BITTER HEART

KENSEI

 Tシャツが濡れて背中にはりついていた。額に流れつづける汗が唇へ届き手の甲でぬぐう。目のまわりにたまった汗が鬱陶しくて袖でこする。腕も汗が薄くはって光っている。オレはトイレに行った後みたいに手を振り払った。汗が、わきのしたで動いた。いくらでもまたわいてでてくる。
 まだ東の空にある太陽がオレの身体を全部そめていた。夢中で足を出しているだけだ。陽光が肩からオレを押しつぶしてくる。木陰に差しかかると自分の熱さがわかった。
「ラスト1周ー! がんばってー!」
 小笠原の声がして、オレはそっちを見た。女子が一周短くランニングを終え、休憩している。金網越しオレは小笠原におどけて「アイーン」をしてみせた。小笠原と横にいた数人の女子が笑うのを見てオレは体制を直す。
「門倉! 真面目に走れ!」
 校門の前に立つ顧問の池上から怒声が飛んできた。あとで小言は間違いない。オレは前方を走る上級生の集団を見て、ふと振りかえり自分の順位を確認する。洋二がオレの次を走っていた。洋二は静かに走っていた。小笠原は声援を投げるかと思ったが、穏やかに笑っていた。オレはなぜかその光景がひっかかって首を正面に戻してからもずっと思い浮かべていた。太陽がまぶしくて白く消えてしまっても、おぼろげな輪郭だけはずっと焼きついていた。

 オレたちバスケ部は山間の町へ合宿に来ていた。大会前のレベルアップを図る、と池上は通達しているが、「県立の、弱小部が多少の合宿で強くなるかよ」とは先輩たちの言葉だ。そうは言っても恒例行事は取りやめられないらしい。夏休みを4日もつぶして練習ばかりの毎日。でも体育館を時間で交代したり、分けたりしないで、長い時間占領できるのは楽しい。うれしいことに公式のリングもきちんと用意されていた。
 宿舎は小学校を借りている。昨日着いたとき、教室に2段ベッドが並んでいるのにはびっくりした。過疎化した小学校を格安で提供してくれるのだそうだ。食事は役場の人が用意してくれるのだが、まるっきり給食の味がした。中学を卒業してまだ4ヶ月しかたっていないのに、不思議となつかしい。そのあと出身中学の給食が話題になって洋二が「給食に納豆が出た」と発言してオレたちを驚かせた。オレはそんな給食信じられなかった。みんなそうだったが洋二は最後まで真実だと主張していた。朝食前の6キロマラソンは顧問の強いこだわりで実施されているそうだ。もしかしてこれをやらせたいために合宿をやっているんじゃないかというほどに。今日も6時起きで走らされた。小学校と付近を囲む道を一周するとちょうど1.5キロ。4周すれば終わる。普段より長めの距離なのでキツイことはキツイがうんざりするほどではなかった。
 オレはラストの1周を走り切り、そのままのスピードで池上の脇をすり抜ける。小学校の校門をくぐった。ゴールした先輩たちが座っている。止まれ、と池上が制止したが説教など退屈だった。水飲み場まで駆けて行く。水飲み場は校舎と体育館の間にある。校庭を突っ切って水飲み場へたどりつくと、蛇口を全開にして頭をつっこんだ。大笑いしてしまうほど気持ちが良い。オレは頭を引き抜いて激しく振った。しずくが地面に跳ぶ。黒い点がいくつもできる。洋二が続けてやってくる。吐き出される水に頭をつけて指で掻きまわしたあと、顔を上げて言った。
「池上、メシ食う前に来いって」
「じゃあさっさとメシくって、練習始めちゃおうぜ」
 オレはにやりと笑ってみせ、蛇口を締めた。

 バスケの練習自体はあまり普段の部活と変わらない。熱気のこもった体育館も、鳴るバッシュも。雑巾がけ。ウォームアップ。シュート練習。池上もメニューを部長に任せて見ているだけだった。
「リバウンド!」
 部長がシュートを放つ。俺は強引に身体をねじこんで先輩をスクリーンアウトする。シュートは外れる。ジャンプ。両手にボールをつかんで、着地する。
「次!」
 オレと先輩がコートから出て、洋二と別の先輩がゴール下に立つ。部長がシュートする。外れる。洋二はボールの行方を察知して、素早い動きで2年生より先にボールに跳びつく。こうして部長がわざと外すシュートを2人1組で競い合って取っていく。洋二たちもコートから出てくる。
「お前も芦田も、いい動きしてるよ。このままじゃヤバイかもなー」
 オレと洋二が並ぶと、オレと争った2年の先輩がにこやかに話しかけてきた。
「お前ら中学からバスケやってたんだっけ? 同じ中学だよな」
「同じです」
 オレと洋二は視線を交わした。洋二のアシストでオレは随分得点を稼いでいた。
「そういや、なんでバスケ始めたんだ?」
「スラムダンク読んで感動したんですよ」
「門倉らしー、そのまんまだな」
 オレが答えると、先輩に笑われた。
「俺はNBAですね」
 洋二はそう答えた。なんども聞かされている。
「俺が小学生のころ、来日したNBAのゲーム観てバスケ始めたんです。マジックとネッツのゲーム」
 洋二は黒いリストウォッチをいつも身につけている。その試合で感動して買ったのだという。お守りみたいに大事にしていた。部活のときは外しているが、普段は片時も離さない。
「今もファンなのか?」
「マジック好きですね」
「今年ヒルが行くんだもんなー」
 先輩もNBAに詳しいらしい。洋二としばらく話が盛り上がっていた。
「新司もNBA見に行こうよ」
 急に話がオレに来て、オレは流した。
「オレはジョーダンとブルズくらいしかわかんねえからな」
「シャックのプレイなんか、新司見たら絶対気に入ると思うんだけどな」
「シャックって?」
「シャキール・オニール。レイカースのスターだよ。得点王」
「次!」
 部長の声が轟いた。オレは2回目の競争にコートへと歩いた。
 内容はいつもと大して変わらないが、「唯一の利点はコートが2面とれ、男子、女子、ともに試合形式の練習が重点的に行えること」というのは洋二の感想だ。午前の基礎練習が終わると、午後は実践形式の練習に終始した。紅白にわかれ5分交替でコートに入る。5分全力でプレイする。15分ごとに自分の出番が回ってくる。疲れても集中する訓練になる。オレは1回目のプレイを終えてコートを出た。その場に腰をおろして呼吸を整えた。あぐらをかき、手を背中の後ろに置き、頭を後ろに倒した。床と肌の間に汗の膜を感じた。そのまま酸素が充分になるまでじっとしている。ショートカットが逆さまになっていて、背後に座っているのが小笠原だと気づいた。女子側のコートで観戦をしているのだろう。俺は肺の余力ができたところで小笠原に話しかけた。
「どうでしょうこの試合、掛布さん」
「そーですね、って掛布のものまねなんてできないよっ!」
 小笠原がなぜかオレと同じように首を真後ろに倒して返してくる。不思議な角度で目があって、それだけで楽しい。
「そうか? お前と掛布似てるぜ」
「どこがぁ!」
 小笠原がいきなりむきになって問い返してくる。素直なやつだ。
「目が二つで鼻が一つで口が一つ」
「……お笑い目指すならもっとドクソウテキなこと言わなきゃ」
「目指してねーよ!」
 オレと小笠原は笑った。小笠原とは入部したころからこんなやり取りを続けていた。
「お笑いねー。ならツッコミは洋二でコンビでも組むかな」
 交替のホイッスルが響いた。男子のコートの目をやると、噂の洋二がコートを出てこっちに歩いてくる。オレたちは洋二をずっと目で追っていたようだ。息が荒いまま洋二はオレに問いかけてきた。
「……どうしたの?」
「よう相棒。漫才コンビでも結成するか?」
「え?」
 唐突な申し出に洋二が戸惑う。でもノリも回転も悪くない。オレは立ちあがって洋二の横に並ぶ。にこやかに微笑む。洋二もぎこちなく笑顔をつくる。
「どもー、シンジでーす」
「ヨージです」
「二人合わせて、シンジーズでーす!」
 オレが力強く紹介する。
「え、俺の立場は?」
 洋二があわてて真顔の指摘をする。こういう細かいところが洋二の特徴だった。周りにいる先輩たちも笑っていた。小笠原は口元を押さえて上品に笑っている。らしくない。そう感じた。
「門倉! 芦田! 休むときはしっかり休め!」
 池上が怒鳴って、オレと洋二は顔を見合わせて、苦笑した。

 視聴覚室が談話室として、カーペットが敷かれ、靴を脱いで使えるようになっている。練習はいつもとあまり変わらない。悪趣味なのは練習後。
「よし、じゃあな、いまから大富豪やるからな。大貧民は好きな女、もしくは好みのタイプを言うんだぞ。好みはウチの部活の女な。それと好きなワケ」
 部長がそう宣言する。夕食、シャワーと終えたオレたちをいきなり呼集し、カードを切りながら。
 1年生の7人が部屋の真ん中に輪をつくって座らされ、2・3年生が包囲して見物している。オレは洋二を見た。洋二もオレを見ていた。アイコンタクトだ。オレたち二人だけは生き残る。誰を犠牲にしても。事実オレたちだけは1回も最下位に落ちることなくゲームは終わった。落ちそうなときは自分を犠牲にして助けた。すると不思議なもので二人とも上位に上がれたりする。一度大貧民に落ちてしまったガードの長崎は悲惨で、連続して5人も好みのタイプを挙げさせられた。おかげですっかり傾向が知れ渡って、明日からからかわれるに決まっていた。全部で10回ゲームが行われて、長崎もそうだが、好みのタイプに挙げられるのは小笠原が1位だった。理由は「かわいい」。そんなの理由じゃないと部長は文句を言ったが、「胸」と答えたセンターの田中より上品であるには違いない。洋二はゲーム中ずっとつらそうだった。神経質なのは洋二の性格だ。
 一応消灯の時間になって、解散になった。各自割り振られた部屋に戻るが、そのまま寝たりはしない。別にいつまで夜更かししようと顧問は何も言わなかった。無理やりたたき起こされ、走らされるだけだ。オレはトイレに寄ろうと廊下を歩いた。トイレから出て電気を消した。ふと体育館へ続く渡り廊下を見る。月明かりに照らされて誰かが一人で手すりにもたれている。オレは誰だろうと近づいて行った。洋二だった。足音が届いたのか、洋二がこちらへ顔を向けた。
「どうしたんだよ」
 オレは声をかけ、すぐそばの手すりに寄りかかる。するとそこから見える窓が、ちょうど女子部員たちが泊まっている教室の一つだと気づいた。カーテンは引かれ、明かりは消えている。だがきっと男と同じだ。寝てはいないだろう。
「こんなとこでなにしてんだ、洋二」
 洋二は苦笑したようだった。
「なんでだろ。夜だからかな。こんな合宿ってときだからかな?」
「なんだよ」
「それとも、刺激受けたからかな?」
 洋二は一度窓を見上げたあと、オレを真っ直ぐに見つめた。闇の中、洋二の両目が月光を受けて輝いていた。
「俺……新司には言っとく。俺小笠原のこと好きだ」
「小笠原?」
 バカみたいに繰り返したオレは、なぜだか笑いがもれて抑えることができなかった。身体がよれる。
「新司!」
「ゴメン。なんか現実感わかなくて。オレ、そーいうのわかんないし」
 洋二がうつむいた。月明かりでなければ真っ赤になっているのがわかるだろう。
「よし。オレ協力するよ。小笠原と橋渡ししてやる!」
「いいよ!」
 洋二があわてて拒否した。怖がってるみたいに。オレは真剣にわからなくて聞いた。
「なんで?」
「片想いでいいんだよ。俺が好きなんだから、小笠原の気持ちは関係無いんだ」
「なんだそれ」
 オレは洋二が臆病に思えて仕方なかった。本当にそうなのだろうし、そういう繊細なところが洋二のおもしろさを産み出していた。オレは出来の悪い弟でもできた気分になってうなずいた。
「わかったよ。小笠原には言わない」
 洋二が安心したようで息を吐いた。オレは心の中では勝手に進めてやろうと勝手に決めていたのだった。

 翌朝、空は不安定で、風も強く、雨が飛んできたかと思えばやんだ。顧問は恒例のマラソンをあきらめて室内の練習に重点を置いた。体育館を目一杯使ってランニングをし、身体をほぐしたあと、スクワットを飽きるまでやらされる。朝食の時間になって雨はやんだが、池上はもう一度マラソンをやろうとまでは言い出さなかった。単に出かける用事があったからかもしれない。壁際で休憩していたオレは、排気音がしたので開け放たれた体育館の扉から首を出してみた。すると池上が車に乗り込み、そのまま校門を出て行くのが見える。小笠原がやってきてオレに聞く。
「どうしたの?」
「さあ?」
 オレが首をかしげたそのとき、渡り廊下を部長が走ってきた。扉の内側に立っていたオレと小笠原は部長のために道を空けたが、部長は入り口で立ち止まった。
「ちょうどいいとこにいた。お前ら」
 部長は封筒をジャージのポケットから引きぬいた。
「池上、最後の昼は町長に呼ばれて一緒にメシ食うんだ。毎年恒例。チャンスだ。お前ら、ちょっと買い出し行って来い。酒と、花火」
「え、だって酒なんて、いいんですか?」
「お前らしくねえな門倉。今日で合宿最後の夜だぞ。明日の昼にはここを出ちまうんだぞ。楽しまないでどうすんだよ!」
 部長のまぶしい笑顔にオレはこのバスケ部が弱い理由を納得した。もちろん大騒ぎが嫌いなわけがない。部長は封筒を小笠原に渡す。
「いいか、絶対池上に見つかるなよ。酒は氷と一緒に、オレのベッドの下に、クーラーボックスがあるから、そこに入れとけ!」
 ミッション:インポッシブルを受けた気分でオレは小笠原の横顔を眺める。
 2つ、任務があった。1つは買い出し。もう1つは洋二だ。
 マラソンコースを、途中自動販売機のある脇道で右に折れて、坂道を下ったところに酒も売っているコンビニがある。部長の説明は簡潔だった。ジャージを着て、念のため時計と財布を持って、オレは小笠原と小学校を出た。

「小笠原ってさ、好きなやつとかいないのか?」
 県道はきちんと舗装された車道だが、自動車の通る気配はない。道の両側は林で、蝉がおたがい音量を競い合うように鳴いていた。雲が高く積まれた空で太陽は、隠れて隙間から暑さを送り続けている。
「なんで?」
「いや、昨日の夜みんなで好きな人の話になってさ。女子もそうだったのかなーって」
 オレは車道の真ん中。白線を踏みながら歩く。小笠原は道路の端。自動販売機が右手に見えてきた。ガードレールがない部分があるので、そこが坂になっているのだろう。
「門倉は?」
 小笠原は問い返してきた。口の端をすこし曲げた笑みで。
「オレ? オレはいない」
「うそ」
「本当だ」
 本当のことだった。そんな気持ちになったことなんて、覚えがなかった。
「そんなの! それじゃわたしだって教えてあげないよー」
 小笠原は笑い声を残すと走り出し、オレの前を横切って県道を右に折れた。そのままの勢いで坂道へ消えて行く。悲鳴とも歓声ともつかない叫びをあげながら。オレは驚いて後を追った。なにしてんだ! 坂道は急だった。途中で直角に折れ曲がっている。足が坂道に追いつかず勝手に回転する。バランスを崩したら転ぶ。そのまま林に跳びこむことになる。小笠原の楽しげな「ヤッホー」という声。オレは必死でカーブを切りぬける。すぐ正面が広場になる。小笠原が手を胸元で振って立っている。
「ホントにいないんだから仕方ないだろー!」
 オレはスピードを、ひざをたわめて落としながら小笠原の前に立った。そのままとっさに手首をつかんで引き寄せる。別にあわてて追いかける必要なんか無いのに、反射的に追ってしまったオレは自分でもよくわからず興奮していた。リストウオッチの堅い感触。オレがこめている握力の強さを感じさせた。
「いるのかいないのかだけでも教えろよ」
「……いるよ」
 小笠原は困ったように微笑んだ。斜め下からオレをうかがう小笠原に責められているような気がした。胸を苦しいものが満たした。それは試合で味わうような、酸素を求めるような苦しさじゃなかった。どこにも逃げようのない、同時に逃げたしてしまいたくなるような苦しさだった。小笠原に好きな人がいる。オレは力が入らなくなって小笠原を放した。小笠原がうつむいた。揺れる細い手首に黒いリストウオッチ。重すぎてぶら下がっているようにも見えた。小笠原はそのままコンビニに入っていった。
 オレは小笠原が荷物を持ってほしい、と現れるまで、そこに立ち尽くしていた。

「おまけしてもらっちゃった!」
 坂の中ほどにきて、小笠原が自分のビニール袋から「試飲用」と書かれた箱を取り出す。オレは小笠原のいつもの調子に反応できなかった。小笠原は気にせず話を続ける。
「門倉ってお酒、強いの、弱いの?」
「……酒なんて飲んだことないからな」
「ウソー! こどもっ!」
「お前あんのかよ!」
 こども、という言葉でこめかみが沸騰したみたいに熱くなる。冗談じゃない。
「あるよー。当然」
 小笠原は目を見開いて余裕の笑みを浮かべた。オレは本気で悔しかった。さっきまでのことはすべて頭から消えていた。
「そうだ! これ飲んでみれば!」
 小笠原は立ち止まるとビニール袋を下ろした。「試飲用」と書かれた箱をもう一度取り出す。フタを開けるとビールの小さな缶が6本入っていた。オレはそのアイディアに視野が拓けた気分になる。
「飲んだことないなんて言ったらみんなからバカにされるよ」
「そうか。そうだな。よーし」
 オレは荷物を地面に下ろして、小笠原から缶を1本受け取る。小笠原がオレを笑って見つめていた。なにかをたくらんでるような、プレゼントを待ってるような、いたずらっこの瞳だ。小笠原のいつもの顔だった。
 オレは舌なめずりすると、一口だけおそるおそるすすりこむ。口中に苦い泡がまとわりつく。ねばついた不快な味が奥歯を腐らせるみたいに広がる。オレは吐き出したくなるのをこらえて必死に飲み下した。
「マズッ!」
「すごい顔してる。こっちまで移る」
 見ると小笠原もしかめ面をしている。
「もっと一気に飲まなきゃおいしくないよ」
「こんなの人間の飲み物じゃねーよ。ポカリで充分だ」
「でも開けちゃったし」
「オレもう飲みたくねぇ」
 小笠原は仕方ないなあとつぶやいて、オレの手から缶を奪った。唇を飲み口に当てると、下あごをそらせて缶を返す。一瞬で中身は空になったらしい。
「ハイ」
 口元をぬぐいながら、小笠原は空き缶をオレに突きつけた。
「渡されても困るんだけど」
「ゴミくらい自分で始末してよ」
 オレは受け取ると右手に持ち、残りの指でビニール袋を引っ掛けた。荷物を持ちなおして再び歩き出す。
「大人の味だからね。門倉にはムリだったか」
「ババアになるよりマシですけどね。歳とってんだな、小笠原は」
 小笠原が振りまわすビニール袋を軽く避けて、オレは小走りで十歩分先へ進んだ。この缶を洋二にあげたら喜ぶんだろうかとつまらないことを考えて、次に思い浮かぶのは小笠原の唇だった。小笠原がビールを流しこむ瞬間の画像だった。反り返ったあごから胸までのライン。ゆるやかなライン。
「どうしたの?」
 小笠原が急に黙り込んだオレに声をかけてきた。オレは小笠原を見た。画像が小笠原と重なった。全部の中心みたいに迫ってくる。
「あ、まさか間接キスとか気にしてんの? かわいー」
「そんなんじゃねえよ!」
 オレはあわてて顔をそむけて、すこし離れたところにある坂の上、自動販売機のゴミ箱を見た。シュートの要領で缶を構えると、集中して缶を放った。高いアーチを描いて楕円形の穴へきれいに収まる。
「3ポイント、GETだ」
 まだ大丈夫だ。オレはなぜかそう思った。

 午後の練習は完全な紅白戦だった。アルコールのせいではないだろうがオレは不調で、満足な動きが一つもできなかった。空回りしている。力が入りすぎている。
 練習が済んで、夕食、シャワーといつもの活動が続いた。ただ今夜はこの後花火が待っている。池上も花火は容認していて、後始末をきちんとするように、という訓示だけで許可があった。きっと恒例行事で誰も止められないだけだろうが。
 男女合同で花火が始まった。みんなが私服姿で集まった。まず打ち上げ花火が行われた。部長が代表して火をつける。みんなが部長と花火を輪になって見物する。洋二と一緒に輪へ加わった。オレは小笠原のことが気になって、視界を探した。小笠原は輪の反対側に立っていた。小笠原はあっけなくなく終わってしまう花火や、火をつけたはずなのに発射しないので部長が恐る恐るにじりよる様子を笑って見物していた。不意にこちらを見た。目が合って微笑む。オレは洋二を横目で確認する。洋二も小笠原を盗み見ている。見ては視線を逸らしている。花火を見るフェイクをしている。
 各自に花火が配られた。思い思いに2・3本抜き取ると火がつけられる。隣へ隣へと次々火が移されて、校庭を瞬く間に煙が埋め、赤やら緑やらが淡く浮かび上がる。オレは洋二から火をわけてもらい、ハンズアップすると洋二に声をかける。二人で周辺を走り回った。クロスステップをすると笑い声が届いた。小笠原も笑っていた。そういえばオレは小笠原が笑うのが好きだった。いつも当たり前に笑ってくれるのを大切に感じていた。
 なんでこんな気分になるんだろう。
 オレは並んで走る洋二を一瞥した。花火に照らされている洋二のリストウォッチに気づいた。そうだ。オレはあのときから知らされていたんだ。オレは花火が燃え尽きても校庭の外れを目指した。みんなから離れた場所を目指した。
「新司! どこまで行くんだよ!」
 ついてきてくれる洋二がそう言って、オレは立ち止まった。遠目に人の輪が小さくなっているのがわかった。みんなは線香花火を始めたようだ。しゃがんだ連中。見物する連中。あのかすかな火花がどこまでも続いていくやつもいる。洋二のように。そして、すぐに落ちてしまうやつもいる。
「……洋二、そのリストウォッチって」
 オレは洋二に聞いた。
「そのリストウォッチ、どこでも売ってるのか?」
「うーん。別にレア物ってわけじゃないけど、どうだろう。古いからね。難しいんじゃないかな。どうして? 新司もNBAに興味でてきたの?」
 洋二がうれしそうに言う。
「……消灯時間過ぎたら、昨日の渡り廊下で」
 オレは洋二にそう言い残した。一足先に輪の中へ紛れるために。

 小笠原はすぐに見つかった。オレはいつでもすぐに小笠原を見つけることができた。1年生の女子と3人で線香花火をしている。オレは素早くしゃがんでいる小笠原のそばに屈み、いきなり人差し指で小笠原の花火を持つ手をついた。
「あっ」
 と小笠原が落ちた火花の行方を地面に穴を空けるくらい見つめた。ほかの女子も呆気にとられている。オレは歯を出して笑ってみせた。
「ドクソウテキだろ?」
「独創的じゃないよ! こどもっぽいことしない!」
 小笠原が立ちあがる。頬をふくらませて。オレは逃げた。小笠原が追いかけてくることはわかっていた。そうやって許してくれる小笠原をずっと特別に感じていた。小笠原もそうだろうと心の底で信じていた。オレは校舎と体育館の間へ小笠原を誘導していく。渡り廊下の手すりに外側からつかまると、オレは手すりの上に反転して腰をかけた。小笠原がすぐに追いついて、仁王立ちでオレの前に立ちふさがる。
「なんか、いつもよりこどもだよ。今日は」
「悪い悪い」
 口を尖らせる小笠原を、かわいい、と思った。オレも部長に文句を言われそうだ。小笠原がまた表情をかえて、オレをからかうように、見守るように、微笑みかけてくる。オレは小笠原の手首をちらりと見た。その手首にリストウォッチがないことでオレは逆に確信を深めていた。
「なあ、昼間時計してたよな。あれ、NBAのだろ?」
「あ。あれ? うん。NBA好きなんだ」
「部活のときは外すからな。知らなかったな。あんな時計してたんだ」
「うん。いとこのお兄ちゃんにもらったんだ」
「あれってマジックのやつだろ? シャキール・オニールのいる」
「すごーい。門倉NBA詳しいんだね」
「ああ。まあね」
 オレは素っ気無く返した。内心の揺らぎを表にあふれさせないためだ。
 そしてこんなにも小笠原をかけがえなく想っていることをだ。
「……な、小笠原。もし、オレに好きなやつができたとしら、知りたい?」
 口にしてしまった。なぜか。口にしてから驚いた。
「うん」
 オレはつばをのんで、その音が大きくて驚いた。鼓動が早まっていた。サイドライン際、ドリブルして速攻をかけるみたいに。
「じゃあもし、もし……」
 もしオレが好きなのが小笠原だとしたらどうする?
「オレが……」
 今度こそは本当に息が苦しかった。けど酸素なんかいくら吸っても無駄だった。オレの胸を満たしてくれるのはきっともっと別のものだった。オレは続いて出てくる言葉を歯をくいしばって止めた。
「新司!」
 洋二の声がした。全身の緊張がため息と一緒に解けていく。洋二の呼び声がオレのファウルを防いでくれたようだ。校舎の廊下へ目をやると、こちらへ向かって歩いてくる。
「どういうこと?」
 小笠原が細くなった声音で問いただしてくる。
「部長が探してたぞ! こんなとこ呼び出して!」
 新司がオレへ苦笑してみせて渡り廊下にやってきた。もう一人を見つけて動きを止めた。照らすのが太陽ではないとしても、好きな人の姿を見間違うはずはない。
「オーバー・タイム。オレが手配したんだよ。お前らじれったいから」
 二人はなんの反応もせず突っ立っている。オレは小笠原の方を向いた。
「昨日の夜、オレ、洋二から好きな人の名前聞いたんだ。絶対言うなって。でも、絶対言うなって言われたことを止められちゃいない」
 オレは洋二の方を向いた。
「オレ、今日買い出しにいったとき、小笠原が洋二と同じリストウォッチをつけてるの見た。部活のときは時計外してるから、知らなかったけど。洋二もそうだろうな」
 オレはまた小笠原の方を向いた。
「その時計、今じゃ手に入らないんだって。じゃあなんでNBAにドシロウトの小笠原がそんなウォッチつけてるんだ? かわいいとか? バカ言えよ。そんなゴツイの」
 オレは言葉を切った。小笠原が洋二を好きだからだ。下を向いた。腹に気合をためた。
「あとは勝手にやりな! じゃあな!」
 手すりから大きく飛び跳ねる。そのまま走り出す。

 オレは夜の県道を走った。湿った風が腕をなでてゆく。虫の音が迫るみたいに響いてくる。走った。酸素が無くなるまで。胸の苦しさがわからなくなるまで。

 そっと戸を開く。談話室にみんな集まり、酒を飲んでいた。男子も、女子も打ち解けてなごやかな雰囲気に満ちていた。熱気と匂いの中にオレは身体を滑りこませた。部長の呼集を聞き流すわけにはいかない。部屋の奥で部長はかなり赤い顔になっていた。
「よーどうした新司! どこいってたんだ! 待ってーたぜーえ!」
 部長が大笑いしながら立ちあがる。オレは曖昧にうなずく。
「飲め飲め!」
 部長はオレに抱きつき、缶を押しつけてきた。オレは水滴で滑りそうな缶ビールを受け取る。他の先輩たちが苦笑して部長を引き離してくれた。オレは軽く会釈して部屋を出た。何人かオレを呼びとめる声がした。無視して戸を閉めた。廊下を歩いた。誰とも顔をあわせたくなかった。オレはのどの渇きを感じて、ビールのプルタプに指をかけた。廊下にプルタプを立てる音が染み渡った。オレは口をつけると一気にのどの奥へビールを流しこんだ。炭酸の刺激がのどをうった。口をはなした。
「……苦いな」
 オレは目を閉じた。
 まぶたの下が熱くなった気がした。

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