7年おくれのクリスマス
KENSEI
 俺は従業員用の扉の脇に寄りかかかり、夜空を見ていた。凍りついた青い月が静謐な光をそそぎ、星は数えるほどしか瞬いていない。冬の夜空だった。手をポケットの中に突っ込んでいるが、しびれたように感覚は失せている。耳が、痛い。顔の皮膚が突っ張って動かせない。分厚いワークブーツの内側にも冷気は忍び込んできて、指先が寒い寒いと悲鳴をあげていた。
 でも、関係無かった。
 この胸の締めつけにくらべれば。
 朝までも待つつもりだった。
 店長が店じまいして、無人になった建物に、俺は奥歯を噛み締めるような孤独と一緒に突っ立っている。
 今年のクリスマスも、結局、後悔だけが募る。あの思い出と同じように、きっと。

 バイト先に新しい女の子が入ってきて、瞬く間に評判になった。「かわいい」って。
 初日にトレーニングをつきあった黒木が、思い出すたびに幸せそうな笑みを浮かべる。その笑顔の裏にはこんな推測があった。
「クリスマス要員だろ? 今の時期入ってくんの。当然イブはバイトだよ。だから彼氏はいないに違いない……」
「クリスマスにまにあったね。サンタさんありがとう」
 水谷が合いの手をいれた。俺はフライパンをおろしてアラビアータを皿に盛る。カウンター越しに握手している黒木と水谷の間に皿を置く。
「バカなことやってねーで、持ってけ」
 へーいへいと黒木が俺の置いた皿を運んで行った。水谷が隣に来て鍋を洗い出す。
「見た? ホールに入ったんだよ」
「そんなにかわいいの?」
「うん。みんなべた褒めだね。今日は休みみたいだけど」
 その日は女の子の噂で持ちきりだった。閉店後、休憩室でタバコを仲間とふかしていてもずっとその話は続いていた。主に黒木が芸能人では誰に似ているとか、どこらへんに住んでいるとか、学校はどこだとか披露して、俺を含めた5人のバイト(男子)がそれに聞き入るというのが続いていた。
「いいなー。そんなにかわいいなら狙わないと」
「俺だって負けないから。奥の手使うから」
「なに奥の手って」
「それをここで明かすわけにはいかないけど、落とすから」
「やれるもんならやってみー」
「……彼氏いるかもしれないだろ?」
 俺が白熱していた言い争いに水をかけた。すると一転場の空気が硬直する。しかし黒木が向きになって言い返してきた。
「いないって。絶対」
 俺もからかってみたくて言い返す。
「じゃあ賭けるか? 俺は彼氏がいるほうに賭ける。五千」
「いいさ。じゃあ俺はいない方」
「ねえ、いっそさ、落とした奴が全部もらえるってのは?」
 水谷の提案に再び場が硬直する。
「みんなさ、結構口では言うけど、俺も含めてあまり声とかかけないだろ。賭けて勢いでいったほうがいいと思うんだよね」
 全員がなんとはなしに納得したが、俺は水谷に聞いた。
「じゃあ俺の掛け金はどうなる?」
「お前は彼氏がいるか、全員がダメだったら総どりさ。親だね」
「ほー。いいアイディアだぜ」
 黒木が俺の方を見て言う。
「お前はあまり乗り気じゃなかったし、ちょうどいい。手を出すなよ」
 黒木はライバルを一人でも減らすためか、そう言ってきた。俺は釈然としなかったが仕方なく、うなずく。
「よし、みんないいな!」
「おっしゃあ」
 黒木の声に俺をのぞく4人の野太い声が続く。俺は半分苦笑して、ふと思いついて言った。
「なあ、俺まだその子の名前知らないんだけど」
「あれ? 言わなかったっけ? そうだ。お前と同じ市に住んでるよな。昔同じ学校だったりして」
「で? 名前は?」
「高宮ゆり」
「え?」
「高宮ゆりだよ。知ってんのかよ?」
「……まあな」

 俺はその時有頂天になっていた。憧れていた高宮ゆりの「クリスマス会」に出られる。机の中にあったクリスマスカードを大事にランドセルにしまった。高宮はモデルをするほど端正な顔立ちをしていて、クラス中の男子が憧れていた。当時12歳だった俺も例に漏れず高宮にのぼせ上がっていた一人だった。高宮はマンガに出てくる女の子みたいに高飛車で、今から思えば一番嫌いなタイプの子どもだったが、正面に立って瞳をのぞきこまれるとすべてを捧げてしまうような、熱くなって心が溶けて蒸発してしまいそうな、そんなかわいい女の子だったのだ。
 当日、喜び勇んで高宮の家に向かった。高宮家はさすがに人を呼んで「クリスマス会」を開こうと言うほどには大きい家だった。俺が玄関で高宮の母親に迎えられリビングに通されると、瞬間、ここは場違いな空間だ、と子ども心なりに察した。女の子は高宮の取り巻きばかり。男の子は、例えば学年一の秀才やらサッカー部のエースやら「目立つ」ことにかけては随一の連中がそろっていた。たかだか小学校の内のことで、と思うかもしれないが、小学校だからこそその差が絶望的に感じたのだ。少なくとも好きな人の前で、痛いほど劣等感を刺激するほどには。
 みんなが俺を見た。会の雰囲気を俺がすべてしぼませてしまったような、そんな気がした。なにも言えず立ち尽くしている俺を、高宮の母親が手を引いて空いているソファに座らせた。会はぎこちないながらに再開された。
 正直、それから後の会の進行について良く覚えていない。前後に起きたことが大きすぎたからだろう。会も半ばを過ぎた頃だろうか。俺はトイレに行きたくなって席を立った。高宮の母親に場所を聞いて用を足し、リビングに戻ろうとドアノブをつかんだ瞬間だった。
「ねえ、どうしてあんなやつ呼んだのよ、ゆり」
 部屋の中から高宮の取り巻きの一人がそう言うのが聞こえた。
「……あいつ、わたしのこと好きみたいだからからかってみたのよ」
 高宮がそう答えるのが聞こえる。
「入ってきてバカみたいに立ってたでしょ? レベルが違うって思い知ったんじゃないの?」
 高宮がそう続けて、みんなが大笑いした。俺は体が黒く熱いもので塗りつぶされてしまったように動けなくなって、震えが止まらなかった。胃が痛かった。胃液が膜を突き破るのではと疑うほど暴れている。
 俺はその場で踵を返すと玄関に直行した。靴を履きだした俺を高宮の母親が見とめて声をかけてきた。無視している俺に母親は高宮を呼びに行ったようだった。外に出て門を抜けたところで高宮に追いつかれたからだ。
 高宮は無邪気なふりをして俺の袖をつまんだ。
「どうしたの? お腹でもいたいの?」
 俺は振り向き高宮を見据えた。透きとおり潤んだ双眸が目の前にあった。ただ心は溶けなかった。かたくなに動かなかった。たしかに仮面はきれいだった。だがその下は……
「……」
 俺は口を開いた。舌がこわばり、歯がうまくかみ合わない。横隔膜が縦に痙攣し、荒く小刻みな息をなんども吐いた。
「え? なに? きこえないよ」
 俺は深呼吸して高宮をにらんだ。
「さわるなブス! お前を好きだ? オレが? こっちからおことわりだ!」
 腹の底から叫んだ。高宮の顔がショックで青ざめた。俺は走った。走って1秒でも早くベッドにもぐりこんで泣きたかった。
 次の日から俺は高宮を徹底的に無視した。もともと接点など皆無に等しかった俺と高宮はそれから言葉を交わすことなどなかった。中学になると高宮は名門の付属へ、俺は中高一貫教育の男子校へと進学し、その後の消息など知る由も無かった。

 次に高宮が来るのいつだか知っていれば、その日にバイトを入れはしなかったろう。だがすでに提出しているシフトに俺の名前があり、今日に限って水谷は遅れてくる。店長がキッチンに高宮を連れてやってきた。最初の1週間は一通りの仕事を体験するのだ。店長は機嫌悪そうに足元を見ている俺に目つきで注意しながら、キッチンの仕事のことを説明し、後は俺から習うようにと言い残してホールに戻って行った。
「高宮です。お願いしまーす」
 俺が元からこんな態度の人物なのだろうと、高宮は愛想よく挨拶した。俺はまともに顔を見もせず話を始める。
「まず今日は皿洗いからやってもらう。忙しくなったらキッチンのヘルプにも入って。もう一人が五時からくるから……」
 高宮が身を傾けて俺の顔をのぞきこんだ。
「あれえ? やっぱり……ほら、覚えてない? 小学校で一緒だった高宮。高宮ゆり」
「……」
「店長から名前聞いて、もしかしてって思ってたんだけど……」
 高宮の視線を感じた。甘い髪の匂いがした。少しだけ高宮の瞳を見た。透明で、濡れた瞳だった。俺は目を逸らして、胸に重い気体が満ちたように言葉を発する術をなくし、ため息をついた。
「ね。覚えてる? クリスマス会のときに……」
「忘れてた。ついさっきまで。思い出したくもない」
 俺は言い、高宮の顔が曇る。
「……ゴメン」
「俺、お前の顔を見るのも嫌なんだ。ただ仕事だからやってる。それ以外のおしゃべりは、他の奴とやってくれ」
 高宮はうなだれ、淡々と俺は手順や注意点を述べていった。だがその無表情の裏で高宮の傷ついた姿を見て、ほくそえんでいる俺がいたのは事実だった。同時にまたこの高宮の傷つき方も仮面なのではないか。そう邪推した。そうして自分はなんの非も無く俺が勝手に逃げ出しただけだと。そうした擬態なのではないかと疑った。
 無言のまま俺たちは仕事を続けた。高宮の皿を洗い積み重ねる音が、やけに静かに響く。俺はオーダーに応えて鍋やフライパンを振りながら、ひたすらに水谷が来るのを待ち続けた。俺はコンロに向かって、背後では高宮が皿洗い槽に向い背中合わせで仕事をしている。時々高宮がこちらを見ているような気がして、振り返りたい衝動に耐えながら、ペペロンチーニやツナとほうれん草のクリームソースを炒め続ける。皿を積む音が、皿を立て掛ける音に変わった。乾燥機に仕掛けているのだ。ふたを閉める音と、スイッチを入れる音。俺はできたパスタを盛り付け、ホール係の黒木に渡した。黒木は噂の高宮を鼻の下を伸ばして眺めていた。俺は持ち場に戻りフライパンを洗う。洗剤をつけて、スポンジで、こする。こする。俺は息詰まるほど待ちわびていた。何かを期待していた。水谷がやってくることだと俺は思っていた。時間は叫び声を上げたくなるほどゆっくりと過ぎた。
「ワリイ! 今日レポートの提出日でさ」
 水谷が調子良くキッチンに駆け込んできた。そのとき、俺は失望した。確かに失望したのだ。水谷が高宮に自己紹介して、高宮は微笑んだ。俺の存在を無視するように。横目で二人のやりとりを見ている自分に気づき、自嘲した。どうでもいいことではないか。俺はフライパンをこする腕に力をこめた。水谷がいつのまにか俺の背中にくっつくようにして話しかけてきた。
「二人きりだったんでしょ? なんか話した?」
「別に」
「なんで? みんな話したがってるのに?」
「中立を守っただけさ。賭けのな。キッチンの仕事、お前から教えてやれよ」
 俺はフライパンを水洗いし、水谷は小躍りするようなステップで高宮の前に戻って行った。水谷が高宮に説明しながらこちらにやってくる。俺は二人を避け、フライパンをコンロに戻し、皿洗い槽の方へ歩いて行く。腕をまくり、皿を洗い始める。あと30分ほどで店が混み始める時間だった。洗い物は終えておきたい。俺は乱暴に水音をさせながら皿を洗った。水谷の台詞に相槌をうち、笑う、高宮の声などかき消してしまいたかった。
 水谷の教え方は丁寧で、ツボを心得ていた。俺は感心して、同時に憎らしくなった。高宮は水谷と一緒に、徐々に入る注文をさばき始めた。高宮はどうやら飲みこみが早いらしく、軽快にオリーブ油とにんにくの奏でる音が届き、香りが漂う。俺は乾燥の済んだ皿を取りだし、洗った皿を乾燥機にかけた。乾いた皿をまとめて、コンロの脇にある棚に大きさ別に収めていく。何度か棚と乾燥機の前を往復して、目の前の棚がいっぱいになり横の棚に手を伸ばしたところで不意に誰かの手が皿にそえられた。俺は手の持ち主を見たと同時にまるで危険な電源に触れてしまったように皿を放した。皿が飛び散り砕けていく音が立て続けに広がった。どこか遠くで。俺は驚いた顔の高宮を見つめていた。手を出したのは高宮だった。
 店長が騒音を聞きつけて怒鳴りこんできた。
「何やってんだ!」
「すいません。今片付けます」
 俺はあわててかがみ、高宮も俺の隣にしゃがみこんだ。水谷が掃除用具を持ってきた。大きな破片を拾ってちり取りに投げ込む。高宮の白い指先が破片をつかむ。水谷がほうきを使いながら声をかける。
「大丈夫、高宮さん? おい、お前がいきなり放すから」
「ううん。わたしが悪いの」
 高宮が水谷に言った。俺は無言のまま次々と破片を拾った。痛みがはしる。右の掌が大きく切れていた。血がゆるやかにあふれる。
「あっ」
 とつぶやいたのは俺ではなく高宮だった。俺がなにをするよりも早く、ハンカチで俺の手を包んでいた。俺は思わず腕を引いた。
「いいよ」
「でも」
「いいかげんにしなよ」
 温厚な水谷がいさめた。
「お前、今日おかしいよ。いつも通りテキパキやろうよ。とにかく休憩室行って手当してこいよ」
「……ゴメン」
 俺は水谷に謝り、立ちあがり、ハンカチを押さえる。高宮も遅れて立ちあがった。
「俺、破片掃除しとくから高宮さん手当してやってよ」
「わかった。ごめんね。水谷くん」
 俺は一人でできると言いたかったが、これも水谷らしい配慮の一つなのだろうと思い至り反駁はしなかった。高宮と並んで休憩室に行って、救急箱の在り処を高宮に教えた。向き合って座り、俺が差し出した手を高宮が受けた。感心するほど柔らかい感触は心地よかった。俺はお決まりの消毒液に顔をしかめて、高宮は馴れた手つきで傷口の上にガーゼをテープで止めた。上から軍手をはめれば調理は可能だろうか。血が止まれば可能だな。俺がそう考えているあいだ高宮は両手で俺の手を包んでいた。そのことにやっと気づいた俺は急に心臓が踊りだし、高宮を初めて正面から見つめた。しかし、高宮はうつむいていた。
「ごめんね。わたし今日でバイトやめるから」
 泣いているのかもしれない。
「……今なら笑って冗談で済ましてくれるんじゃないかって、期待してたんだ」
 俺はなんだか居心地が悪くなって、手を自分の元に戻した。高宮の両手が降りる。
「ねえ、一言だけ聞いて。お願いだから。一言だけでいいから」
 高宮は顔を上げた。眼の端に少しだけ涙があふれていた。高宮はこんなにきれいになっていたのか。そしてこんな表情をする女の子だったろうか?
「あれは本気じゃなかったの。あなたと話してみたくて、カードを内緒で机に入れといたんだ。ただみんなにあなたのこと言われて、恥ずかしくて……そんなの、言い訳だってわかってる。でも、子どものころって、あるでしょ? そういうことって、あるでしょ?」
「一言なんて、とっくに過ぎてる」
 高宮の目が見開いて、閉じられた。
「俺からも、一言、いいか?」
 高宮が唇を噛み締めていた。
「バイト、やめるなよ。今日は俺のミスだ」
 高宮が再びまぶたを開け、瞬きする。俺はその瞳に吸いこまれそうな気持ちになる前に立ちあがり背を向けた。
 俺は先に厨房へ戻った。コンロで奮闘している水谷の横に立ち左手でフライパンを握る。水谷が軽く体当たりをしかけてきた。俺も押し返す。笑みを交わす。高宮がやってきて皿を洗い始める。そうして忙しいオーダーに追われながら閉店まで働いた。
 ラスト・オーダーを出し終え、厨房の掃除をしながら水谷は高宮に話し掛けていた。趣味の話、学校の話。そしてクリスマスの話。それはイコール恋人の有無を確認する誘導尋問でもあった。
「イブ、バイト入ってるの?」
「うん。閉店までね」
「予定とかないの?」
「……クリスマスは嫌いなんだ」
「なんで?」
「子どものころ、ひどいことをして、人を傷つけて、それからずっとそのことを思い出しちゃって」
「今年は? 今年もバイトだからブルーかな?」
「バイトだからじゃないけど……今年も無理みたい」
 俺もそうだ。心の中だけで俺はそっとつぶやいた。

 それから一週間。高宮は評判を上げ続けていた。えてして美人というものは同姓のやっかみの対象になりがちだが、むしろ一緒に仕事をしているホールの女の子たちが高宮を一番評価していた。たしかに彼女がホールにいる日は苦情や注文が滞ることが減っていた。店長も高宮の接客態度は完璧だとうなっている。俺はと言えば、カウンター越しに皿を渡すとき、おずおずと俺の顔色をうかがってくる高宮にいらだちを感じ、高宮のやわらかな手をつかんで引き寄せる空想をこらえながら、それでも何も言えずにいる自分に何よりいらだっていた。何を言うのか? まだ俺にもわからないことだった。
 キッチンで調理をしているときも気がつくと高宮のことを視界に探していた。無意識のうちに。それでいて高宮がこちらを見ると視線を外した。まるで中学生みたいだ。でも中学のころ回りは男ばかりだったので、良く思い起こせばこんな経験は無いのだ。
 高宮はごく自然に誰かを手助けする感覚を持った人間のようだった。黒木あたりが忙しくてなおざりにしていく仕事を、高宮が軽やかに手を貸し、整えていった。困っていそうだと手を差し伸べ、感謝されていた。そんな高宮を見ると俺はうれしくて暖かい気持ちになった。黒木はなおさら高宮にのめりこんでいるようだった。
 仕事が終わる。当然俺と高宮は同じ方向同じ電車に乗ることになる。俺はその事態を避けるため、いつもの休憩室での、黒木や水谷相手のバカ話をかなり長めに引き延ばしていた。今日もそうだったのだが、黒木がやけに興奮して高宮について品定め……男なら誰でもやる、スタイルやらもっと下品なことを……をやりはじめたので、俺はいい加減耐えられなくなり、早々に休憩室を出た。
 すると店の従業員口から出てすぐの、裏通りの電柱に、高宮が寄りかかっていた。白い息を夜空に吐きながら。星を見ているのだろうか。俺はその姿に一瞬見とれた。高宮が俺に気づき、少し意外そうな顔になりながらも、俺のほうに向き直った。
「今、帰り?」
「誰か……待ってるのか?」
 白い息だけが現れて、消える。俺は高宮の瞳を見つめたまま動けなくなった。白い息が現れて、消える。
「話、したくて」
「まさか俺を?」
 高宮は無言で微笑んだ。
 なんで、と聞きそうになって言葉を飲みこんだ。許して欲しいのだ。許して欲しいから。なぜかその言葉は強く引っかかった。高宮はきっと毎日ここで待っていたに違いなかった。
「風邪ひくぞ」
 俺はため息をついた。ため息も、白く消えて行く。
「ここまでされたら俺がつらいよ。もういいから。あのことなら気にしてないから。」
「そうじゃなくて」
「じゃあなんなんだよ。これ以上何を言って欲しいんだよ!」
 抑えることのできなかった言葉の激しさと、後味の悪さに、俺は胸がねじれるような気分だった。高宮は今度こそ本当に泣き出してしまったようで、すすり上げが届く。正視することができなくて、俺は月を仰いだ。明るい。星は見えない。冬の夜空だった。
「……」
「ずっとね、後悔してて。もう一度ここで会えてからも、怒られてばかりで」
「そっちが怒らすようなことするからだろ」
「わたしのこと嫌いなのはわかるけど……」
「別に嫌いなわけじゃ!」
 少しの間、沈黙があった。俺は視線を高宮に戻した。高宮は昂然と顔を上げる。
「……じゃあどうすればいいの? なんでいつも冷たいの? 許さないなら許さないって言って! 中途半端に優しくするから!」
 俺はいつのまにか高宮のことを抱きしめていた。甘い髪の匂いは、かすかにしかしなかった。頬にあたる髪が冷水のようにひんやりしている。俺は自分の行為に少し驚いたけれど、心は落ち着いていた。安らかだった。腕の中の高宮が震え出して、俺は身を離した。
「好きだからだ」
 ああ、そうだ。俺は高宮の肩に両手を置いて、高宮を見つめた。この瞳をのぞきこむと、吸いこまれそうになるんだ。涙なんか、流させたくないんだ。
「ゴメンな。いきなりこんなことして」
 高宮はかぶりを振った。
「高宮がそんなに苦しんでたなんて知らなくて。素直じゃなくて、ゴメンな」
 高宮は何度もかぶりを振った。俺はそのまま高宮が泣き止むまで待った。高宮は泣きながらいろいろなことを話した。俺が同窓会にずっと出ていないのを気にしていたこと。そして先月行なわれた同窓会で偶然俺がここで働いていることを知り、応募したこと。
「あのころ本当は、わたし、あなたのこと好きだった。だから」
「うん」
「わたしずっと人の気持ちがわかる人になりたいって。優しくなりたいって。そう思ってきた。あのクリスマスから。わたし、なれたかな? あなたに好きになってもらえる資格、できたかな?」
 俺はひどくいとおしくなって、高宮をゆっくりと抱きしめた。高宮もゆっくりと俺に体をあずけてきた。
「もしあのクリスマスが無かったら、俺はこうして君を好きにはならなかったかもしれない。だって、今の高宮はいないんだから」
「昔のわたしってそんなに嫌な子どもだった?」
「昔の俺が素直だったくらいには」
「そういうしゃべり方、あんまり変わってないよ」
 意外な反応に、俺は高宮から身を離して見つめた。高宮はこらえきれないといった様子で吹きだした。

 次の日から俺たちは一緒に帰るようになった。店のみんなには内緒で。恥ずかしいというのは共通の理由だった。たわいのないことを話した。まるで夢のようだと思った。高宮と一緒にいられるということが。
 厨房で仕事をしていても、ホールで働いている高宮と目が合うと、高宮は微笑み返してくれた。もうごまかす必要なんて無かった。
「クリスマスさあ」
 帰り道、俺は欲張りになったのか、高宮に提案した。高宮が俺を見た。
「イブは店十二時までだから無理だろうけど、クリスマスは十時までだろ? 終わったら、どこかへ行かない? 終電までさ」
「どこへ?」
「うーん。考えとく。高宮も考えといて」
「わかった」
 俺は殺風景な毎日が急に色づき出し、クリスマスの夜に何をするのかということばかり考えていた。いつもなら空き缶の一つも蹴りたくなるようなイブも、すべての恋人たちに祝福を与えたい気分だった。
 誰かを好きになるとき、想いが増していくのは、きっと相手のいいところ、優しいところ、さまざまに気づいていくからだろう。高宮はそんな日常のささいな思いやりにあふれた女の子だった。

 クリスマスを迎えて店は少し落ち着いた雰囲気だった。イブというヤマを越えたからだ。バイトが始まる前の休憩室もそんな調子を反映してか、みんないつもより出が遅い。俺はいつも早めに出てタバコを吸っている。仕事中は我慢しなくてはいけないので一服しているのだ。休憩室は喫煙所と化しているので高宮は寄りつかなかった。それはそれでごまかすための緊張をせずに済むのでありがたかった。
 ドアが開いたと思ったら、黒木だった。不機嫌そう重い足取りで休憩室にあがると、乱暴に荷物をおろし、中から封筒を取り出し俺によこす。
「お前の勝ちだ」
 一万円札が二枚入っていた。
「今日はクリスマスだ。誰も約束を勝ち取れなかった。親の総取りだ。昨日の夜、みんなから集めといた。お前は先に帰ってたからな」
 黒木は口惜しそうに、続ける。
「いやー。俺もがんばったんだぜ。告ったんだぜ。でも好きな人がいるって。あれは口実かな? それとも本当かな? 賭けに勝てば一石二鳥だったのにな」
 黒木も本気だったのだ。これはフェアじゃない。真実を告げなくては。
「黒木、俺……」
 金を返そうと俺が口を開いた瞬間、扉が開いた。
「賭けって何?」
 声にひかれてドアに目をやると、高宮が立ち尽くしていた。なぜ? 扉越しに聞いていたのだ。どうして? 俺と今夜の予定の話でもしたかったのか? そんな推測はどうでもいいことだ。
 青ざめた顔。感情を殺ぎ落としてしまったような声音に、俺は怖くなった。
 底光りする瞳で高宮はくりかえす。
「ねえ、賭けって何?」
「いいいや高宮さん……」
 黒木があせってどもる。
「高宮これは……」
 高宮が休憩室から飛び出る。ワークブーツをつっかけて追う。
 高宮は廊下に立ち背を向けたままうなだれて、妙に明るい声で言った。
「あなたのあのときの気持ちわかった。ゴメンね。本当にゴメンね。こんなにつらいんだね。当然だよね。ひどいよね、わたし」
「高宮?」
「……でも、もう二度と私に話しかけないで。絶対に」
 高宮は静かに言い捨て、廊下へと歩き出した。俺は追いすがってその横顔に訴える。
「高宮……賭けの話は君だって知らなかったんだ。昔の話なんて関係無い。俺は今の君が好きなんだ。時間が素敵にした君を」
 高宮は正面をにらんだまま走り出した。俺は立ち止まり背中に向かって大声で叫んだ。
「ゆり! 今夜待ってるから! ずっと待ってるから!」
 高宮が振り返ることは無かった。

 俺は従業員用の扉の脇に寄りかかかり、夜空を見ていた。凍りついた青い月が静謐な光をそそぎ、星は数えるほどしか瞬いていない。冬の夜空だった。手をポケットの中に突っ込んでいるが、しびれたように感覚は失せている。耳が、痛い。顔の皮膚が突っ張って動かせない。分厚いワークブーツの内側にも冷気は忍び込んできて、指先が寒い寒いと悲鳴をあげていた。
 でも、関係無かった。
 この胸の締めつけにくらべれば。
 朝までも待つつもりだった。
 店長が店じまいして、無人になった建物に、俺は奥歯を噛み締めるような孤独と一緒に突っ立っている。
 腕時計を見た。もうこうして1時間半。十二時を回ろうとしている。
 当然だ。来るはずが無かった。俺は彼女を傷つけた。
 どんなに言葉を重ねたって、言い訳になるとわかっていた。
 肩でこみ上げてくる震えは寒さのせいだけでは無い。
 ダメか……でも。待つんだ。約束したから。彼女が待ちつづけたように。
 もう一度夜空を見上げた。
 あの星。
 届かないものがある。手を伸ばそうともつかめないものがある。すぐそばにあるように感じた。でもそれは俺の驕りだった。
 辺りは物音一つなく冷気で澄み渡っている。死んでしまった街のように。
 ときどき、犬の鳴き声や、車の排気音が通りすぎていく。だがそれも現実感を失って錯覚のように聞こえてくる。俺の他にはこの地上には誰もいないのでは、そんな気がした。
 いや、いてくれるのはひとりでいいのだ。
「待ち合わせ場所、決めてなかったのに」
 不意に声がして、俺は不覚にも涙腺が緩みそうになった。
 高宮が、いる。深い色の瞳が月に照らされて、淡く輝いている。
「俺、話したくて」
「風邪ひくよ」
「いいさ」
「わたしが困るよ」
「好きなんだ」
「うん」
「知らなかったんだ君だって」
「うん」
「昔のことは関係無いんだ。俺は今の君が好きなんだ」
「うん」
 高宮は歩み寄ってきて、俺の前に立った。やわらかく微笑んだ。
「あのクリスマスが無かったら、きっと許せなかった。でもわたしがしたみたいに間違いだったら、って一度だけ許すことにした」
「今度は俺が君のバイト先に押しかけるよ」
 ひとしきり笑うと、高宮が言った。
「メリークリスマス。ずっと言いたかったんだ」
 俺は驚いたけど、微笑みながら返した。
「メリークリスマス。七年遅れの」
 高宮は首を横に振る。
「今日から始まるんだもん。五分遅れだよ」
 俺はその瞳に引き寄せられるように唇を重ねた。

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