オレンジ色の夢

秋月 ねづ

 今日、また君のことを思い出した。

 いつまでも君の記憶は消えずに残っている。すべてが残っている訳ではない。きっと毎日少しずつ忘れているのだろう。些細な事から順番に僕の体から少しずつ消えていく。
 一番辛いのは忘れていた記憶を思い出した時。苦痛が僕の心をきつく締め付けるのだ。
 君は僕の体の隅々にまで記憶されて、頭の先から足の指まで、すべての僕がまだ君を捜し求めている。そして毎日のように、『誰か』が君を求めて心を訊ねてくる。みんなが僕の心が保存する君の映像を見たがっている。君を感じたがっているのだ。そして僕は息苦しくなる。僕自身の手が、頬が、唇が、体の細胞一つ一つが、君を捜してさまよう。そして、僕自身をまた締め付けていくのだ。
 僕の心がドアを叩く音で目を覚ます。そして、立ち上がってドアを開ける。
「良く来たね」
 僕は微笑む。頭を掻いてあくびをする。
「彼女はまだ居ますか?」
 彼は心配そうに僕に尋ねた。誰もがそう訊ねる
「まだ居るよ」
 僕は残念ながらという表情を作った。
 彼は続ける。
「彼女の手を思い出して……。とっても柔らかくて暖かいんだ。欲しいんだ。あのイメージが。少し見せてくれないかな?」
 僕は唇を噛む。
「どうしても見たいの?」
 彼は何度も肯く。
 僕は溜め息をついて彼について来るように手招きした。彼を座らせて、ダンボール箱からテープを探す。
「散らかってるでしょ? 狭いし。ちょっと待っててね。何しろ膨大な量だから」
 僕は四年半分の中から彼の見たがっている物を取り出す。
「これだ」
 明かりを消して、テープを映写機にかけた。カタカタという音と共に白い襖に青く四角い光が映る。画面に一人の女が映し出された。明日香だ。
 画面の中の明日香は泣きそうになっていた。
 映りが良い。記憶というものは時と共に恐ろしいほど、かすれていく。僕が彼のために選んだものは比較的新しく、そしてその分辛いものだった。
『「私が居なくなったら、あなたは寂しいと思うかな?」
「思うよ」
「……。嘘」
「思うに決まってるじゃないか。僕のことはよく知ってるだろ」
「私、あなたはすぐに他の人に愛されて、私のことなんてすぐに忘れちゃうと思うの」
 彼女は寂しそうに僕の頬に手を当てた。』
 すぐ忘れる。か……。僕は隣をチラと盗み見た。彼は泣いていた。自分の頬に手を当てて、声も出さずに、ただ涙だけを流していた。
 こんな時、明日香についてのこの膨大な量の記憶を、そしてみんなが持っている思い出を、すべて消してしまいたくなる。僕の心の保管する全てのテープを他の新しい想い出に書き換える日が、『僕の全て』が君を忘れる日がいつか来るのだろうか?
 彼は帰っていって、僕は枕を思いきり蹴飛ばした。
「どいつもこいつも感傷的になりやがって! たかが女じゃねえか、クソッタレ! もう二年も経つんだぞ。畜生……」
 はいつくばって僕は畳を何度も叩いた。くそっ、くそっ、くそっ。やがて僕は疲れ、同時に恥ずかしくなった。僕は溜め息をついて、部屋の端まで飛んでいった枕を拾い上げて窓の外で二度ほど叩いた。粉のような埃が風で流れる。僕は流される埃を目で追ったが、それはすぐに空気に溶けた。僕は手元の枕をしばらく眺めた。スズメの鳴く声と拙いピアノの音が青い空に浮いている。僕は枕を明日香にしたように抱きしめた。その瞬間、僕は二年前に、明日香が僕の傍にいた頃に、戻ったような気がした。
「明日香」そっと名前を呼んでみた。「明日香?」もう一度、呼んでみる。
「なーに? 真幸」
 明日香は隣の部屋でそう答えた。
 僕は一瞬『はっ』としたが、溜め息を吐いて壁に寄りかかりそのままズルズルと座った。何を馬鹿なことを。僕は戻った。意味がない。隣の部屋を見に行っても仕方がない。僕は今の僕だし、時は二年も進んでる。止まっているのは気持ちだけだ。僕の全てが感傷に染まっているだけなんだ。
「君をー失うとー僕のすーべては止まーる」
 僕は何処かで聞きかじった歌を大声で口ずさんだ。そして、膝の中に顔を埋めた。その先の歌詞は知らなかった。  その時、子供の無邪気な声が聞こえた。ゆっくりと立ち上がって窓の外を見ると、僕の部屋から見える公園に若い親子づれがいる。走っていく小さな女の子に長いスカートをはいた母親が声をかけた。母親は公園の入り口に佇む父親の傍に戻ると、父親の上着の袖を握って笑顔を見せた。
「明日香?」
 僕は目を疑った。その母親は確かに明日香だった。父親は? 誰なんだ?
 僕は立ち上がって飛び出した。コートをつかんで靴を引っかけた。行かなければ、あそこに行かなければ。ここにいたって見えない。奴の顔が見えない。
 公園に向かって走る。柵を飛び越え公園に入ると、誰も居なかった。静かに風だけが吹いていた。僕は膝に手をついて荒い息をはいた。そして、ベンチに倒れ込むように座った。空を見上げると、立ち並ぶ木々の葉を落とした枝が、青い空にヒビ割れのように這っていた。
「そうだ子供が欲しいと思ってたんだ」
 忘れていた記憶をまた思い出した。この公園も明日香のことを覚えているんだ。明日香とは何度もこの公園に来た。このベンチに座って、走り回る子供を見たっけ。僕は明日香との子供が欲しいと思った。口には出さなかったけど、欲しかった。女の子。明日香と似た女の子。何処かに自分の面影が、自分が感じられる明日香が。
 公園の入り口に一人の女の子が佇む。写真で見た幼い頃の明日香に似た短い髪の女の子。小脇に毛のはげかかったテディーベアを抱えていた。僕はその子を見つめた。そして、そっと笑いかけた。少女は小さく「パパ」と口を動かすと、僕の座っているベンチに向かって駆けてきた。テディーベアが地面に弾んで、女の子は両手を広げる。僕もベンチから立ち上がって、女の子に向かって手を伸ばそうとした。
 瞬間、女の子は空気に溶け込んで消えた。さっきの埃のように。僕は伸ばした手をゆっくりと下ろして、何かを握り潰そうとするように、手の中に力を込めた。公園に溶けた空想の記憶。
「かわいそうな子」
 僕は公園の出口に向かって歩き始めた。途中でうつ伏せに転がっているテディーベアを拾い上げて、それの右手を握って、家に戻った。

 家に入って時計を見ると、まだお昼過ぎ。薄暗く静かな部屋には時計の針の音と製造子が低く唸る音だけがあった。する事は何もない。僕は椅子に座り冷蔵庫の音に聞き入った。煙草を吸った。一口吸っては消して、いくつもの長い吸い殻が灰皿に溢れた。
「明日香に会いに行こうかな」
 僕は決心した。明日香に振られてから二年。一度も会ったことはない。言いたいことは沢山あったけど、会いに行く勇気が出なかった。
 僕は立ち上がって支度を始めた。
 車のドアを開けて、後部座席に抱えてきたありったけの酒を放り込んだ。そして、ビールを一缶だけ取り出してシートに座った。ビールを開けて半分ぐらいまで一気に飲んでラックに立てる。エンジンをかけてアクセルを踏むと、車は飛び出すように車庫から出て、タイヤを軋ませた。
 暫く走ったところで思い付いて花屋に寄った。花屋の女の子が少し可愛かった。その子に明日香の好きなオレンジ色のガーベラの花束を作ってもらった。
「彼女にプレゼントですか?」
 彼女はその小さな花束を渡しながら僕に聞いた。
 僕は笑って答えなかった。

 バイパスを下りて赤信号。左手で三本目のビールのプルタブを開けた。
「もう飲まない方がいい」
 と頭の中で警告が聞こえる。
「酒はそんなに強くないじゃないか」
「うるさい。素面で会えるかって言うんだ」
 僕は一口飲んでから、まだラックに居座る空缶を後部座席に放り投げる。缶は何かに当たって派手な音を立てた。
『「運転する時は絶対飲んじゃ駄目」
 助手席の明日香が言う。
「酒を飲んで運転したことなんてないよ」
 僕は答えた。
「なら良いけど、車は恐いから気を付けてね」』
「ほら、あんなに言ったのにやっぱり飲んでるじゃない」
「うるせえよ」
 僕は助手席の花束に怒鳴った。
「お前が乗ってれば……」
 僕は路肩に車を止めてエンジンを切った。外に出ると波の音が高く聞こえる。ガードレール越しに海が見えて、風がやけに塩辛い。海とは反対側のガードレールを飛び越し、階段を登ると君がいた。
「久しぶりだね」
 僕は言う。
「何で来たのよ! 来ないでって言ったじゃないの!」
 明日香はそう言っているように思える。僕は明日香の名前が刻まれている石にそっと触った。その海辺にある水原家の墓地の中で一番新しい石が明日香の墓だった。僕は石を撫でた。
「随分、固いんだな」
 僕はそう言って笑った。その途端、涙があふれ出た。
『「あなたと結婚なんてしたくないわ」
「もう会いに来ないで欲しいの」
 ベットに横たわった明日香が呟く。
「私たち別れましょ」
「別にあなたの為を思って言うんじゃないの。私ね、旅行に行くの。イタリアにそいで、アルパチーノみたいな男と恋をするの。もう日本には戻らないつもり。ああいうナイスミドルとステキにね、過ごすの」
 そう言って明日香は一筋涙を流した。そして毛布を頭の上まで引っ張り上げた。
「もう帰って。あなたとはもう会いたくない」』
 それから、何度病院に行っても明日香は会ってくれなかった。ただ、明日香の母親が目に涙を溜めて僕に言うだけだった。
「ねえ、真幸くん。あの子の気持ち分かってあげて。これから、あの子の過酷な戦いが始るの。あの子はそれを見られたくないのよ。あの子はあなたには一番、奇麗な姿で記憶していて欲しいのよ」
 そして数ヶ月後、一本の電話がすべてを告げた。
「真幸くん。あの子が、明日香がイタリアに発ちました。あなたにはただ『忘れて』って。ありがとね。真幸くん」
 その言葉に僕は訊こうとした言葉を飲み込んだ。ただ、「どうも」という声が自分の口から出るのを聞いた。
 僕は明日香の隣に越しを下ろし、首に手をやってネクタイを緩めた。
「海が好きだったね」
 煙草を取り出して火を点ける。
「今日はホントにいい天気だね」
「言いたいこと沢山あったのに」
 僕は涙を拭った。僕は笑った。
「明日香。僕はもう帰るよ」
 夕日が傾く頃、僕は立ち上がった。黒いスーツのお尻を払って、花束と酒瓶を持って階段を降りて車まで来た。そして、道を渡って海側のガードレールを飛び越えて、崖の上に立った。高くて、ちょっと恐い。僕は酒の瓶の蓋を開けて、中身を流した。遥か下の岩に当たって海の中へ落ちていく。そして、手に持った花束を遠く海に放り投げた。
「なあ、明日香。花嫁の投げたブーケを受け取った子は、次の花嫁になれるんだって。お前知ってたか?」
 僕は鼻をすすって、またガードレールを乗り越えて、酒瓶をごみ箱に投げて、車に乗り込んだ。彼女の前で酒は飲めなかった。本当は彼女と一緒に朝まで飲もうと思っていたのに、何故か帰れと言われている気がした。それは、あそこには僕の知っている明日香がいないからだと思う。
 彼女はもっと僕の身近な所にいる。彼女が手を触れたものすべてが彼女を記憶している。彼女と行ったすべての場所が彼女の想い出を残している。そのみんながこれからも僕と想い出を語るだろう。
 でもその日、僕は彼女に伝えたかった。僕は最期まで彼女の傍に居たかったってこと。あと、イタリア人とほんとに恋をしたかったのか? って訊きたい。
 彼女が僕に本当はどうして欲しかったのかは分からない。もしかすると、僕の腕の中で死んでいきたかったのかもしれない。僕は間違っていたのかもしれない。でも、それは考えない。考えたくないんだ。明日香の母親が言ったように、僕の中の明日香は今でも最高に奇麗なままだし、いつも奇麗でいたがった明日香はそれを喜ぶかもしれない。そう思っていたい。
 いずれ、僕は君の想い出に苦しまなくなる日が来るだろう。ふと蘇る忘れていた君のと想い出が懐かしく思える、もしそんな日が来たなら、僕は新しい恋をして君を妬かせてみたい。別れるなんて言わなければ良かったって君は思うだろう。明日香はすごいヤキモチ焼きだから。だけど、残念ながらそうなったら手遅れだ。僕は君の手から離れるだろう。でもそれまでは君のことを想っているよ。明日香。
『「ねえ、真幸。名前の通りあなたは私にとってホントの幸せなの。いつかあなたと一緒になって、私の好きな花のブーケを私たちを祝ってくれる人たちの中へ放り投げるの。いいと思わない? 白いドレスとプラチナの指輪。オレンジ色の花束とあなた。それが私の幸せの全てなんだわ。ねえ、真幸。 わたし幸せだわ」』
 沈んでいく夕日の海の上をオレンジ色の花束は、波間に揺られて徐々に沖へと流れていった。海沿いの小さな墓地の片隅では青いビロードの小箱から覗く銀色の指輪が夕日の色に染まっていた。

index/ novel/ shortstory/ fantasy/ bbs/ chat/ link