君の言うイツカは永遠に来ない

凩 優司

 僕はずっと柚菜の事を憎んでいた。
 国道を曲がり見覚えの残る道に出て、そんな事をふと思い出す。
 それは遠い記憶。
 降り積もった雪の端から土が微かにのぞいた時のように、
 記憶の表層に不意に現れる……望む望まないに関係なく。
 ハンドルを握る力を、指が白くなるほど強くしながら僕は思う。
 こんな事を思い出してしまうのはきっと、風の匂いの所為だと。
 風は色々な物を僕に運ぶ。
 土の匂い、人の匂い、てのひらの隙間から零れ落ちた過去の匂い。
 今は少年だった過去の記憶を僕に届けていた。
 息を切らして路地から路地へと駆け抜ける。
 まるで、その先には見た事がないはずの世界の端があるかのように。
 どこまでも駈けていける気がした。
 膝がガクガクになっても、先に行きたい気持ちの方が強かった。
 そして新たな一歩を踏み出すために大きく息を吸い込む……
 そんな過去を思い出させる、それは匂いだった。
 信号で停車をした僕は、イライラしたまま煙草に火を点ける。
 苛立つのは、みんな柚菜の所為だった。
 過去の事を思い出す度に、僕は柚菜を思い出してしまう。
 思い出してしまえば、憎む以外の何もできなくなってしまう。
 それは情けなくて、そして悔しかった。
「……けふっ」
 煙草の煙が流れていき、助手席から咳をする音がした。
 それを聞いて、僕は助手席に人が乗っていた事を思い出す。
「……」
 僕は何も言わずに、二口吸っただけの煙草をもみ消した。
「あ……大丈夫ですよ?」
「別に奈菜のために消した訳じゃない」
 青になった信号に、アクセルをゆっくりと踏み込みながら僕は言う。
 確かに僕は奈菜が煙草を苦手としている事は知っている。
 暖気で閉め切った車の中では、その煙が奈菜を苦しめるという事も。
 だけど僕は奈菜のために、何かをしようなんて決して思わない。
「煙草の所為で奈菜の気分でも悪くなったら、僕が困る。
 そんな事のために時間を使うような暇は、僕にはないのだからね」
「……はい、そうですね」
 奈菜は伏し目がちに頷いた。
 奈菜は知っていたから、僕に早く帰るべき理由など何一つない事を。
 三十を過ぎてなお、父の財産を食いつぶす事しかしていない僕は、
 家にいてもする事なんてのは趣味の絵描きくらいしかなかった。
 注文が来るほど名前が売れることもなかったし、
 かと言って綺麗にそれを捨ててしまえるほど下手ではなかった。
 こうやって僕は、いつまでも来ない『イツカ』を待ちながら、
 何一つ成し遂げる事もできないで死んでいくんだろう。
 僕は諦念という靄の中をたゆたう、生温い風だった。
 自分に希望を持つには、僕は熱情から遠ざかり過ぎてしまっていて。
 だからこそ、奈菜は僕の言葉の真意をキチンと汲み取ってくれた。
 他の人間のために時間を費す事は、僕には構わない事だった。
 ただ相手が、奈菜でさえなければ。
 僕は運転席側の窓を何も言わずに全開にする。
 冬の凍てつく風が容赦なく車内に吹き込んでくる。
 僕の右腕に吹き当たる風が、容易に体温を奪い去っていく。
 煙草の匂いが、風に押し流されるように消えていく。
 奈菜が体を微かに震わせるのを、僕は見た。
 彼女が寒がっているのが分かった僕は、それだけで幸せだった。
 奈菜を傷つけている時だけ、僕は楽になれるから。
 その時、寒そうな奈菜を見て『それにしても』と疑問を感じる。
 どうして奈菜は、いつも僕の傍にいようとするのだろうか。
 僕が32才で奈菜が18才、14も年が離れていて。
 話もかみ合わず、更には冷たくされるのが分かりきっているのに。
 だけど聞いても奈菜は答えてはくれないだろう。
 何故か分からないが、確信を持って僕はそう言い切る事が出来た。
 車はやがて荒れたアスファルトの道へと差しかかっていく。
 ここは二重の意味で田舎だった。
 アスファルトの端々からは草が覗き、タイヤは震え続けている。
 そして僕は吹き込んでくる冬の空気のせいで、いつもの幻聴を聞く。
 寒さの激しい冬には、いつも幻聴に悩まされる。
 きっと感覚が研ぎ澄まされてしまうからだろう。
 冬の静かな空気の中に、一面に響き渡る蝉の声を聞く。
 それは否定しきれない圧倒的なリアリティを持って僕を捕縛する。
 僕は、この幻聴が嫌いだった……思い出してしまうから。
 行き過ぎてきた幾つもの夏の日の事を。
 その中にある、一番忘れ難い夏の日の事を。
「……大丈夫ですか?」
 奈菜の声が聞こえた。僕はそっと視線を助手席に移す。
 父に似た黒髪が風にそよぎ、揺れつづけているのが見える。
 彼女に似たプルッシャンブルーの瞳が僕を心配げに見ているのも。
 ……似ているのは当たり前だった。
 奈菜は、父と彼女の娘なのだから。
 もっとも、それを知っているのは僕だけしかいないのだけど。
「……何でもない、大丈夫だ」
 嘘だった……本当は全然、大丈夫なんかじゃなかった。
 今や幻聴は世界を覆い尽くすように鳴り響いている。
 僕は路肩に車を停め、震える手でエンジンを切る。
 奈菜が何か僕に話しかけた気がした。
 だけどもう、その時の僕には彼女の声が聞こえなかった。
 僕の耳に届くのはただ、一面に響き渡る蝉時雨。
 そして記憶は過去へと遡っていく……一番忘れたい夏の日へと。
 彼女と初めて出会った、13才の夏の日へと。

 彼女……奈菜の母親である柚菜と出会った時、
 僕は視界が軋んだ音を立てて切り取られたような気がした。
 玄関に一人の少女が立っていた、少しの手荷物を抱えて。
 それだけで、僕にはその姿が完全な絵であるかのように見えた。
 何一つ欠けてもなく、何一つ余剰でもない、完全な絵に。
「……」
 彼女は僕の事に気づくと、わずかに首をこくりと動かした。
 日本語を知らない彼女は、そう挨拶をするしかなかったのだろう。
 僕も黙って頷き返した、そうする事しか出来なかった。
 柚菜にかけたい言葉が湯水のように後から後から涌き出てきて、
 そして地面に吸いこまれるように消えていった。
 彼女の存在の前では、全ての言葉が空虚であるように感じたから。
 16才だった彼女の肌は透き通るように白く、そして儚く。
 プルッシャンブルーの瞳は、僕を惹きつけて離さなかった。
 父がつけた柚菜という名前が、霞んで思えるほど輝いていた。
 だけど僕は結局、柚菜の本当の名前を知ることはなかった。
 父が彼女に名前を捨てさせたからだ。
 突然、同居者が増えた事に戸惑う僕は父に彼女の事を尋ねる。
 父の返答は、ただ一言だけだった。
「その女は買ってきた」
 僕はだから、今でも柚菜のことを何も知らない。
 彼女が、どこの国からやってきたのかも。

 ゆっくりと息を吸いこみ、頭痛が去っていくのを待つ。
 蝉時雨が波のように遠のいていき、僕はようやく気づく。
 奈菜が、心配そうに上目遣いで僕を見ている事に。
「……もう、大丈夫だ」
 だけど、奈菜はそれで安心したりはしないようだった。
 僕は、そんな奈菜の視線にいたたまれなくなる。
 僕は、そんなふうに心配してもらえる人間ではないはずだから。
「……いや、ちょっと煙草を吸う。奈菜は中で待っていろ」
 言って外に出ると、後ろ手でドアを閉める。
 冷えた空気が全身を包み、僕は寒さをこらえて煙草に火をつける。
 吐いた息の鮮やかな白さが、いつもより際立っていた。
 どこまでが煙で、どこまでが寒さで白いのかが分からない程に。
 『パタン』と音がして振り向くと、そこには奈菜が立っていた。
「……中にいろ、外は寒いぞ」
 ぶっきらぼうな言い方に、奈菜は軽く首を横に振る。
「いえ……寒いのは嫌いじゃないですから」
「……変わった奴だな」
 僕の言葉に、奈菜はただ落ちついた笑みを返しただけだった。
「あ……」
 奈菜が微かな声を上げる、その視線を追っていき、僕も気づく。
「雪……か」
 ひとひらの雪が、目の前を通り過ぎて地面に落ちる。
 降り始めた雪は舞うように揺れ落ちアスファルトに触れると、
 まるで地面に吸いこまれるように溶け、その姿を消した。
「……奈菜は、幻覚を見た事があるか?」
 僕はふと思い出し、そんな事を尋ねてみる。
「幻覚、ですか? ……いいえ」
 突然の奇妙な質問に、彼女は不思議そうな目で僕を見る。
「そうか。僕はあるんだよ、こんな……雪の降る日に」
 僕は手を伸ばして、雪をつかんでみた。
 つかんだ雪は手を開くと、すでに溶けて失われてしまっている。
 いつもそう、大事な物はつかんだと思うと、すぐに消えてしまう。
「降りしきる雪の中を歩いていた時、向こうから歩いてきた人が、
壁に吸いこまれるように忽然と消えてしまったのを見たんだ。
そこには脇道も扉も無かったというのに」
 そう、そこには人が消える要素などどこにも無かった。
「だから僕は思ったんだ、あの人はきっと行ってしまったのだと」
「……何処に、ですか?」
「扉の向こうに、だよ」
 雪に隠された向こうには、きっと僕に見えない扉があったんだ。
「この世界には、幾つもの扉がきっと隠されているんだって思う。
他の人には行ける、その扉の向こうにはきっと幸せがあって、
僕は近くまで行けても、ずっと見つける事はできないんだ」
「……幸せには、なれないって言いたいのですか?」
「僕は幸せになれないんじゃなくて、なってはいけないんだよ。
幸せになってしまう事があるなら、僕はきっと許せなくなるから」
 理解の範疇外なのだろう、奈菜はひどく寂しそうな目をしていた。
 僕を気狂いだとでも思っているのだろうか? 別に構わなかった。
 奈菜に理解を求めたりしない、そんな救いなんて欲しくない。
 彼女にだけは僕の事など、何一つ分かってもらいたくはなかった。
「……行こう、雪が強くなってしまうかも知れない」
 僕は視線を奈菜から逸らし、車のドアに手を伸ばした。

 柚菜と僕の関係は、姉と弟の関係でしかなかった。
 僕は突然現れた同居者……言葉の通じない少女に、
 一体どういった反応を示せばいいのか分からなかったから。
 だけど、柚菜の方は違うようだった。
 彼女はいつも、僕を見つけるとトテトテと近づいてきて、
 そして申しわけなさそうに、服のすそをつまんだ。
 それも仕方のない事だっただろう、と今になれば思える。
 遠い異国で、彼女は一人きりだった。
 自由も、其処から離れる力も、何一つ持ってはいなかった。
 柚菜には、味方になってくれそうな人間は僕だけだったのだろう。
 僕も彼女の事は嫌いじゃなかった、はっきり言えば好きだった。
 柚菜に見つめられると、ぽうっとなってしまう事も自覚していた。
 彼女が慕ってくれている事は、言葉が通じなくても伝わってくる。
 年上だという事を感じさせないくらい、彼女は可愛らしかった。
 だけど優しくする事はできなかった……知ってしまったから。
 男が女を『買ってきた』という時の、意味が一つしかない事を。
「あっ……!」
 固く鍵を閉めた部屋の中まで、その声は届いていた。
 柚菜が父に抱かれている、その証である声が。
「……ちくしょう」
 零れるように口から声が発せられる、自覚すら伴わないまま。
 父と柚菜が何をしているか、僕はボンヤリとだが理解していた。
 13才なりの稚拙な理解だったが、それで十分だった。
 そして理解をした瞬間……僕の彼女に対する好意は消え失せ、
 ただ憎しみだけが澱みのように広がっていった。
 最初の頃は苦痛のそれでしかなかった柚菜の吐息に、
 快楽が混じるようになったのに気づいて、憎しみは完全な物になる。
 だけど、その時の僕には何も分かってはいなかった。
 どうして彼女がこんなにも憎いのか、どうすれば楽になれるのか。
 父の部屋に行き、柚菜を殴れば少しは楽になれるのかも知れない。
 そうは思ったが、それが解決にならない事くらいは気づいていた。
 僕は家に帰らなくなった、敵意だけを抱えて街を漂った。
 くだらない理由でした喧嘩は、殴るより殴られる事の方が多くて。
 だけど、それで本当は構わなかった。
 体が痛い時だけ、心の痛みを忘れられるような気がしていたから。
 明け方になって僕は家に帰る、傷だらけの姿で。
 無茶をする事でしか、もう自分を保てそうにはなかった。
 そんな僕を、柚菜はいつも悲しそうに笑って、出迎えていた。

 僕はブレーキを踏みこんでいって、ゆっくりと車を止める。
 雪はすでにやみ、ただ静寂だけを辺りに残していた。
 ドアを開けて外に出る、奈菜が車を降りてから鍵をかける。
「ここは……?」
 煙草に火をつけながら、僕は事実だけを簡潔に伝える。
「僕が昔、住んでいた家さ」
 そして僕が18年前に捨てた場所だ。
 見上げるような大きく古ぼけた屋敷、父が遺した一部がここにある。
 砂利を踏みながら、僕は屋敷の横を通りぬけようとする。
 この屋敷の裏に、僕の目的の場所はあるはずだった。
 やり残した少年の夢と一緒に。
「……ここに来たかったんですか?」
 僕の横を歩きながら奈菜が不意にそんな事を尋ねてきた。
 そういえば彼女には、何をしにここへ来たのかも教えていなかった。
「そうだ……言っていなかったな」
「ええ」
 落ちついた声、奈菜はいつもそうやって一歩ひいた話し方をする。
 それが僕の苛立ちを強める事に、彼女はずっと気づかないでいる。
「……なんでお前はいつも、そうなんだ? 少しくらい疑えよ」
「疑うって……貴方をですか?」
「他に誰がいる? 前から思っていたが、奈菜は人を信じすぎる。
 人の善意を信じるな、もし信じるなら人の悪意を信じるべきだ」
「悪意を……信じるんですか?」
 キョトンとして、奈菜は聞き返してくる。
「ああ、そうさ……人の善意なんていう物は信じるに値しない。
 人間は自分の本当にやりたくない事は、決してしないものなんだ。
 それなのに善意はいつも『人のために』する事だと歪められる」
 煙草がフィルターの所まで灰になっているのに気づき、
 僕は靴の裏で強く火をもみ消した。
「その点、悪意は正直だ、悪意はいつも自分のためだけに動く。
ただ相手を傷つけたいという、その一点にのみ焦点が向かっている。
その正直さに、曖昧でない所に、僕は惹かれるんだ」
 奈菜は何も答えなかった、僕も答えなんて求めてなかった。
 僕たちは会話を交わしながらも、決して交わらない二つの線だ。
「わぁ……」
 奈菜が声を上げる、裏庭へとたどりつき視界が開けたのだ。
「綺麗な場所ですね……」
 ざあっと風が鳴った。
 奈菜の髪が風に揺れる……父に良く似た、黒い髪が。
 最近、奈菜を見ていると柚菜がそこにいるような気になる。
 実際、彼女は母に良く似ていた……髪の色が違うだけのように。
 そんな奈菜を見るたびに、僕は自分を持て余してしまう。
 僕は奈菜から目を逸らすと、できるだけ抑えた口調で言った。
「綺麗……か? 僕には良く分からないな、正直に言って。
 ここを、そんな風に見た時はなかったからな……」
 確かに言われてみれば、ここは綺麗なのかもしれない。
 手入れがされていないかわりに、ここには静謐さがあった。
 忘れられた木々はその枝を天に向かって伸ばしつづけている。
 ここの時間が止まっていたのは、どうやら僕だけだったようだ。
「僕はね、ここから逃げていたんだ、ずっと……長い間。
 戻りたくなんてなかった、思い出す度に忘れようとしていた」
「じゃあ……なんで今日、戻ってきたんですか?」
 僕は奈菜に背を向け、一歩を踏み出す。
 今まで、どうしても踏み出せなかった一歩を。
「ここには、置き忘れてきた物があるんだよ」
 木々の合間をぬって歩くと、やがて裏庭は突き当たった。
「置き忘れてきた物……って何なんですか?」
「この上に、あるんだよ」
 僕の言葉で、ようやく奈菜は目の前にある物に気がついたようだ。
 行く手を塞ぐような、今では荒れ果てた、土壁が。
「思っていたほど、高くなかったんだな……」
 僕の呟きに、奈菜は否定の言葉を返してくる。
「そんな事ないですよ……落ちたら大怪我しちゃいますよ……」
 そして微かに体を震わせる、想像してしまったのだろう。
 だけど、僕はそんな名菜の不安げな顔から意識して目を逸らす。
「そうか? 少年の頃は、もっと遥か高くに見えていたけどな」
 言いながら上着を脱ぐ、寒風が切りつけるように吹き付けてくる。
 奈菜は小さな叫びを上げる、僕の行動の理由に気づいて。
「まさか……」
 僕は答えなかった、振り返る事すらしなかった。
 奈菜が予想した通りの事を、僕はしようとしていたからだ。
 そして僕は土壁に足を乗せ、最初の一歩を勇気を出して踏み出した。

 僕が「家を出る」と言った時、父がくれたのは無関心だけだった。
 父から何かを与えてもらおうとは、別に思っていなかった。
 むしろ、父から与えられる物は全て捨て去ってしまいたかった。
 だけど僕には、何もかもが一人でできるような力はなくて。
 父から学費と生活費を与えてもらう必要性があった。
「……どこに行くつもりなんだ?」
 父の言葉に、僕は隣接県にある進学校の名前をあげた。
 寮のあるそこは、ここから出ていく理由にはうってつけだったから。
「そうか……分かった、好きにすると良い」
 僕は無言で背を向ける、父と同じ空気をこれ以上吸いたくなくて。
 部屋に戻り、震える手で荷物をまとめていく。
 ずっと望んでいた事だった、『ここから一歩でも遠ざかる事』。
 だけど嬉しさはなく、ただ理解できないモヤモヤだけが積もる。
「くそっ……なんだってんだ!」
 詰めようとしていた服を振り上げると、壁に向かって放り投げる。
 それが『壊れない』事をどこかで確認している、冷静さが嫌だった。
 僕は座り込むとベッドにもたれかかり、目を閉じた……
「あ……あの……」
 柚菜の声がして、僕は目を開ける。
 部屋はいつの間にか暗く、闇は全てを覆い尽くそうとしていた。
「ああ……眠ってしまったのか……」
 目をこすり立ち上がる、寝起きなのに妙に頭が冴えている。
 きっと、月明かりの所為だろう。
 月明かりは放り出されたように、部屋に差し込まれていて。
 その光を見ていると、冷静になれるような、そんな気がした。
「……で、何をしに来たんだ?」
 自分でも分かる低い声、それを聞いて柚菜は体を堅く強張らせる。
 幾ばくかの沈黙が訪れ……そして柚菜の声で沈黙が破られる。
「ここを……出ていくって、本当、ですか?」
 たどたどしい言葉だった、一言ずつ意味を確かめているような。
「本当だ……もう、ここには戻って来ない」
 僕の言葉に、柚菜は突き放されたように寂しい表情を浮かべる。
「どうして……ですか? どうして……そんな急に」
 柚菜は『どうして』と、それを何度も繰り返した。
 壊れたレコードが、何度も同じフレーズを繰り返すように。
 それが少しだけ嬉しく、そしてひどく憎らしかった。
「いいだろ、僕が出て行ったって……何の問題もないさ。
 柚菜には……親父が傍にいるんだから」
 強くてのひらを握り締める、爪が食い込んで血が滲むほどに。
 だけど……そんな僕より、柚菜は痛そうな顔をした。
 まるで胸の深い所を、無造作に抉られた時のように。
 声を上げず、柚菜はただひとすじの涙を流した、つうっと。
 涙は月に照らされ、僕に罪悪感を与える。
 卑怯だ……僕は思う、泣きたいほどに痛いのは僕の方なのに、と。
「何……泣いてるんだよ!」
 何かが僕を突き動かす、理性を食い尽くすようにそれは増殖する。
 僕は知っている……これは、怒りだ。
 怒りはただ、彼女を傷つけたいと、それだけを願っている。
 エゴを剥き出しにして、まるで我侭な子供のように。
「行か……ないで……下さい、何で……そんな急に……」
 消え入ってしまいそうな、弱々しい、吐息にも似た声。
 それが僕を責めているような気がした。
「『何で』……『何で』だって?」
 切れるかと思った、僕は苛立ちのまま壁を殴りつける。
 柚菜がビクリ、と体を震わせる……それを見て感じたのは快さ。
 彼女を怯えさせる事が、こんなにも僕を昂ぶらせている。
「……お前が言うのか、それを? この僕に向かって?
誰の……誰のせいで、僕がここを出て行くと思っているんだ!」
 思わず口をついて出た言葉、それは僕の本音に違いなくて。
『しまった』って思った時には、もう遅すぎた。
「え……」
 柚菜の瞳に、感情がポツンと浮かび上がってくる。
「違う! 違う、違うんだ。誰がお前のためなんかに……」
 その否定は、真実味を増すだけの効果しかもたらさなかった。
 柚菜の瞳に浮かぶ……あれは憐憫? それとも優越感?
 そんな理解はいらない、いらないんだ、欲しくなんてないんだ。
 僕は無意識のうちに彼女の肩をつかみ、突き飛ばしていた。
「あっ……!」
 柚菜がベッドに倒れ込み、僕は彼女を見て呟いた。
「僕は……僕はお前の事なんか嫌いだ! 大っ嫌いだ!」
起き上がろうとした肩を抑え込む、震えが手に伝わってくる。
 何か言おうとした唇を、無理矢理に塞ぐ。
「んっ……」
 彼女の手に力がこもり、僕の体を微かに突き放す。
「……やめ……て……」
「嫌だ」
 僕は即答する、柚菜の頼みなんか聞きたくもなかった。
「傷つけてやるんだ、柚菜を、深く……もっと深く、消えない傷を。
僕とお前が、ずっとずっと憎みあっていられるように。
何一つ、希望なんて二人の間には残ってしまわないように」
 柚菜は目を伏せた、そこに灯りを見ることはできなかった。
 それで良いと思った、僕たちはお互いにもう手遅れなのだから、と。
 柚菜が僕の名を呼び、そっと手を差し伸べる。
 震える声と震える手、それに悲しく優しい笑顔。
 僕はその全てから目を瞑った。
「……そんな風に笑わなくて良い、憎め、跡形も残らないほどに。
僕がお前を憎んでいるように、お前も僕を憎めば良いんだ」
 柚菜の上着からボタンを外していく、彼女の指が僕の髪を梳く。
 夜のしじまの中で、僕と彼女の吐息だけがやけに大きく響いた。
 まるで世界には、僕と彼女の二人しかいないかのように。
 服を脱がしきった時、雲間から月光が彼女を照らした。
 『綺麗だ』……言おうとしてそれだけは必死に耐える。
 柚菜にそんな言葉をかけたくなかったのが一つ。
 そんな言葉では何一つ表現できていないと思ったのが……一つ。
 夏の雲の様に白い肌……柔らかく、そして吸いつくような。
 完璧な曲線……柚菜はただ、そこに寝ているだけで『完全』だった。
 髪がそっと揺れる、汗が煌く、手が儚げに僕に差し出される。
 プルッシャンブルーの瞳が、僕を見つめている。
「柚菜……!」
 僕は叫び、柚菜の中にゆっくりと腰を下ろしていき……。
「くぅ……っ!」
 苦痛の声に、動きを止めてしまった。
 その時の僕は知らなかった、女性には準備が必要だなんて。
 驚き戸惑う僕に、だけど柚菜はにじむ瞳でそっとキスをする。
「……ゆっくり、動いて……ね?」
 僕は答えなかった、彼女の望むような事はしたくなかった。
 だけど必要以上に彼女を苦しめて、叫ばれたりするのは嫌だった。
 だから僕はゆっくりと動かした、彼女の体の上を滑らせるように。
「柚菜……柚菜っ!」
 彼女の名を呼ぶ……彼女が僕の名を呼ぶ声が聞こえる。
 僕は無我夢中で、ただ柚菜の事だけを求めていた。
 月が雲に隠れて、僕たちは闇に溶けていくような気がした。
 僕も、柚菜も、何もかもが一つに溶け合うように。
「あ……ぅん……」
 柚菜の吐息に甘い物が次第に混じってきているのに、僕は気づく。
 彼女のそこが湿り、僕のそれをしめつけてきているのにも。
 彼女は漏れてくる声を、一生懸命にこらえようとしていた。
 僕はそれで思い出す、彼女が父の下であげていた声の事を。
「柚菜……?」
「なん……ですか?」
「……やめた」
 僕の言葉に無言が返ってくる、意味が分からなかったのだろう。
「……僕はお前の望み通りにになんか、なってやらない」
「あ……ああっ……あっ!」
 僕は思いきり突き上げた、堪えきれない吐息が柚菜から漏れる。
 自分の体を、衝動を、どうしても抑えきれなかった。
 柚菜に刻み込みたかった……傷を、痛みと共に。
 痛みを感じた時、僕を思い出して憎めるように。
 彼女の漏らす声に快楽と苦痛が交じり合い、判別が出来なくなる。
 その時……再び、月明かりが部屋を照らし出した。
「……はぁぁっ……ああんっ」
 視界に映ったのは、洩れる声を堪えきれないでいる柚菜の姿。
 夢中になった表情で、それでも柚菜は美しかった。
 だけど僕はどうしても、彼女のその美しさを受け入れられなかった。
 そういった美しさは、父が引き出したに違いなかったから。
「くっ……」
 僕は自身を柚菜から引き抜くと、ただ座り込んだ。
 父と同じ事しかできなかった自分が悲しくて、情けなくて。
 そして、憎くて仕方がなかった。
「僕は……僕は『アイツ』と一緒にはなりたくないのに!」
 胸を掻きむしりたくなるほどの悔恨の念が僕を捉えていた。
 柚菜を力で手に入れた父が憎かった、だからそこから離れたかった。
 だけど僕は結局父と何一つ変わらなかった。
 僕が立っているここは、父の立つ場所と何ら変わりはしない。
 両手で顔を覆う、僕は視界が滲んでいくのを止められないでいる。
 その時……僕のそこに吐息が当たるのに気づいた。
「な……!」
 手をどかす、その先には不思議そうに僕を見上げる柚菜の姿。
 そして彼女は、僕のそれをためらわずに口に含んだ。
「やめ……やめろ、もう……もう良いんだ……っ!」
 必死に叫ぼうとする、だけど声はかすれてしまう。
 彼女の舌が伝い、ゾクゾクとするような快感を届けていたから。
 柚菜が好きだった、だからこそ今の彼女が憎くて仕方なくなる。
 それはきっとワガママ……求めるだけで与える事のない。
 僕はずっと、そうした自分勝手な人間でしかなかった。
 背筋を這うように何かがせり登ってくる、僕は気づく。
 僕はもう、限界に達しようとしているのだと。
「うっ……」
 柚菜の口から引き抜こうとする、でも彼女はそれを望まなかった。
 彼女は腰を伸ばし、僕のそれを咥え続ける。
「柚菜……っ!?」
 もう遅かった、僕は彼女の口の中に耐えきれないで出してしまう。
 我慢をしてこらえていた精液は、堰を切ったように口に流れ出る。
 ドクン……流れ出る音が、耳の後ろ辺りで聞こえた気がした。
「ああ……」
 脱力を感じる中……僕は罪悪感に満たされ、唇をかむ。
 僕は柚菜を汚してしまったと……でも、何故だろう?
 彼女を汚したいと望んだはずだった、なのにそれを悔やんでいる。
 僕は柚菜に何をしたかったのだろう?
 それとも何かをしてあげたかったのだろうか?
 その答えを求める方程式を僕は知らない、分かるのはただ一つだけ。
 何をしてもされても、僕はきっと柚菜の事を許せないのだろう。
「ん……」
 柚菜が僕のそれをそっと舐めあげ、残っていた精液を吸い上げる。
 そして口を離すと、コクリと音を上げて精液を飲み干した。
「柚菜……何でお前は……」
 そこまでするんだ? そう言いかけて、僕は口をつぐむ。
 柚菜が、悲しそうに僕の方を見ていたからだ。
 僕はきっと辛そうな、悲しそうな顔をしていたのだと思う。
 だから彼女は、僕にこう尋ねてしまった。
「……嬉しく、思ってくれないのです……か?」
 視界が赤く染まった、彼女の言葉を理解してしまったから。
 柚菜は僕に汚されて、それでも僕の事を考えてくれていた。
 苦しんでいる僕に、彼女は喜んで欲しいと思った。
 だから彼女はわざわざ僕の精液を飲み干したのだ。
 そうされると喜ぶだろう『誰か』を、彼女は知っていたから。
「う……」
 何かが僕の中で壊れた、それは多分カケラだけ残っていた理性。
 僕はその時きっと……緑色の目をしていた。
「うわあぁぁっっっ!!」
 拳を握る、無意識のうちに……そして振り上げる。
 正気に戻った僕が見たのは振り下ろした拳と、倒れる柚菜の姿。
「殴った……のか?」
 認めたくなかった、でも拳に残る痛みが真実を教えている。
 僕はまた……『自分がなりたくない自分』になってしまった。
 僕は後ずさる、駄目だ……ここにいると、僕はもっと駄目になる。
 柚菜を傷つけ、そして傷つけられる事しかできなくなってしまう。
 柚菜が近づいてくる、悲しそうな目で……だけど微かに笑って。
 僕はありったけの拒絶をこめて叫んだ。
「来るなっ! これ以上……僕に、僕に近づくなぁっ!
 消えろ、死んでしまえ! お前なんて……いらないんだっ!」
 柚菜の笑顔が固まった、『どうして』って表情が語っている。
 僕は何も答えずに、ただ目を逸らす事しかできなかった。
 服をかき集めて、鞄に叩き込む。
 そして彼女から背を向ける、ここから一秒でも早く遠ざかりたくて。
 走り出す背に、僕の名を呼ぶ声が聞こえた。
 その声に立ち止まりたい自分がいる、だから僕は逃げた。
 必要な物も、そうじゃない物も、何もかもを……、
 その場所に、置き捨てたまま。

「……駄目です!」
 壁を登ろうとした僕の腕を、奈菜は真剣な表情でつかむ。
 彼女にしては珍しく、手に力がこもっている。
 どうやら本気で止める気らしいと思った僕は、しぶしぶ振り返る。
 そんな僕に、奈菜は怒ったように言った。
「なんで……そんな事をするんですか? 危険です!
下手をしなくても大怪我をしてしまうような高さなのに……」
 奈菜は涙さえ目尻に浮かべ、必死に僕を止めようとしていた。
 僕には彼女が何を考えているのか、まるで分からなかった。
 どうして、こんな男の事を彼女は心配するのだろう?
「奈菜……どくんだ、邪魔だ」
 自分でも冷たく感じる声が、僕の口から出る。
 奈菜はビクッと体を震わせた。
「僕は子供の頃に、一回この壁を登ろうとした事がある。
だけど登り始めてすぐに落ちてしまった、怪我はしなかった。
でも、それを見ていた人に怒られてしまってね……」
「当たり前です! そんな事をしていたら、誰でも怒りますよ」
「誰でも、ね……」
 僕は苦笑をもらす、そんな奇特な人間ばかりなものか、と。
「とにかく僕はその時、約束させられてしまったんだ。
『もうこんな事はしない』って、それを守ってきたんだけど……」
「約束を、破るのですか?」
 奈菜は意外そうな顔をする、僕の事を勘違いしているようだ。
「そうだ……今から考えると、そんな約束をするべきじゃなかった。
僕は、自分でする事を自分で判断し、判断した事には責任を持つ。
そういう事ができる年にもう、なっているのだから……」
 僕は名菜の手を振り払う、あっさりとそれは解かれた。
「僕は自分が何をするか、しないかは自分で決める。
僕はもう二度と誰かの考えに流されたりしない。
もう一度言う、どくんだ奈菜……邪魔だ」
 奈菜は少し傷ついたようだった、瞳が悲しみに彩られている。
 僕が考えを変えることはないと思い知らされたのだろう。
 それが心地よかった、奈菜を傷つけると楽しい自分がここにいる。
 苦しさを一時だけ忘れて楽になれる自分がいるんだ。
 僕は今でも奈菜を、奈菜の向こうに見える柚菜を憎んでいるから。
 なんて矮小な自分……だけど、それこそが僕だった。
 僕は奈菜から目を逸らすと、壁を登り始めた。

 高校の時に、父が死んだ。
 だけど僕は帰らなかった、そんな気になりはしなかった。
 人からどう思われるかなんて、そんな事は考えもしない。
 自分が思うほど、他人は僕の事なんか気にしてはいないから。
 柚菜がすでに死んでいると聞かされたのは、その時だった。
 妊娠をして、子供の命と引き換えにこの世を去ったらしい。
 僕は何も感じなかった、感じる必要もなかった。
 彼女は結局、父を選んだのだから。
 僕は父の遺産を受け継ぎ、そして家に閉じこもる。
 必要最低限しか、学校に行く事もしなくなっていく。
 たまに思い出してする事と言えば、絵を描く事くらいだった。
 無心で筆を走らせる、小手先だけの技術で。
 僕でなくても描けるような、消費にすら値しない絵を。
 それはそれで構わないと思った……時間が無為に過ぎていくから。
 家を出てからの僕は……死ぬまでの時間をどうやって浪費するか、
 それだけをずっとずっと考えていた。
 一度、高校で絵を描いて見せた時がある。
 クラスメイトはみな、僕の絵を一様に褒めた。
「上手いね、君にこんな才能があるとは思わなかったよ」
 だから僕も話を合わせた、一々否定するのは面倒くさかったから。
「でも、このまま本気で絵を描いていこうとしていくなら、
今の僕には余りにも足りない物が多いんだ、まだ力不足なんだよ。
いつか、人を惹きつけられる絵が描けると良いなとは思うけどね」
「そうかな……これだけ上手ければ、絵描きにだってなれそうだよ」
 反吐が出そうな馴れ合いの中、『彼』が僕の背を通りすぎる。
 クラスメイトの中で唯一、彼だけが異質だった。
「……いつか、なんて言うのなら、絵を描くのをやめた方が良い」
 通りの良い声で、彼はこう言葉を落としていった。
「『今の僕には』とか『まだ力不足』とか逃げ道を用意するのは、
真剣に絵に取り組んでいる人たちに対して失礼だと思うよ。
……そのままじゃ、君の言ういつかは永遠に来ないね」
 奇妙なざわめきがクラスの中に起こり、彼はそれを無視しきる。
 彼がクラスを出、後ろ手でドアを閉めるとクラスメイトは言った。
「……気にしない方が良いよ、あいつ、いつもああなんだ。
何であいつはああ、水を差すような事しか言えないんだろうな」
 僕はそれには答えなかった、彼の言葉が僕の中で響いていたから。
 後になってから思った、名前も思い出せなくなるクラスメイトの中、
 彼だけが痛いくらいに誠実であったと。
 結局、彼の言っていた事はこれ以上ないほどに正しかった。
 高校を卒業した僕は『なんとなく』大学を受験し、合格をした。
 すべり止めだったそこで、僕はどうでもいい学生生活を送った。
 絵がものになるはずもなく、6年間で68単位を取得して中退した。
 僕は何一つ成し遂げる事が出来なかった。
 就職し、三週間で会社を辞めた、前にも増して部屋から出なくなる。
 誰が見ても『落伍者』の図式にしか見えないはずだった。
 そんな堕落していくだけのある日、僕はある出会いをする。
「奈菜、ね……」
 僕は興信所から渡された書類を見ながら、そう一人ごちる。
 24歳の時、柚菜の遺した子供の事を思い出した。
 その行方を探すと、予想外にもアッサリその行方は判明した。
 僕と同じ県内の孤児院、そこに柚菜の子供……奈菜はいたから。
 彼女は十才で、柚菜と父に良く似ていた。
 それを見て誰かが僕に囁く、『傷つけてしまえば良い』と。
 僕はそれに逆らわなかった、それは楽な生き方に違いないから。
 楽な生き方は、それだけで魅力的に僕には写るから。
 奈菜を引き取りに行った時の事を、今でもよく覚えている。
 人見知りをする奈菜は、係の人の後ろから中々出てこなかった。
「……はじめまして」
 僕はそう、優しく声をかけてみる。
 それでようやく、奈菜はおずおずと顔を出し……時が止まった。
 彼女は僕を見ると動きを止め、凍ったように視線を逸らさなかった。
「……どうしたの? 奈菜ちゃん?」
 その言葉で凍っていた時は流れ出す、彼女はゆっくりと目を閉じ、
 もう一度開くと僕の目を見つめ返し、深々とお辞儀をしてみせた。
「……これから、どうぞよろしくお願いします」
 子供のくせに妙に大人びた挨拶だと思った。
 だから僕は返事をせず、一度だけ鷹揚に頷いてみせた。

 ……僕は一体、何をしているのだろう。
 痛いくらいに指を押し付けて、僕は壁を登ろうとしていた。
 理由がない登攀は、ひどく子供じみた行動のように思える。
 きっと奈菜の目には、僕が馬鹿そのものに見えている事だろう。
 でも、やめる訳にはいかなかった。
 僕はずっと……この壁を登りきってみせかったのだから。
 少年の頃に見た壁は高く、越えられない物の象徴みたいに思えた。
 だから僕はいつか、この壁の上に立ってみたかった。
 そこから世界を見据えてやりたかった。
 そうすれば大人になれるんじゃないかって、ずっと思っていた。
 ……大人であるはずの年になった、今でも。
 僕はいつまでも子供だ、僕は人を傷つける事しかできない。
 それは僕が、人を傷つける事を楽しいと思っているからだ。
 人を傷つけている時だけ、自分が矮小な人間である事を忘れられる。
 人を傷つけていないと、僕は自分を傷つける事しかできない。
 だってそのままだと、僕はただの駄目な奴でしかないから。
 だから僕は自分を傷つける、壁を何度も殴りつけて拳を傷つける。
 カッターで小さな傷を腕に幾つも幾つもつける。
 そして誰もいない部屋で僕は呟くんだ。
 『僕はどうしてこんなに可哀相なんだろう』って。
 誰も言ってはくれないから。
 どうして僕はいつまでも健康なままなのだろう。
 僕はハンデが欲しかった。
 ハンデがあれば、自分が駄目な理由がつけられる。
 そこに逃げ込む事ができる。
 だけど僕は健康だった、頭も決して悪くも良くもない。
 だからどこにも逃げられない、閉塞感だけが息苦しくなっていく。
 誰も助けてくれない、誰も愛してくれない。
 求めても求めても僕が欲しいものは何一つ手に入らない。
 この壁を登れば、僕はもう一度始められるのだろうか。
 もう一人の僕が、そんな考えを嘲笑している。
 『お前は30を過ぎても、そんな考えしかできないのか』と。
 気がつくと僕は、壁の途中で泣き出してしまっていた。

 僕が奈菜と暮らすようになり、部屋には明りが灯るようになった。
 リビングにはテーブルやTVや開け放たれた大きな窓があった。
 名菜の部屋にはベッドや机や衣装箪笥や整頓された本棚があった。
 ただそこには、言葉と理解だけが欠けたように無かった。
 僕たちはただ、同じ場所に暮らすだけの他人でしかない。
 小学生の頃、一度だけ奈菜が泣きながら帰ってきた事がある。
 説明を求められ、奈菜は嗚咽をこらえながらたどたどしく口を開く。
 どうやら、瞳の色が皆と違うためにいじめられたのが原因らしい。
 身体的特徴から迫害をするのは卑怯な事だな、とは思った。
 だけど……それだけだ、僕は義憤にかられたりなんてしない。
 奈菜の事を自分の事のように感じるのは、僕の役目じゃないから。
 僕が奈菜の涙を見て学んだ事は一つだけある。
 卑怯な事というのは、大抵の場合において有効だという事。
 『気にするな、容姿で人の事を差別するような奴の事は』
 そんな偽善に満ちた言葉を、僕は結局奈菜にかける事は無かった。
 救いを求めているような、頼りなげに揺れる瞳の光。
 僕はその救いの糸を断ち切る事に決めた、ためらわずに。
「……それは当然だな」
 奈菜は驚いた表情で顔を上げる、彼女は優しさを求めていた。
 だから僕は、それだけはあげようとは思わなかった。
「僕だって嫌だ、なんでお前はそんな瞳の色をしているんだ……
そんな瞳の色を見ていると……思い出して吐きそうになる」
 奈菜は心の底から傷ついた、僕にはそれが分かった。
 ゾクゾクと背筋に歪んだ快楽が走る、それは射精にも似て。
 ぬかるんだ土が僕の足を捕らえるように、僕を捉えていた。
「……ずっと、知りませんでした……」
 奈菜が聞こえないほど小さく、そう呟いた。
 驚愕が去った後、彼女は何故かひどく落ちついたように見えて。
 一つ一つ、言葉を確認するように紡いでみせた。
「この瞳が……貴方をそんなにも傷つけていたなんて……」
 ヤバイ……僕は奈菜の冷静さを見ているうちに、そう感じた。
 彼女の冷静さはきっと、何か間違った方向へ進もうとしている。
「どうしようもなく……あるだけでこの瞳が貴方を傷つけるなら、
こんな瞳……なくたって構わないって、そう思いませんか?」
 言って奈菜は近くにあったペンを無造作に手に取り……
 ためらう事なく、そのペンを自分の瞳に突き刺そうとした。
「……何をする気だ!」
 僕は腰を上げ、必死に手を伸ばす、ギリギリのタイミングだった。
 彼女の手を叩く、ペンが彼女のまぶたを深く傷つける。
 まぶたから血が流れ出て、ペンは奈菜の手からゆっくりと落ちた。
 ……結局、奈菜が失明する事はなかった。
 僕が車を飛ばし、近くの救急病院まで急いだのが良かったらしい。
 僕は自分の言動に後悔はしなかった、していないはずだった。
 だけど僕はその日、深夜営業のディスカウントショップに行くと、
 可愛らしいヌイグルミを一つ買い、奈菜の机にそっと置いておいた。
 別に奈菜の事を気遣った訳ではない。
 ただ、この程度の事で死なれては、これからがつまらないからだ。
 そう思った。
 あのヌイグルミは今でも彼女の机の上にある。
 別のヌイグルミを買う金は与えているのに、未練がましく。
 あれはきっと、僕への彼女なりのささやかな復讐なのだろう。
 彼女を傷つけた事を、僕がずっとずっと忘れないように、と。

 涙を拭おうとする事も忘れていた、そんな必要もなかった。
 頬を伝い唇に届く涙は、塩の味がした。
 なんて滑稽で惨めな僕……だけど、それこそが僕であるのだから。
「……嫌だ、もうこんな所にはいたくない……っ!」
 足に力をこめる、高みを、もっと高みを目指すために。
 もう少しだけでも、自分を好きになってあげられるように。
 自信を持ち、人を傷つけることない僕になれるように。
 この壁の上には、大人になった自分がいるのだと信じて。
 僕は再び、壁を登り始めた。
 すがりつくように、一歩一歩を踏みしめていく。
 永遠に来ない『いつか』を、自分の手で手繰り寄せていく。
 ……だけど、そこまでが限界だった。
 不意に横殴りの風が吹き付け、僕の目に乾いた砂を紛らせた。
 突然の苦痛に、僕は目をこすろうと片手を離す。
 その一瞬の隙が……命取りだった。
 足が滑り……僕の体は宙に浮く、伸ばした手も壁には届かない。
 僕は叫び声を上げながら、壁からなす術もなく落ちていった。

 中学の時、一度だけ奈菜が友達を連れてきた時がある。
 髪が短く、快活そうな彼女の名前は……確か、恵理だったと思う。
 恵理は僕の家に来た時からずっと、不機嫌そうにしていた。
 僕に対する敵意を、隠そうともしていなかった。
 それは当然だろうと思う……彼女は奈菜の友達、なのだから。
 僕の奈菜に対する態度を知りながら、好意的になれるはずもない。
「あの、これ……今日返ってきたテストです」
 奈菜はそう言って一枚の紙切れを差し出した、僕はそれを一瞥する。
 そこにはほぼ満点に近い点数が記されていた。
 僕の知る限り、奈菜の点数が90を切る事はなかったと思う。
 だから僕も怒る事はなく、傷つける理由も見当たらなかった。
 僕はいつものように、何も言わずに答案をただ返す。
 奈菜は何故か、そうすると必ず悲しそうな顔をしてみせる。
 その理由が僕には分からなかった、ずっとずっと……今でも。
「……何も言わないんですね」
 家に来てから、初めて恵理が口を開いた。
 凍てつくような、敵意を具現化したような、そんな声で。
「……恵理ちゃん?」
 不安そうな奈菜を顧みず、恵理は僕に一歩踏み込んでみせる。
「何で、何でそうなんですか? 奈菜が何をしたっていうんですか?
普通じゃ……ないです、理解できない、なんでもっと優しく……!」
 『優しく、してあげないんですか……』と恵理は悲しげに呟く。
 彼女の言いたい事は理解できたし、それは全く正しいと思った。
 だけど、恵理は決定的に間違っていた。
 僕が奈菜に優しくする……そんな事を期待するなんて。
「……悪いけど、君の期待には添えないよ」
「……え?」
 僕の言葉が意外だったのだろうか、恵理は間の抜けた声を上げる。
「僕は奈菜に優しくする事は出来ない、とそう言ったんだ。
僕は奈菜を傷つけずにはいられない、そういう生き方しか出来ない。
君の言うような、そんな生き方は僕にはできないんだよ」
 恵理は最初に唖然とし、それから激昂をした。
「……な、何? 何でそんな事が言えるの? ねぇ、どうして?
『できない』んじゃなくて『しない』んでしょ?」
 言いながら感情が昂ぶっていくのか、恵理は瞳に涙を浮かべて。
「変だよ! どう考えたって変だよ! 何で、そんな事が言えるの?
奈菜は……奈菜は何もしてないのに、それなのに、どうして!」
「……そうだね、確かに『奈菜は何もしてない』ね」
 僕は自分の意思を変えるつもりはない事を示そうと、ゆっくりと、
 噛み締めるように言葉を口にする。
「だけど……それでもどうしようもないんだ、僕は奈菜が憎い。
奈菜がどうしたからとかじゃなくて、奈菜だから憎いんだ。
だからもし……奈菜が望むなら、僕から逃げ出してしまえば良い」
 僕の言葉に恵理は、今度こそハッキリ顔色を変える。
「……自分が優位な場所に立ってるから言える台詞ですよね、それ。
それとも、何ですか? 奈菜にここから出ていく力がないから、
だから言うんですか? だったら……私にも考えがあります!」
 言って恵理は振り返り、そして奈菜に手を差し伸べた。
「行こう、奈菜……? あなたはこんな所にいちゃいけない。
私にできる事は限られてるけど、悪いようには絶対にしないから」
 差し伸べられた手を不思議そうに奈菜は見つめていた。
「……どうして恵理ちゃんは、私にそこまで言ってくれるの?」
 奈菜の言葉に、恵理は今にも泣きそうな顔になる。
「……奈菜が友達だからだよ、だから不幸になって欲しくないの。
友達が可哀想だって思ったら、全力で助けるのが友達でしょ?」
 恵理は心の底から、奈菜を心配して言っているんだな。
 聞く者の誰もがそう感じるだろう、それは優しい言葉だった。
「ありがとう……私、恵理ちゃんと友達になれて、本当に良かった」
 恵理の顔がぱあっと明るくなる、奈菜が分かってくれたと思って。
 だけど、その喜びは尚早だった……奈菜はこう続けたから。
「でも……ごめん、私は恵理ちゃんと一緒に行く訳にはいかないの」
 そこに揺るぎは微塵もなかった、毅然とした態度で奈菜は言いきる。
 そう、それは拒絶に他ならなかった……恵理は首を横に振る。
「え……だって……どういう事? 奈菜は……行かないの?」
 奈菜はゆっくりと、だけどはっきりと、恵理に頷いてみせた。
「うん、行かない……私はここに残る、私はそれを選ぶの。
私は……恵理ちゃんが言うように『可哀想』なんかじゃないから」
 失言をしたと思ったのだろう、恵理は慌てて言い繕う。
「可哀想っていうのは……言いすぎたかもしれない、ごめんなさい。
でも私、奈菜を哀れんだ訳じゃない、そうじゃなくて……!」
 言い募る恵理の口を、そっと奈菜はてのひらで遮る。
「……わかってるよ? 恵理ちゃんが私の事を考えてくれてるって。
胸の奥に、水が染み込むみたいにちゃんと……届いてるよ?」
 奈菜が恵理を、包み込むように優しい視線で見つめている。
 恵理が奈菜を、差し伸べる手のような視線で見つめている。
 二人の視線はもつれあい、紡がれ、だけど端からほどけていく。
「じゃあ……じゃあ、どうして……」
 昂ぶった感情を抑えきれずに、恵理の声が途中で切れる。
 だけど恵理は諦めなかった、強い意思で彼女は言葉を探す。
 恵理はただ『奈菜を助けたい』と、それだけを考えているように。
「どうして、奈菜はこんな所にいることを望むの?」
 奈菜は黙って目をつむった……まるで何かを断ち切るように。
「恵理ちゃんにとっては『こんな所』だよね、きっと……。
だけどね、私には違うの……初めて見た時から、ずっと」
 恵理の表情が『理解できない』と言っている。
 それがきっと普通だろう、僕にだって理解できなかった。
 『奈菜がここから離れていく事を、選ばない理由』なんて。
「私は恵理ちゃんから見ると、不幸に見えるのかも知れない。
だけど、私は不幸でも可哀想でもない……選んだから。
私は『そうある事を望んだ』から『本質的には不幸じゃない』の」
 『解って欲しい』って言ってる、言葉を必死に選んでる。
 だけど理解する事はできなかった、恵理も……僕も。
「わかんない、わかんないよ……変だよ、普通じゃないよ。
どうして、そんな辛いだけの選択をするの……?」
「変、なのかな……普通じゃない、かな……それなら嬉しい。
きっと、近づけるから……『普通では理解できない事』に」
 不理解を越え、恵理の思考は恐怖に移り変わっているように見えた。
 だけど……それでも恵理はあきらめなかった、強い意思が瞳にある。
「……ようやく分かった、ここが……いけないんだね」
 部屋の中をぐるりと見まわしながら恵理は吐き捨てた。
「ここは歪んでいるわ……景色だけでなく、何もかもが。
だからきっと……奈菜の想いも歪められていってしまうのよ……」
 良く分からない台詞だけれど、奈菜には理解できているようだった。
 恵理は背を向けて、そして家のドアというドアを開け放って行く。
「恵理……ちゃん? どうしたの? 何をしてるの?」
 奈菜の問いかけに、恵理は振り返る事もせずに答えた。
「奈菜の部屋を探しているの……ここから、連れ出すために」
「連れ出すって……私はここにいたいの!」
 だけど奈菜の言葉は恵理には届かないようだった。
 恵理はドアを開け放ち続け、そしてそのドアのノブに手を伸ばす。
 そこは奈菜にも入ることを許さなかった部屋、とっさに僕は叫ぶ。
「……やめろ! そのドアは開けるな!」
 恵理が体を震わせる、でも遅かった、ノブがゆっくりと回され……
 そこにある物を、彼女たちはその目で見てしまった。
 そこには置き捨てたように、幾つもの絵が並んでいた。
 僕によって描かれた、ありふれた風景画や人物画が。
 そして『憎む事を忘れないために』描かれる、彼女の絵が。
「これ……奈菜? ううん、違う……髪の色が違う」
 柚菜の絵を見て呟く恵理、奈菜は何も言おうとはしなかった。
 奈菜はただ黙って、絵を食い入るように見つめ続けている。
「でも……何? 何なの、この絵……泣いてるの? 笑ってるの?
良く分からない……分からないのに……この絵を見ていると、
どうしてこんなに苦しい思いになるの……?」
 その言葉が終わる頃、僕は恵理と奈菜の前に立ち塞がる。
 これ以上、絵を見て欲しくなかった……何かを見透かされそうで。
「これは……僕が一番憎んだ女の絵だよ……」
 僕はキャンバスの縁をつかむ……強く、次第に力がこもっていく。
 僕は今でも忘れていないから、彼女を誰より憎んだ、その気持ちを。
「だから僕は彼女を描く……こうやって……」
 僕は近くにあったパレットナイフをつかむと……
「彼女を壊すために!」
 勢い良くキャンバスに突き立てた。
 それはまるで、柚菜の顔を切り裂いたかのように僕には感じられて。
 僕は快感が背筋を通り過ぎて行くのを、感じずにはいられなかった。
「何……何なのよ、これはぁ……」
 恵理が途切れ途切れに呟く声が聞こえた、僕は顔を上げる。
 そこにはもう恵理はいなくて、ただ彼女の立ち去る足音だけあった。
 僕はパレットナイフを下ろすと、ゆっくりと息を吐く。
 気狂いだと思われただろうか? 別に構わなかった。
 僕は一人でいる事には慣れているのだから。
「あの……」
 気がつくと奈菜が隣に立っていた、僕は驚いて声を上げそうになる。
「……何でお前は、彼女と一緒に逃げなかったんだ?」
 当然の疑問であるはずだった……なのに奈菜は微笑んでみせた。
「私は自分で望んで、ここにいるんですよ……?」
 そして背を向けると、部屋を出て行こうとする。
 まるで今しがたここでは、何もなかったかのように。
 僕は奈菜の背をずっと見つめ……聞こえないように呟いた。
「お前は……愚かだよ」

 指先が前髪をなぞるのを感じ、僕は目をゆっくりと開けていく。
 そこには……安心した笑みを浮かべた奈菜がいた。
「良かった……目を覚ましましたね」
 その笑みを見ながら、僕は思い出す。
 壁から落ちる時、何かが僕を落下の衝撃から防いだ事を。
「お前……何をした?」
 僕の言葉に、それがさも当然であるかのように奈菜は答えてみせた。
「貴方を、受けとめました」
 眩暈がするような台詞だった。
「……大丈夫なのか?」
「私ですか……? ……はい」
 どこまで本当なのか分からないが、話していて苦痛ではないらしい。
 僕は少し安心し、それから苛立たしく感じずにはいられなかった。
「……何でそんな無茶をした? 一歩間違えれば死んでいるぞ。
 僕を助けなければ、お前だって……自由になれたかも知れないのに」
 奈菜は何故か僕の言葉に、少し傷ついた表情を浮かべる。
「別にそんな事を望んではいません。それに……無茶くらいします」
 彼女は意思を込めて言葉を紡いでみせた。
「それで……人の関心を、少しでも引けるのなら」
 奈菜の言葉が、不意に僕を激しく揺さぶる。
 僕は……思い出してしまったから。
 『僕は柚菜の前で、ずっと無茶をしていた……痛みを得るために。
 それは心の痛みをごまかすためだと思ってた……でも、違ったんだ』
 今度こそ、僕の眼からは後から後から涙がこぼれてくる。
 理由も聞かず、奈菜はただ黙って優しく抱きしめてきた。
 『僕はずっと、どれだけ傷ついているか、柚菜に伝えたかった。
 だけど方法を知らなかった……伝えられる言葉でさえも』
 僕は掌で顔を覆う、奈菜にだけはこんな顔を見られないように。
 『だから僕は目に見える形で傷ついてみせる必要があった……。
 それで少しでも彼女が気にかけてくれるなら、嬉しかったんだ。
 僕は……僕は柚菜を……愛していたんだ』
 思い出すのは柚菜の笑顔、木々の間からさす陽の光に照らされた。
 彼女は父の傍にいる時にいつも笑っていた、それが悔しかった。
 その笑顔を見ていると、僕だけが取り残されているような気がして。
 柚菜は……僕の事もちゃんと気にかけてくれていたのに。
 どうして後悔という物はこう……ゆるやかに僕の喉を締め上げる?
「……初めて会った時の事を、今でも覚えています」
 奈菜が僕の髪を梳きながら、独り言を言うように呟いた。
「『寂しい』って感情を形にすると、こうなるんだろうな、って。
そう思える瞳をしていました、手を差し出さずにいられないような。
見ているだけで息が詰まりそうな位、心が揺さぶられたんです」
 僕は何も言わなかった、奈菜もそんな事を望んではいない気がした。
「……本当は知らない場所に行く事が、少しだけ怖かった。
だけど突き動かされるように足が前に出て……私は選んだんです。
それで……私は今でも、その選択を後悔してはいないんですよ?」
 理由なんてわからずに、僕は涙を流し続ける。
 奈菜の言葉が優しく感じられたから……でも僕は気づいてもいた。
 僕はきっとこの事をすぐに忘れてしまうだろうと。
 そしてまた奈菜の事を傷つけてしまうだろうと。
 僕は壁を登り切る事ができなかった……だから僕は子供のままだ。
 僕はこれから先も、ずっと大人にはなれないのだろう。
 奈菜に優しくする事もきっと、ずっとできないままなのだろう。
 でも、そんな事はすぐに頭の中から消えてしまった。
 僕はただ奈菜の胸の中で泣き続ける、全ての現実から逃避して。
 他の誰でもない……可哀相な僕のために。

−Fin−


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