第2章
『僕が幸せになれる場所』
「……来ないなぁ」
泉本浅葱は6月の空を眺めながら、そっと呟いた。子供の頃はもっとずっと、空が近いと感じていたような気がする。伸びた背の分だけ、あの頃よりも空に近づいているはずなのに。
それはきっと自分が純粋ではなくなってしまったからなのだろう……浅葱は思う。自分がいかに不純な人間であるかに、彼女は長い間……苦しんでいたから。
「償いたい、って思うのは……わたしのわがままなのかな?」
そうかも知れない、と彼女は思う。でもだからと言って諦める気にはならなかった。
「そう言った自分を変えたくて……わたしは戻ってきたんだから」
視線を校門に移す。入学してからまだ二ヶ月の浅葱には、そうした風景はまだ見慣れたものになっていなかった。過ぎ行く月日はいつか、この見知らぬ風景も見慣れたものに変えていくのだろうか?
ふと物音がして浅黄は昇降口を振り返る。そこには彼女の待ち人である堀田と……そして佐伯早枝の姿があった。
「あれ?」
浅葱は思わず声を上げてしまう。
「あの二人、仲良かったっけ?」
それはないような気がした。浅葱が思いつく中で、一番クラスの中で仲良くならなさそうな組み合わせが……堀田と早枝だったから。
彼らは二人とも、あまりに人と距離を置き過ぎていた。孤独を愛しているかのように。近づいてくる人間を傷つけてしまうと、怯えているかのように。
だけどそんな浅葱の思考とはかみ合わず、二人は何事もないように会話をしながら浅葱の方へと歩いてくる。まるでさも二人が昔からの知り合いであるかのように。
「……なんか仲が良過ぎない?」
少しムッとした口調で浅葱は呟く、そしてそのまま二人のほうへと歩み寄ろうとした。その時だった。
「……あれ?」
校庭の真中に一匹の犬が紛れ込んでいた。そうやって動物が校内に紛れ込むのは珍しい事だが、変な事ではない。変なのは、その犬がしきりに歩き回り何かを探しているように見える事だった。
「あ……」
思わず声が漏れる。浅葱は見てしまったから。舌を伸ばし、絶えず荒い呼吸を続ける野良犬が何かを見つけて動きを止めるのを。
それはまるで、渇きを癒す何かを見つけたかのように。
「佳宏ッ! 危ない!」
声をかけるのと、野良犬が駆け出すのは、ちょうど同時だった。早枝の表情が一瞬にして緊張を帯びる。堀田の瞳に刹那、逡巡が浮かぶ。
「……下がってろ」
だが堀田の逡巡は次の瞬間、何か強い意思に取って代わられる。野良犬は吠え立てながら一直線に飛び跳ねた―佐伯早枝の方へと。
「……っ!」
逃げよう。早枝はそう考えた、だけど足が動かない。瞬きの間に、野良犬の牙は近づき、そして……。
「ギャンッ!」
跳ねるように野良犬は視界から消える。堀田が野良犬の腹を横から蹴り飛ばしたのだ。そう気づいた時にはすでに、彼は野良犬に向かって更なる一歩を踏み出していた。
「……」
彼は何も言わなかった。自分が取ろうとする行動に、何一つ迷いを見せなかった。彼はただ着地をしようとする野良犬に向かって足を振り上げると……。
踏み潰すように野良犬の顔を蹴り砕いた。
生まれてきた事を呪うような、背筋をドライアイスで撫で上げるような叫びが辺りに響く。
耳を塞ぎたかった。だけどできなかった。早枝は堀田の表情を見て、凍るように動きを止めてしまったから。
堀田は笑っていた。感情の浮かばない瞳で野良犬を見据えながら、ただ口元だけで笑ってみせていた。
野良犬は血を撒き散らし、曲がった鼻と折れた牙を嘆くように叫び続けている。
堀田は更なる一歩を踏み出す。それが号令になった。
足音が響くと同時に、野良犬は逃げ出した……校門へと一直線に。
「……どうして?」
知らずのうちに早枝の口から言葉が紡がれる。それを聞いて堀田はひどく残念そうに微笑んでみせた。
「『どうして、あそこまで傷つけたんですか?』って佐伯は言いたいのか? だとしたら、ちょっとがっかりだ」
おどけるように堀田は肩をすくめる。
「俺は選んだんだよ。あの野良犬を傷つける事と、佐伯が傷つけられる事と、どちらが嫌かって。俺は別に動物を虐待する趣味はない。だけど佐伯が傷つけられるよりも、野良犬を傷つける事を俺は選んだ。俺はそうやって自分で選んだら、ためらわずに傷をつける事ができる……そういった人間なんだよ」
一息にまくしたてる堀田。そんな堀田の態度を見て、何故か早枝はクスリと笑ってみせる。
「……『どうして』って言うのは、そういう意味じゃないですよ?」
その見透かしたような表情に、堀田は意表をつかれたようだった。
「じゃあ……どういう意味だ?」
「……人に犬が襲い掛かろうとしていたら、人を助けようとするのは少数ではないし。そして力で解決しようとするなら、反撃を考えられないレベルで抑えつけるのも理に適っています。私が思ったのは……」
早枝は当然の事のように、それを口にした。
「『どうして』殺してしまわなかったのだろう……って事」
沈黙が一拍流れ、そして次の瞬間……火が点いたように堀田は笑い声をあげた。
「そう……そうくるとは思ってなかった。ごめん、俺は佐伯の事を……見くびっていたみたいだ」
堀田は……彼にしては珍しく、ひどく楽しそうに笑ってみせた。先程の感情のない瞳をしていた人間と、同一人物とはとても思えないほどに。
「殺さなかった理由なんて簡単さ……追いかけて殺すだけの理由がなかった、それだけさ」
「でも、それだと他の人に被害が出る可能性が高くなりますよね? あれだけの暴力をふるわれたのだから、きっとあの犬は人間に対して過敏に反応をするようになるでしょうし……」
試すような口調の早枝に、愉快そうに彼は答える。
「知った事じゃないね」
それは酷薄とも取れる口調。
「ああ、知った事じゃない……自分が取った行動で、知らないうちに誰かを、何かを傷つける。それはきっと悲しい事だ。だけど当たり前の事だ。俺たちはそうやって生きていく事しかできないのだから。だから」
堀田は言葉を続ける。
「だから俺たちは自分の行動がどういう意味を持つのか、絶えず考え続けなくてはいけない。そうして選択し続けなくてはいけない。自分をできるだけ正義の側におけるように」
「……正義?」
早枝は聞き返す。正義なんてという曖昧な物に、堀田が固執するようには思えなかったから。
「そうさ、正義さ。正義と周りの人間が判断できるような事さ。俺たちは、それを見つけなくてはいけない。理由をつけるために」
「人を傷つけるための理由?」
「それが必要なんだ。理由のない、理由を分かってもらえない正義はただの暴力だ。正当な理由があればこそ、人は暴力を、人を傷つける事を……楽しむ事ができるようになるのさ」
堀田が言い終えると、校庭には静けさが訪れる。耳の届くのはただ風の音と、控えめな足音だけ。
そしてその足音はやがて、二人の傍に来るとゆっくりと止まった。
「佳宏……だいじょうぶ?」
浅葱は心配そうに声をかける。そんな浅葱に、堀田はぶっきらぼうに返事をする。
「大丈夫? じゃねぇだろ。危険を叫んで教えてくれたのは、まあ……助かったけどよ。でも、心配するならそんな呑気に歩いてくるなよ」
「うん……最初は駆け寄ろうと思ったんだけど……大丈夫そうだったし……それに、変なものを見たから」
「変なもの?」
浅葱は頷いてみせる。
「うん、さっき佳宏が追い払った野良犬……それが駆けていく先を目で追ってたら、校門の影に人影が見えたの。まるでずっと二人の事を見ていたような」
その言葉を聞いて、早枝の顔色が変わる。その人影が誰か、考えるまでもなく分かってしまったようだった。
「それはまた……頑張るね、彼も」
今にも口笛を吹き出しそうな口調で堀田はおどける。だが、そんな軽口も早枝を微笑ませる事はできないようだった。
「迷惑……かけちゃったみたいですね」
「そんな事はない。志賀に関する事には、俺が自分から首を突っ込んだんだ。人が取った行動にまで責任を取れるなんて思うのは、それは自惚れが過ぎるってもんだぜ?」
キツイ口調の堀田に、だけど早枝は微笑んでみせた。
「うん……きっとそうなんだろうと思う、理屈では。だけど感情がそれを肯定しないんです。仕方なかった事なんだって一つ一つ自分を許していくのは、私にとっては辛い事なんです」
「でも、それは……いたずらに生きる事を辛くしていくだけの生き方でしかない」
早枝はコクンと頷いてみせた。
「でしょう、ね……。だけど私はそれを選ぶんです。楽な方に流される生き方は、私にとって少しも楽な生き方ではないから……堀田君がそうであるようにね?」
「何の事か分からないぜ?」
早枝はくるりと堀田に背を向けた。見えなくなる寸前で早枝は、少しだけ寂しそうな表情を浮かべたように堀田には見えた。
「今日は……ありがとう、堀田君。助かったよ?」
そう言って早枝は駆け出す。
「佐伯!」
堀田が声を上げる。だけど佐伯は止まろうとはしなかった。そして佐伯の姿が校門の向こうに消えていき……。
堀田はボソリと呟いた。
「しっかり気にしてるじゃねぇか……」
「ねぇ……何かあったの? 何か志賀君の名前とか出ていたみたいだけど」
「ん……」
堀田は浅葱を振り返ると手を伸ばし、乱暴に髪をくしゃくしゃにした。
「……宣戦布告? だったら勝負するよ?」
ムッとしながらシャドーボクシングの真似事をする浅葱。
「ばーか。本気になるなよ、うざってぇ。さっさと帰ろうぜ?」
言ってスタスタと歩き出す堀田。
「今日……何があったかは、帰りながら説明してやるよ」
川沿いの道を、堀田と浅葱は歩く。日は翳りを見せ始め、影を長くする。
「……へぇ、そんな事があったんだ」
浅葱は話を聞き終え、ようやく納得した表情になる。
「何か……悲しいね」
ポツリ、と言葉を漏らす。
「悲しいか? 人が憎しみあい、傷つけあうのが日常茶飯事なこの世界で?」
「だから、だよ」
浅葱は目を伏せる。まるで追憶に浸るように。
「人を傷つける事ほど簡単な事はないよ。そして一時的に自分を満たしてくれるものも。でも違うんだよ。人を傷つける事は何も生まない。正論過ぎて、嫌になるけど……だけど、それが事実なんだって思う」
「そう思えるのは……浅葱が優しいからさ」
「ううん、違うよ」
浅葱は強い意思で否定する。
「優しくなんかない……だからいつも後悔するの。自己嫌悪はいつも、人を傷つけた後にゆっくりとやってくるものだから。そしていつまでも去る事はない。わたしはそれを知っているの。ねぇ……佳宏、どうして人は傷つけあうんだろう? 憎しみも、傷つけあう事もない、誰もが幸せな場所……そんな場所がどこかにあればいいのに」
「浅葱、そんな場所はどこにもない」
「どうして?」
不満げに見返してくる浅葱に、堀田は理由を言う。
「人が幸せだと自分が幸せだと感じられなくなる人間、誰かが不幸になる事でようやく自分の幸せを確認できる人間。世の中には……そういう人間もいるんだ」
その言葉は浅葱に話しかけているのではないように感じられた。日が雲に隠れて、辺りに闇が一層濃くなる。そして闇に包まれる堀田は、その中にこそ似つかわしいように見えてしまって。
浅葱は堀田の手を無意識につかむと、そのまま手を引き走り出した。
「おい……浅葱! どこに行くつもりだ?」
「今日はちょっと寄りたいところがあったのを思い出したの! 付き合ってよ!」
「ああ……なるほどな」
浅葱が連れてきた場所。その場所に着いて、堀田は納得をする。
「懐かしいな……」
太陽が地平線の向こうに隠れようとする今、小学校の校庭には人影は見えなかった。
堀田と浅葱はこの蓮沼小学校の生徒だった。二人の胸に形容し難い胸苦しさと、そして懐かしい匂いが届く。三年から六年までの四年間を、二人はこの校舎で過ごしたのだ。
「いつも……三人でいたよね」
少し冷たさを感じさせる風が、二人からただぬくもりだけをゆっくりと奪っていく。だけど二人とも、そこから離れる気にはならなくて。
「そうだな。俺と浅葱、それに佐々木崇宏……あいつは今、どこで何をしてるんだろうな?」
「今は名古屋の方にいるって聞いたけど?」
「そうか……あの頃は楽しかったよな?」
追憶に浸るにはあまりに若過ぎるはずだった。それなのに堀田の目は今はもう失われたものを見るように校庭を眺めている。
「あの頃の俺はまだ幼くて、だからこそただ楽しさだけを追い求める事ができた。罪というものがどんな物なのか……知らなかったから」
浅葱は何も言わなかった。堀田が返事を求めていない事が、彼女には分かっていたから。
「あの頃の自分を思い出すと、自分の無知さに吐き気がするんだ……浅葱。何の覚悟もなく、何も把握しないままにただ悪意を撒き散らしていた。俺にとって……蟻の巣に爆竹を投げ込む事と、人を不用意に傷つける事は『同じように楽しい事』でしかなかったんだ。だけどもう謝る事すらできない。謝りたい人間は、もうこの世界にはいないんだよ。償う事すらできずに俺は生きていかなくちゃいけない……ずっと手が血まみれのままで。なあ浅葱、見えるか? この両手は汚れていないように見えても、本当は血まみれなんだ。いっそ目に見えるように、ずっとこの両手が血まみれだったら。それを見て誰もが俺の事を拒絶してくれれば、こんなにも苦しまなくてすむのに……!」
目から何も流さずに、堀田が泣いているのが浅葱には感じられた。辛さや苦しさや自己嫌悪……そういった物がギリギリと堀田の心を軋ませ、砕かせようとしている。
それが分かったから彼女は、ためらわずに堀田の手を取った。
「……浅葱?」
「この手が本当に血まみれでも……わたしは拒絶なんてしないよ」
浅葱は笑っていた。まるで何もかもを包み込み、許すように。
「覚えてる? わたしが転校する日、ここで泣いていた時の事を」
「ああ、覚えてるさ……」
忘れられるはずがなかった。堀田は卒業を間近にして浅葱が転校するという事を、転校前日まで聞かされていなかった。突然聞かされたニュースに、堀田は家を飛び出した。そして夕暮れ迫る校庭で……浅葱を見つけたのだった。
「あの時に佳宏が言ってくれた言葉、今でも覚えているよ。その時に差し伸べてくれた手が、あたたかかった事も……」
堀田の右手を、浅葱は挟み込むように両手で握る。そしてそれが大事なものであるように、そっと自分の頬に当てる。伝わる。浅葱がどれだけ堀田を心配しているか……それが、感じられるぬくもりとして。
「カケラがまだ、残っていたんだな……」
「カケラ?」
堀田は力なく頷いた。
「ずっとここに置き忘れていたと思っていた……二度と手に入る事はないと思っていた……幸せのカケラがここに」堀田は強く浅黄の手を握り返す。「残っていたんだって……」
「うん……」
浅葱は相槌を返す。それ以上の何かを返すのは余分な気がした。
「お前が……戻ってきてくれて、本当に良かったよ」
目を細め、堀田は無防備に笑ってみせた。いつも教室で他人を拒絶している人間と、同じ人間とはとても思えないほどに。
「そう言ってくれると……嬉しいかな。わたしは……佳宏のために戻ってきたから」
「え?」
堀田は浅葱を見つめる。浅葱がこの街に帰ってきた理由を堀田は知らなかったから。
知ったのは高校の入学式だった。彼女はまるで昨日も会っていたかのように手を上げると、声をかけた。『佳宏、高校でもよろしくねっ』って。
家族と離れて暮らす事を選んでまで、どうして浅葱がこの街に戻ってきたのか……彼女は教えてはくれなかった。
「俺の、ために……?」
驚いた顔で尋ね返す堀田に、浅葱はくすくすと笑い出した。
「……冗談だよ。ひょっとして期待とかしちゃった?」
「な……」
堀田から離れるように浅葱は離れると走り出す。
「家が近いから、今日はもう送ってくれなくてもいいよ。それじゃまた、明日ね!」
「……ちぇっ」
堀田は肩をすくめる。随分と気分が楽になっていた。
「ありがとうな……浅葱」
誰にも聞かれない言葉。それがゆっくりと拡散する。星が見え始めた空を見上げ、ゆっくりと歩き始める。
家路を、たどるために。
明けて次の日、早枝は学校へ続く道を歩いていた。時間にはまだ余裕があり、登校途中の生徒がパラパラと見うけられる。
その人物が視界に入ったのは、学校にもうすぐ着く頃だった。
「……佐伯さん?」
立ち塞がるように進路を阻まれる。だが次の瞬間、早枝から警戒心が消える。
そこに立っていたのは、クラスメイトの咲坂深澄だったから。
「咲坂さん、おはよう。どうしたの? 私に何か用?」
深澄は背が低く、愛くるしい顔立ちをしていた。自然、早枝は見下ろすような形で深澄を見る。お人形さんみたい、だとクラスでも好感を持たれているのも分かると早枝も思っていた。
だけど今日の深澄は、いつもの彼女と同じようには見えなかった。目は真剣に早枝を見据え、深澄を年相応に見せていた。早枝と対峙していても、遜色がない位に。
「佐伯さん……昨日、堀田君と話をしていたよね?」
深澄は笑いかける。でも、その表情にいつもの可愛らしさはなかった。
「ええ……昨日は堀田君に助けてもらったから……」
「『助けてもらった』、ね」
何かひっかかる言い方をする深澄。早枝は思わず尋ね返す。
「それが……どうかしたの?」
「ちょっとね……忠告をしに来たの」
そうして深澄は、毒に満ちた口調で続けた。
「堀田君を信じるのはやめた方が良いよ……彼は、人殺しだから」
「え……?」
『どういう事?』尋ね返そうとした時には、深澄はそこから立ち去るところだった。背中に拒絶を滲ませながら。
どこかで何かが歪み始めている。早枝は感じる。どこかから『カチ』と時計の針が進む音が聞こえた気がした。
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