃ無くみんな知っていた。
 僕はその時気付いた。本当は彼に答えを求めていたのではなく、答えを確認しに来ているだけなんだって事を。彼の言葉は全て僕の中の真実だったんだ。
 だから、まあ、それで十分だ。    
 僕は少し考えて、レクチュアラーに最後の質問をした。
「人類って、滅んじゃった方が良いと思わないか?」
 僕の問にレクチュアラーは笑う。
「滅びるのが良いか悪いかで言ったら、滅ばない方が良いに決まってるだろ」
 レクチュアラーはそう言い。僕は笑った。
「その答えは僕の求めている物とは違うよ」
 彼がそう答えるのを知っていて言わせた。僕は卑怯者だ。
「そろそろ行くよ、約束を思い出したんだ」
 僕は言い。
「今ではもう、かなえることの出来ない約束だけど……それだけに反故には出来ない」
 と呟いた。彼は。
「誰かとの約束なんて素敵だ」
 と言う。
「君は可哀想だね」
 去り際に僕は彼に言ったけれど。
「そうでも無いさ」
 と彼は苦笑して答えた。

 展望台で僕は、ハンドブラスターの安全装置を外した。
 聞き慣れたカチリって音と供に、リッカとの約束がまた一つ終わったことになるだろう。「ネコをよろしく」
 よろしくって、こう言う事だろ?
 僕は笑いながらひとつ、またひとつと植木鉢をハンドブラスターで打ち抜いた。船の警報装置がけたたましく鳴って、老人達が集まってくる。ネコは僕の行動を冷めた目で見ていた。
 そこにあった植木鉢を全て打ち抜き、花弁をナイフで細かく切り刻むと僕はネコに言う。
「他に壊す物は無いか?」
 ネコは僕の目を見て静かに言った。
「お前の頭」
 僕は笑い、ネコは何も言わずに僕の頬を殴った。

 今、僕等が何処に立っているのか誰も知らない。
 数100メートル先はただの暗闇だし、僕のすぐ後ろはたんなる過去だ。
 まあ、なんて言うか、人生の尺図だな。僕はその時そう思った。
 出発は深夜。ネコは黙って部屋を出て、僕は黙ってその後に続く。あれ以来僕等は一言も口を聞かなかった。ネコが外部ハッチのパスコードをメインコンピュータから盗み、水と食料を数日分蓄えていることは船の中の全員が知っている。知っていて誰も止めなかったって事は、そういう事なんだろう。
 ハッチを開けるとき、ネコは僕に振り向き何かを言おうとした。
「なんだよ?」
 僕がそう言って笑うと、ネコは何も言わずにハッチを開いた。
 あれはいったいどれくらい前の事なんだろう?
 時間の感覚なんて、外の世界にはまるで無かった。
 僕等は昔の地図だけを頼りに歩き続け、山の麓らしき所にたどり着いた頃には、僕は1回、ネコは2回血を吐いている。
 なんていうか……地獄ってこういう所なんだろうって僕は思った。

 せき込み蹲るネコを僕は見つめ、檻から持って来たスコップで簡単な壕をその場に作った。
 僕より先にネコが死ぬ、僕はそれだけで満足だ。その事実だけで僕はネコにいくらでも優しくすることが出来る。
 ネコを壕に寝かせ、僕の分の毛布を掛けてやり、水筒の水を飲ませた。
 大半の水を血と一緒に吐き出し、青い顔でネコは僕に笑う。
「情けねえな……」
 ネコは言い。僕は首を振った。
「俺はもう、駄目だと思う」
 ネコの言葉は……多分事実だ。
 僕はその時、ネコがもう立てない事を悟った。多分彼はこれで終わりだろう。
 何かが音を立てて崩れる……ソレは僕の表面を覆っていた殻だと分かった。
 僕は……ポケットの中からリッカの指輪を取りだす。指先が震えて声も出ない。
 僕は馬鹿だ。
 僕は泣いた。
 泣いて死ぬほど後悔した。
「リッカの望みだよ、コレを君に……」
 震える声で、絞り出すようにそれだけを言うと、僕は突っ伏して嗚咽をあげる。
 本当は、僕はこの瞬間の為に彼についてきたんだ。僕はそれが痛いほど分かった。僕の中で死んだと思っていた感情はちゃんと生きていて、僕が信じていた物こそが全て嘘っぱちだった。
 ぼくはリッカの死から何も学んではいない。
 僕は失ってしまった物の大きさに、今更ながら気付いた。
 ネコはそんな僕を見て、少し優しい顔をすると懐から一通の封筒を取り出す。
「俺は、エリアがその指輪を持っていることを知っていた。リッカはエリアが約束を果たしたら、この手紙を渡すように俺に言った……」
 ネコはそう言ってせき込む、僕が手を差し伸べると、ネコは僕の手を振り払った。
「俺は……俺とリッカは、エリアがそれを出来ないんじゃ無いかと思っていたんだよ、その指輪には魔法がかけてあってな……ごく些細な事なんだけど……」
 ネコは僕の手から指輪を取り、小さく口づけた。
「嘘なんだよ……全部。俺はお前の約束を楯に、リッカに何度も指輪を贈ったんだ。『エリアは指輪を贈らない』『はめなくても良い、貰ってくれるだけで良い』どんなになだめてもすかしても、リッカは絶対に受け取ろうとはしなかった」
 ネコは苦笑し、僕はただ黙って聞いていた。
「ある日俺は指輪に魔法をかけて贈ったんだ。リッカはその時初めて喜んで受け取ったんだ。ずっと待ってたって」
 ネコの言葉に僕は少し笑う。
「良かったじゃないか……」
 僕の言葉にネコは笑った。
「お前は俺を軽蔑するよ……その指輪は俺とエリアの2人からって言ったんだ。すぐにばれると思っていたし俺はそれが怖かった。だから……俺はお前の部屋に……」
「言わなくて良い!」
 僕はネコの言葉を遮って言う。   
「どうして今になってそんな事を言うんだ? 僕は君の事を尊敬していたし、認めてもいた。君に負けるなら仕方が無いって……僕は……」
 ネコは笑う。
「嘘だな……」
 ネコの言葉に僕は頷く。確かにそれは嘘だった。
 僕等の間に重苦しい沈黙が続く。
 やがてどちらとも無く笑いがこみ上げて来て、僕等は馬鹿みたいに笑った。
 僕等はこんな所でしか本音を言い合えない。
 悲しくて悔しくて、笑うより他何も出来なかった。
「俺は……その封筒を渡されたとき、リッカに全部話したんだ。でもリッカは、それをすでに知っていたんだよ」
 ネコは言う。
「俺が最後に見たリッカは、やっぱり笑ってた」

「最後にひとつ嘘を言って良いか?」
 ネコは息を引き取る前に静かにそう言った。僕は黙って頷く。
「コリエルは俺の子供だ。リッカもそれは知っていた。勝ったのは俺だ……」
 僕は何も言えなかった。ネコは笑った。
「その中に嘘はひとつだけだ」
 ネコはそのまま息を引き取った。
『何から言えば良いのか分かりません。とりあえず一言謝っておきます。ごめんなさい。この手紙は恐らく、エリアには届くことは無いでしょう。悲しいけどそれが事実だし、仕方が無いって分かっているの。だから真実だけを簡単に書きます。

私からの贈り物を最愛のエリアに。愛を込めて。
リッカ』
 封筒からは指輪がひとつ出てきた。それが手紙の全てだった。
 僕は笑って指輪をはめた。なんていう重さなんだろう。
 なぜだか涙が出てきた。
 僕は一度もリッカに「愛してる」って一言を言えなかった。
 僕はしばらくネコの側に座って、ただ呆然としていた。
 答えはすぐに出る。約束はもう些細な事なんだろうと思う、後は僕が決めるだけなんだ。
 不意に咳込んで血を吐く、決心が鈍るけど僕は立ち上がり、ネコに言う。
「僕は、やっぱり行くことにするよ……生きるために」
 このまま座って、ネコの側で朽ち果てるのも悪くない気がする。ネコも本当はそれを望んでいる気がした。
 でも、それでは僕等の全てが嘘になるだろう? 僕はもう、嘘はたくさんだ。
「僕は産まれてもいないのに、死ねないよな?」
 僕はそう強く自分に言い、自らの一歩を海に向かって歩き出した。


 それを何に例えようか?
 僕はそれを一片の羽根の様だと言い、この話を凩氏の一番暑い夏に贈る。

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