煎餅屋光圀
海の匂いを抱いた南風が僕を誘う。
僕の好きな季節がやって来たのだ。
日差しを照り返す小川に銀色の小魚が映えてキラリと光り、僕の瞳を焼く一瞬や、高く伸びた夏草の茂みで通り雨をやり過ごす時に聞く、雨粒が土を打つ音の一つ一つに僕は命というものを感じる。
「ごらん、世界はこんなにも不思議にみちている。」
もう忘れちゃったけど、幼い僕を抱えた人が言った言葉だ。
その頃の僕にはよく判らなかった、でも今は何となく判る、なんとなくだけど。
あっ、自己紹介が遅れたね。
僕は、ねこ。
名前は無いんだ。
生まれた時には付けてくれたかも知れないけど、今となっては知る術がないよ、だって生まれた頃のことを覚えていてくれる人は既に居ないんだもん。 今じゃ、名前が無いなんていうのも割と気に行ってるんだけどね。ほんとだよ。ほんとだってば。
僕は黒猫、艶やかな毛並みは町一番さ、特にこの尻尾が自慢かな?
きっと、君が町で僕を見かけたとしたら絶対振り返ると思うよ。絶対だね。
そしたら、僕は尻尾をピンと立てて興味ありませんて素振りをして見せるんだ、僕はプライドの高い野良猫だからね。その辺にいる……まあいいけど。
とにかく、僕はねこに生まれて良かったと思うんだ。
別に僕がそう望んだわけじゃないけど(誰だってそうだよね)、ねこっていうのもこれはこれでいいものだ。
そりゃ、辛いこともたくさんあるさ。一日中、それこそ足を棒みたいにして探したって餌にありつけないことや、同じ格好をした変な集団(学生っていうのかな)に捕まって、僕を袋に閉じ込めたあげく池に放り込まれたこと。変なだんごを食べて3日間くらいのたうち回って死にかけたこととか、ね。
でもね、あの教会の屋根に上がって沈んでいく夕日をみれば、そんなことどうでもいいことだって思えてきちゃうんだ。
南には海が見えてね、オレンジ色の光が海を照らせば、ほんとは青いはずの海が水平線の彼方までオレンジに映るんだ。それに、大きな建物にかかったあの白い旗が、西日を受けて黒いシルエットを浮かび上がらせるんだけど、オレンジをバックに風を孕んで翻るそれは息を呑むほどの美しさで。僕に大切な何かを教えてくれる気がするんだ。
綺麗だよ、とても。いつか誰かとこの景色を分け合えたらとは思うんだけどね、なかなかね。
この感覚はねこじゃないと判らないかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
とりあえずねこには判るみたいだから、ねこで良かったと思うことにしている。本当によかった。
まあ、そんな感じで夕日を見るのが僕の日課になっているわけだけど、最近その景色の中にちょっと面白いものを発見したんだ。
それはね、太陽に向かって咲くあのひまわりの事。
彼は(彼女かもしれない)朝、東を向いてるんだ。
だけど、夕方には西を向いてる。
一日中見ていた訳じゃないからこれは推測なのだけど、彼はずっと太陽を見てるんじゃ無いかな?
海辺に彼は咲いていて、世界がオレンジに染まる頃に決まって彼は涙をみせた。
影が長く尾をひいて、長身で細身の彼の姿を鮮やかに浮かび上がらせる、そして一瞬見せるあの涙。
魅了、って表現が一番近いかな? とにかくその姿があまりに綺麗だったから僕は目を放せなくなる。
気がつくと僕は走っていた。
昨日は出来なかったけど、今日の僕なら出来る気がする。
理由は……強いてあげれば、今日の夕日があまりにも素敵だったからかな。
彼なら判ってくれるって、なぜか予感みたいなものがあるんだよ。
軒先を駆け抜け、空き地を走り、柵を飛び越えて力の限り僕は走った。こんなに走ったのって生まれて初めてじゃないかな?
でも、そうしないと彼が消えちゃう気がしたんだ。
何でだかわかんないけどね。
そして、彼のもとにたどりついた。
辺りはすっかり暗くなっていて、月明かりに照らされた彼はまるで死んでるみたいに見える。それに僕が思ってたよりもずっとおおきいし、不格好だった(いささか幻滅したのだけれども)。
でもね、予感を確信に変えるだけの何かが彼には確かにあったんだ。
だから、僕は思い切って声をかけてみた。
「こ、こんにちは」
自分でも思うけど今のぼくってかっこ悪い。
彼は少しだけ僕の方に顔(花かな?)を向けて笑った。
「こんにちは、はじめましてだよね?」
「うん、そうだね」
やっぱり、彼だった。彼女じゃない。
「何か私に御用かな、え〜と、ねこさん」
用? 用と言われるといささか難しいな、なんて言おうか。
「え〜と、今日は小川で魚を採ったんだけど……その……、珍しく三匹も採れたんで、なんかいいことあるかなと思っていたら……、ゆ、夕日がね、とても綺麗だったんで……、その……」
ああっ、ちがう。僕が言いたいのはそうじゃなくて。
それでも、彼は大人びた表情を僕に見せて、こう言ってくれた。
「うん……、今日のはいい夕日だった。九五点位あげてもいい」
ああ、これだ。やっぱり彼なら判ってくれる。
「うん、綺麗だったね。でも百点じゃないの? 僕なら百点あげてもいいと思ったけど」
「百点をあげちゃったら、今日よりも素敵な夕日に申し訳ないよ、その時はどうするんだい?」
「その時はやっぱり百点なんだと思う、素敵な夕日はいつも百点なんだ」
彼は目を細めて楽しそうに笑った。
「素敵な夕日はいつも百点か、君はとても心が綺麗なんだね、羨ましいよ」
心が綺麗? そんなこと言われたのは初めてだ。
僕は顔が赤くなってしまったので照れ隠しに言ってみる。
「貴方だって、夕日を見て何時も泣いてるじゃないですか、それこそ、心が綺麗じゃないと出来ないよ」
しまった、誰だって泣いてる所なんか見られたいはず無いんだ。怒らせちゃったかな、と思って彼の方を見てみると、彼は少し照れたみたいにみえた。
「見てたの、恥ずかしいな……、おかしいだろう」
「ううん、そんなことないよ」
そんなこと。だって綺麗だったから、羨ましいとさえ思っているんだ。ほんとに。
「だって、綺麗だもん」
だから、僕はいってみた。
「ありがとう。でもね、私の心は綺麗なんかじゃないんだよ」
「……?」
僕にはよくわからないな。
その続きが気になったけど、彼の次の言葉は全然別のことだった。
「ねえ、良かったら君の名前を教えてくれるかな? いつまでも、君とか、ねこさんでは変じゃない」
「う、うん……」
「嫌かな?」
ちがうんだ、貴方を失望させるかもしれないと思うと。でも、事実は事実なんだし、いつまでも隠してはおけないよね。
「……実は、僕には名前がないんだ」
「……そう」
あれ? いつもこの話をすると失望するか、哀れむかどちらかの目でみんなは僕を見るのに。
この目はちがう気がする。
「変だと思わないの?」
「どうして? 何処が変なのさ。名前が無いのも私はありだと思うよ。だって、そのことで君が変わりはしないだろ。それにね、我々ひまわりには最初から名前もないし。ねこはねこ、ひまわりはひまわり。私は私、そして君は君なんだ。今私の前にいる君は名前が無いことを肯定して、そのことからなにかしらの影響を受けて存在している。そして一番重要なことは今の君に私が好意を持っているということさ」
「好意? ああ、好きって事だね。ありがとう、僕も貴方のことが大好きだよ」
初めてだったんだ、その時が。好きって言うのも、言われるのも。
また一つ、わかったことがある。それは、生きていく上でこういうことが大切だってこと。それから、何げない一言でとんでもなく幸せになったり、不幸になったりするってこと。
考えてみると当たり前のことだよね。
でも、その当たり前のことって、とても大事なことじゃないかな。
それから、僕らは一晩中話をした。
風のこと、海のこと、太陽のこと。
大切なこと、どうでもいいこと。
いつまでも、話はつきなかったんだ。
そして、夏の初めに僕に初めての友だちができた。
「やあ、こんにちは」
彼との一日はこんなあいさつで始まる。
私はひまわり。
海辺に一本だけ咲いているひまわり。
しかし、生まれてからこれまで寂しいと思ったことはない。
青い海と、穏やかな風、そしてあの美しい太陽があるのだ、これ以上何を望むというのか。
それにいまじゃ、友だちもいる。
私の友だちはねこ。
しっぽが素敵で心が綺麗な黒猫。
いつも私に色々な事を教えてくれる。
彼は、これから先色々なものを手に入れていくだろう。それに比べて私はどうだ、日に日にいろんなものを失っていくばかりではないか!
何故、自由に歩く為の足が私にはないのだ。
何故、純粋に世界を楽しむ綺麗な心が私にはないのだ。
何故、何故、なぜ?
太陽よ私に教えてくれ、私は何を持っている?
彼に何を語ればいいのだ。
身を焦がすほどに望んでも。
貴方は決して答えてくれぬ。
貴方はきっと沈んでしまう。
ねこくん、私はね。
君が言ってくれるほど、綺麗な心を持ってはいないのだ。
私は、あの美しい太陽を愛している。
そして同時に憎んでいるんだよ。
「ねえ、君は、何か愛しているものを、壊したいと思ったことはある?」
彼は、首をかしげると聞き返した。
「……? それは自分の好きなものなんだよね?」
「そうだね」
彼は、ますますわからないって顔をする。
「じゃあ、壊しちゃったら後悔するんじゃないかな?」
「そうだね」
「じゃあ、答は簡単だね、そんなことは無いよ」
それは、君が本気で好きになったことがないから。
「君は、後悔したことないの?」
「ないよ、って言いたいとこだけど、実は後悔してばかりだよ。今になって思えば、ああすれば良かったとか、こうすればもっと面白かったとかそんなことばかりさ、でもね……」
「でも?」
「うん、全部は過ぎちゃった事じゃない。後悔はするけど次に同じ事をしないことが多分一番大事なんだと思うよ」
うん、それは正しいと思うよ。
でも、私が聞きたいことはそんなことじゃない。
「ねえ、でも後悔しない生き方があればそれが一番いいとは思わないかい?」
彼は、少しだけ考えると軽く笑って答えた。
「そんなことは出来無いんじゃ無いかな、誰だって生きてる限り後悔はすると思うよ。貴方はちがうの?」
「いいや、私も後悔はするよ」
ただ、それに耐えられないだけなんだ。
辺りはだんだん暗くなっていき、また圧倒的な橙色が世界を染め上げる。
また、今日も太陽が沈む。
私がこんなに願っているのに。
沈まぬ太陽を。
「……泣いてるの?」
長く、影を背負って彼が問いかける。
泣いている? 私が?
自分でも気付かないうちに、涙が頬を伝って落ちた。
わかっているんだろう、適わぬ願いだって事に。
だからって、どうしようも無いじゃないか!
「ねえ、後悔しているんだったら、明日の太陽を見ればいいじゃない。後悔しないやりかたで」
彼が、気遣うように言った。
でも、明日太陽がまた上ってくる保証が何処にある?
もし、上がってきたとしても、私に何ができる?
私は、其れこそを知りたいんだよ。
だって、夏は永遠じゃないから。
夏の風が僕を誘う。
でも、僕の好きな季節はもう終わろうとしていた。
僕の初めての友だちは最近元気が無いみたいなんだ。
ご飯をちゃんと食べて無いからなのかな?
それとも、夏が終わるからなのかな?
わからないけど、彼はどんどんやつれていくように僕には見える。
だめだ、だめだ。
暗い考えを打ち消す様に僕は夕暮れの中を走る。
海辺に咲いている彼の元に。
「やあ、こんにちは……」
やっぱり、彼は昨日よりも弱っているみたいだ。
差すような日差しは、今日に限って穏やかで。
こんな日は……、なぜか涙が出る。
彼は弱々しくほほ笑んで、僕に告げた。
「やあ……、今日は君に話さなきゃいけないことがあるんだ」
いやだ、聞きたくない。
僕は、耳を塞いで聞こえない振りをする。
彼はやっぱり笑っていた。
「私はね……、我らひまわりはね、夏の間しか生きられ無いんだ。そして、もうすぐ夏が終わる。そうしたら、君とさよならしなくてはいけないんだ。」
「夏は、終わらないよ!」
僕は、大きな声で叫んだ。
だって、だって。
「どんなに願っても出来ないことがあるんだ」
彼は少し寂しそうにつぶやいた。
でも、僕は……。
「ねえ、いつか話してくれたよね。あの教会の屋根から見える太陽のこと。私は最後にその太陽が見たいんだ。連れて行ってくれるかい?」
そんなこと言わないで……、そんなことをしたら。
「そんなことをしたら、貴方が死んでしまう」
彼は、優しく笑っていた。
そんな風に、笑わないで。
「これはね、単なるわがままなんだよ。本当は私はここで、あの太陽しか知らずに静かに消えていくはずだった。でも、私には違う消え方が選べるんだ。これは素敵なことじゃない?」
海は、ただ青かった。
風は、ただ優しかった。
これは、僕にしか出来ないことなんだ。
でもね……。
「後悔はしないの?」
僕は、きっと今、ひどい顔をしていると思う。
「何を後悔するっていうのさ。それに後悔しない生き方なんて出来ないって君がいったんだよ」
そうだね。
僕は笑ってみた。うまく笑えてるかは自信が無い。
でもね、せっかくだから、貴方には僕の笑っている姿を見せたいんだよ。
少しだけ。少しだけ彼が泣いた。
「もう、あまり時間が無い。友だちとして最後の頼みだ。やってくれるかい?」
僕はもう迷わない。
彼の細い身体に牙をたてるとそのまま引きちぎった。
そして、彼の身体をくわえなおす。
「痛い?」
僕は、彼に聞いてみる。
彼は首を振ると少しだけほほ笑んだ。
「痛みは、当の昔に感じなくなっているんだ、心配しなくても大丈夫だよ」
僕は頷くと、教会に向かって走る。
考えてみると、こんなに走ったのは二度目だね。
よくよく君は、僕を走らせる。
でも、そんなに悪い気はしないから不思議だ。
ただ、心が痛いだけだよ。
やがて、丘の上に教会の尖塔が見えた。
時間は……、まだ大丈夫。
僕は、空を泳ぐようにがむしゃらに走った。
そして、教会の木を駆け上がり、屋根の上に到着する。
「着いたよ」
僕は、彼を屋根の上に降ろした。
彼は、薄く目を開けると僕に囁く。
「ありがとう」って。
やがて、世界がオレンジに変わり始める。
いろいろな事を話したいけど、言葉が見つからなかった。
「ごらん、世界はこんなにも不思議にみちている」
昔、幼い僕を抱えた人が言った言葉だ。
屋根の上の、ひまわりとねこと太陽。
本当に不思議だね。
世界がこんなに美しいなんてね。
稜線は、オレンジと黒のコントラストを映し出し。
空は、青とオレンジに染まり、境目は不思議な紫色だった。
見えるよね。
これが、君の見たがった景色だよ。
やがて、彼は涙を見せた。
「綺麗だね」
「うん」
「今日の夕日なら百点をあげてもいい」
「うん」
「僕はね、あの太陽を愛していたんだ」
「うん」
「そして、同時に憎んでもいたんだ」
「うん」
「太陽がね……、僕のものになればいいのに、って思ってたんだ」
「君のものさ、あの太陽は君のものだよ」
「あの太陽が、沈まなければいいのに」
「沈まないさ、今日の太陽は沈まないんだ」
僕の目からも涙が出てきた。
もう、にじんでなにも見えない。
君の姿さえ。
「ありがとう、君に会えて」
「ぼくもさ」
「本当にありがとう」
それが、最後の言葉だった。
風はもう僕を誘う事はない。
でも、また明日太陽が上って来るように、夏もまたやってくる。
いつか、僕が何かを愛するようになって。
もし、それが手に入らないものだったら。
僕は君みたいにそれを憎むようになるのだろうか。
わからないけど、今はそれで良いと思った。
だって、持っていないものを失うことは出来ないんだから……。
これらは、全部君が教えてくれたことだよ。
ねえ。
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