夏ノ楼閣

KENSEI

「一斉にフェア用の文庫並べてるとさ、夏が来たなあ、って気がするよね〜?」
 由加が黄色いオビのついた文庫本を取り出しながら言った。冷房は効いているが、動けばやはり汗は出る。軍手のなかが湿っているのがわかる。台車からダンボールを降ろして由加の横に置く。汗をぬぐう。腕で引き伸ばされて薄く光る。
「そうだな。もうそんな季節かって思っちまう」
 この店で過ごす4度目の夏だ。
「由加、もうすぐ25歳?」
「ウルサイ! ケンだってもう27ダロ!」
 猫の手パンチが飛んできて笑いながらよける。驚くほど変化のない3年間だったな、淡い感慨がわいて店内を見回す。就職もできなくて、とりあえず始めたバイトだったのだが。フロアに散っている顔も打ち解けた仲間ばかりだ。とくに由加はもう2年も一緒に仕事をやっている。8月が誕生日の由加は「幸せがこねえ」と歳をとるたびにぼやく。充分幸せそうに見えるのは、由加の物怖じしない性格が錯覚を引き起すからかもしれない。
「あ、これカワイイね」
 由加が文庫の谷間からポスターをつまみ出し、広げていた。ポスターには文庫についた応募券を10枚集めて送ると、オリジナルのペアグラスが当たるというキャンペーンが紹介されていた。
「10冊はきついだろ」
「2人なら可能だよ。ノルマ5枚で」
 由加が猫のような瞳をきらめかせる。搾取だ。
「店長が集まってほしいそうです」
 稲葉くんが声をかけてきた。時刻は14時。遅番の人間を含めて全員が揃う時間帯だ。稲葉くんは次々と声をかけ、レジ以外の人間が奥に向かっていく。由加と視線を交わすとバックヤードへ歩いた。
 バックヤードは机やら棚やらで手狭になっていて、集合するとかなり窮屈だ。中心に小宮店長と若い女性が立っていた。女の子、ともう俺は呼ぶようになってしまった。二十歳すぎくらいの女の子。
 きれいな娘だな。単純にそう感じた。ちっちゃくて。細くて。
「えー、本日から副店長としてこの店で働いてもらいます。倉田栞さんです」
(副店長?)
 と疑問を感じる。そんな役職聞いたことがなかったからだ。口には出さなかった。同時に「倉田」という名字に思い当たる。
 じゃあ、この娘が噂の……「将軍」の孫娘か。
 倉田はこの一大書店チェーン創業者の名字だったからだ。
 ブックス「KURAYA」は支店を全国に展開する大規模書店チェーンだ。戦後まもなく洋書の輸入から始めて、各地の大学や研究機関から注文をとるようになった。それが全国に店舗を開く基礎になったと本で読んだことがある。この店も地域では売り場面積一位を誇る。人呼んで出版界の将軍。
 小宮店長はみんなを解散させたあと、俺を手招きした。小宮店長はなぜか俺を気に入ってくれていた。満面の笑みで言う。
「あ、彼ね、バイトで一番の古株だから。わかんないことあったら、聞いて」
 店長の手が俺の肩に置かれ、倉田栞の正面になるよう押された。
「ほら、ケンちゃんは黙ってると熊みたいなんだから、なんか言わないと」
「……見城、です」
「……倉田です」
 細い首筋と、形のいい唇が動くのを見た。
「よろしくおねがいします」
 返事が肺を通過しない。意識が上ずっていくのを感じた。焦点があわない。首を動かしたつもりだ。
「ケンちゃん、頼んだよ」
 店長に背中を叩かれて送り出されたあと、呼気の自由を味わいながら、これは相当野郎どもが騒ぎそうだなあ、と感じた。俺には無縁な世界だ。熊と人間は恋愛しない。
 その日は、とくになにもなく過ぎた。倉田栞もすぐに店から消えてしまった。
 アパートへの帰り道携帯が鳴って、とると井川さんからだった。井川さんは俺を雇った店長で、いまは出世して本部でエリアマネージャーになっている。以前はただの酒好き店長。毎週のように飲みに行っていた。『お嬢様そっちに行っただろ?』
「……来ましたけど、」
『くれぐれも揉めごと起こすなよ。お前』
「起こしませんよ」
『そうか〜?』
「なんかあるんですか?」
『まあ、いいや。こんど同期で飲み会やるんだけど、お前、来るか』
「酒があればどこでも行きますよ」
 つまりはそういう仲だ。

 店はアルバイトで回っている。担当が決められて、数名ずつの班をつくって行動するのだ。俺は文庫担当。朝の雑誌入荷時や、午後の書籍とコミックの入荷時は総出でやる。分類別に品物をわけてからの、陳列が担当の役目だ。入荷したものを補充して、足りなければ注文し、売れ残れば返品する。
 本屋のほとんどがそうだろうが、アルバイトが人間で言えば手足胴体のほとんどを占め、心臓部分、金銭と人間の管理を社員が行っている。商品に関してはアルバイトに権限が与えられ、入荷や棚作りなどは自由な裁量に任されていた。やりがいのある職場ではあるものの、つまり「売れなきゃ返品すればいい」という甘い業界体質の表れでもある。しかし利益の薄い本を商品とする以上人件費は抑えられるだけ抑えたい。それがまた再版制に守られて悪循環を生む。ほとんどが入荷してきた新刊を漫然と並べるだけの結果になってしまう。
 昔新宿の某書店に「伝説の書店員」と呼ばれる人がいた。1万冊を越える本を読み、手書きで販促用のポップを書くとそのほとんどが店内のベストセラーになったという。話題になった「白い犬とワルツを」も千葉の一書店員が発掘したものだ。もしなるならそんな書店員になってみたいものだ、と思う。
 ちなみに小宮店長がなにをしているのかは不明だ。
 昼食を終え、休憩室から店内に出ると、文芸書担当の靖之が新刊台を整理していた。店の入り口近くにあるビジネスと共用の平台だが、すねの中ほどから腰のあたりまで本が整然と積まれている。靖之はひざ立ちになり、本を縦一列につかみ一息で引き出す。そのまま脇に用意したダンボールに放り込んでいた。
「あれ、火曜午後イチで上がりだろいつも」
「うん……でも。近藤は風邪で、市川さん休みだし。文芸オレひとりだから……」
「上がれよ出しといてやるから。講義あるんだろ?」
「いいの?」
「ああ。指示だけメモ残しといて」
「サンキュー。こんどコーヒーおごる」
 靖之は粗方詰め終えたダンボールを抱えると立ち上がった。
「今年こそ単位落とすなよ」
「うるさいな!」
 靖之は大学七年生である。
 笑いながら見送り、空いたスペースの埃を靖之の置いて行ったハンディモップで払う。ほどなくして配送のトラックが通用口に着き、手の空いた男が集結した。台車に載せバックヤードまで運ぶためだ。女性はバックヤードで運ばれてきた箱を次々と開けていく。大口の商品はダンボールに貼られた入荷明細にタイトルが表示されているが、細かい商品は混在しているので蓋を開くまでわからない。運び終えると入り乱れての騒動になる。
 入荷リストで文庫の新刊がほぼないことはチェック済みだ。だから文芸班の代わりも存分にできる。ダンボールを締めるポリプロピレンのバンドを切っていく。文芸班の担当となる商品を抜き出し、残りを他の班へ回す。次々と商品が受け渡され、互いの手持ちを増やしていく。
 区分けが一段落したので、靖之のメモを参考にしながら店頭に並べる分と、倉庫に運ぶ分とに分けた。すると本日発売の本に、著名な作家のエッセイがあった。目次で内容に見当をつけ、狙って読んでいく。エッセイだが最近の経済問題に注目しての発言が目立つ。切り口は見事だ。装丁もいい。ビジネス担当の社員、木村さんを捜した。木村さんはバックヤードの奥、ビジネスの在庫棚をいじっている。
「木村さん。ビジネスのスペースさ、一つ貸してよ。これきっと売れるよ」
「えー、嫌だよ」
「売れる。売れなかったら、小宮店長にキスしてやるよ」
 木村さんが笑いながら言う。
「わかったよ。ケンがそう言うなら、貸してあげる。頬じゃダメだよ」
「ケン、このコミックどっち扱い?」
 背後から声がかかって、2冊の文庫判コミックが眼前に突き出される。
「それは普通にコミック扱い」
「こっちのは?」
「これは文庫扱い」
「オーケー」
「ケンさん、倉庫どうしましょう?」
 今度は文芸班になって回答する。台車と順番を振り分ける。
 こんなときは、このチームを動かしている気分になる。誰をどうしてやればいいか。なにをどうしてやればいいか。自在に采配ができる。きっとサッカーの司令塔というのはこんな気分なんじゃないかと空想する。
「ねえ、店長は?」
 由加がバックヤードに顔をのぞかせた。
「店長様は、副店長様と打ち合わせございますことよ」
 木村さんが気取って返事をすると、由加が顔中をしかめた。
「え〜? またあ? なにもこの忙しい時間にやらなくてもいいじゃん」
「あのスケベは休憩室で二人きりになりたいんでしょ? 個人的に教えたいことがあるなんつって、そんなら荷物の一つも開けろっていうの」
「レジの交代が来ないんだよ〜」
 由加がわめいた。木村さんが貼ってある全体のタイムテーブルを調べる。バイトは店長の作成するタイムテーブルに沿って行動する。昼食、レジ、返品。空いている時間は担当の仕事で、棚の補充や注文を行う。俺は入荷のあとレジが割り振られていた。
「おかしいね。いないね」
「近藤くん病欠なのが、直ってないんじゃない?」
 指摘すると木村さんがうなずいた。
「そうね。どうしようか……」
「文庫は新刊ないし、文芸は俺がやっつけるよ。補充分は由加がいれば平気」
「そう? 悪いね、由加。あと1時間だけいい? それまでに店長に訂正させるから」
 木村さんがタイムテーブルを書き直していく。
「それまでオマエは汗臭いオタクとか、クレーマークレーマーとか、嫌な客の相手をたくさんしていろ」
「くー、ムカツク!」
 引っかく素振りで俺の眼前の空を切ると、由加がレジに戻っていく。
 ダンボールを抱えて新刊台を目指す。気に食わなければ明日靖之が修正するだろう。手早く文芸書を配置していった。人間の視野で目に付く位置というものはあるていど決まっていて、売りたい本をそこに据えてやる。今日はこのエッセイ集。色合いや関連性を考慮するときもある。新しい本は取りやすい手前が基本のポジションだ。往復して新刊台を終え、棚前の平積みを整頓し、棚を補充して、古い本を抜いた。新刊台から棚前に格下げになる本もある。抜いた本は普段返品に出してしまうが、靖之の判断に任せるためバックヤードに残すことにする。
 時計を確認すると、レジの時間が近づいていた。在庫を倉庫へ撤収するのは後回しになりそうだ。木村さんにエッセイ集を渡し、大急ぎで荷物をまとめて隅に寄せる。
「ケンちゃん」
 小宮店長の声がして振り向く。
「あ、店長。すいません。これ、あとで倉庫に持って……」
「いいよそれは。それよりレジなんだけど……近藤くん風邪で休みでしょ? で変わりに彼女と入ってくれない?」
 店長の斜め後ろに、不機嫌そうな倉田栞が控えている。
「手が空いているの彼女だけで。レジはできるそうなんで……ね?」
 倉田は返事をしない。
「はあ……」
 今日はよほど人手が足りないらしい。
 うれしくないわけではないが、どうにも気詰まりだ。連れ立ってレジを交代する。普段由加とレジを交代するとき、軽口の応酬の一つもある。だが怖いくらいおしとやかに儀式は終了する。俺が先導したので立ち位置が奥になる。そのためにカバーかけ。倉田はレジが役割分担になった。
 午後のこの時間は、暇ではあるのだが、入荷作業中のためレジは最小限の2台しか開いていない。だからまったく客が来ないか、来始めると瞬く間に行列になってしまうという魔の時間帯だ。暇なときは大抵おしゃべりにみんな充てている。普段なら初めて入る人に対しては、わからないことを聞いたり、ジョークの一つでも飛ばして安心させるのだが、副店長に対して正しい態度ではない気がした。
 黙ったまま正面を眺めている。とくに目に付くものもない。向こうから話かけてくる様子はない。それでいて腕のあたりにかすかな体温を感じる距離。冷房の風が人の輪郭を浮き上がらせるような。
 横顔を一瞥したくなった。色素の薄い感じの肌と髪。ぼんやりと前方を見る、歳相応の無邪気さがあった。そんななにげない表情が、ひどく美しいのに驚いた。
「あのう、すみません……」
 いつのまにか見とれていた俺は、あわてて前方に向き直る。カップルが英文のプリントをカウンターに広げている。プリントを持った女性の方が言った。
「この小説って、和訳されてますか? 和訳されてたらその本が欲しいんですけど……」
  The Perfect Murder / Jeffrey Archer
 好きなのはうろ覚えの本についてお客さんから聞かれたときだ。お客さんは広告や書評で目に付いた本を曖昧に語る。そんなとき自分の頭にキーワード検索をかけてやる。たとえば……「最近話題の」「猫が出てくる」「絵本」とか。そこで引っかかってくる本が正解だったときは得意な気分になる。
 さらにはこうして「こういう本はないかなあ」と相談を持ちかけられたとき……本来これは「レファレンス」といって図書館員の分野なのだが……知識の及ぶ範囲で解答が得られたときは最高に気分がいい。
「えーと……」
 取次とオンラインでつながったPCがある。隣から気配が動いた。だがカウンターの隅にある端末に倉田がたどりつくより早く、記憶の階層から答えが抽出されていた。
「たしか……ジェフリー・アーチャーの短編集のなかに、同じタイトルの短編があったな」
「本当ですか?」
 女性のお客さんがうれしげな反応を返してくる。
「レジお願いしていいですか?」
 女性に微笑したまま言う。なぜか倉田を見ることができなかった。声をかけるだけで精一杯だった。
「はい」
 カップルとともに文庫の棚へ行き、一冊開いて索引を示す。「完全殺人」という邦題の下に“The Perfect Murder”と表記がある。
「あ、本当だ。ありがとうございます」
「よく内容を確かめてからレジにお持ちくださいね」
 カップルとにこやかに別れる。おそらく大学のレポートかなにかで訳す必要があるのだろう。ちょっとズルかもしれないが、うちには関係ない。ほどなく俺を追いかけるようにカップルがレジに来た。
「いらっしゃいませー」
 文庫本を受け取ってバーコードをスキャンさせる。
「480円です」
 倉田がやわらかく告げる。
 ブックカバーは1、2冊ならなにも聞かずかけてしまう。3冊、4冊だと試しに聞いてみたりする。ブックカバーをかける速度は速ければ速いほどいい。ベテランになってくると手さばきが見えないときがある。もちろん器用さも重要なのだろうが、早くかけようとする執念が技を産むのではないかと感じている。人によっても違うが、俺はブックカバーを文庫本の両端へ折りこみ、小口側をはさんで天から地へなぞるだけだ。一番早い。一瞬で片付いて、お客さんは満足そうに店を出ていった。よし。
「……見城さん」
「はい」
「カバーはきちんとかけてください」
 思わず倉田を見つめた。気まずそうに視線が逸らされた。
「折りこむだけでなく、角にきちんとかける。マニュアルではそうなっていますよね?」
「……」
 歯が重たくなって、胸が張る。呼吸が浅くゆっくりになった。なんでだ、という言葉を飲み込んだ。仮にも副店長なのだ。
「……すいませんでした」
「いえ」
 すぐに次のお客さんが来て、5冊ほど文庫本を差し出した。バーコードをスキャンさせると、倉田の合計金額を読み上げる声が聞こえた。ことさら無機質に響くのは気のせいだろうか。きちんとマニュアル通りにブックカバーをかける。丁寧に。客が、次々と並んだ。このブックカバーというほんの数秒が惜しいときもあるのだ。たしかにわずか数秒だろう。手抜きだと言われればそれまでだ。だが待たせるのと、ブックカバー、どっちが大事だろう。結局俺は手を抜いてスピードを選んだ。両立させる余裕はなかったし、慣れればそんなことは忘れた。
 無言でカバーをかけ続ける。
 客は並ぶ。
 次の客のバーコードをスキャンさせる。
「……大変なら、やらなくていいです」
 声が揺れていた。
 無視したまま再びブックカバーをかけ続けた。

 売り場の再構成をする、という発表があったのは一週間後のことだった。
「なんでまた?」
「アダルトを一掃して、セルCDやDVDの売り場を増設するみたいよ」
 木村さんたちの「大会」が始まっていた。
 倉庫前の廊下にある小さな喫煙スペース。ダンボール箱の積み下ろしをしている俺を横目に、数人が喫煙タイムに入っている。由加は隣で箱から取り出した文庫の冊数を確認している。といっても木村さんたちは自分の仕事を終えて、台車を待っているのだ。台車の数には限りがあるので、一緒に倉庫に入れば、一緒に載せていくのが原則である。扉を開け放っているから、お互いは筒抜けだ。
 ここはいつも情報交換。陰口大会。噂話の温床になる。
 箱を下ろして、開ける。由加が補充する文庫本を抜き出し、台車に用意した空箱に詰めていく。もう一箱下ろす。開ける。由加が空き箱へ補充分を移していく。隙間ができた在庫の箱同士で残りを集め、まとめて一つにする。由加が箱の側面にマジックを滑らせた。なにを納めたのかわかるように本の題名を記入しておく。書き終わったダンボールを在庫の山に戻す。繰り返しだ。台車は補充分のダンボールが重なっていく。
「DVDの売り場を増やすのは悪くない判断だけど、アダルトを一掃してしまって売り上げは確保できるの?」
 木村さんに問いかけた。
「さあね」
「……さあね、って」
「ともかくお嬢様がやりたいと言い出したんだから、しょうがないんじゃないの?」
 ごもっとも。
「あのコ、本部研修受けたらしいよ〜」
 なるほど。だからこの時期に転属になったわけだ。
 このチェーンの新入社員は、普通は同じ管轄のエリアで一ヶ月バイトをする。そのあとで社員として別の店に配属になる。社員は年単位で同じエリアの店を転々とし、店長に昇格する。本部で研修を受けたのなら、この店はただ勉強のためにいるだけだ。三ヶ月は本部の研修の期間だったのだ。半年もすれば本部でマーケティングや企画の仕事をやるのかもしれない。
「現場の苦労ってやつを理解してないですね」
「あのコ生意気だよね〜 朝の入荷手伝えって」
「小宮のアホが、自分なにもしないくせに、おべっか使ってさ〜」
「あたしあのコ嫌い〜」
 マジックの小気味いい音をさせながら、由加までがそう言うのを聞いて、少し困った気分になった。
「言わないほうがいいぞ。そんなこと……」
 木村さんが意地悪そうに笑顔をつくってみせる。
「ケンだって、思ってはいるんでしょ?」
「……」
「思ってて言わないだけじゃないのよね〜偽善者〜」
「偽善者ァ〜」
 木村さんの台詞を由加が復唱する。こらえた。
「……俺はどんな批判も、本人の前でしか言わないだけだよ」
「かっこつけちゃって、ねぇ〜」
「ねえぇ〜」
「……」
「これ以上からかうと本気で怒るからやーめとこ」
 木村さんたちが大笑いして切り上げられる。
 ため息をついてやりすごす。言いたいことはいくらでもある。入荷は全体の仕事なんだよ、とかね。小宮店長がやらないのはもともとだけど、井川さんは一緒にやってくれた。ほかの社員さんは当然やっている。そういうところの助け合いがコミュニケーションを生んだりする。陰口をたたくことでコミュニケーションを生んではいかんのよ。
 台車の上に補充分が揃った。喫煙所に台車を幅寄せする。
「ほら、載せて。先行ってるから」
「いいじゃん、たまには休んでいけば?」
「補充多いから、時間足りないんです」
 木村さんたちのダンボールも載せて、倉庫を出る。由加と並んで廊下に、台車のきしむ音を広げる。
「木村さんたちも言うほど働いてないのにね」
「由加、お前な」
「大丈夫。こんなこと言うのケンぐらいだよ」
 由加は嫌いな奴は嫌いと言うが、大多数と仲良くやっているように見えた。だから意外な一言だった。こんなただの本屋でも派閥があって、小宮店長は排除されているし、社員を頭にして、バイトにもたとえば木村さんなら木村閥というものが存在している。表立って衝突、ということはないけれど、意識のズレとか些細な行き違いはある。井川さんは連日の飲み会でその隙間を埋めていたような気がする。そういう意味では井川閥だったことになるのかもしれないが……
 ただ誰に対しても言えることは言っている。アルバイトだけど仲間だと思っているから。店長だって、社員さんだって。誰がなにを考えてるかわからない。いつだってそうだ。だから最善を上の人間がやらないと、風通しは悪くなる一方だ。
「……ね、あれ」
 由加が言う前に気づいていた。店内から倉庫に通じる廊下へ出るドア。ドアを閉じる倉田栞の姿があった。
「様子を見に来たわけ? そこまでするかな〜?」
「厳しいな。サボってるほうが悪いけど」
 台車を止める。倉田は規則的な足の運びで迫る。
「由加、そうだ。あれ、持ってきてよ」
「わかった。15冊でいいよね」
 由加はわかってる。すぐに倉庫に向かって走り出した。台車に体重を預け立っていると、倉田の瞳が動いて俺の前で止まった。
「……どうしたんですか?」
「いや、ちょっと補充の数を追加しようと思いまして。神谷が取りに行ってるんです」
「……」
 話し声が聞こえて、目をやると廊下の先に木村さんたちが現れる。由加は文庫本を両手に抱えていた。倉田が冷めた視線で見つめている。由加たちがかたまって台車に寄ってくる。
「持ってきたよ」
 由加が文庫本をダンボールに載せた。陽気な笑みを浮かべて倉田に問いかける。
「どうしかたんですか?」
「いえ」
 倉田は静かに言うと、一人背を向けて倉庫に消えていく。
「いやー、怖かったー」
「やばかったなあ。陰険だよまったく」
 小声で非難が交わされる。それはいま店中で定評になっている。
「でも、かわいいですよね!」
 と一言で許したのが稲葉くんだった。
 由加と二人で蹴った。

 倉田栞は店内を巡回していることが多かった。新しい売り場構想を模索しているのかもしれない。
「監視されてるみたいでイヤ」
 というのは由加の意見。相変わらず朝も午後も入荷を手伝わないので、早番アルバイトからの評判は落下し続けていた。
「でもやっぱかわいいですよね〜」
 とは隣でカバーかけをやっている稲葉くんの感想だ。
「顔さえよければいいのか?」
「いいんです」
 遅番のアルバイトとは気さくに話しているようである。早番はフリーターか、主婦でアルバイトをしている人が多い。遅番は学生中心だから、年齢的にも話が合うのだろう。なにより、遅番には朝の入荷がない。あの戦場を知らないやつには、女神に見えるだろう。
「いくつなんだ副店長」
「22です。同い年なんです」
「若いねえ……」
 この歳になると、若さがうらやましくなる。同時にそう感じる自分に寂しさを覚える。
 噂をしていたせいか、副店長がレジに向かって歩いてきた。稲葉くんが手を振ると、まぶしいくらいの笑顔を出す。茫然となる。そういえば副店長の表情らしき表情を見たのはいまが初めてかもしれない。また無表情になった副店長は、俺に正対する。
「見城さん、レジが終わったらちょっといいですか?」
「……構いませんけど、なにか?」
 副店長の能面のような表情と平坦な声音の続きを聞いたのは、倉庫に入ってからだ。
「この一帯を撤去してほしいんですけど」
 フェア用に配布されてきた文庫の箱の山だった。この一角はフェアを行う班が借りてよい場所で、常用の場所ではない。移動するのは構わない、が。
「ちょっと待ってください。どかすには場所が足りないので返品になります」
「すぐにお願いします」
 副店長は箱の山を見たまま言う。理由も説明なく、か。
「……仕方ありません。在庫に残しておきたいものを選ぶ時間をください」
「フェア本に関しては不要でしょう」
「返品を増やせば実績が落ち、新刊配本の数量が減ります」
「この程度の冊数で実績に響くとは思えませんが」
 たしかに、1回のフェアで上がる売り上げは微々たるものだ。しかし責任もってやってる以上、納得できないことはしたくない。また、副店長には納得させる義務があるだろう。
「どうして撤去を?」
「……新規商品の在庫のためです」
 DVDとCDの置き場をつくりたいわけか。
「明日入荷ですか?」
「……」
「いつ入荷ですか?」
「……」
 もしかしてまだ注文してないんじゃないですか?
「売れる数もありますし、徐々に返品しますから、少し待ってもらえませんか」
「……撤去してください」
 強制ですか?
「イヤです」
 軽く言い切る。倉庫に来て初めて目が合った。驚きで大きく見開いていた。すぐに強く背けられ、低い声がもれる。
「じゃあ私がやります」
「そうですか」
 勝手にしろ、と思った。なにもかも自分の思い通りにしたいのか?
 大またで倉庫を渡る。廊下へ踏み出すところで由加と鉢合わせした。質問を口にする前に由加がしゃべりだした。
「なんか文庫のことで話し合ってるって聞いたから。追いかけてきた」
「注文してもいないDVDの置き場をつくりたいんだと」
「それで?」
「いまヤツが一人で返品するんだと」
 由加が疲れたように長く息をついて、前かがみに崩れた。
「やらせとけば?」
「……やらせるというか、やるというか」
 砂上の楼閣。そんな言葉が当てはまる気がした。倉田は危ういところにいる。バイトの信頼を失った社員から、いい業績は生まれない。
 店に戻って仕事の続きをした。終業の時刻になる。後片付けをしながら周りをうかがう。副店長は一向に帰ってこない。仕方ない。返品してやろう。懲りたろうこれで。
 不意に倉田栞の泣き顔が浮かんだ。なんだか壁を拳で殴りつけたいような気持ちになった。女の子に一人ずっと返品をさせてるのか。俺は。もしかしたらひどいことをした。なんであんなことをしたんだ。焦燥が胸を突き上げる。純粋に力仕事なのだ。以前、とある店長と揉めた女子アルバイトが、見せしめに毎日8時間返品をやらされたことがあったらしい。根をあげるのはすぐだった。倉田も簡単に根をあげて休んでいてくれればいいが……
 倉庫の扉を開く。すると笑い声が聞こえた。おどけた調子の稲葉くんの冗談が、はじけるような倉田の調子を導き出している。そっと中をうかがう。仲良さそうに手分けして返品の作業をしている。あの箱は稲葉くんが運ぶだろう。一安心だ。
 ひどく虚しい気分になって、苦っぽい笑みがわいてきた。ただの道化だな。引き返す。
 そういや稲葉くん自分の仕事どうしたんだろう。働けよ。倉庫から引きずり出して叱りたい気分だった。

 Tシャツの生地を透かして、太陽が皮膚を突き刺してくる。のしかかるような熱さが背中に貼り付いている。白く映えてどこか虚ろな視界。湿気と交じり合ってすぐに浮かぶ汗。真夏日が続いていたが、一番熱い時間帯はいつも店内にいるのでここまでとは予期していなかった。午後一時過ぎ。日盛りは圧倒的な力で消耗を駆り立てる。この時間帯に駅を利用することは滅多にない。休みとはいえ、炎天下に好き好んで出かけようなんて企てない。店で靖之と待ち合わせているのだ。
 ホームから階段を上がろうとして、雑踏に後姿を見つけた。取次のダンボールを足元に置いて、踊り場を見上げている。白い肩と小さな背中。すべての光が集まっている、ノースリーブのブラウスがまぶしい。帽子を押さえた指。物憂げなまなざし。一枚の完璧な絵画のように静止している。誰だろうと疑問を抱くより早く、倉田栞だと気づいていた。
 不思議なイメージが見えた。教会? 城? 古い石造りの建物。イタリア? ローマ? 広場で佇む細い四肢。昨日観た深夜映画のせいか。ローマの休日。じゃあアン王女だってのか? ヘプバーン? 苦笑しようとして「なにがおかしいんだ」と脳裏が告げた。
 倉田がなぜか俺を見つけて、帽子を深くかぶり直す。連れ戻された意識。時間も呼吸も忘れていたことに気づく。意を決した。すべての体を動かす仕組みは壊れてしまっていたが、転がるように歩み寄る。
「副店長」
 気持ちと身体が離れて、どこか操られているようだ。
「持ちますよ」
「結構です」
 内心たじろいだが、素早く持ち上げてしまう。それほど重くはないが、女性が抱えて歩くのはつらいだろう。恥ずかしくて勢いよく階段を踏んでいく。進みすぎて間隔があいた。呼吸を整える。倉田が小走りで追いついてくる。並んで歩き出してからも、高揚している俺は饒舌だった。
「店売ですか? ずっと運んできたんですか?」
「……」
 店売というのは取次が本屋に売る本屋だ。中を確認したわけではないが、荷物はDVDや映画に関するムックや書籍だと推測できた。
「配送にするよりも早く、手持ちで持ってこようなんて……気合が入ってますね。タクシー使えばワンメーターなのに」
 倉田の姿が肩口から消えて、振り返ると軽く口を開けたまま止まっていた。あわてて首を横に向ける。のぞきこむと、唇を尖らせていた。その仕草が子どもっぽいのに似合って、心が軽くなった。
 この子はこの子なりに一所懸命なんだ。ちょっとムキになりすぎているくらい。正体不明の「将軍の孫娘」ではない。わかりきっていたことなのに。
 暑さのせいではない。荒っぽく脈打つ鼓動に緊張を自覚する。このお姫様は楼閣に立っている。遥か高い塔に。きっとどんなに足元が傾いていても、崩れるまでは悟らないだろう。俺は塔を守る雑兵のような気分だった。
 唐突に感じた。いまを逃してみんなが感じている不満を伝える機会はないのではないだろうか。適当にごまかしたくない。それはこの人のためにならないのではないか。
「副店長、一ついいですか?」
 倉田の静かな瞳を遠慮なく見つめることができた。
「入荷を手伝ってください」
「それは……」
「管理職の仕事ではないかもしれません。でも忙しいときや人手が足りないときは、一緒にやるとバイトとの信頼が生まれます」
「……」
 倉田は押し黙った。しかし無駄話に転換するわけにもいかず、それきり会話は途絶えてしまう。けれど、言うべきことは言え、小さな成功に感じられた。こうして直接なにかを伝えられる人間はきっと必要だ。
 バックヤードに箱を置く。倉田は小さく会釈して休憩室に走っていく。背骨に衝撃を受けて身構えると由加が不満そうな皺を眉間に刻んでいた。
「なんでケンがフクテンと店に来るの」
 じっとりとした由加の上目にさらされる。
「駅でたまたま会ったんだよ」
「なんで駅でたまたま会うの」
「店に用事があるからだよ。靖之と待ち合わせて映画に行くんだ。出版社さんから試写会のチケットもらったんだって」
「えー? あたしは?」
「オトコと行けよ」
「あ、あれは別れた」
 由加はつまらないことのように言い放つ。あらぬ方をにらんでいる。逆に俺は急激な展開に思考が停止してしまった。どうして、と反射的に発問しようとして、やめる。理由は当人にしかわからないし、他人が知る必要もない。由加はいい加減な理由で決断するようなヤツじゃない。
 ポケットに手をつっこんで、取り出す。由加の前に拳を伸ばしながら言う。
「手」
 由加が両の手のひらを広げる。開けて、小さな紙片を降らせた。
「おーぼけん……」
 由加がどこかぼんやりと応じた。
「今年出た本ならいいってポスターの隅に書いてあったから。部屋掃除したついで」
「……5枚しかないよ」
「ノルマは達成してるだろうが」
 由加が鼻息を鳴らしながら大きく微笑む。
「ケチなんだから!」

 売り場の変更は着々と進んでいた。フェア台は、各社が争う夏の文庫フェア自体が撤去され、代わりにDVDの予約用POPと用紙が用意されている。フェア台を使用するという発言が出たときにはもう、使用のスケジュールに食い込んでいた。フェア台は担当ごとに持ち回りで期間が決まっている。出版社と打ち合わせして予定を立てているのだが、お構いなしのようだ。
 フェアは棚前でなんとかスペースを取った。文庫の仕事が縮小されたせいではないだろうが、由加がDVDの予約管理も行っている。バックヤードで由加が不平をもらす。
「もしかしてDVD担当にされるかも。文庫がいいんだけどなあ〜」
 今夏はヒットメーカーであるアニメスタジオの、某大作がDVD化される。CMも頻繁に流れていて、日本中の話題になっていた。予約者のみにおまけがついてくる、豪華初回限定版の評判も上々で、どこの書店も競って予約をとろうとしていた。DVDの売り上げを伸ばすのは店として必要なことだろう。
「二倍忙しいよ」
「いいじゃん。ダイエットできて」
 由加が振り回すパンチを連打してくる。両手で受け止めながら笑う。
「どーせ由加はデブだよ!」
「別にんなこたー言ってねえ」
 由加は反応過剰でいつも以上に絡んでくる。しかしじゃれあって遊んでいられるくらい店は平穏だった。倉田副店長も店として当然の存在になりつつあり、執拗な見回りやら、厳密な注意も、あきらめと共にタバコの煙で吐き出される。そんな既成の事実になっている。
 DVDの予約は締め切りまでに30名がついたそうで、予想以上の売り上げになるだろう。景気のいい滑り出しは歓迎すべきだ。締め切り前後に由加はかなりあわてていたようなので、文庫は気にするな、と言ってDVDに専念してもらった。ただでさえ不安定になっている由加の負担を減らすためだ。
 俺はフェアの撤去についても散々説得したのだが、倉田は頑として譲らなかった。出版社との信頼関係や道理というものがある。ただ走り出した以上失敗は許されない。意見はしたが、協力は惜しまず文庫は早々に移動させた。
 販売当日の朝は多数の雑誌のほかに、DVDも入荷して大混乱だ。それでもまだDVDの入荷作業を倉田が率先して行うことで士気は高かった。靖之が予約分の箱を引き当て、開ける。DVDの枚数を数えて、倉田に告げる。
「限定版、15枚しか入ってないですよ?」
 靖之が伝票を確認する。ほかのすべての荷を開封しても限定版はまぎれていなかった。
「版元に電話。取次にもね」
 木村さんが由加に言う。由加はバックヤードに走る。俺は雑誌を置きながら無言で立つ倉田の姿を見ている。
「え、15枚分しか? はい」
 静かに作業の音だけが聞こえる店内に、由加の声は充分届いてくる。倉田が目を細めて、バックヤードへの入り口をうかがっている。由加はコードレスの受話器を持ったまま歩いてきて、倉田に受話器を差し出す。
「版元に送られてきたFAXは15枚分しか予約票がついてなかったそうです。担当者の方が、事情を……」
 倉田は受話器を受け取って、話し始めた。由加が泣きそうなのをこらえているのは、痛いほどわかった。倉田がフックボタンを押して通話を終える。
「どういうことなの」
 倉田は感情を抑えて、静かに由加へ問いかけていた。
「わたしはきちんと送りました。FAXの不調としか……控えはとってありますし、それに倉田さんも……」
「言い訳はいらない!」
 いつも冷徹なはず副店長が、いきなり声を荒げた。
「ごめんなさい」
「お客さんにどうお詫びすればいいの?」
「ごめんなさい」
 由加が何度も頭を下げる。
「謝ってすむ問題じゃないでしょ!」 
 いいかげん耐え切れず、足が勝手に動いていた。倉田の横に立つ。
「やめたほうがいい」
 躊躇なく受話器をもぎ取る。怯えたように見上げるので、真っ向から見つめ返した。倉田の頬だけでなく、肌という肌が朱で染まっていく。
「もし部下のミスだとしても、責めてばっかじゃなくて、フォローしてあげるのが役目でしょう?」
 倉田はうつむく。暗記している本部の番号を押す。受付が出た。
「……エリアの井川さんお願いします」
 倉田の肌が赤を越えて、赤黒くなっていく。じっとうつむいたままだ。
「うん今日のDVD。それでエリアで補充用とかに押さえてるのない? 見込みとかキャンセルは? わかった。それお願い。限定の……うん……ありがとう」
 通話を切り、次をかける。
「静さん? 俺。そっちの店さ……」
 思いつく全員に電話をかけた。3年分で知り合った社員さんや、店長だ。店で注文してある限定版DVDのうち、余分があればわずかでもいいからわけてくれないか。店内の連絡番号と携帯のメモリを駆使する。
「……店長俺、取りに行ってきていい?」
「揃うのかい?」
「なんとか」
「副店長、どうです?」
 店長が機嫌をとるように優しく言った。
 倉田は首ごと目線を外し、フロアを駆け出る。
 店では無音の喝采が巻き起こった。親指を立てる者。小さく万歳してみせる者。由加が軽く胸元に頭突きを入れてきた。
「ありがと」
 由加の頭を一つなでる。
 倉田の背中はとっくに消えていた。追いかけようか迷った。ただみんなの前では唐突過ぎるようで、躊躇した。わかって欲しい。そう願った。
 倉田はその日店に戻って来なかった。

「見城くん、ちょっと」
 客注の問題を解決した翌日、出勤するなり店長がやってきた。見城くんと呼ばれたのは記憶にないくらい前のことだ。バックヤードの隅に連れ込まれる。
「売り場の再構成と同時に、担当の配置換えもすることになってね……文庫担当から外れてもらう。つぎは未定だ」
 なにを言っているのかわからなかった。言葉は一言半句間違いなくわかるのに、なにを言っているのかわからなかった。
「……え?」
「文庫は新書と一つの班にして、余った人手でDVDの担当をつくるんだ。神谷くんになってもらう。DVDは倉田くんがいるから、神谷くん一人で充分なんだよ」
 胸の奥に強張ったものがせり上がってきた。肩が、背中が、熱くなる。熱くなると同時に頭が強烈に冴えていく。店長の側から離れる。
 タイムテーブルには……なにも示されていない。
「店長……これは?」
「……」
「お嬢様公認でサボれるわけですね?」
「……」
 俺は一日を、文庫に触れることなく、ほかの担当を手伝うことでつぶすした。
 店内をうろついてお客さんから本について聞かれるのを待って過ごした。
 ただこの売り上げが店長と副店長の成績につながるのだと思うと、やりきれない気持ちになった。
 仲間はみんな優しくて、なにごともないように冗談を交し合った。
 たてついても無駄なことを悟っていた。
 一人になりたくなって倉庫へ向かった。バックヤードを抜けて廊下へ出ようとすると、倉田栞と出くわす。倉田は目を逸らすと足早に横を通り抜けようとする。
「目を逸らすくらいなら最初からやるな!」
 倉田は立ち止まらず、店内に逃げていく。足元にある雑誌の束を蹴りつける。
 自分の意識が、自分から倒れ落ちそうになる。かすれた世界の中で心音だけが確かになり、あやふやな呼吸をしなから眼球の裏側、脳との隙間に熱い液体が溜まっていく。いまの姿を誰にも見られたくないと感じた。いま俺は頭を軽くはたかれただけで涙をこぼしてしまうだろう。
 倉庫に入る。急激に徒労感が襲ってきて、薄暗い照明の下、ダンボールに腰かける。DVDの山が正面にあって、全部踏み潰す空想をしてみたが、実行するには子どもじみている。
 ダンボールが衝撃で揺れた。誰かが蹴ったのだ。芯に血が上って振り向くと靖之が笑っていた。両手に缶コーヒーを持っている。
「おごるって言ったろ?」
「驚かすな」
 怒りが勝っていた。口調へにじんでいた。
 靖之のやわらかな苦笑に、億劫だが受け取って、プルタプを立てる。一口すすった。甘い。
「辞めないでよ」
「靖之」
「辞めたら由加とケンの漫才が見られなくなるよ」
「……そんな理由かよ」
 苦笑で頬が緩む。どんなに強張っていたかわかった。
「由加のためにも、ね」
 責任を感じるだろうな。きっと。靖之の予想通り。
「今日、午後講義だろ。早く行けよ」

 井川さんと久しぶりに会った。飲み会は底抜けにはしゃいだあと、夜風に当たった。
「……お前、なにやったんだ? 揉めるなって言ったろ?」
「揉めたわけじゃないよ」
 この数週間にあったことを話した。
「そんなんで得意になっていい気持ちだったか? 鼻っ柱折って、そりゃあバイトは気楽だからな!」
 井川さんは酒が入っているせいか、大声になっていく。
「この職場にいる以上、あのワガママ姫には逆らえないんだよ。小宮さんだって、たかがバイトで自分の心象悪くできないだろ。女房だって子どもだっているんだぜ?」
 黙っていると、井川さんはゆっくりとため息をついた。
「わかってもらえると思ったんだろ?」
 井川さんは目と口の端を歪め、言い捨てる。
「バカだよお前は」

 なにかが頭の上までたまっていた。
 すぐ限界になって衝動があふれた。
 無闇にそこら中のものを壊したくなる。
 まるで苦行僧のように通勤する。耐えることがなににも繋がらないのは自明なのに。一日の大半を倉庫で過ごすことが多くなった。渇いている。いつも焦熱にさらされている。薄闇の中で思い描くのは、倉田栞の折れそうな身体。組み敷いて甘い声を響かせる。気だるい夢想の中で、曜日も時間も感覚が緩くなっていく。相手の悪意に負けたくない意地だけが、憎しみを伴って無為を支えている。
「ケン、優しすぎるよ。由加のせいでさ……」
 倉庫で精神の磨耗に耐える俺へ、やってきた由加が泣き声で言った。
「由加のせいじゃない」
「でも」
「由加には関係のない話だよ」
 由加は小声になる。赤い目をしている。
「辞める……の?」
「……」
「由加のためにも、いてよ……」
 由加が顔を伏せる。泣く必要なんてないんだ。そう言って手を伸ばそうとした。不意に扉が開いて、わざとらしい真顔の倉田が真っ直ぐ歩いてくる。DVDの置き場を目指して。
 由加が倉田を認めて、咄嗟になにか言おうとするのがわかった。腕を握って止める。罵声か非難か。どちらにせよ意味はない。悔しそうな由加を目顔でなだめて、黙々とDVDを抜き取っていく倉田を眺める。
「アンタの期待通り、俺はいなくなる」
 衣擦れと足音だけが届く。
「でも、できればこんな目にあわせるのは俺で最後にしてくれないか?」
 俺はどんな眼をしていたのだろう。底光りするような欲望の眼だろうか。やがてドアが開閉し、何事もなかったかのような静寂が生まれた。
「……俺の役割は、ここにはないな」
 由加にではなく、つぶやく。

 翌朝、店長に店を辞めたいと伝えた。小宮店長は悪びれず俺の辞意を了承した。引きとめはもちろんない。今すぐにでも、という皮肉のような希望も叶えられて即日で退社が決定する。みんなに軽く挨拶をして、冗談を置き土産にする。木村さんには謝られてしまって、返って罪悪感があった。
 由加はバックヤードで帳簿の整理をしていて、壁際で席につきペンを動かしていた。近づくと背を向けたまま声をかけてくる。
「挨拶は終わったの?」
「……あとは由加だけ。いない人にはメールでもするよ」
「……」
 由加はそのままペンを動かし続けている。急にペンを置くと足元にある紙袋から小箱を取り出して掲げてみせた。
「ほら、グラス届いたんだよ」
 一瞬髪が揺れて、横顔がのぞく。でもどんな表情をしているのかはわからない。机の上にペアグラスの小箱を置くと、由加はマジックを手にした。陰でマジックが鳴って、キャップが勢いよく閉じられる。袋に戻すと、後ろ手で差し出してくる。
「センベツ」
「お前が欲しいって……」
「いいからあげる」
 有無を言わせない迫力があって、受け取る。
「ゴメンな由加。ただでさえつらいときだろ。なのにバイトでもゴタゴタにつき合わせちゃって」
「ああ、あれ? オトコなら新しいのができたからもう平気」
 ペンが再び動き始める。俺は由加の言い回しが強気でうれしくなった。由加には強気が似合う。泣かない別れがいい。もう一歩寄って頭をなでる。
「痛いよ」
「由加がいてくれて本当に楽しかった」

 休憩室でエプロンと名札を外し、ロッカーの鍵もまとめて事務机に置いた。店長が回収するだろう。
「ケン、辞めるって」
 靖之が部屋に飛び込んできた。
「あれ講義は?」
「駅からトンボ返りだよ。電話で聞いて。次は決まってるの?」
「いや。でもここにしがみつく理由もない」
 靖之が静かに苦笑したあと、目つきを引き締めた。
「由加と、付き合うことになったよ」
 予想外な台詞が、由加の言葉とかみ合ってさらに驚きを呼ぶ。
「新しいの、ってお前か」
「なにそれ。由加がそう言ってたの?」
「そ」
 靖之は困ったように笑う。
「ケンには俺から言おうって思ってたんだ」
「……どうしてだ?」
「どうしても」
 駅までの同行を誘うが、由加と話していくから、と靖之は休憩室を出て行った。

 店内の隅を通って自動ドアを抜ける。冷気に慣らされた体が心地よさどころか、息苦しさを覚えて道のりの厳しさを予感させる。
 この場所に来るのは最後かもしれない。そう考えると立ち去れなくて、足が止まる。スニーカーへ皮肉に笑いかけ、左手につかんだ紙袋の存在を思い出す。
 そういえば由加はなにか書いていた。つかみ出す。
『ふたりで使いたかったよ』
 マジックの丸い文字で。
 なんにも。なんにもわかっていなかったのは、俺の方なんだな。
 本当にここで3年も過ごしたのだろうか。
 振り返る。
 夏の日を浴びて、店は蜃気楼のように揺らいで見えた。

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