―トマト―

煎餅屋光圀

トマト[tomato](tomateスペイン)
 ナス科の一年生果菜。果実は扁球形、赤熟または黄熟、栄養に富み、多くは生食し、また、ジュース・ソースなどに製する。

 夏の話を書くことになって、最初に浮かんだのは彼のことだった。
 だから僕は、トマトの話をしようと思います。
 それは、話と言うよりは夏の覚書……いつか来る夏を忘れないようにしておくための日記のような物かな?
 とにかく、話は彼が部屋にやって来た所から始めよう。
 彼が部屋に来たのはまだ肌寒い3月の事だと思った。
 そのころ僕は大学に通うために共同で3LDKの部屋を二人で借りていて、家賃を折半して暮らしていたのだが、共同生活者(奇妙な事だが友人では無く、ほかの呼び方が適当とは思えないのでこう呼ぶことにする)が家族の都合で田舎に帰る事になり、新たな共同生活者を生協のちらしで募集していた。
 そして、その第一号が彼というわけだ。
 むろん、彼の名前は本名では無い。
 僕は、物覚えは悪い方では無いと思うが、彼の名前を思い出すことが出来ない、たぶんそれほど重要な事では無いからだろう。
 彼は、初めて会ったときに自分をトマトと名乗った「親しい友人にはそう呼んでほしい」トマトは右手を差し出してそう言った。
「でも本名じゃないだろう?」僕は(馬鹿馬鹿しいとは思うが)手を握り返して聞いてみる。
「うん、でも僕は自分の名前が嫌いなんだ……握手は嫌いかな?」
「好き嫌いは考えた事が無い……でも意味は無いと思う」
 トマトは、口のはしを少し吊りあげ「ふむ」とうなった。
「意味はあると思うよ、僕らのようにある程度生活に密着することが確定している人間が、とりあえずしておくこと……どうかな?」
「それは、意味じゃないよ、たしかに辞書に乗ってそうな答だけどね。まあそれはいいや、話を戻そうか、どうして名前がきらいなんだい?」トマトは、さらに困ったように口のはしを吊りあげて「ふむ」とうなった。
「……自分の名前が嫌いな理由……、難しいね、考えた事もないよ、それこそ意味がないからかな?」
「名前に意味がない?」
「うん、握手と同じくらいね」
 そう言うと、トマトはにこやかに笑った。

 僕らの共同生活は大きな問題もなく続いた。
 トマトは音楽科の2年生で僕と同い年だった。
 トマトはバイオリンを専攻していて、週に二度先生について習っていた。そして、それ以外の日は消音器を付けて毎日2時間バイオリンを弾いた。 その音を聞く度に僕はひどく切ない気持ちになる。
 その音はとてもきれいだった、でも、それ以上に悲しそうだった。
 彼の奏でる音は降りやまない雨を感じさせる、真っ黒な空から大粒の雨が何日も何日も降り注いで、やがて雨水は全てを押しながし、地表に生きるものは全て海の底に沈んでいく。彼は失われていく命に涙を流しながら、それでも自分の力では雨を止めることが出来ずにいる。僕にはそんな風にきこえた。
 人が何かを得ようとするとき、それと同量、もしくはそれ以上の物を失っていく生き物であるなら、彼に残されているものは一かけらのパンよりも小さいものだろう。
 僕には、そんな風に何かを削ってバイオリンを弾く彼が信じられなかった。今思えばたぶんとても羨ましかったのだとおもう、でも彼のようにはなりたくは無かった、それだけは本当だ。
 ある日、日課のバイオリンを弾き終えたあとトマトが泣いていたのを僕は見てしまった、そんな風に男が泣く所を見たのは初めてだったと思う。
 彼は僕に気付いて涙もふかずにほほ笑んだ、数年後不意にトマトの事を思い出すとき、いつも決まってこの泣き笑いの顔が思い浮かぶ、そしてこういうのだ。
「ねえ、全てを失っても求める物があるのは幸せなことなのかな? それともとても不幸なことなのかな?」
 僕の答はいつも同じだ「君はどうなんだい?」
 そして彼の答もいつも同じ。
「そんな難しいこと考えたら生きていけないよ」
 そして、静かに笑って見せるのだった。

 トマトとの共同生活も早二月になろうとしていた。
 彼は相変わらずバイオリンを弾いていたし、僕は夏の為にアルバイトをしていた。
 そんなある日、僕の実家から手紙が届いていると、トマトが僕の部屋に茶封筒をもって現れた。
「親御さんから?」
「そうだな……お盆には一度帰ってこいって」
「ふうん、で、どうするの? やっぱり帰るの?」
「どうするかな? バイトもあるし……トマトは? お盆はやっぱり帰るの?」
 彼は、ふっと笑うと答えた。
「帰らないよ、っていうか、帰れないんだ。実は父から勘当されていてね」正直、僕は驚いた、苦労知らずのいいとこのお坊ちゃんに見えたかれが、実家から勘当されていたなんて思いもしなかったからだ。まあ、虫も殺さないようなベビーフェイスの悪女もたまにはいるのだし、そういうこともあるのかもしれない。
 トマトは不思議そうな顔をして僕の顔を見つめた。
「あれ? ……あまり驚か無いんだね、どうしてとも聞かないし」
「驚いたよ、僕はあまり顔に出ないたちなんだ、それに僕には関係がない」
「残念、どうしてって聞いたらおもしろかったのに」
「参考までに聞くけど、なんて答えてた?」
「そんなの決まってるじゃない、君には関係ない、だよ」
 そう言うと彼は心底楽しそうに笑った、
「でも、君が帰ってしまうとつまらないな、僕には友だちと呼べる人間はあまり多く無いんだ」
「まだ、帰ると決めたわけじゃ無いよ」
「どうして?」
「君には関係ない」
 そう言うと二人で馬鹿みたいに笑った。実際、実家に帰るよりトマトと過ごす時間のほうが僕には楽しかった、今思えばこんな時間は永く続かないと知っていたからかもしれない。
「じゃあさ、もし……もし君が帰らないんだったら、二人でどこかに出かけようか?」
「どこかって……お盆なんて何処も混んでるよ」
「別にどこかに遠出する必要なんて無いんだ、寝る場所はここでいい、今日は東で、明日は西と目的も決めずにただぶらぶらと、ね」
 悪くないと、僕は思った、2度と来ない二十歳の夏ならこんな使い方もいいかなと。
「いいね、異論は無いよ」
「じゃあ決まりだ、しかし、僕が言うのもなんだけど君も変わった人だね」
「まったくだ、君に言われるくらいだからな」
 僕の答を聞いて、彼は幸せそうに笑った。

 六月の終わりだったと思う。 トマトは日課のバイオリンを弾き終えた後、僕の部屋にグラスをもってやってきた。
「ちょっと、呑まないか?」そう言うと彼は白ワインを僕に見せる。銘柄は僕の知らない外国のワインだ。
 もっとも、そんなに多くの銘柄を知っている訳ではないけれど。でも、彼がその手にもっているととても高級なワインに見える。
 実際はどうなのだろう?
「高そうなワインだね」
「高いか、安いかは実はあまり関係無いんだよ。今日、この日に呑むこのワインでないと意味が無いんだ」
「わけありなのか?」
「少しね、今日は僕のたった一人の妹の誕生日なんだ、そして僕が勘当された記念日でもある」
 そう言うと、彼は少しだけ笑った。
「変わってるな、僕にも妹が居るけど誕生日にワインを開けようなんて思わないよ」
「だから訳ありなのさ」
 そういうと彼は上手にコルクを抜いた、どうでもいいけどトマトはとても上手にコルクを抜く。
 僕らの年代で彼ほどうまくコルクを抜ける人間はちょっと居ないだろう、そういう特技が彼には幾つかあったはずだけど、思い出せるのはバイオリンとこのコルク抜きだけだった。
「じゃあ乾杯しようか」
「ちょっと待ってよ、せっかくの誕生日なのに君の妹さんの分が無いぜ」
「ん……ああ、気付かなかった、そうだね」
 僕は台所に行ってグラスを取ってきた、残念ながらこの部屋にはペアのグラスしかないので、僕が別の形のグラスを使う。
「変な感傷だけど、居ない人の分のワインがあるってのもなかなか素敵だろ」
「そうだね、彼女がここに居るような感じがするよ」
 そして僕らはワインを飲んだ、甘いのにとても乾いた味がするのは彼が泣いていたからかもしれない。
 トマトは立ち上がり自分の部屋からバイオリンをもってきた、そして遠慮がちに僕に尋ねる。
「弾いてもいいかな?」
「そのつもりなんだろ? 好きにしていいよ」
「……ありがとう」
 そう言うと彼はゆっくりと弓を当てた、やがてバイオリンはあの雨の音を再び奏で始める。
 ああ、そうか、彼はたった一人の為に演奏しているのかと、僕はなぜだかその時に判ってしまった。
 彼のあの悲しげな音色の訳も、辛そうなバイオリンに対する姿勢も、そういうことなのかと。
 僕は彼を知っている。
 トマトと呼ばれる彼を知っている。
 でも、彼のなにを知っているといえるのだろう。
 でも、それは、彼の口から語られるまで聞いてはいけない気がした。
 ふと、気付くとバイオリンの音は止み、いつからか降りだした雨の音が遠く近く耳をくすぐり始めた。
「六月の雨は嫌いなんだよ、止まない感じがするだろう?」彼は、バイオリンを置くと囁くように言った。
「でも、君は止まない雨は嫌いじゃないだろ、君が嫌いなのは六月の雨だ」
 彼は少し驚いたようだった、そしてその後少し笑って見せる。
「君は……、君は不思議な人だね。
 君だったら僕らの友だちになれたかもしれない」
「今、僕らは友だちだろ」僕は彼の目を見つめて躊躇も無くそんなことが言えた。
 気付くと人にそんなことを言ったのは生まれて初めてだった。
 考えてみるとそんなことは言わなくても判り会えるのが友だちというものなのかもしれない。
 それでも、言葉にしないと彼には伝わらない気がする、そう僕には思えたんだ。
 彼は少しうなずいて手のつけられていないグラスを見つめる。
「いつか、彼女に紹介したいな、この人が僕の初めての友だちですってね」
 そう言って彼ははにかむようにほほ笑んだ。

 トマトが倒れたのは7月の終わりだった。
 僕がアルバイトから帰って来たとき玄関先で倒れている彼を発見した。
 すぐに医者を呼ぼうとする僕の腕を彼が掴んでやめてくれといった。
 僕はその時初めて彼の腕にある注射の後に気付いた。
 そして、それと同時に彼のことを何も知らない僕に気付いた。
 ただ悲しかった。
 僕は少し泣いていたのかもしれない、それでもがんばって笑って見せた。
 そうしたら、彼も少しだけ笑った。
「いつからだい?」
「十八の時からだから、二年前からかな」
「どうして? 君には関係ないって答えるの?」
「……つまらない話だよ」
「君の話ならつまらなくないさ、とにかく続きはベットで聞くよ」
「君は、女の子を誘う時にもそんなことを言うのかい?」
「……つまらない冗談だな」
 本当につまらない、本当に。
 僕は彼に肩を貸して彼のベットまで連れていった。
 そして彼は自分の話を始めた。
 でも不思議と辛そうではなかった。
 少なくとも僕よりは。
「僕の家は山梨の名家でね、父は代議士、母は音楽家で家でバイオリンを教えていたよ、少なくとも近所では家の名前を知らない人は居なかった。
 でも、実際はプライドの高い馬鹿の集団だったさ。
 父は外に女を囲っていたし、母は教え子と関係をもっていた。
 そんなこと誰もが知っていることだ、でも、離婚は絶対しない、そんなことをすれば名前に傷がつくからだ、だれもそんなこと望んじゃいない。でもそんな中で育つ子供もいるんだ」
 彼は自嘲の笑いをもらした。
「僕は二人兄妹だった、妹は僕より二つ年下でとても仲が良かったよ、あの家では他に頼る人間が居なかったし、彼女は僕の支えだった。 
 僕も彼女も外に友だちは出来なかった。 学校では名家ということは邪魔以外の何者でもなかったさ、級友は様づけで名前を呼び、先生ですら僕らの名前を呼び捨てには出来ない、そんなこと父が許さないんだ。笑っちゃうだろ。
 それで、僕と彼女は片時も離れずにいたよ。
 話し相手はお互いしか居ない、そんな時間を僕らは十年以上過ごした。
 そんな中でいつからか僕らはお互いを愛し合うようになっていた。
 まあ、僕の父親も本当にあのひとだかわかったもんじゃ無いし、彼女も同じようなものだから血のつながりは半分と言った所かな? でも、そんなことは問題じゃなかった。彼女がいれば後指を刺されても平気で生きていけた。そう、あの日までは。
 その日、いつものように僕の部屋で彼女を抱き寄せて長い口づけをした、誓って言うがその時まで彼女と寝た事はない。あせる必要は無かったんだ、真に世界に必要なものはお互いしかなかった。
 でも、終わりは不意にやって来るんだ、そう、母にその場面を見られてしまったんだ。
 それから父と母は一晩中喧嘩していた、やれ、おまえの育て方が悪いだの、あなたが家に帰らないからだの、僕に言わせれば的外れな意見ばっかりだ、あの人達からプライドという物を取り払ったら何も残らないって実感できたよ。
 そして、次の日父がいったんだ。彼女を嫁に出すって。
 彼女は十六歳になろうとしている少し前だった、しかも相手は二十も年上の議員の息子だそうだ。
 それからどうしたと思う?」
 僕はどんな顔をして良いか分からなかった、分からなかったからとりあえず笑ってみた、こんなときにも人って笑えるものだと素直に関心した。
「分からないよ、そんな難しいこと」
 かれも、薄く笑った。
 とても素敵な笑顔だと僕は思った。
「難しくなんか無いさ、お決まりの手に手を取っての逃避行ってやつさ。
 彼女に他に何がしてあげられる?。
 二年前の……、覚えてるかい? 君と乾杯したあの日さ。
 僕らは二人きりで誕生日をお祝いした、あのワインはねその時開けたものと同じ物だったんだよ。
 その後僕は初めて彼女を抱いた。
 でも、そんなことはするべきじゃなかった、こんなこと永くは続かない、お互いが胸に一生残る傷をつけるだけだって僕らは知っていたんだ。
 だけど、僕らはまだ幼くてそうすることしか出来なかったんだ。
 逃避行は三日目の朝、夜行列車の中で終わりを迎えたよ。
 そして、彼女にはそれ以来会えなかった。
 結婚式に出ることも許されず僕は勘当された」彼は少しだけ、ほんの少しだけ涙を見せた。
 そして、枕元のバイオリンを手に取ると音も合わせずに弓を当てる。
「彼女は僕の弾くバイオリンがとても好きだった。
 二人きりのときによく弾いていたよ、僕は彼女に聞いてもらうために今でもバイオリンを弾いている。
 馬鹿みたいだろ?
 でも、やめることは出来ない、これが彼女にしてあげられる唯一のことだと思うから」
 そして彼のバイオリンは長い長い曲を奏でた。
 ああ、彼の心には今でも止まない雨が降っているんだと、僕には思えた。
 やがて長い余韻を残し曲は終わりを迎えた。
 それと同時に、なぜだか大切な物が失われた気がした。
 手を伸ばしてももう元には戻らない。
「薬に手を出したのは楽になりたかったからじゃないんだ、楽になるんだったら死ぬのが一番早いからね。
 むしろ、徹底的にみじめになりたかったんだと思うよ。」
 ふと、静寂が訪れる、彼は静かにバイオリンをおいた。
「トマトってね、夏の食べ物なんだ。
 しかも、野菜じゃない、果物とも思えない。
 中途半端さが僕にそっくりだろ?
 僕は彼女を幸せに出来ると思っていた。
 でも、そんなことは錯覚だったんだ。
 父が嫌いだ、母が嫌いだ。
 一番嫌いなのは青臭い中途半端な僕自身だ」
 僕は、笑うことが出来た、今度は心の底から笑顔を作ることが出来る。
「トマトは野菜じゃないよ。
 果物でもない」
「?」
「トマトは、トマトさ、それでいいじゃないか」
「……うん、そうだね」
 彼は宵闇の中で涙を拭きもせずに、ただ笑った。

 トマトが僕らの部屋から姿を消してから十日がたち、世の中はお盆を迎えた。
 僕は結局実家に帰るのをやめた。
 泣き虫の同居人との約束通り、僕は気ままに夏の風を感じながら歩いてみる。
 世の中を包む風は往々にして綺麗で罪が無い。
 夕やみが幕を下ろし、また夜がやってくると、僕は彼のバイオリンの音を思い出す。
 幾年過ぎ、僕らが出会うことが会ったら今度は僕の話を彼にしようと思う。
 それが、遠い未来の話でも僕らは二十歳の夏を共に過ごせるのだ。
 だから、この話を夏に捧げようと思う。
 いつか来る彼との夏を思って、冷蔵庫の中の冷たく冷えたワインに熨斗をつけて。

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