ブラックタイガー

秋月ねづ

 突き刺さるようなオレンジの日差しの下で僕は、赤いレンガ塀に寄りかかって座る。さっきまで冷えきっていた体は、もう汗ばむほどになった。焦げる石畳の道路上にしばらく置いていたアルミのライターは、僕の体よりも効率よく熱を吸って握れないくらいになっている。僕の咥えた煙草の灰は、自らの重みに耐えかねて僕の足の間に落ちた。
「後、五分で仕事に戻らなければ」
 と僕は一人ごとを言ってため息を吐いた。僕は正直言って今の仕事が嫌いだった。窓もない倉庫の中でブラックタイガーのセワタを取って選別する。特大は右の箱へ、大は真ん中の箱、中は左の箱へ。仕事になれた今ではもう考えることなど何もない。腕が勝手に動くのだ。それだけに退屈な仕事だった。それに倉庫の中は耐え難いほど寒い。ブラックタイガーの鮮度を保つためには仕方のないことなのだけれど。インドネシアのタカラン島で取れたブラックタイガーは生きたまま船でこの倉庫に運ばれてくる。ここで加工されて、色々な国へ空輸されるわけだけど、たまに僕が手に取るまで生きているものもいて、激しく暴れて大変な思いをすることもある。ブラックタイガーは力が強いのだ。
 時計を見ると、もう休憩が終わる時間だ。僕は立ち上がって、お尻の赤い砂埃を払い落とした。空は赤い倉庫の間に切り取られたように青い。僕はもう一度ため息をついて、ジャンバーを羽織った。倉庫の中では凍って硬くなっていたジャンバーだが、今では暖かく柔らかくなっている。この、ジャンバーと僕を温めなおしてくれた、太陽ともまたしばらくお別れだ。僕らは二時間に一度、十分間休憩がもらえるから、今日は終了時間までにもう一度休みがある。僕は煙草とライターを拾い上げて胸のポケットに入れた、が、考えなおして煙草をもう一本咥えた。少々遅れたって仕方ない。僕と太陽は仲良しなのだ。

「チャプラン。遅いよ。凍え死ぬかと思った」
 僕が倉庫に戻ると、僕の班の、次に休憩の奴が足踏みをして待っていた。僕は笑って、冷たい肩を叩いて彼の持ち場に入った。
「はい、大、大、大、中、大、中。……」
 僕は右手に金属の串を持ってセワタを抜きながら、手早く選別していく。呼ぶと、一杯になったケースを、係りが取りに来て空のケースと変えていく。
「今日は『大』がヤケに多いんじゃねえか?」
 ケース運びが僕に笑いながら言って、僕は手の中で金串を回した。
「いいもん喰ってやがるんだろ」
 僕は笑ってそう言う。
「あやかりたいね」
 彼はそう言って、白い歯を見せた。
「今夜オリバスに行くだろ?」
 と彼はグラスを口に運ぶ真似をする。僕が頷くと彼は
「じゃあ、後で」
 と言って、ケースを運んでいった。
 僕は口笛を吹きながらタイガーを放り投げるように選別を続ける。
「特大、大、大、中、大、中、大、と今日はホントに『大』が多いぜ」

 倉庫が僕らを吐き出す頃でも、まだ日は高いけど、休憩時間に見たような激しい太陽ではなくなっていて、薄ぼんやりとした日差しに変わっている。僕らはレンガ倉庫の間を酒場オリバスに向かってぞろぞろと歩く。
「また明日」
 選別係の仲間が一人僕らを自転車で追い越しながらそう声をかけて、僕は煙草を持った左手を軽く振った。倉庫街を出ると、道の真ん中に並木が走る大通りに飲み店が立ち並び、駅まで続いていく。歩道に置かれた幾つものプラスチックのテーブルセットでビールを引っかける年寄りどもが手を振る。木の陰には派手なかっこの立ちんぼが居るが、僕らなんぞには鼻も引っ掛けない。僕はすいさしの煙草を客が帰った後の汚れたテーブルセットのジョッキの中に投げた。ジュウと音がして煙草が消える。お馴染のオリバスの看板が見える。
「いらっしゃい」
 とオリバは胸の大きく開いたシャツで僕らを出迎えた。オリバの褐色の肌とウエーブのかかった黒い髪はひどく魅力的だ。
「こんばんは。オリバ。今日こそ、僕の気持ちに答えてくれるんだろうね」
 と僕は言って、仲間たちは笑った。
「あんたたちが欲しいのは、私より今はこれでしょ?」
 とオリバは言って、ジョッキになみなみとビールを入れた。
「ちがいない」
 ちゃっかりと席についていたケース係が笑う。僕はビールが溢れてつたうジョッキを仲間たちに回してから、自分のやつに口をつけて半分ほど飲んだ。
「たまらんね」
 ビールは僕の口元から少しこぼれて、薄汚れた白いTシャツを濡らした。
「オリバ。今夜、店閉めた後どこかに行かないか?」
 と僕は言って、
「マルに言いつけるよ」
 オリバは僕にナッツの皿を渡して言った。僕は耳をふさぐ。
「おい乾杯しようぜ」
 と俺と同じAラインの男が言って、僕は左手にナッツ皿を持ったまま、右手のぶ厚いジョッキを割れんばかりに皆と打ち合わせた。
「泡なんていらねえから、なみなみと注いでくれよ」
 と僕は五杯目のお変わりのジョッキをオリバに渡して言った。
「あんたら、明日も仕事でしょ?」
 オリバは豪快にビールを注ぎながら言う。
「俺らが、仕事だからって手加減したことなんてあるか?」
 僕がそう言うと、カウンターに寄りかかっていた仲間達が
「否!」
 と叫んでグラスを持ち上げた。
「俺達は酒と女には手を抜かない主義なんだ」
 僕はそう言って、オリバにウインクして仲間たちの方を向いた。
「よし、もう一度乾杯だ。あの冷凍庫みたいなクソ工場に!」
 僕はそう言って、カウンターの男とグラスを合わせる。
「おい、明日の為に、今のうちに体を温めておけよ。凍え死んだら、タイガーと一緒に中国に空輸されちまうぜ!」
 僕らは冗談を飛ばしながら、散々仲間たちと騒いだ。その日の騒ぎは時間が経つにつれ、酔いが回るにつれ、徐々に落ち着いていき、会話も個人的なものになっていった。僕はテーブルからカウンターに移って、オリバの仕事をぼんやり見つめていた。
「退屈?」
 オリバは手を動かしながら、僕に笑いかける。
「そうでもないさ。ただ皆、愚痴っぽくて」
 僕がそう言うと、オリバは母親のような笑みを見せた。
「奥に、旅の犬が来てるけど。話を聞けば?」
 とオリバはニヤリとして言った。奥の座敷を見ると、なるほど犬が一匹で飲んでいる。オリバは僕が犬の話に目がないのを知っているのだ。僕はブーツを脱ぎ捨てると、ジョッキを持って座敷に上がった。犬はシカゴカブスのキャップを被って、帆布の大きなリュックを持っている。
「やあ、どうだい?」
 と僕が言うと、
「悪くない」
 と犬は鋭い奥歯を見せて言った。犬のワインボトルはほとんど空になっていたから、僕はオリバにもう一本持ってくるように合図した。
「どこから来たんだい?」
 と僕は聞いたが、種と風体から見てイギリスあたりじゃないかと思った。犬の胸にぶら下がったサングラスもイギリスのブランドだ。
「ウエールズだ」
 犬はそう言って、僕は納得して頷いた。僕の犬を見る目も悪くない。
「何か面白いことはあったかい?」
 僕はオリバが持ってきた新しいボトルを犬のグラスに注ぎながら言った。
「俺は海を渡って来たんだが」
 と犬は話はじめた。
「エジプトあたりは危なかった。何度も死にそうな目にあったな。ここら辺はいいとこばかりだ。危ない奴もあんまりいない。エジプトで王家の猫と恋をしたのだ。すらりとしてて美人なもので一目ぼれだ。俺が夜、神殿に忍び込もうとしたら見つかってしまい。奴隷をけしかけられた。ナイルが干上がってなかったら逃げられなかったところだ。つかまってたら、今頃天日干だ」
 犬はグラスを開けて言う。
「この辺の太陽は優しいな」
 犬がそう言うので、僕は驚いた。
「ここも熱いと思うけど?」
 僕がそう言うと、犬は大げさに首を振った。
「エジプトの砂漠では三十分もしたらカラカラで死んでしまう」
 犬はハアハアと舌を出した。僕はエジプトの砂と照りつける太陽を想像した。エジプトは煙草のパッケージでしか見たことがない。「で? 猫はどうなったの?」
 と僕は聞く。すると犬はリュックの中からごそごそと金の装飾品をだした。
「別れ際にこれをくれた」
 と犬は嬉しそうにした。
「だが、俺には小さすぎるのだ」
 そう言って、犬は装飾品を首にあてて寂しそうに鼻を鳴らした。
「他の話は?」
 と僕は新しいジョッキに口をつけて言う。
「ちょいと前のことだが、カリブの海賊の話はどうだ?」
 と犬は言う。
「カリブの海の真ん中に俺の親友の海賊がいる。金持ちの商船だけを狙って仕事をするのだ。しばらくそいつの船に厄介になったのだが、俺が居るときに何度か戦闘になった。奴を追いかけてくる政府の軍船だ。船と船の間に板を渡して剣で戦うのだけれど、俺は弓が得意だからマストに登って、そこから軍人どもを狙い打った」
 犬はそう言いながら、弓を構える真似をした。
「味方が危ないところを狙っては放ち、狙っては放ち。大勢助けたな」
 犬はまたリュックの中をごそごそとあさって、紫色の石を出した。
「その時、お礼に貰ったのがこれだ」
 僕はカリブ海で風を受けて走る海賊船を思い浮かべた。海賊船はラム酒のラベルでしか見たことがない。
「ああ、僕も犬になればよかったよ」
 僕はそう言った。犬だったら色んなところを旅できたのに。
「これからなればいいじゃないか?」
 と犬は言う。犬の鼻は熱い電球の光を浴びて赤くなっている。
「実を言うと、勇気がないんだ。仕事もあるしね」
 僕は正直に言った。犬は頷く。
「どんな仕事をしてるんだ?」
 犬は僕に訊く。
「ブラックタイガーの選別さ」
 と僕は言った。犬はワイングラスをじっと見つめた。
「昔、一度だけ、捕ったことがある」
 と犬は言う。
「アフリカで。ハンティングをしているときだ。俺の家には牙が飾ってある。記念にだ」
 犬はそう言うと、立ち上がってヨロヨロと外に向かって歩き出した。
「小便行って来る」
 と犬は行って、僕は頷いた。

 オリバが僕のグラスを下げに来て、僕の耳元で
「犬の話をまともに聞いちゃ駄目よ」
 と言った。僕は鼻をオリバのウエーブのかかった黒い髪に埋めて、耳元で
「知ってるさ」
 と言った。
「『イルカの話は半分聞いて、犬の話はそのまた半分』だろ?」
 と僕は言った。そして、オリバの顎を掴んで頬に口をつけた。
「聞いてたかい?」
 と僕はオリバに訊く。
「ブラックタイガーの牙だって」
 僕は笑った。
「そんなもんなら、うちの倉庫にゴロゴロ転がってるよ」

「おとついも晴れ、昨日も晴れ、今日も晴れだ。こん畜生」
 僕は激しすぎる太陽に向かって悪態をついた。職場に向かい、弁当を持って無数の倉庫の間を歩く。やたら粉っぽいと思ったら、曲がり角で倉庫の修復工事だ。古くなったレンガを大ハンマーで突き崩し、適当にコンクリを塗って手早くペタペタ新しいのを積んでいく。僕は弁当を小脇に抱えて、煙草を咥えながらしばらくそれを眺めた。職人の手でレンガは瞬く間に積みあがっていく。僕がブラックタイガーをケース一杯にするのと同じだ。
 それにしても、昨日は飲みすぎた。犬のせいだ。犬は小便から帰ってくると、俺にビールを奢ってくれた。
「木と間違えて立ちんぼどもに小便を引っかけるとこだった」
 と犬は嫌そうに言って、ワインを飲み続けた。どうやら犬も立ちんぼが嫌いらしく。僕と意見があった。もっとも僕が立ちんぼ嫌いなのは相手にされないからだったが……。
 僕は宿なんて取るのはもったいないと言って犬を家に連れて帰って泊めてやった。そして朝になり俺は犬をラグに寝かせたまま仕事に出てきたのだ。僕は腰にジャンバーを巻きつけて倉庫に向かって歩く。これはブラックタイガーに携わる僕らの正装だ。タンクトップかTシャツにカーゴパンツ。腰にはジャンバーを巻きつけて手には弁当。照りつけるような表の暑さと、凍えるような倉庫の温度差がジャンバーなんていうこの国では不要の上着を僕らの腰に巻かせることになった。ジャンバーなんてものは店では売ってない。一年を通して三十度を下回る日のないこの国でこんなものを必要とするのは僕たちだけなのだ。今、僕が着ているのも会社から支給されたものだ。会社がどこからかダンボール箱に一杯運んできたものを僕たちが奪い合ったのだ。僕は真っ先にきれいなグリーンの厚いジャンバーを勝ち取った。US AIRFORCEというワンペンがついているそのジャンバーは裏側がオレンジ色だ。その時のジャンバーの質がその後の仕事中の寒さにかなり影響してるから、僕はうまくやったのだ。
「おはよう」
 僕は守衛に挨拶をして、煙草を投げ捨てた。倉庫内は禁煙だ。僕はロッカールームに入って、自分のロッカーに弁当を投げ入れた。弁当は置いてもジャンバーは手放すな。がここでのルールだ。盗まれたら替えはない。だから自分のロッカーがあったって置いて帰ったりしない。皆、腰に巻きつけて帰るのだ。僕は事務所でタイムカードをガチャンと押してから、今朝到着したばかりの未選別のブラックタイガーのコンテナの脇をすり抜けて、自分の持ち場に向かう。今日も一日ブラックタイガーの選別だ。僕は持ち場について未選別のケースからブラックタイガーを取り上げた。僕の基準で言うと、ちょうど大と中の間のサイズだ。セワタを取ってから、僕はため息をついて中のケースに放り投げた。
 その時、叫び声がして僕の隣の班の選別係が床に転げた。僕は舌打ちをして、金串を掴んで仕切り板を飛び越えた。そして、転がった選別係の上にのしかかるブラックタイガーの首を後ろから羽交い絞めにした。タイガーは震えるような声で咆哮して、僕を振り切ろうとした。僕は左腕に渾身の力を込めて首を固定して、右手の金串を逆手に掴んで、タイガーの背から生きたままセワタを抜き取った。セワタを抜き取られたブラックタイガーは腰を抜かしたように尻餅をついて、次第に僕の左腕にかかる首の力も抜ける。僕が手を離すとタイガーはそのままグタリと横になって息絶えた。
「どうだ?」
 僕は息をついて、他の奴に抱えられた男に声をかける。それまで生臭い水が流れる床に横たわっていた男は腕を血だらけにしている。
「腕の肉を持ってかれた」
 男は荒い息をつく。僕はかがみこんで男のジャンバーの袖をナイフで切り裂く。
「指は動くか?」
 僕が言うと男は頷く。
「運は良いな。筋とか神経には問題なさそうだ。医務室に運ぶ。手伝ってくれ」
 と僕は言う。すると人ごみの中から怪我をした男と同じ班の奴らが出できた。生きたタイガーを見て逃げたのだ。
「俺らが連れてくよ」
 彼らはそう言って、僕は頷いた。男が運び出されると、床には横たわって死んだブラックタイガーと男の血が散らばったセワタの間の水に浮かんでいた。僕の手には男の紺のジャンバーの袖があって、もったいないことをしたなと、僕は内心思ったが、仕方のないことだった。僕は袖をセワタの散乱する床に投げた。(セワタはきちんとゴミ箱に)あいつは、ジャンバーをまた会社に申請すればいい。経理の奴にぶつくさ言われて、次のジャンバーが支給されるまで二週間はたっぷりかかるが、ちょうど怪我が直って奴が復帰するのもその頃になるだろう。気の毒なことだ。
 僕はその特大のブラックタイガーを抱えた。このブラックタイガーはじっと待っていたのだ。肺の中に染み込んでくる真水の苦しさに耐えながら。コンテナの中から出される瞬間をじっと。僕はそのブラックタイガーを彼の班の特大箱に投げ入れた。
「ケースに手を突っ込む前に、タイガーの息くらい確認しろよ」
 僕は作業列に戻ると、同じ班の奴らに声をかけた。こんなことがあった後だけに、いつもは冗談で切り返す奴らも神妙に頷いた。こういう事故は朝起こることが多い。昨夜届いたばかりのコンテナが開けられるからだ。ブラックタイガーは大抵コンテナの真水の中で死んでしまうが、稀に、今の奴のように精神力と生命力の強い奴が狭いコンテナの中でじっと真水と長い船旅を耐え抜くことがある。僕は生きてここまで辿り着くタイガーに敬意を払う。そんな奴は本当に稀にしかいないのだ。社の規定では『生きたブラックタイガーの呼吸の気泡をケースの中で速やかに発見し、苦手な真水に浸したまま頭を、壁にかかった22口径ウインチェスターで打ち抜くこと』となっている。だが僕は生きた奴を見つけたら、そんなことは僕がこの仕事について二年間に三度しかなかったが、(今日は四度目だ)水の中でタイガーの首筋を掴み、セワタを抜いてやるようにしている。そうするのは、ブラックタイガーの一番気持ちの良い死に方は、生きたままセワタを抜かれることだと、僕の前任者の年寄りに聞いたことがあるからだ。強い精神力を持つ奴には種族や立場を超えた礼儀が必要だと僕は思う。本来なら、ここまで生きて来れた奴は野に放ってやりたいくらいだ。生き抜いた奴にはそのくらいの価値がある。でも、僕がどう思ったって、結局は他の船旅中に死んでしまった奴と同じように加工されて箱づめされて他の国に空輸されてしまうのだ。

 僕は弁当を持って倉庫の裏側の突堤に来た。同じ班の奴らが話し合って僕の昼休みを長くしてくれたからだ。
「チャプラン。今朝のこともあるし疲れただろ? 俺たちの休みをちょっとずつやるから、十五分長く昼休みを取れよ」
 と気のいい仲間たちが言ってくれたので、僕は海に突き出た突堤まで歩いてきた。飛行機が甲高い音を立てて海の上を飛んでいる。僕はそこで座り込んで弁当を広げる。弁当はマルが作ってくれる。僕とマルは幼馴染だが別に恋人というわけではない。今更という気がして付き合いづらいところもある。でも、いずれ僕が主任にでもなったら結婚するんだろうなと思う。
「もうちょっと料理が上手くなったらな」
 と僕は呟いて、食べ終えた弁当箱をしまった。煙草を咥えて青い海を眺める。穏やかな海は幾層もの青に分かれて沖に行くほど濃くなっていく。そして白いもやの中に姿を消す。僕はこの海をずっと行くとブラックタイガーたちの住むインドネシアがあることを不思議に思った。ここではケースの真水の中で沈むあいつらが自由に海を泳ぎまわる姿を想像するのは難しかった。僕は犬のことを思い出した。今夜犬に生きたブラックタイガーの話を聞こう。僕はそう思った。

 帰ってみると、僕のアパートのドアの前でマルは、犬の頭を膝の上にのせて座っていた。あまりのことに僕は咥えていた煙草を口から取り落としてしまった。煙草は僕の白いTシャツの腹で弾んで地面に落ちる。マルは嬉しそうに犬の顔を覗き込んで笑っている。犬が何かを囁いているのだ。
「ほらどけよ」
 俺はマルと犬を玄関の前からどかして、鍵を開けて中に入った。ドアを閉めると薄暗い玄関から、天窓の格子から西日が斜めに射し込む階段を上って自分の部屋のドアを開ける。僕はそのままベッドに倒れこんで大の字になって天井を見た。僕はマルに裏切られた気分になっていた。マルの長い滑らかな太ももの上に犬は頭を乗せていた。マルは短い金色の髪をかきあげ耳にかけて笑う。犬の長い舌がマルの寄せた耳元で垂れて、囁きとともに犬の熱い息がマルの耳にかかる。
「確かに」
 と僕は呟いた。僕はマルの恋人でもないし、将来を約束した仲でもないが、僕らは将来結婚するのだ。それは確かなことで、昔馴染みも親も仕事仲間もオリバだってそう思ってる。それなのにマルは犬の頭を自分の太ももに乗せていた。犬の話に楽しそうに笑っていた。そう考えると僕はやりきれない気持ちになった。僕は勢い良く立ち上がって、汚れたTシャツを脱いで洗濯籠の中に投げた。クローゼットにジャンバーをかけて、代わりに白いシャツを取り出して着た。そして僕は外に出た。僕は煙草を咥えて、犬と一緒に佇むマルに黙って弁当箱を渡し、職場に向かう並木道を歩き始めた。そしてオリバスに入ると、ジンをボトルで貰って飲み始めた。

「ジンか」
 ボトルが半分ほどなくなった頃、犬が僕の隣に腰を下ろした。犬は僕の断りなく新しいコップにジンをついで飲み始めた。
「これを飲むと海軍に居た頃を思い出す」
 と犬は言う。
「俺は巡洋艦に乗ってドイツを叩くためにプリマス港を出た。戦況は思わしくなくて……」
「黙ってくれ」
 と僕は言った。犬は息を吐き出して黙った。僕と犬はそのまま暫く何も言わずにジンを飲んだ。赤らんでいたおもては次第に暗くなっていく。十一時を回ったのだろう。この国の夏の日暮れは極端に遅い。
「ブラックタイガーだ」
 と僕は言った。
「僕は二年この仕事をしてるが、生きているブラックタイガーをろくに見たことがない。見たといっても瀕死のものばかりだ。二十何時間も狭い船倉のケースに入れられて、苦手な真水に漬けられて。体力をギリギリまで削られ送られてくる。それでもあいつらは力強い。僕らをねじ伏せようとする」
 僕はそう言って犬を見る。犬の聡明そうな黒い目はゆっくりと閉じられて、また開く。僕は続ける。
「あれは尊敬すべき生き物だ。それに比べて俺たちはフェアじゃない。分かるか? 何ていうか、俺たちはあいつらを汚してるような気がするんだ」
 僕はボトルを持ってジンを継ぎ足す。
「なあ、本当のブラックタイガーって奴を教えてくれよ」
 僕はそう言う。犬はグラスのふちを舐めて頷く。
「ブラックタイガーは、昔はインドネシアからアフリカまで広く分布していた。海岸沿いに住んで海水を好んだ。見通しの良い岩場に群れで住んで魚を主食とした。ブラックタイガーは恐ろしく早く走って恐ろしく速く泳ぐ。それゆえに最初は狩猟の標的にされることになった。よりレベルの高いスリルの為に。ブラッタイガーを仕留めるには一発の弾丸でケリをつけるしかない。単発式のライフルならな。下を向いてリロードしてる間に目の前に来てしまう。俺らはものすごいプレッシャーを感じながら狙いをつける。その圧迫感はライオンとかサイなんて比較にならない。こちらに気づくとブラッタイガーは沢山の足で土を蹴って向かってくる。射程に入ってから呼吸を整える暇なんてほとんどない。こちらのレベルがよほど高くないとやられてしまう。彼らと単発銃一丁でやりあえる奴はそうは居ない」
 犬は懐かしそうにそう言って、僕はなぜか誇らしい気持ちになった。まるで自分が褒められたようだ。
「ただ、ブラックタイガーには幾つか不幸なことがあった。一つはブラックタイガーの肉が恐ろしく美味だったこと。彼らは人間に、とりわけ中国人に食材として目をつけられ高値で取引された。でも、それだけではこれほど壊滅的な事態には陥らなかっただろう。彼らは強かったからな。大量に狩ることは難しかった。だが、彼らには大きな弱点があったのだ。二つ。月の晩に深く眠ること、真水に弱いことだ」
 犬は不器用そうに二本指を立てる。僕は頷いた。
「その二つの弱点がブラックタイガーに今日の絶滅の危機という悲劇をもたらした。ブラッタイガーは仲間の悲鳴に敏感だ。仲間をものすごく大切にするからな。もし月の晩に深い寝込みを襲われたとしても誰かが悲鳴をあげれば、群れ全体が目を覚ます。そうなれば襲ったほうは後悔することになる。いや後悔する暇もないかもしれない。しかし……」
 犬は悲しそうに目を閉じる。そしてジンを飲む。
「真水の中では彼らは叫べないのだ。月の晩、人間たちはその体を夜陰に紛れさせ、海辺へと真水を運ぶ。そして背負い籠を真水で満たし岩場へ、ブラックタイガーたちが眠る月明かりに、人間たちは一人また二人と姿を見せる。やがて、わずかな水音と共に次々とブラックタイガーたちの寝息は真水に沈む。目覚めて叫ぼうにも声は出ない。籠から飛び出そうにも力が出ない。朝にはそこに居たはずの彼らの群れが一つ消えるのだ」
 犬はそう言って僕を見た。
「泣いているのか?」
 犬はそう訊いた。僕は泣いていた。悲しくて仕方がなかった。なぜそんなやり方で彼らを捕らえねばならないのか、僕には理解できなかった。彼らは誇り高き種なのだ。僕らは僕ら自身を貶めている。
「お前は人間らしくない。ブラックタイガーを思いやる人間などいないのだ」
 犬はそう言った。ジンのボトルは空になり、犬は手を上げてオリバを呼んで次のボトルを持ってこさせた。
「それに夕刻、お前は俺に嫉妬しただろう?」
 オリバが去ると犬はそう訊いた。僕はさっきの光景を思い出して犬を睨んだ。犬は満足そうに頷く。
「謝ろう。お前の女に触れたことを。だが本来、人間は犬に嫉妬したりしないものなんだ。お前の感情は他の人間には理解されない。お前の女、マルと言ったか。あいつもお前の嫉妬を理解しなかった。今日はチャプラン機嫌が悪いわね。と言っただけだ。あの女には浮気をしたなんて意識は少しもない。ただ犬を抱いただけだ。人間と犬とは違うのだ。人間は犬に嫉妬したりしない」
 犬はそう言った。
「じゃあ、僕は何なんだ?」
 僕は犬に訊いた。
「お前は人間だ。今はまだ」
 犬は言う。
「だが、別のものにもなれる。そしてまた人間でいることを選ぶことも出来るのだ。生きたブラックタイガーのことなど忘れて、マルを娶り子供を作る。そうすればお前は本来の人間に戻る。人の親というのは最も人間なのだ」
 そう言いながら、犬はポケットをまさぐり紙幣を出してテーブルに置いた。
「俺はお前が気に入った。お前さえその気なら一緒にインドネシアに行ってもいい。お前が本物のブラックタイガーを相手にしてみたいのならな」
 犬はそう呟いて、尻尾を振りながら店を出て行った。僕はコップを両手で握った。

「中、大、大、中、中、中」
 僕は次の日、ブラックタイガーを無意識に選り分けながらずっと、犬の言葉を思い返していた。『お前さえその気なら……』僕が犬と一緒にインドネシアに行く。それは僕にとって魅力的なことだった。弱っていない本当のブラックタイガーの生命力に触れてみたかったし、犬たちが語るような冒険をしてみたかった。僕は長年この思いを押さえ込んできた。旅に出たいなどといえば奇異の目で見られるからだ。みんな犬たちが語る冒険を作り話だと思っているのだ。でも僕はそうは思ってはいなかった。だからこそ僕は犬の誘いに乗ってみたかった。
 だが僕はこの生まれ育った土地を、仕事を、そしてマルを捨てられるのだろうか? 僕は『人間のままでいる』と『犬についていく』という両端を持った天秤を胸に持ってしまった。今は揺れているがやがてはどちらかに傾いて止まるのだろう。
「……ラン、チャプラン」
 僕は呼ばれたのに気づいて選別の手を止めて振り返ると、そこには支配人がいた。
「こんにちは。支配人」
 僕がそう言うと、厚手のコートを着た支配人はにこやかに笑って、僕の肩に手を置いた。
「昨日は活躍だったそうだね。チャプラン君」
 と支配人は言う。生きていたブラックタイガーを始末したことを言っているのだ。僕は首を振った。
「いえ、ウインチェスターを取る暇がなくて、あんな力技をする羽目になってしまって……」
「いいや、聞いたところでは銃を使ったら、ラワンに当たる可能性があったし、手遅れになってたかもしれん。君の対応は良かったのだよ。ただ、少々危険ではあったがね」
 支配人はそう言って、僕は頭を下げた。
「ラワンは?」
「順調だよ。君に感謝しておったよ」
「良かった」
 僕は微笑む。やはりあいつは運が良かった。
「それよりも」
 と支配人は言う。
「君をライン主任に抜擢しようと思うのだよ。君の危機対処能力の評価が上がったし、仲間の信頼も厚いようだ。Aラインを統率してくれんかね」
「僕が主任に?」
 僕は驚いてそう確認して、支配人は大きく頷いた。
「任せたよ」
 支配人はそう言って、コートのポケットから真新しい白いバンダナを出して僕に渡した。
「おめでとう。明日からこれを巻きたまえ」
 支配人は僕の腕を叩いて立ち去った。僕は渡された白いバンダナを見つめた。仲間たちが寄ってきて僕に言葉をかけたが、僕はろくに聞いていなかった。『僕が主任に?』僕は信じられなかった。主任になるにはもう二、三年はかかると思っていたのだ。

 僕が主任になるという話はすごい勢いで広まって行ったようだった。僕は会社の仲間たちに囲まれてオリバスで次から次へと酒を飲まされた。店中のショットグラスがカウンターに一列に並べられ、集まった奴らはコインを出して、オリバに酒をショットグラスの中へ注がせた。カウンターの上には色とりどりの善意や悪意やイタズラの酒が並び、僕はそのショットグラスを端から空けていった。僕がショットグラスに一つ口をつけるたび、一人の出費者が祝いの言葉を叫んで、僕はやっとの思いで最後の一杯まで飲んで、早々に酔っ払わされてしまった。そしてみんな席に散って飲み始め、僕はカウンターでオリバが僕のために開けたワインを飲んだが、味など分からなくなってしまっていた。
「あんまり嬉しそうじゃないね」
 オリバは言う。
「そんなことないさ」
 と僕は言って、オリバのグラスにワインを注いだ。オリバは酒があんまり飲めないが今日だけは付き合ってくれているのだ。犬は僕の隣で冷静にワイングラスを傾けている。犬だけは僕にお祝いを言わなかった。彼には僕の迷いが見えるのだろう。僕の天秤の『人間』の片皿には『主任』という錘がいきなりのせられて、激しく揺れ動いているのだ。
 宴も半ば、余興が盛り上がりを見せる頃、僕はそっと店を出た。外で酔いを醒ますつもりだったが、そう簡単に醒めそうもないし、猛烈な眠気が僕を襲って、僕はそのまま家に帰ることにした。よろめきながらアパートの玄関に辿り着き、鍵を開けるのに手間取っていると、手が伸びてきて、僕の手からすっと鍵を取ってドアを開けてくれた。見るとマルが立っていた。
「お帰り」
 とマルが言った。

 僕は猛烈にのどが渇いてベッドから身を起こした。開け放した窓の外には大きな丸い月が浮かんでいる。横ではマルが静かに寝息を立てている。シーツの上で黄色い月明かりに照らされるマルは綺麗だった。目を閉じた横顔。頬にかかる金色の髪。ショートパンツから伸びる長く白い足が僕の心を打った。僕はマルの頬がちゃんと見えるように、マルの髪をそっと後ろに流した。僕はしばらくマルの顔を眺めていたが、のどの渇きを思い出して、マルを起こさないようにそっと立ち上がって洗面所で水を飲んだ。生暖かい水は僕の体に染み込んでいく。僕は帰ってきたときのことを思い返そうとした。マルにドアを開けてもらい、僕は部屋に入ると同時にベッドに倒れこんで寝てしまったはずだ。なぜマルは帰らなかったのだろう。僕は考えようとしたが、こめかみに鋭い痛みをかんじてあきらめた。僕はベッドが軋まないように、そっと元の位置に戻るとまた眠りに落ちた。
 
「起きて、時間だよ」
 僕は揺すられて目を覚ました。夜中に水を飲んだためか二日酔いはそれほど酷くなかった。目を開けるとマルが笑っている。朝だ。
「昨日は帰らなかったんだな」
 僕がそう言うとマルはへへと笑った。
「チャプラン、すごい酔っ払ってたんだよ。置いて帰ったら死んじゃうかと思って」
 マルは言う。
「朝ごはん出来てるよ」
 僕はシャワーを浴びて、新しいTシャツに着替えた。マルと向かいあって食事をしていると僕はすごく落ち着いた気分になった。食事が終わり、僕が腰にジャンバーを巻くと、マルは僕をベッドに座らせた。そして姿見を前において、ベッドに乗って僕の後ろに回りこむとマルは白いバンダナを僕の頭に巻いた。そしてマルは僕の両肩に手を置く。
「よし」
 マルは鏡の中で満足そうに頷く。そして僕の体に手を回して抱きしめると、僕の頬に唇をつけた。
「頑張ってきて! 主任さん」
 マルはそう言った。弁当を受け取って強い日差しの射す外に出ると、窓からマルが手を振ってから唇に手を当てる。僕は手を上げて答えた。そのマルの姿は僕の心の天秤の皿、『主任』が既にのっている方に更に重みをかけた。僕はため息をついた。
 大通りを倉庫に向かい歩き出しオリバスの近く、見ると並木の下のベンチの一つにボロボロの犬が横たわっている。僕が近づいていくと犬は気だるそうに片目を開けた。
「恨むぞ。チャプラン」
 と犬は言う。
「さっきまで、朝まで、お前の代わりに飲まされていたのだ」
 悪いけど、僕は犬のその姿が可笑しくて笑ってしまった。
「悪かったな。仕事に行って来るよ」
 僕がそう言って、歩き始めると犬は
「俺は明日、ここを発つ」
 と言った。僕は立ち止まって振り返った。犬はボロキレのようにベンチに身を預けたままだ。
「お前の心は決まったか?」
 そのままで犬はそう言った。僕は何も言わずに倉庫に向かう埃っぽい道を歩き始めた。
 
 僕は主任としての仕事をこなしながら、ゴミ箱を引きずって床に落ちているセワタを拾い集めていた。皆に金串で引き抜かれ、捨てられた緑色のセワタは、水浸しの赤レンガの床の上に沢山散らばっている。僕は、新人の選別係の質問に答えたり、仲間と談笑しながらセワタを集め続け、最初の休み時間を迎えた。僕はいつものように倉庫の外壁に寄りかかって座る。煙草を咥えて火をつけた。僕はポケットから、セワタに混じって落ちていたブラックタイガーの牙を出して眺めた。僕はそれをゴミ箱に入れずにポケットにしまっておいたのだ。多分それはブラックタイガーの犬歯。一番鋭い牙だった。一昨日ラワンの腕を食いちぎったのもこれと同じ牙だろう。僕はその先を指で撫でて鋭さを確かめた。ザラザラとした感触がして僕の指に牙が引っかかる。僕はそれを太陽に透かして見た。白い立派な牙だった。僕はそれをもう一度ポケットにしまった。同時に僕は心の中の天秤の『犬』の皿にその牙をそっとのせた。あまりにそっとのせたので、『主任』や『マル』ほど天秤を揺らしたりしなかった。時計を見るとまだ煙草一本分ぐらいの時間があって、僕は焼けたライターを拾い上げた。

 帰り道のベンチに犬はまだ寝ていた。僕は犬の隣に腰を下ろした。
「マルはいい女だ」
 と犬は言う。僕は頷いた。こうやっていると薄汚れた巨大なモップと話をしているみたいだ。
「このままでいれば、お前はきっと幸せになれるだろう。美しくて献身的な妻と安定した職業。いずれは子供も生まれる」
 犬は言った。
「そうだな」
 そう言って僕は、ベンチの下の石畳を見た。犬はムクリと起き上がって二本指を立てて僕に煙草を催促した。僕はポケットから煙草を出して犬に一本渡す。火を点けてやると犬は旨そうに煙を吐き出した。
「だが、お前は迷っている」
 犬は言う。
「俺と行く先に何かがあるんじゃないかと考えてるんだろ? お前の胸を打つ何かが」
 犬は毛の中に埋もれた目で僕を見た。僕は唇を噛んで何度か頷いた。
「だが、何もないかもしれん。その先にあるのは今よりも空虚な生活かもしれない。何も分からないのだ。後悔するかもしれんぞ」
 犬は言う。
「このままいれば、今の生活の行く末は良く見えている。幸せな未来だ。お前が人間として生きて、お前の犬的な部分を押し殺したなら、お前は十分幸せだ。他の奴らが望んでも得られない幸せだ」
 犬の言葉に僕は頷いた。僕は自分の胸を掴んだ。
「僕は自分の犬的な考えをずっと殺してきた。これからだって、押し殺していけるだろう。お前の言う通り、子供でも出来れば消えてしまうかもしれない。それはそんなに難しいことじゃないんだ」
 僕はそう言って、犬は頷いた。
「その通りだ」
 犬は言った。

「おかえりー」
 部屋に戻るとマルはまだそこに居て、テーブルの上に料理を並べていた。僕はマルが自分の家に戻らないことについて何か言おうと思って口を開いたが、結局何も言わずに
「ただいま」
 とだけ言った。僕はジャンバーをクローゼットにしまった。僕はテーブルについて、マルは楽しそうに正面に座って、僕のコップにワインを注いだ。食べてみるとマルの料理は悪くなかった。
「弁当よりもうまいな」
 と僕が言うと、マルは嬉しそうに笑った。
 外が段々暗くなっていき、僕は窓枠にブーツの足を乗せて、煙草を咥えた。夕暮れの中にぼんやりと月が浮かんでいる。見ると、洗い物を済ませたマルはベッドに腰を下ろして足をぶらつかせている。水音がしなくなると部屋はヤケに静かになった。
「なあ、マル」
 と僕は声をかける。
「え?」
 マルは急いで顔を上げる。僕はもう一度、窓の外、月を見上げた。
「俺が突然いなくなったらどうする?」
 僕はマルにそう訊いた。
「えっ?」
 マルはそう言って黙って考える。僕が振り返ると、マルは寂しそうな笑みを浮かべた。
「そんなの。わかんないよ。私たちずっと一緒にいたし、これからだってずっと一緒にいるもの」
 マルはそう言う。
「もしもだよ」
 と僕は言う。
「わかんないよ」
 とマルは少し顔を歪めて言う。
「考えたくもないよ」
「そうか」
 僕はそう言って、煙草を窓から投げ捨てた。

 夜が更けて、僕はワインの入ったコップをテーブルに置いて、ポケットからブラッタイガーの牙を取り出した。
「月が明るすぎてよく眠れないんだ」
 そう僕は嘘をついた。マルは昨日と同じように月明かりを浴びてベッドで寝息を立てている。僕は今日の業務中に二本ブラックタイガーの犬歯を見つけていた。僕はそれに音を立てないようにゆっくりキリで穴を開けた。そして皮ひもを通して結んで首飾りを二つ作った。僕はその一つに首を通す。そしてもう一つはテーブルの上に置いた。僕の吐く煙草のけむりが月明かりの空に昇って消える。腕時計を見ると午前四時を回ったところだ。僕は立ち上がり、外に出ようとしたが、腰まわりにジャンバーがないのが不安に思えて苦笑した。僕はそっと、マルを起こさないように、ベッド脇のクローゼットの中からジャンバーを出していつものように腰に巻いた。その時、僕はマルが泣いて嗚咽しているのに気づいた。マルは枕に顔を押し付けて泣いていた。肩が僅かに震えているのが分かる。僕はマルに何かを言おうとしたが、僕には何も言うことがないことに気づいた。僕はマルのことを今も心の底から愛しているし、彼女と一緒にいつまでも暮らしていきたいと本当に思っていることを、マルに伝えたかったが、そんなことは意味のないことだと分かっていた。
 僕はそのまま、嗚咽するマルに気づかないふりをして、そっと外に出た。表のベンチでは犬が例のごとく巨大なモップのように横になっていて、僕は彼を揺すり起こした。
「行くのか?」
 犬は寝ぼけまなこを擦りながら訊いて、僕は頷いた。犬はゆっくりと起き上がった。犬は僕の胸に揺れるブラックタイガーの牙を指差して
「いいネックレスだな。俺の国ではブラックタイガーの牙は勇気と幸せの象徴なんだ」
 と言った。そして犬は立ち上がり、僕らは歩き出した。
「インドネシアへの船を捜さなきゃならん」
 と歩きながら犬は言う。
「最高のブラックタイガーを狩るんだろ?」
 僕は頷いた。僕はあの誇り高き種とフェアな戦いをするのだ。
「それから、お前の銃も探さなきゃな」
 犬は言う。
「銃なんていらないさ」
 と僕は言って、ジャンバーのポケットからケースに入った三十センチほどの金属の串を出して犬に見せた。
「これでセワタを抜いてやるのさ」
 と僕は言って、犬と二人で笑い合った。

 アパートの窓からはマルが朝日に向かって歩く二匹の犬の行方をじっと見つめていた。彼女の胸にはブラックタイガーの牙で作られた首飾りがあって、彼女はそれを握り締めた。


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