蝉時雨

凩 優司

 モノローグ

 私にとって文章を書くという行為は、自分が現在どこに立っているかの再確認の手段にはなりえても、自己表現の手段にはなりえなかった。
 何故なら私は―私のような普通ではない特異な人間が書いた物は、そう簡単に理解されるはずもないという考えと。私のような頭の悪い人間が書いた物は、誰からも相手にされないに違いないという考えを。いつも胸の中に抱いていて。そして、その二つの異なった考えは、結局の所『私の言いたいことは誰にも解ってもらえない』というところで根を一つにしていたからだ。
 そういう考えを抱いている限り、私の書く文章はいつも私に向けてのみ書かれ、他人からの理解を拒み続けていく。
 そして今、私はもう一度、自分の立つ位置を確認しようとしている。
 ひょっとしたら今度は、私の言いたいことを誰か解ってくれるかも知れないという、淡い期待と共に。

 これは『僕』の物語。 『僕』が私になるまでの、ある夏の物語。


 プロローグ

「畜生」
 そう口にした、あの人の心が段々と悲しみから憎しみへと、その色を変えていくのを、僕ははっきりと感じた。
 やっぱりだ。
 僕は思う。
 やっぱり人は、人を憎まずには生きていられないんだ。
 それは、予想された事。
 しかし、予想通りであっては欲しくなかった事。
 僕は喉元にこみ上げてくる、今にも叫び出したい衝動をこらえるのに、精一杯だった。
 病室の中には、五月蝿いくらいの蝉時雨。
 僕は夏がもう終わりを告げようとしているのを、感じた。






   1

 時期は六月の半ば。
 その時、中学二年生だった僕は、登校拒否まではいかないものの、自分から進んで学校に行こうとはつゆほども考えられない状況だった。
 来年は中学三年生になり、高校受験に向かい合わなければならない。そんなプレッシャーも、少しはあったのかも知れない。
 だが、僕が学校に行きたくなかった本当の理由は、そんな事ではなかった。僕は怖かったのだ。人間に対する不信感を拭い去ることができないまま学校へ行き、不特定多数の人間と触れあうことが。そして、信じていない『他人』を相手に、笑顔まで作って返してしまいそうな自分が。
 それほどまでに『他人』という存在は、その時の僕にとっては驚異以外の何物でもなかった。―何故、彼らはああやってわがままでいられるのだろう? 何故、彼らは自分の価値観だけを至上の物とし、自分が良く解ってもいないことを悪し様に罵ることができるのだろう?
 僕は、疲れていた。自らの価値観を押しつけてくる他人にも。そうした他人と上手くつきあっていけない自分にも。
 だから、その日も僕は親に「熱っぽい」と言って学校を休み。午後になってから「体調が良くなった」と言って近くの公園へと出かけた。そして陽当たりの良いベンチに腰掛け、ただぼんやりと、空を眺め続ける。良い天気だった。
 僕は何をするわけでもない、こんなのんびりとした午後が好きだった。いつもより、時間がゆっくりと流れているような気がして。
「それに、ここには僕を傷つける人もいない」
 だから、僕はこの場所が好きだったのかも知れない。 空の碧さも、草花の緑も、風の音も、僕を傷つけない。
 そんな事を、ただぼんやりと考えていた。
 確かに、それは後ろ向きな考え方に違いなかったのだけれど。その時の僕は、そうは思えなかった。
 絶望していたのかも知れない。
 他人に。或いは自分に。もしかしたら、この世界そのものに。
 そんな時だった。僕の視界に、一人の青年の姿が通り過ぎたのは。
 その人は、すぐに僕の前を横切って、公園から出て行ってしまった。影の薄そうな人だった。もし、クラスにいても、名前すら覚えられなさそうな。
 だけど僕にはその人がいなくなった後も、その人の姿を脳裏から追いやることは出来なかった。その人の瞳が、印象深かったから。
 その人の瞳を、僕は自分と似ていると思ったのだ。その人の瞳は、悲しみに彩られていたから。
 だから僕はその時、少しだけその人に興味を持った。
 あの人なら、僕の悲しみを理解してくれるかも知れない。
 僕を……傷つけないでいてくれるかも知れない、と。
 だけど、僕はすぐに頭を振ってその考えを打ち消す。
 そんな事は無理だ。
 人は人を傷つけずには、憎まずには、生きていけないんだ、と。
 そして僕は、その青年のことを意識から消した。もう、二度と会うこともないだろう。そう思って。





   2

 時は一月と少し、流れる。
 その日は、中学二年生の一学期の終業式だった。僕は、夏の焼け付くような日差しを背中に感じながら、坂を駆け下りる。
 目的の人物を、坂の下に見つけたのだ。
「おーい、亮一。待てよ!」
 そう叫びながら追いかけると、僕は幼なじみである乾亮一の横に並ぶ。
「なんだ、佐藤か」
 そう言って亮一は僕を振り返ると、つまらなそうに言った。
 何が「なんだ、佐藤か」だと思う。声をかけたのが僕だって事なんて、声を聞いた段階で、間違えようのないことなのに。
 だけど僕は、そんな文句を口に出すことはできなかった。
 坂を一気に駆け下りたため、息をきらしていて、声を出すことができなかったのだ。
「何だよ佐藤。そんなに息きらしてたりしてさ」
 不思議そうに亮一が言う。
 僕はその言葉に、『きっ』と亮一をにらみつける。
 そして僕はゆっくりと息を吸い込むと、吐き出すように叫んだ。
「亮一が黙って先行っちゃうから、追いかけてきたんじゃないか!」
「あ、ああ。そうなのか。それは……悪かったな」
 他人事のように亮一は言うと、僕から目を背ける。
 まただ。僕は思う。
 最近、亮一が妙に冷たい。何か、僕を避けているような気がする。
 そして、その理由に僕は薄々気づいてはいたのだった。
「だけど……」
 何かを言いかけて、亮一が口を閉ざす。
 そのはっきりしない態度が、ますます僕を苛立たせる。
「だけど……何だよ」
 不思議そうに言い返す僕を、亮一は気まずそうに見る。
「だけど……。別にもう、俺と佐藤が一緒に帰らなくても、いいんじゃないか?」
「何で?」
「何でって……」
 また亮一は、口を開きかけて閉じる。
 苛々をぶつけるように僕は、亮一をなじる口調で言う。
「別に良いじゃないか。僕と亮一は幼なじみなんだし」
「……うん」
「友達だろ?」
「……」
 亮一は再び黙り込む。全くはっきりしない。
「何だよ。僕と一緒に帰るのが嫌なのか?」「いや……そういう訳じゃ」
「じゃあ、僕が嫌いなのか?」
「それは違うよ」
「じゃあ、何が嫌なんだよ」
 また亮一は黙り込む。そしてしばらく二人、何も言わずに歩き続ける。
「ただ……」
 亮一の家が近づいてきた頃、亮一は言いづらそうに口を開いた。
「ただ?」
「ただ、何て言うか……。もう二人とも、中二なんだし、さ」
 亮一の口の聞き方がそっけなくて、僕はまた不愉快になる。
「中二だから、何? 友情は年を取ると、なくなるとでも言うの?」
「いや、なくなりはしないけど……」
「けど?」
 僕の言葉に振り返ると、やけに真剣な顔をして亮一は言った。
「形は変わっていくと……思う」
「嫌だよ、そんなの!」
 僕は叫ぶ。亮一は、僕がそんな態度を取るとは思っていなかったらしくて、きょとんとした表情を浮かべる。
「嫌だよ、何でだよ。亮一、最近変だよ。何で、そんな冷たいことばっか言うんだよ!」
 気がつくと、僕の頬に涙がこぼれていた。
「いつまでも……子供じゃないってことだよ」
 それがさも、何でもないことのように亮一は言う。僕は少し、亮一のことが憎らしく思えてきた。
「子供じゃないから? だから僕のことを、もう名前で呼んでくれないの?」
 亮一が戸惑った表情を浮かべる。僕が気づいていたから。この前まで亮一は僕のことを名前で呼んでいたのに、最近になって名字で呼ぶようになった事に。
「そうやって人と距離をおいて付き合っていくんだね、亮一は。何で? 僕と亮一はもう、昔みたいに笑いあえないのかな?」
「違うよ、佐藤。俺が言いたいのはそういう事ことじゃなくて……」
「だって、そうじゃないか! 変なこと言って、僕を困らせて! 子供なのは……子供のままでいるのは、亮一の方だよ!」
 僕の言葉に、亮一は困ったような顔をする。
「そう……かもしれない。だけど俺は」
「聞きたくない!」
 僕は、そのあとに続く亮一の言葉が何故か怖くて、大声をあげて遮る。そしてそのまま背を向けて走り出す。逃げ出したのだ。
「佐藤!」
 亮一の声が、背中に聞こえる。だけど、僕は止まらなかった。止まりたく、なかった。
 亮一の声が完全に聞こえなくなるまで僕は走り続け、それから止まると、僕は涙を堪えるのに精一杯になる。
 こうして僕の中学二年生の夏休みは、かなり最低な始まり方をしたのだった。

 ひっく、としゃくり上げてしまうのを、僕はどうしても止めることができなかった。
 夕暮れの公園。
 僕は涙を流しながら、ぬるい風が僕に吹き続けるのを感じていた。
「……亮一の馬鹿野郎」
 馬鹿野郎、と僕はまるで、それしか言葉を知らないかのように呟き続ける。
 影が、足元から長く伸びていた。
 そして、その影がゆっくりと辺りを包み込みはじめた闇と混じりあい、その境が解らなくなりそうな頃、僕は自分の影の先に、一人の男性が立っているのに気がついた。―いつから、そこに立っていたのだろう?
「りょう……いち?」
 涙を堪えながら、やっとの事で僕はそう尋ねる。
 もし、僕の目の前に立っているのが亮一ならば、僕は自分の泣いてる姿など、亮一に決して見せたくはなかった。僕はぐい、と涙を手の甲で拭うと、目の前の男が誰なのか確かめようと顔を上げる。
 男は、亮一ではなかった。
「……あなたは?」
 いぶかしげに僕は尋ねる。泣いているところを見られた。それだけでもう、普通に話したりすることなど、できやしなかった。
 気恥ずかしかったのだ。
「いや……どうして泣いているのかな、と思って」
 どもるように青年は答えた。そして僕はこの時になって、青年がこの前、この公園を横切っていった人だと気づく。
 だけど僕はそのことに気づいても、その時ほど青年を好意的に見ることはできなかった。
「……僕がどうして泣いているのかなんて、あなたには関係ない」
 かわいげのない答え方だと、自分でも思った。
 けれど僕は、この時に自分の内面に渦巻いていた苛立ちが、他人へと向かってしまうのを、どうしても抑えることができなかったのだ。
「それはまぁ……。そう、なんだろうけどさ」
 困ったように青年が微笑む。
 その微笑みが、やけにへらへらとしているように、その時の僕には見えた。―こいつは、馬鹿だ。
 僕は決めつける。―僕がこんなに悲しんでいる前で、へらへら笑いやがって。こいつは馬鹿だ。と。そんな僕の不機嫌さに、青年は気づいた様子も見せず、言葉を続ける。
「ただ。目の前に悲しそうに泣いてる人がいたらさ……。黙って立ち去る事なんか、僕にはできないよ」
 そして、青年はちょっとふざけたように言葉をつけ足す。
「それが……可愛い女の子であったら、尚更ね」
 僕は、先程の青年への評価が、間違っていたことに、この時気づく。―こいつは、馬鹿なんかじゃない。と。そして侮蔑を込めて、心の中で呟く。―こいつは大馬鹿野郎だ。と。
「人を見かけで判断するのは、僕は嫌いです」
 苛立たしげに、僕は吐き捨てる。
 自分という存在は、所詮女でしかない。僕は、その事をコンプレックスに感じていた。青年のふとした言葉は、そうした僕のコンプレックスを貫いてしまったのだ。
 そう、僕は気づいていたのだ。
 僕が中学に入る頃から、段々と女になってしまっていることに。
 だから亮一が前のように僕を『由衣』と名前で呼ばず、『佐藤』と名字で呼ぶようになってしまったのだという事に。
「……人間の価値とは、内面で推し量られるべきものです」
 僕は言いながら思い出す。最近になって、会う親戚、近所の人たちに『しばらく見ない間に、大人になったね』とよく言われるようになった事を。
 そして彼ら―大人たちは、その言葉を聞いて不機嫌そうに顔を歪める僕を、不思議そうに見る。
 何が、不思議なのだろう。
 大人になることが、嬉しい事なんかであるはずがないのに。
 大人になるということは、死に近づくということなのだから。
 そして目の前の青年も、そうした大人たちと同じように、僕を不思議そうに見つめる。
 やはり、この人も同じなんだ。
 僕は軽い目眩のような絶望を感じ、そんな自分に少しだけ自虐的に笑う。―絶望を感じるということは、裏を返せば僕はまだ希望を持っているということだ。人に、期待をしているということだ。馬鹿だ。初めから期待などしなければ、絶望など感じずにすむのに。
 そんな風に笑う僕を見て、青年はポツリと呟いた。
「……似てるな」
 そして何故だか冷たい笑みを浮かべると、言葉を続ける。
「僕は、君にそっくりな人を一人……知っているよ」
「……それは、人間は容姿ではないと考えている人間が、僕以外にもいるという事?」
 そんなのは、当たり前じゃないか。僕は思う。そんな考え方は、さして珍しい物ではない。僕以外にもそりゃあ、そうした考え方をする人間はいるだろうさ、と。
 だが青年は、そんな僕の言葉に首を横に振った。
「違うよ。僕がその人と君が似てるって言ったのは―」
 そして青年はひどく優しげに笑うと、落ち着いた口調で言った。
「瞳、だよ」
「瞳?」
 青年はうなずく。
「そう。他人に対する絶望にやりきれない痛みを抱えたまま、実は誰よりも自分に一番絶望を抱いているような……悲しい、その瞳さ」





   3

「何を解ったようなことを言っているんだ」
 むっとして僕は言う。
「あなたに僕の、何が解ると言うんだ」
 そして青年は笑う。
「随分と気難しい人だね」
 それはいかにも「やれやれ」と言った口調だった。
「君が『外見で判断されるのは嫌だ』と言うから。僕は、君の内面を語ってみようとしているんじゃないか」
「内面とは、そんなにすぐ会って解るものでもないと思いますけど?」
 僕は限りなく、そっけないように答える。だが、そうした態度は青年を益々あきれさせるだけの効果しか、もたなかったようで。
「外見で判断されるのも嫌。内面を推し量られるのも嫌。だったら僕は、何をもって君を判断すれば良いんだろうね?」
「それは……時間をかけて……内面を判断できるようになっていけば……」
「嘘が上手いね」
 青年は、僕の言葉を一言で否定する。
「そんな、自分でも信じてないことを口にするのはやめた方が良いんじゃないか? 君は自分のことが、他人には解ってもらえないと考えている。自分にすら自分という人間が良く解らないのに、ましてや他人なんかに解るはずはないと、考えているのだろう?」
「な……!」
 あまりにも、ずけずけとした青年の言葉に僕は絶句する。そして、次には怒りが湧いてくる。それはしかし、青年の指摘が的外れだったからではなかった。
 僕としては、それをすぐに受け入れることはできなかったが……。青年の言うことは、確かに僕の考えそのものであった。だからこそ、僕は青年に果てしなく怒りを感じたのだった。
「だ、黙れ!」
 思わず、僕は叫び声を上げる。
「……不愉快だ。とても不愉快だよ! 僕は……あなたなんかと、二度と会いたくない! 何を考えて、あなたが僕に話しかけてきたのかは知らないけど、僕はあなたみたいに人の考えを勝手に推測して話すような人間とは、もう二度と口をききたくもない! だから、これは最後の言葉だ。僕があなたに言える言葉はもう……一つしか残されていない」
 そして僕は青年に背を向ける。その行動自体に限りない拒絶の意思を込めて。
「さよなら!」
 吐き捨てて僕は歩き出す。公園の出口の方へと。『畜生。ふざけるな。馬鹿野郎』そう、心の中で罵りながら。
 その時になって、ふと気がついた。『何を考えて、あなたが僕に話しかけてきたのかは知らないけど、僕はあなたみたいに人の考えを勝手に推測して話すような人間とは、もう二度と口をききたくもない!』
 そう。青年は何故、初対面の僕をああまで怒らせるような事ばかり言い出したのだろう。『ただ。目の前に悲しそうに泣いてる人がいたらさ……。黙って立ち去る事なんか、僕にはできないよ』
 そう言って、彼は僕に話しかけてきたはずなのに。彼はその時、僕を慰めようと思っていたのだろうと思われるのに。
 悲しそうに、泣いている人間が目の前にいたら、僕はどうするだろうか。歩きながら僕は考えを連ねる。
 ありがちな方法としては、相手の話を聞くのが、それにあたるだろう。
 しかし、これは残念ながら僕にはあてはまらない。僕は先程、青年が指摘した通り、僕は他人に自分が理解できるなんて、これっぽっちも信じていないから。だとしたら。―僕は、自分が目の前にいて悲しがっていたら、どうやって慰めるだろう。どうやって悲しみを拭い去ってあげようとするだろう。
 そこで、もう一つの方法が思いついた。
 相手の悲しみが話を聞くだけでは拭い去れないとしたら、悲しみを忘れてしまうだけの感情を与えてしまえばいい。楽しさとか、喜びとか。例えば哀しみでも良い。そして―
 怒り、でも。
 ばっ、と僕は振り返る。そして、青年を睨みつけるように見る。その視線に気づくと青年は……困ったような笑みを浮かべた。
 それはさながら……ばれてしまったか、と言わんばかりの困った感じの笑みで。
 かあっ、とその笑みを見た瞬間……僕の頭に血が昇った。
 その時、僕は青年に対する怒りのために、頭に血が昇ったのだと思った。だけど、それは違った。後になって認める事が出来るようになったのだが。
 それは、羞恥だった。
 僕は、自分の考えがすっかり読まれていたことに、激しい羞恥を感じていたのだった。
 僕は、青年の顔を直視している事ができずに、むりやり視線を青年から外す。青年に背を向ける。走り出す。今度こそ、振り返りはしないつもりで。
「あ……。ちょっと待って」
 僕の耳に、確かに青年の声が届く。だけど聞こえないふりをする。
 これ以上、僕はここにいたくはなかったから。
 逃げ出す僕の背に、青年は何かを叫んだようだった。だけど、その声がきちんと届くには、僕と彼の距離はその時にはもう、あまりに離れすぎていて。
 彼の声は、意味を為さない音として僕に届くと、やがて、強く吹く風の音に掻き消された。





   4

 夜になって家を訪れてきた亮一は、僕の顔を見て気まずそうな表情を浮かべた。
 僕のまぶたが、腫れていたからだと思う。
「……何?」
「いや、あの、特に用と言う程の用ではないのかも知れないけど……」
「用がないなら、帰れば良い」
 冷たく言い放つ僕の言葉に、亮一は少し悲しそうに微笑んだ。
「用がない訳じゃ、ないんだ」
 言って亮一は僕の部屋に足を踏み入れると、後ろ手でドアを閉めた。
 バタン、と音が響き、僕はびくりと体を強張らせる。閉め切られた部屋に二人だけでいることに、不必要なまで緊張してしまう理由が、解らなかった。
 後から考えると、その時の僕は亮一の事が怖かったのだ。
 幼なじみで、一番の友達で。誰よりも解りあえてるはずの亮一が、その時の僕には怖くて堪らなかったのだ。
 何故か。簡単だ。亮一の体がその頃『男』のそれに変わってきていたからだ。『僕と亮一はもう、昔みたいに笑いあえないのかな?』それは僕の言葉。だけど、その時の僕には認められなかったけれど。
 この時『昔みたいに笑いあえな』くなっていたのは、僕の方だった。
 僕は必要以上に、亮一を『男』として意識しすぎてしまっていたのだ。
「何の……用だよ」
「謝りに、来たんだよ」
 消え入りそうな僕の声に亮一は、はっきりと答える。
「……謝り、に?」
「うん……」
 亮一は僕を、目を細めて見つめる。
「今日さ、俺。佐藤の事泣かしちゃっただろ? 悪かったなって……思ってさ」
 言って亮一は、僕に手を差し出す。
「ごめん、謝るよ。だから……仲直り、してくれよ?」
 僕はその時、何も言わないで良いはずだった。ただ黙ってうなずいて亮一の手を握れば、それで全ては上手く治まるはずだった。だけど。
 その時の僕には、そんな簡単な事までもができなかった。
「……大人なんだね、亮一は」
「え?」
 不思議そうに聞き返す亮一に、静かな声で僕は言った。
「大人、だよ。和を乱さないためには、自分が悪いと思っていない事にも謝れる。……大人の行動、だよ」
「何を言ってるんだよ、佐藤。俺は本当に悪いと思って」
「嘘つけよ!」
 亮一の声を、僕の怒鳴り声が遮る。
「悪いと思ってるなら、どうして僕の事をまだ、佐藤なんて名字で呼ぶんだよ! ……悪いなんて思ってないから、そういう事ができるんだろ?」
 僕の言葉に亮一は、はっと表情を翳らせる。
「……ごめん」
 うつむく亮一。そんな亮一に、僕は更に声を荒立てる。
「ごめん? また謝るの? 何に? 何に対して亮一は謝っているのさ!」
 亮一は、僕の棘のある言葉を聞きながら、それでも僕の顔を見つめながらゆっくりと言った。
「……お前を、泣かせてしまった事に対して、だよ」
「……!」
 亮一の落ち着き払った言葉。僕には、その落ち着き払った態度が、苛立たしくてしょうがなかった。
「……何だよ」
 僕は、その苛立ちを隠そうともしなかった。
「何だよ、それ!」
 叫びながら僕は、体当たりをするように亮一にぶつかると、そのまま亮一を部屋から追い出そうとする。
「おい、ちょっと……」
「出てって!」
 力任せに僕は、亮一を跳ね飛ばす。
「出てってよ!」
 そして亮一の足が部屋を出たのを確認すると、僕はドアを乱暴に閉めた。
「おい、待てって言ってるだろ!」
 亮一が、部屋に再び入ってこようとノブを回す。だけど、その時にはもう僕はドアに鍵を閉めてしまっていた。ドアが開かないことに気づき、亮一は激しくドアを叩く。
「開けろよ! 何、そんな怒ってるんだよ! 子供みてぇな怒り方、すんなよな!」
「仕方……仕方ないじゃないか! 僕は……まだ、子供なんだから……」
 亮一の言葉に、僕は思わず本音を返す。
 そう。それは本音だった。中学生の頃の僕は、自分が大人だと思っていた。自分は他の人より、人の心を思いはかれる大人だと。
 だけど、そう思う強さと同じだけの強さで、僕は自分が子供だとも思えて仕方なかった。そのコンプレックスを、亮一の落ち着いた態度は逆撫でしたのだった。
「ごめん、亮一……。本当は、解っているんだ。人の心は移ろうものだと。亮一も僕をいつか嫌いになって、僕から去っていくのだと。だけど、僕はそれを認めたくなかった。きっと、信じたくなかったんだ。亮一だけは違うと、信じていたかったんだよ。……馬鹿な僕。そんな事があり得ないのは、亮一がよそよそしい態度を取り始めた時に気がついていたはずなのに」
 僕は思う。みんな、僕を置いていくんだ。
「……そうだよ。初めからみんな解っていたんだ。みんな、僕を置いて大人になっていってしまうんだって。みんな、僕みたいな口だけの中途半端な人間のことなんか、嫌いになっていってしまうんだって」―みんな離れていくんだ。『どうしてあなたには、他の人がちゃんとできてる事ができないの?』って、そう言って。大人になれない僕を、見下して。
 僕は『つう』っと涙が頬を伝うのを感じる。泣くな。僕は自分に言い聞かせる。だけど、涙は止まらなくて。
「……泣いて、いるのか?」
 ドアの向こうから、亮一の声がする。僕は答えなかった。僕は、しゃくりあげるのを堪えるのに精一杯だったから。そんな僕に、亮一はドアの向こうでため息を一つつくと、ぼそりと呟いた。
「……ばーか」
 そして優しい声で言う。
「俺が由衣にそっけない態度をとっていたのは、由衣の事を嫌いになったからなんかじゃないぞ。俺が由衣にそっけなかったのは……なんか、その。最近、由衣と一緒に帰ったりすると、恋人同士みたいな感じに思われるんじゃないかって、照れくさかったんだ……」
 亮一の言葉に、僕はしゃくりあげるのをやめる。
「……そんな理由だったの? 何で、そんな事を考えるのさ。性別が違ったって、僕と亮一は友達じゃないか。そんな……僕と亮一が恋人になんか、なるはずがないのに」
 亮一は、今度は大きなため息を一つつく。
「……まあ、それはそうなんだけど、さ。からかわれたりしたら、嫌だなって……」
「そんなの、放っておけばいいじゃないか。何だよ。そんな理由でそっけなかったのか……。それじゃ、馬鹿は亮一の方じゃないか……」
「解ってる」
 亮一は即答する。
「馬鹿なのは、俺の方だよ。自分のエゴのために、ここまで由衣を悲しませていたことに、気がつかなかったんだから……」
「亮一……」
 亮一はドアの向こうから、はっきりと聞き取れるようにしっかりと言葉を続ける。
「もう、馬鹿はやめる。もう、由衣を悲しませたりしない。だって俺は、由衣の事が好きだから」
「……え?」
「そうだよ。さっき由衣は言った。『みんな、僕みたいな口だけの中途半端な人間のことなんか、嫌いになっていってしまうんだ』って。だけど、それは間違いだ。世界の誰もが由衣の事を嫌いになっても、俺だけは由衣の事を好きでいるから。だから、泣くな。泣かないでくれ。俺、由衣の泣いてる顔なんて見たくないよ」
 僕は、黙っていた。
「……今日はもう、鍵を開けてはくれないのか?」
「うん……」
「そう、か。そうだよな」
 亮一は軽く笑う。
「泣いた後の顔なんて、人には見られたくないよな。うん。じゃあ、俺は帰るや」
 足音が、僕の耳に届く。段々と、僕から離れていく足音が。
「また、な」
 亮一の声が、遠くから一度だけ聞こえてきて。それで何も聞こえなくなった。静寂の中に閉じこめられたように、辺りは『しん』と静かになる。そして亮一がいなくなった事を確認してから、僕は呟く。
「……ばーか、はお前だ」―見られたくなかったのは、泣いた後の顔なんかじゃない。見せたくないのは、別のもの。そう、見せてたまるものか。そんな……。
「亮一の言葉で、まっかになってる所なんて……」
 涙を拭い、僕は笑った。それは久しぶりの笑顔で。
「……信じても、いいのかな」
 僕はひとりごつ。―人が人を救うことは、あり得るのだと。人は決して憎みあわなくても、済むのだと。少なくとも今、亮一の言葉は僕を救った。僕が救われたと勘違いしているだけなのかも知れないけれど、それは僕には区別のつかない事。ならば、僕は救われたのだ。
「へへ……」
 僕は、部屋の鍵を外した。心の鍵を今、少しだけ外してみせたように。そしてベットに倒れ込む。開け放した窓から、風が滑り込んでくる。その窓の向こうに見える、雲一つない夜空を見ながら、僕は思った。
 明日は良い天気になりそうだ、と。





   5

 次の日、予想通り天気は上々だった。
 汗ばむような日射しの中、僕は昨日行っていた公園へと足を運ぶ。昨日の青年と、話がしたかったのだ。
 確かに、昨日の青年は僕に失礼な事を言ったかも知れない。だけど、だからといって僕がその青年を怒り、傷つけようと言葉を口にした事実は変わらないわけで。
 僕は、青年に一言謝罪を言わなくては自分の気が済まなかったのだ。
 ここらへんの性格は、我ながら融通が利かないと思う。だけど、こういった性格を曲げてしまうと、それは僕ではなくなってしまうから。
 だから僕は、公園の日陰にあるベンチに座り、網膜が焼け付きそうな青空を薄目でぼんやりと見ていた。風が吹く。人々の話し声が聞こえてくる。蝉の鳴き声は短い一生を誰かに伝えようとするかのように木霊している。
 そんな中で、僕はずっと来るかどうかも解らない人を、のどかな時間の中で待ち続けた。
 ……どのくらい、待ったのだろうか。
 うとうとと、し始めた僕は、たまにはっと目を開けては、辺りを見回すというのをくり返していた。
 そして気温がジリジリと暑くなってくる午後二時。僕はまたはっと居眠りから目を覚ます。そして見る。視界の端に、昨日見た青年の姿を確かに。
「……あ!」
 しかし、声をあげた時はもう遅かった。青年は公園から出て公道を歩き始めていたのだ。―追いかけなくては!
 僕は立ち上がり走り出す。そして青年の名前を呼び止めようと口を開き、僕は重大なことに思い至る。―そういえば僕は、彼の名前すら知らない。
 どういう名前なのだろう。年は幾つなのだろう。学生なのか、それとも働いているのだろうか。基本的に他人に興味を持たないはずの僕なのに、その時は青年に何故か強い好奇心を抱かずにはいられなかった。―まあ、良い。そんな事は追いついて話をすれば解るさ!
 走る速度を上げる僕、段々と僕と青年の距離が近づく。
 そして、幾つめかの曲がり角を曲がった時、僕は青年が大きな建物の中に入っていくのを見つける。―あそこに、いつも用があるのだろうか。……え? この建物は……。
 そこにあったのは、一件の病院だった。
「……何でそんなにしょっちゅう病院に? そんなに体が悪そうには見えないんだけどなぁ……」
 しかし、病弱に見えないからといって、青年がこの病院に入っていったことは確かで。
 僕は、その病院の中まで青年を追いかけていくことを決心する。―謝るなら、早い方が良いし。ここで見失ったら、もう会えないかも知れないしな。
 自分の行動に言い訳をつけて、僕は病院の中へと足を踏み入れる。病院の中は冷房が効いて、静かな空気が漂っていた。耳に届くのはただ、壁の外から大きな音で響き続ける蝉時雨だけ。
 そんな中、長い廊下の奥に角を曲がろうとする青年の姿が目に映った。―追いついた!
 廊下を駆け足気味に歩く。焦る気持ちを抑え込みながら。そして角にたどり着いた僕は、そこに青年の姿がもう見えなくなっていることに脱力感を覚える。
「……あれ? どこに行ったんだろ?」
「誰かをお捜しですか?」
 心臓が激しく鳴った。突然、予想していなかった方向、つまりは背後から声をかけられ、僕はたたらを踏むようにして振り返る。
 振り返った先には、一人の看護婦さんがいた。それは病院なんだから当然と言えば当然なんだけれど。
 勝手に病院の中まで入り込んでいる自分の行動を自覚してもいたから。僕は文字通り慌てふためく。
「い、いや。あのですね」
「はい?」
 そんな僕の行動に、看護婦さんは不信の視線を向ける。―ああ、まずい。このままじゃ彼を見失ってしまうのに!
 しかし、逃げ出すわけにもいかない。ここで逃げ出したら本当に不法侵入者だ。どうしよう。ジリジリと苛立ちがつのっていく。それに比例するかのように言葉が上手く口から出てこなくなっていく。
 そんな時、助け船はまた僕の背後から聞こえてきた。昨日聞いたばかりの声で。
「あ、すいません。看護婦さん。その娘は、僕の知り合いなんです」
 振り返らなくても解った。
「あ、そうなんですか? それならそうと早く言ってくれればいいのに……」
 看護婦さんの僕を見る目が、不信から安堵へと一瞬にして変わるのを僕は目の当たりにした。それだけ、信頼されているという事だろう。
 振り返る僕。そこには、おどけたような表情で、僕に手を振る青年の姿があった。
 さながら、十年来の友人にとるような態度で。





   6

「と、いうわけで失礼しました。佳代さんは、お仕事に戻って下さいな」
「はい、解りました。でも……」
 佳代と呼ばれた看護婦さんは、僕の方を一瞥すると、ちょっとお説教をするように言った。
「あまり、孝昌さんに迷惑をかけないようにね」
 どうやら、僕が呼ばれてもいないのに、ここに来てしまっている事は気づかれてしまったようだった。
 そして佳代さんは一つ苦笑をもらすと、静かに廊下を歩いて去っていく。そして、その背中が見えなくなると、憎らしいほど気さくに青年は言った。
「やあ、久しぶり」
「何が久しぶりだ。昨日も会ったじゃないか」
「そうだっけ?」
 飄々と、という形容詞がいかにも似合いそうな口調で、青年は言う。
「どうやら、記憶の方もあやしいみたいだね。性格だけじゃなくて、さ。タ・カ・マ・サさん」
 僕は孝昌のペースにのるのが腹立たしく、わざとらしくイントネーションを区切りながら彼の名前を呼んでやる。
「お、名前を覚えてくれたみたいだね。そうだよ、僕は鈴木孝昌。これからもよろしく」
「……はいはい」
 僕は呆れて顔を横に振った。ペース争いはどうやら、僕に勝ち目はないらしい。
「で?」
「で? って……何が?」
「名前だよ、名前。僕の方が自己紹介したんだからさ。君の名前も教えてよ」
 孝昌の台詞に僕は、確かに自分の名前も名乗っていなかったな、と口を開く。
「僕の……名前? あ、ああ。僕は佐藤由衣って言うんだ」
「由衣ちゃんか。それは……」
「可愛らしい名前だね、とでも言うつもりかい?」
 孝昌の言葉をさえぎって、僕は後を続ける。どうやら、僕の予想は間違ってはないらしかった。孝昌は僕の言葉に、照れて苦笑いをする。
「……まあ、そんなところかな。まあ、いつまでも廊下で立ち話も何だし、部屋に入りなよ」
「部屋? ここにある部屋は、全部病室じゃないのか? そんな所に僕なんかが勝手に入って良いのか?」
「勝手に、じゃないよ。僕が許可する。息子が許可すれば、何も問題はないだろうさ」
「息子? ……って事は」
 僕は足を踏み出し、孝昌の背後にある部屋の中を覗き込む。そこには、一つのベットがあった。そして老人がそのベットの上に目を閉じて横たわっていた。
「そ。そこにいるのは、僕の父さ。ちょうど良かった。父に紹介しよう。これが僕の友達の佐藤由衣さんだって。さ、入りなよ、由衣」
 さりげなく名前を呼び捨てる孝昌に、僕はもう、何も言う気がしなかった。
 僕はわざとらしく咳を一つすると、病室の中へと足を踏み入れる。他人が部屋に入ってきて、何か違う気配を感じたのだろうか。ベットに横たわる老人がそっと目を開けると、くぐもった声で呟く。
「……誰だ? そこにいるのは……」
「僕だよ、父さん」
「ああ、お前か……」
 そこまでは、僕の予想通りの展開だった。僕の予想から外れていたのは、その後に老人が続けた言葉。老人はそれをさも何でもない事のように口にした。
「それで……そこにいる女の子は誰なんだ? なあ、信久」―……ノブヒサ? どういう事だ?
 明らかに名前が違う。僕は反射的に孝昌の方に視線を向ける。そして、後悔する。見るべきじゃなかったと。
 孝昌は老人の言葉に刹那、確かに見る者の気をも狂わせてしまいそうな程に、寂しさを漂わせる表情を浮かべていたのだった。
 しかし次の瞬間には、そんな表情など浮かべていなかったかのように、孝昌は老人に言葉を返した。
「僕の……友達だよ。紹介したことはなかったね。佐藤由衣さん」
「あ、は、はじめまして。佐藤由衣です」
 ぺこり、と頭を下げてみる。そんな僕を見て、老人は相好を崩す。
「おお。はじめまして、由衣さん。信久の友達なのか、そうか……。由衣さん……信久と、仲良くしてやって下さいね……」
 今度こそ間違いじゃない。老人は今、孝昌の事を信久と呼んだ。―どういう事だよ?
 そっと、老人に見えないように孝昌を睨みつける。だが孝昌は、僕の視線に目を閉じて顔をそっと横に振るだけで。
「……父さん。それで僕は彼女をちょっと駅まで送ってきたいんだけど。今、来たばかりで悪いんだけど、さ……。彼女、これから用事があるみたいなんだ」―え? 僕に用事?
 慌てて孝昌を睨むように見る。『何を勝手な事言ってるんだ』と。だけど、孝昌は何も答えず、軽く僕にウィンクをしてみせただけで。『話をあわせろ』って言っているんだろうけど、どうも納得がいかなかった。
「ああ、私は大丈夫だから、送ってきてさしあげなさい」
 好々爺の笑みで老人は言った。そんな笑みを見せられると、さすがの僕も病室で口喧嘩を始めようという気にはなれず。一つうなずくと「すいません」と口にする。
「じゃ、行こうか」
 善は急げとばかりに、孝昌は軽い足取りで病室を出る。
 絶対に問いつめてやる。そう思いながら僕は孝昌の後を追う。僕は孝昌の背中しか見ていなかった。後で想像してみると、この時どれだけ孝昌は悲しい顔をしていたのだろうと思う。いや、彼の事だから悲しい顔なんかしてなかったのかも知れない。だけど、どれだけ隠そうとしても魂の悲痛な叫びだけはきっと気づいてあげられたはずで。
 相手の嫌がる事を、無理矢理聞き出したりしないでいてあげられたはずで。
 だけど、僕は孝昌の辛さには気づいてあげられなかった。だから病院から足を踏み出すと、嫌みを込めて彼に言った。
「……どういう事だい? 孝昌。いや、それとも信久なのかな?」
「……病室の中で、それを聞かれなかった事は正直ありがたかったよ。僕の名前は、孝昌さ。さっき言った通りにね。そして、信久って言うのは父の息子の名前さ」
「……え?」
 僕は孝昌の奇妙な言い回しに混乱する。―父の息子? それって、兄か弟って事なんじゃないの?
「違うよ」
 僕の心を読んだかのように孝昌は言う。
「僕の兄でも弟でもないんだ。信久は。血のつながりもないし、会った事もほとんどない。まあ……そう言ったら僕と父も血のつながりはないんだけどね」
 陰りを湛えた表情で孝昌は呟く。
「そう、僕は養子なのさ。鈴木家のね。本当の父の顔は知らない。母の顔もね。でも、それを不幸に思ったことはないよ。僕は父の息子になることができて、本当に幸せだと思っている」
 歩きながら、孝昌は訥々と語る。言葉を選ぶように。しかし、溢れ出る言葉を上手くまとめながら喋ろうとするかのように。
「正直ね、父は人格者と呼べるような人間じゃない。父はとある会社の社長をしていた人間で。汚い事も数多くしてきたらしいよ。人から恨まれる事もしょっちゅうだったらしいね。そして年老いてきて、後悔をする。自分がしてきた事で自らの手が汚れていることに気づくのさ。父が選んだ贖罪の方法は、養子を取ることだった。今まで人を傷つけ、苦しめてきた行為の相反する物を探して、人一人を救うことはできないかと父は考えたのさ。そして実際のところ、父はそれに成功した。だって、僕は少なくとも今、幸せだから。父がどれだけ汚い事をしてきたのか知っている。どれだけ人を傷つけてきたか知っている。だけど父は、僕には優しかった。僕はここまで育ててくれた父に限りなく感謝をしている。僕は父が好きだ。僕は父の弱いところや汚いところもひっくるめて、父を愛しているんだよ」
「……だから、信久さんのかわりをしているの?」
 デリカシーのない言葉だった。だけど僕はどうしても、それを尋ねずにはいられなくて。
 孝昌はゆっくりと軽く目をつむった。
「信久も忙しいんだよ。彼は父の会社を継いでいて、父の業績をなんとか後世にまで繋げようと一生懸命になっている。僕には解るんだ。信久も僕とは違う方向で父を愛しているのだと。だけど、父にはそれは解らない。自分が段々と弱っていき、だけど見舞いにも来てくれない息子は、自分を愛してはいないのではないかと。父はせめて、血のつながりがある者にくらいは愛されたいと思っているのだろう。だけど、信久の思いは父には届かない。側にいないから。父が元気ならば信じてあげられるのかも知れない。しかし、父の体はもう、だいぶ弱ってしまっている。この夏を越せないだろうくらいには。僕は知っているんだ。体が弱っているときには、精神的にも弱く、脆くなっていってしまうって事を。だから父は、側にいない信久を信じきることができない。寂しさは募っていく。不信は募っていく。そして、幻覚を見る。側にいるのが養子である僕ではなく、実の息子である信久であるかのような幻覚を」
「……ああ、それで」
 それで孝昌を老人が信久と呼んだ時、孝昌はあんなに辛そうな顔をしていたのか。僕は思う。
 彼は父である老人のことを、本当に愛しているのだろう。それは態度を見ていれば簡単に解る。だけど、父はそれを信じきっていない。そして、彼の姿に別の人間の姿を重ねて見てしまっている。それは、どれだけの絶望を彼にもたらしているのだろう? 父が彼の名を呼び間違える度に、彼は『お前では駄目だ』と言われ続けてる感覚に捕らわれ続けるのだ。
 それでも彼は幻想の息子を演じ続ける。自分ではない人間を。誰よりも愛する彼の父親のために。
 僕は無理だ。僕は思う。僕では、そんな愛し方はできない、と。
「辛くは、ないのですか……?」
 そして僕は馬鹿な問いを続ける。辛くないはずはないのに。
 だけど、そんな僕に孝昌は優しく笑い、寂しそうに言うだけだった。
「……その質問の答えは、ノーコメントにさせておいてくれないかな」
「あ。……すいません」
「いや、いいよ」
 場所は、先程の公園へと、もう移動してしまっていた。夕暮れが近くなってきた公園には、もう人影も少なく。
 暑さの残る風に吹かれながら、孝昌はそっと煙草に火を点けた。風が、煙を押し流していく。
「でも……」
「でも?」
 僕の呟きに、孝昌は問いを重ねる。
「でも……どうして僕に、そんな話をするんですか? そんな事、言いたくないはずなのに……」
「言いたくないね、確かに」
「言うのが、辛いはずなのに……」
「辛くないと言えば、きっと嘘になるんだろうね」
 僕は顔を上げ、孝昌を見つめる。
「それなのに、どうして僕にそんな辛い話をしたのですか?」
「何でだろうね……」
 孝昌は煙草をゆっくりと味わうように吸い、そして吐いた。
「隠そうとすれば、いくらでも隠せるだろうとは、思う……。でも昨日、初めて君をこの公園で見かけた時、僕は思ったんだ。君なら、僕の辛さを解ってくれるかも知れないって。僕は自分の直感を信じる。だから、嘘はつきたくなかった。君にだけは、嘘をつきたくなかったんだよ」
 そう言って彼は笑った。蝉の鳴き声が五月蝿い、8月の夕暮れに。





   7

 僕は家に帰った後も、悲しげな孝昌の瞳が脳裏から離れずにいた。―あの人はどうして、あんな風に僕を買いかぶっているのだろう? 僕は、無力なのに。僕には彼の苦しみを癒す事も、本当の意味で彼の苦しみを理解してあげる事もできないのに。
 窓から入り込んでくる夜風が、カーテンを少しずつ揺らし続けている。僕は昨日と同じように、ベットに倒れ込んで夜空を眺め続けていた。―昨日あれだけ、すっきりとした気持ちが、また悩みを抱えて苦しがっている。僕は近頃、悩んでばっかりだ。
「こうやって悩みを一つ一つ解決しながら、僕も大人になっていく事ができるのかな? できているのかな?」
 呟いてみる。だけど、誰もそんな独り言に答えてくれる人もいなくて。
 僕は頭を振りながら、体を起こしてみた。「……あれ?」
 僕は疑問の声をあげる。窓の外に、亮一がいたような気がしたのだ。
 立ち上がり、窓に近づく。そして窓の外を見ると、そこには確かに亮一がいた。背中を向けて。僕の家から、亮一は離れていこうとしているところだった。
「……僕に会いに来たんじゃ、ないのかな?」
 亮一の行動は不可解だった。亮一の家はここから、そうは離れていない場所に確かにある。しかし、駅は逆方向だ。そして、亮一がわざわざ僕の家の前を経由して行かなくてはいけないような場所は、実際のところ僕には思いつかなかったのだ。
「何をしに来たのだろう……?」
 だけど、わざわざそれを確認する気にもならなかった。僕はゆっくりとベットに再び倒れ込み、そしてゆっくりと目を閉じた。

 それからの夏休み、僕は多くの時間を孝昌と過ごした。病室に通い、彼が父に対して向ける眼差しを多く見ていた。
 自分にはできないと思う、孝昌のそんな人の愛し方。僕はその行き着く先を見届けたかったのだと思う。
 僕は、自分が孝昌の立場なら父を憎んでしまうと思ったから。あんな風に愛するだけで愛されない愛し方は、僕にはいつまでも続くものだとは思えなかったから。
 だから僕は、孝昌に会いに行った。そして、孝昌の表情が、瞳が、前と変わっていない事を確認して、安心したかったのだと思う。
 それだけ、その時の僕は人間関係に絶望していたのだ。人は人を好きになる。愛するようになる。数々の出会いを経て。だけど、その想いに、見返りがまるでもたらされなかった時、人は人を、愛する人を、容易く憎めるようになる。僕はそれを数限りなく見てきたから。
 だから僕は、孝昌がいつか父を憎むようになると思っていた。でも、それでも。孝昌が変わらぬ愛情を注ぐことが出来る人間だと、信じたかったのだと思う。期待していたのだと思う。
 僕に、人は人を憎まずに生きていける存在なのだということを、信じさせてくれると願っていたのだと思う。
 そして実際のところ、孝昌の態度は変わらずにあり続けているように見えた。だけど、たまにかいま見せる孝昌の瞳は悲しみに満ちあふれていて。
 それが僕を不安にさせた。
 その悲しみが、いつか憎しみに変わるのではないかと。
 そして、初夏だった季節はやがて真夏へとその姿を変えていき。
 晩夏が近づいてきた頃、夜、僕は亮一が部屋の窓から見える場所に立っているのにまた、気づいたのだった。

「亮一……?」
 僕が声をかけると、亮一は体をビクリと震わせる。
「あ、由、由衣。どうしたんだ?」
「どうしたんだ、じゃないよ……」
 僕は苦笑を漏らすしかなかった。
「ここは僕の家の近くだよ? 僕がいてもおかしくはない。でも、亮一は何をしているんだい? 部屋の窓から亮一が立っているのが見えて。来てみたんだけど……」
「あ、そ、そうなのか……。い、いや。ちょっと散歩をしていたんだよ……」
 僕は呆れる。亮一って、こんなに嘘が苦手な人間だっただろうか?
「そ、それじゃまたな、由衣」
 そして、そそくさと立ち去っていく亮一。僕はその背中を見ながら、僕にしては珍しい悪戯心を出してみる。―跡を付けてみようか?
 僕がそう思ったのには理由がある。亮一が向かっている方向が、亮一の家の方角とは全然別方向だったのだ。
「どこに行くんだろうかねぇ……」
 言いながら亮一の後を歩いていく。月の光の下を。街灯のチカチカと点滅する光の下を。
 そして、僕は不意に亮一が何処に向かっているのかが解ってしまった。
「この先にあるのは……あの公園?」
 何で亮一が、こんな夜更けにあの公園に? 僕は足音を消し、息をひそめて亮一についていく。
 そして、僕は公園の真ん中に立っている、一つのシルエットを見つけだす。その横に亮一は近づいていき、落ち着いた口調で声をかけた。
「……お待たせしましたね」
 遠くから、微かに聞こえてくる声。だけど、僕はそんな事は気にならなかった。暗闇に浮かび上がる二つのシルエット。問題は、亮一でない方のシルエットにも、僕が見覚えがあったという事で。
「……いや。僕も今、来たところさ」
 僕の耳に、孝昌の人をくったような声が届いた。

「突然、今日、君から声をかけられた時は驚いたよ。見知らぬ人間から、いきなり好意がかけらもこもってない口調で声をかけられたのだからね」
「……その時に俺が言った言葉を覚えていますか?」
「ああ、覚えているよ。『由衣の事について、話があります』と言うことだったね」
「そうです」―え?
 思わず、僕は声をあげてしまうところだった。―『僕の話』だって?
 そんな風に僕が驚いている事に関係なく、会話は続いていく。
「鈴木さん……。単刀直入に聞きます。あなたは……由衣の事を、どう思っているのですか?」
「どうって……。仲の良い友達になれたな、って思ってるよ」
「……それだけですか?」
「どう……だろうね」
 クスクスと笑いながら孝昌は言う。僕は、亮一が会話であしらわれているところを初めて見た。
 それは、亮一がいつものように冷静に会話をしていないという事だったのだろう。不機嫌さを隠そうともせずに、亮一は尋ねる。
「……答えて下さい」
「僕は、君にそれを答えなくてはいけない義務でもあるのかな?」
「義務ではありません。でも、答えて欲しいのです。……ずっと、由衣の一番近くにいた人間として、由衣に良く解らない人間を近づけるわけにはいかないのです」
「……保護者気取りかい?」
 孝昌は、楽しそうな口調で返す。
「でも……それは間違ってるよ」
「何が、間違ってると言うのです?」
 孝昌は、亮一のその問いに、すぐには答えなかった。
 煙草を取り出すと、ゆっくりと火を点けて吸い込む。そして、最初の煙を吐き出しながら言う。
「……『近づけるわけにはいかないのです』と言ったね、亮一君。でも、それが違う事くらい、君が一番良く知っているのではないかな? 近づけるわけにはいかないのではなく、君が近づけたくないだけなのだろう?」
 孝昌の言葉に、亮一が息を詰まらせる。
「……そうさ」
 そして、低い声で言い返す。そんな低い声で亮一が話すのを、僕は初めて聴いて。それが『男』の声である事に驚く。
「そうさ。俺が近づけたくないんだ。でも、それの何処が悪い? 俺は由衣の事を大切に想っている。由衣の事を考えていてあげられていると思っている。だから由衣のしたい事は、由衣のしたいようにするのが良いと思うし。由衣の人生に必要以上に干渉するのは何か、違うと思う。だけど、嫌なんだ。嫌なんだよ! 由衣の近くにあんたがいて、俺よりも由衣と時間を共有しているのが、どうしても嫌なんだよ! だけど、それを止めるわけにもいかない。由衣が何を考えているのか、由衣に聞く事も怖くてできない。由衣の家の前まで行っても、何も聞けないで帰るしかできない。俺は……俺はどうしたらいいか解らない。でも、とりあえず解っている事が一つある。それは、あんたが由衣の側にいるのが嫌だって事だ!」
 亮一の叩きつけるような言葉に、孝昌は黙って首を振る。
「……好きな女の子との距離が測れないんだね。まあ、気持ちは解らないでもない。僕も、そりゃ昔はそうだったからね。……しかし、まあ、何て言うか……。可愛らしいね亮一君」
「な……!」
 亮一は顔を赤くする。怒りのために。当たり前だ。男に可愛いなどと言われて喜ぶ男がそうそういるはずがない。
「しかし、それで周りが見えなくなってしまうのは良くないね。周りが見えなくなると、例えば……跡を付けられたりしてしまう訳だからね」
「……え?」
 振り返る亮一。そして僕は立ちすくむ。
 亮一の視線が、思わず二人に近寄っていた僕を射すくめたのだ。
「……由衣」
「ご、ごめん!」
 僕は走り出す。恥ずかしかった。立ち聞きなんて事をしていたところを見られたのが。ましてやその話が、自分に関係している事なのに。
 二人のどちらかがでも、僕を本気で追ってきたら、僕は追いつかれていただろう。僕は女性だし、足の速い方ではないし。
 だけど、結局どちらも僕を追っては来なかった。
 だから僕は何事もなく、家にたどり着くことが出来て。僕は部屋に鍵をかけると、枕に顔を突っ伏す。
「亮一が、あんな事を考えていたなんて……」
 呟いてみる。さながら、事実の確認をするかのように。
「でも……」
 僕は思う。―どうしてこう、僕には解らないことばかりなのだろう?





   8

 僕はそれから数日間、外に出なかった。孝昌に会いにも、亮一に会いにも、いかなかった。
 孝昌に会いたかった。彼の進む方向を見ていたかった。彼の抱いている苦しみを、少しでも少なくしてあげることができれば良いと思っていた。だけど、それが亮一を苦しめる事になるなら、僕にそれはできなくて。
 亮一に会いたかった。会って謝りたかった。だけど、何て言って謝ればいいのか解らなかった。だから亮一に会いに行くこともできなくて。
 僕は自分が何をすればいいのか、何がしたいのかも解らないまま、ただ時間だけを浪費していく。
 そして、家から出なくなって5日目の夕暮れ間近の時だった。
 僕の部屋で、携帯電話が大きな音をたてて鳴った。―070―6564……。
 最初の7桁で解った。孝昌からの電話だ。「もしもし……?」
「あ、ごめん……。孝昌です」
 すでに聞き慣れたはずの声。だけど、その口調は今までに聞いたこともない程よそよそしくて。
 それがしかし、孝昌のこの電話が何か特別な物である事を、僕に予感させた。
「……どうしたんですか?」
 孝昌は黙り込んだ。何か、口にするのをためらうように。だけど、いつまでもためらっている訳にもいかなくて。
 彼は、ゆっくりとその事実を口にした。
「……父が、危篤なんだ。もう意識もないだろう。だから、由衣が来ても、僕と同じように何も出来ないし。何も変わらないだろう。だけど……僕は、由衣に来て欲しいと思った。何で来て欲しいのかも解らない。父の臨終を看取って欲しいのかも知れない。この苦しさを少しでも支えて欲しいのかも知れない。だけど正直、今の自分が何を考えているのか自分でも良く解らないんだよ。はっきりと解るのはただ一つだけ。……由衣、君に側にいて欲しいんだ。……来てくれないか?」
「今すぐ行きます」
 僕は、ためらわずに即答すると、電話を切った。何をためらう必要があるだろう?
 僕は走り出す。孝昌のもとに。
 彼が導き出すであろう、答えを見届けるために。
 息が切れる。肺が酸素を求めて騒ぐ。苦しみは頭痛のように絶え間なく僕を襲う。
 だけど、僕は足をゆるめなかった。
 夕暮れの中を、暑さが残る空気の中を、僕は走り続ける。汗が頬を伝い、顎からこぼれ落ち続ける。
 そして、耳に届くのは去りゆく夏の太陽を惜しむかのように、レクイエムのように、鳴り続ける蝉時雨。

「……他の人は?」
 息を切らしてたどり着いた僕が見たものは、病室のベットに横たわり、うめき声をあげ続ける孝昌の父。医師たち。孝昌。
 それだけだった。
 やっとの事で息を整え、尋ねた僕の言葉に対する返答は、ひどく短かった。
「いないよ」
 聞く者の胸が壊れそうな、そんな口調で孝昌は言う。
「いないって……」
「いないものは、いないのさ。見たままだろ? 肉親であるはずの彼らの家は遠い。ここから三時間はゆうにかかるね。僕が由衣に電話をかけたのと、病院が彼らに電話をかけたのがほぼ同時。単純計算なら、彼らがここに届くのには少なく見積もってもあと、2時間半は悠々かかるね」
 淡々とした孝昌の説明。しかし、その淡々とした口調が皮肉にも孝昌の絶望を、僕に強調して伝えた。
「父が……可哀想だ。生まれてくる時も、死ぬ時も、人間は一人だ。……でも、だからこそ。生まれてくる時には祝福を、死ぬ時には限りない哀惜を。その時に生きている人間が与えなくてはいけないはずなのに!」
 ボソボソとした口調で喋る孝昌。しかし、その口調と、その瞳に映る狂おしいまでの悲しみが生み出す齟齬が、僕のようやく納まってきた息苦しさをまた、強いものへと変えていく。
「信久……」
 苦しそうにあえぐ声の中に、人の名前が混じる。孝昌の父の口から。その名が混じる度に、病室の中にまるで孝昌の絶望が色濃く満ちていくような気がして。
「……父さん!」
 弾かれるようにして、孝昌が父に駆け寄る。そして父の手を取る。
「父さん……ごめん。信久はいないんだ。信久はさっきまで、仕事場にいたから、来るまでに少なくとも……あと一時間はかかるんだ。だけど、父さん。僕がここにいるよ。父さんの息子の、孝昌が父さんの横にいるよ。だから……そんなに信久の名前ばかり呼ばないでよ! 信久はいないよ! だけど、僕がいるんだ! 父さんを愛している僕が! だから父さん、そんなに悲しそうに信久の名前を呼ばないでよ!」
 それは息子が父にかける言葉にしては、あまりにも直接的すぎた。
 だけど、それは決して滑稽なものではなかった。むしろ痛々しかった。孝昌は、必死に信久よりも短い父との過ごした時間を、信久と同じだけ埋めようとあがいていたから。
 だけど意識のもう、はっきりとはしない父は信久の名前を呼び続けるだけで。
「父さん……。僕は父さんを知っている。僕は父さんが決して万人から愛されるような人間でない事も知っているよ。だけど、僕はそれを受け入れた。受け入れて、愛しているんだ。父さん……あなたはもう、そんなに誰かの愛情を求めて苦しむことはないんだよ!」
 焦燥。それが孝昌の瞳に浮かぶのを僕は見た。伝えても伝えても決して届かぬ思い。それを伝えようとして、孝昌の瞳に焦燥が浮かぶのを。―無理だよ、孝昌。
 今まで届かなかった思いが、意識の途絶えかけてる父に、届くはずないじゃないか!
 だけど、その冷徹な事実を伝えようとするにはあまりにも孝昌は真剣に過ぎて。
 彼の深い愛情を、僕に認識させていた。―……やめろ。やめるんだ、孝昌。それ以上踏み込むのはやめるんだ。どれだけ愛情を捧げても、その愛情が報われない時。『人は、たやすく愛する人間を憎めるようになるのだから!』
 声にならない叫び。だけど、そんなものが孝昌に届くはずもなく。
 容態がいよいよ悪化をたどる父の前に医師が立ちふさがった。孝昌は押し出されるように僕の横にと場所の移動を余儀なくされる。 孝昌はもう、父を見ていなかった。彼はただ、自分の崩れ落ちそうな足元だけを見るので精一杯だった。
 虚ろ、と形容するのが一番正しいのだろうか。彼の目は何物も捉えてないように僕には見えて。
 でも、その中に確かに『憎しみ』と呼ばれる感情が色濃くなっていくのも、僕には解ってしまったのだ。―孝昌……貴方もなのか? 貴方もやはり、人を憎まずには生きていけないのか? やめろ、やめてくれ。これ以上僕に……絶望を味あわせないでくれ!
 だけど、僕の祈りは届かない。孝昌は、憎しみのこもった口調でゆっくりと呟いた。
「……畜生」





   9

 そう口にした、あの人の心が段々と悲しみから憎しみへと、その色を変えていくのを、僕ははっきりと感じた。
 やっぱりだ。
 僕は思う。
 やっぱり人は、人を憎まずには生きていられないんだ。
 それは、予想された事。
 しかし、予想通りであっては欲しくなかった事。
 僕は喉元にこみ上げてくる、今にも叫び出したい衝動をこらえるのに、精一杯だった。
 病室の中には、五月蝿いくらいの蝉時雨。
 僕は夏がもう終わりを告げようとしているのを、感じた。
「畜生……畜生!」
 拳を握りしめて叫ぶ孝昌の姿から、僕は目を逸らした。もう、見ていたくなかった。
 人が人を憎み、人を傷つけようとする姿は。
 だけど……。
 孝昌が口にした言葉は、僕の予想とはかけ離れた物だった。
「畜生……どうして僕は、信久じゃないんだ。僕が信久だったら、父さんにこんな苦しい思いをさせなくても済むのに……!」
 僕はハッと顔を上げる。そこにあったのは確かに憎しみ。けれどそれが僕の予想と違ったのは、その憎しみの向かう方向で。
 孝昌はあれだけ傷つけられてなお、誰も憎まずに、ただ自分の力の無さだけを憎んでいた。
「父さん……ごめん。僕では、父さんを救えないみたいだ。だけど、だけど……僕は父さんを愛していたよ。せめて……もう、これ以上苦しまないで……」
 孝昌の呟き。それは祈りにも似て。僕の心を打った。
 その孝昌の祈りが通じたのだろうか。
 父のうめきはやがて静かになっていき。
 それから一時間後、父はゆっくりと息を引き取った。





 エピローグ

 それから三日後。
 僕は孝昌を見送りに駅まで来ていた。『僕は父さんの気まぐれで養子にもらわれたようなものだ。父さんが亡くなった今、僕の存在を疎ましがりこそすれ、喜ぶ人間がいない事くらい、誰よりも僕が解っている。だから、僕は家を出るよ。一人で生きていけるくらいの力はもう、身につけている。それで……良ければ、見送りに来て欲しいんだけど……』
 そう電話があったのは、前日の夜だった。
 去りゆこうとする夏の日射しの中、僕は孝昌と駅のホームに佇んでいた。
「……来てくれたんだね、ありがとう」
「……友達の見送りを忘れるほど、僕は不人情じゃないつもりだけど?」
「友達だと、思ってくれてるんだね」
「……迷惑なの?」
 僕の言葉に、孝昌は楽しそうに笑う。
「迷惑じゃないよ。嬉しいよ。僕も由衣の事を友達だと思っている。ここに来て、由衣に会えて本当に良かった」
「僕も、孝昌に会えて良かった」
 どちらからともなく、手が差し出された。そして手を堅く握りしめる。
「由衣とは、またどこかで会えるような気がするよ」
「奇遇ですね。僕もそんな気がしていました」
 そして、お互いに笑いあう。
「じゃあ。ひとときのお別れだね」
「そうですね。では、また会ういつかまで」
「さよなら」
 ホームに電車が滑り込んでくる。僕はその電車を見ながら、孝昌の言葉に首を横に振った。
「……またね、です」
 孝昌は笑った。僕は思う。
 孝昌の笑顔は、いつも優しいと。
 電車のドアが開き、孝昌はそれに乗り込む。
「そうだね……。またね、だ」
 そして、二人は黙った。
 もう、話すべき何も残ってはいないように思えた。
 そして、発車のベルが鳴り……。
 ゆっくりと音を立てながら、電車のドアは閉まった。
 車輪とレールの擦れあう音が段々と小さくなっていき、やがて電車は見えなくなった。
「ふぅ……」
 僕は、そして一つため息をつくと、わざとらしく言ってみる。
「いくら僕が、この前話を立ち聞きしていたからと言って、お前がして良い事にはならないんじゃないか? 亮一」
「気づいてたのか……」
 僕の声に、決まり悪そうに亮一がホームの影から顔を出した。
「まあね」
「……お別れは済んだのか?」
「ああ。またいつか会う事もあるだろうけどね」
「そうか……」
 小声で呟く亮一に、僕はゆっくりと声をかける。
「亮一……この前は、話を立ち聞きしたりして、ごめん」
「いや……俺も、今しちゃってたし、同罪って事にしておいてくれないかな?」
「亮一がそれで良いのならね。それで……亮一の言っていた事について、僕はあれから色々と考えてみたんだけど……」
 僕の言葉に、亮一は体を堅くする。だけど、次の瞬間にその堅さが簡単にとけてしまう事が、僕には解っていた。
 僕は、その後にこう、言葉を続けたから。
「……やっぱり、良く解らないや」
 一瞬の沈黙の後……亮一は声をたてて笑い始めた。
「何で……笑うんだよ」
「いや……何かさ、由衣らしいなぁって……思ったのさ」
「私らしい? 私らしいって何なのさ?」
「由衣らしいってのは……」
 言葉を返そうとして、亮一は言葉に詰まる。
 僕が、私なんて一人称を初めて使ったことに驚いたのだろう。
 マジマジと私を見つめる亮一に、私は誰に言うともなく話し出す。
「……私には解らない事ばかりだと思う。それで、亮一を傷つけてきたのかも知れない。だけど、どうしても今の私には亮一の気持ちが良く解らない。だから……私は、解らない事はまだ、そのままにしておきたいと思う。……誤解しないで欲しいんだけど。解らない事をそのままにしておくって事じゃないんだ。解らない事はこれからも考え続ける。だけど、そうやって解っていく事っていうのは、ひどく遅々とした歩みになってしまうだろうという事で。でも……亮一が私の事を大事だと少しでも思ってくれるのなら、私が色々な事に気づけるようになるまで、時間をかけて欲しいんだ。そのかわり……私は、自分に肩肘を張って生きていく事をやめるから」
 素直な気持ちだった。言葉がすらっと紡がれていく。もう『僕』はここにはいない。何かを捨てたとは思いたくない。だけど、私はこの先に進む方法として、自分が今まで認めたくなかった、抱え込んでいた荷物を、おろして。
 そのかわり『悩み続けていく』という荷物を背負う事に決めたのだった。
 そんな私を亮一は、ジッと見つめ……。
 たっぷり黙った後に、ボソリと呟いた。
「ちぇっ。……何か、置いてけぼりにあったような気分だ」
 拗ねたように言う亮一の言葉に、私は笑い出す。私につられて、亮一も笑い出す。
 楽しかった。今、確かに一つの季節が終わり、新しい季節が始まろうとしている。それは今までとは間違いなく違った季節になるだろう。
 でも、私は自分の進む方向を自ら見つけだし、その選択に責任を取っていこうと決めた。
 だから……これから私たちがどうなっていくのかに不安はある。だけど、それが自らが選んだ道なのならば。
 私は、その道を進む事をきっと、楽しいと思っていけるだろう。
「……これからも、よろしくね。亮一」
「こちらこそ、由衣」
 もってまわった言い回しに、また二人で笑い転げながら、私は二人の笑い声を聞いていた。
 風の音を聞いていた。
 遠くから聞こえる蝉時雨が、耳鳴りのように聞こえてくるのを、確かにその時の私は聞いていたのだ。

―Fin―


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