喪服
秋月 ねづ
「さっさと流れ出ちまえよ」
僕は煙草を咥えた口の端からそう呟く。このバーはトイレまで薄暗くぼんやりとした黄色灯だ。僕はチャックを閉めて、黄ばんだ小さな洗面台で手を洗った。喪服のお尻で拭いながらスツールへと戻る。そして、ポケットから五百円玉を出してカウンターに転がす。
「ギネス」
僕はそう言うと、汚らしい髪型のバーテンは五百円玉を足元のバケツに放り込んでから、冷蔵庫から黒いビンを出して、栓を抜いて僕に渡した。僕は注文の度にお金を払う店が結構好きだ。帰る時に何も言わず、そっと出てゆける。伝票をつける店でも、いや、そういう店こそ本当はそっと出てゆきたいんだけど。僕は一人笑った。
「ご機嫌だね」
と隣にいる男が僕に声をかける。ここでたまに見る奴だ。男はスツールに腰掛けずにカウンターに寄りかかって立つ。立ってヤルのが好きな奴がいるように、立って飲むのが好きな人間もいるのだ。
「もちろんさ」
と僕は言う。男を見ようとするが、男より席三つ先にいる二人連れの女の方に目を奪われる。右側の方が格段上の美人だ。ああいう二人の友人関係はどうやって成り立っているのだろうか?
「不幸でも?」
再び声をかけられて、僕はやっと男に視線を移す。男は僕の喪服を見て言ってるのだ。なんとなくカンに触る奴だ。
「いや、幸せさ」
僕はギネスの瓶に口をつける。いや、無闇にカリカリするのはよくない。特に胃に。僕はそう思って、
「こうしていればね」
と付け加えた。男は物知り顔に頷く。近頃は誰もが物知り顔をする。「分かるよ」「分かりますわ」気持ちが悪い言葉だ。実際は何も分かってないんだ。でも、当人は分かっていると思い込んでる。そこが気味悪いんだ。僕は、「俺の気持ちは誰にも分かるはずがない」とか言うつもりも無い。そういう問題でもない。そういうことをいうこと自体が甘えだ。「誰か僕を分かって」って叫んでいるようなものだ。勝手にしろ、と僕は思う。酔っ払っているのだ。
僕は不意に死んだアイツの事を思いだす。随分貸し借りが残っていた。どちらかというと、借りの方が多かったから、僕に文句はない。ただ、返すはずのものが僕の中に残ったままっていうのも気持ちが悪いものだ。それに貸し借りってやつはなかなか清算できるものでない。それぞれの物事に決まった価値がないからだ。僕は世間から誠実な男とみなされているのはその通りで、貸す時は気持ちよく貸してやって、借りを返す時は多めに返すのが身上なんだ。
僕は黒いネクタイの結び目を更に引っ張って、さっきまでより、だらしない姿になって、ギネスを呷る。
それにしてもアイツ、死んじまうなんて全く卑怯な奴だ。僕をくさくさした気分にさせやがる。そう、アイツとは旅に出る約束が残ってたままだ。アイツはもう忘れちまってるかもしれないが、タイかベトナムに行く約束だったんだ。僕はもう一生タイとベトナムに行く機会を失ったっていうわけだ。畜生、アイツと約束してたのに他の奴となんて行けるもんか。一人でなんてもっと真っ平だ。
僕はギネスを空けてポケットの中から五百円玉を探したが無いのでスツールを離れて歩いていって、トイレの近くにある両替機に千円札を咥えさせた。両替機は機嫌悪く札を吐き戻すので、僕は向きを変えたり、裏返したりして、何度も札を押し込んだ。両替機は観念してやっと千円札を飲み込み、変わりに五百円玉二枚を吐き出した。僕はお礼に両替機を軽く蹴飛ばして、カウンターに戻った。
スツールに座って見ると、さっきまで僕の隣にいた嫌な男が居なくなっていて、変わりに眼帯をつけた女が座っていた。僕は一瞬席を間違えたのかと思ったが、カウンターには僕が飲んだギネスの瓶が置いてあった。女はさっきの男と同じようにスツールを使わないで立っていて、僕は女が立ってヤっているところを想像してみた。そして眼帯をしていることがSeXするのに支障あるかと考えてみたが、特に問題は無さそうだった。それほど遠近感を必要とするスポーツというわけではないのだ。ましてや僕ぐらいの達人となれば、目なんて閉じてたって手探りでできる。
女は襟元の大きく開いたカットソーを着ていた。女は素晴らしい鎖骨をしていて、僕は暫くそれに目をとられた。やがて、バーテンダーがとても飲めそうもない色をしたカクテルを女の前に置いて、僕は帰っていくバーテンダーにギネスを注文した。僕は五百円玉を自分でカウンターの向こうに、バケツのあると思われる位置にフリースローとばかり放り込む。五百円玉は他のコインに当たって、小気味のいい音を立てた。それを見て、女が口笛を短く吹く。
「うまいもんね」
女は眼帯の顔を僕に向けてそう言う。僕はギネスを受け取りながら、ニヤリと笑う。
「高校のとき、バスケ部だったんだ」
僕がそう言うと、女は笑った。
「嘘つき。あんた卓球部だったじゃん」
女はそう言う。僕は慌てて、人差し指を唇に当てた。辺りを見回したが幸い、聞いていた奴は居ないようだった。
「人聞きの悪いこと言うなよ」
僕は胸を撫で下ろしながらそう言った。
「で? 何でそんなこと知ってんの?」
僕がそう訊くと女は憮然とした。
「二年生の時、おんなじクラスだったじゃない? 覚えてないの? 岡江美弥」
そう言われてみれば、どこかで見たことがあるように思えた。
「思い出したよ。当時は確か眼帯してなかったよね」
僕はギネスの瓶を口に運びながらそう言った。女はニヤリと笑った。
「その頃は、まだ右目があったからね」
女はそう言った。僕は少し不味い冗談を言ったかな? と思った。僕は酔っ払うと必ず不味いことを言う。僕は何かフォローを言おうと思ったが、何も言えなくて、代わりにビールを一口飲んだ。女は頬杖を突いて僕が何も言えないのを見ていたが、
「嘘。ただのモノモライなの」
そう言って、得体の知れないカクテルを口に運んだ。僕は右目の無い女をトワに愛することが出来るか? と自分自身に問い掛ける内なる声を聞いて、考えていたが、女が『右目が無い』のは嘘と言ったので思考を中断した。そういうのはそうなってみないと、想像するのが酷く難しい。まあ僕くらい愛に満ちた男なら、少なくとも今晩だけなら愛せそうだ。
「右目が塞がってると困ることってある?」
僕は女にそう訊ねた。
「別に。私の生活には支障ないな。何かあると思う?」
女はそう答え、逆に訊ねた。僕は肯く。
「右目が無いと」
僕はそう呟いた。
「卓球でインターハイに行くのは難しい」
僕がそう言うと、女は声を立てて笑った。
「あんたなんて、両目があったって行けなかったじゃない」
僕は女を睨んだ。
「言っておくけど、俺は別にそんなトコ行きたくもなかったからな」
女は笑うのを止めて、左目で僕を見た。
「あなたくらい負けず嫌いな男だったら、行きたくないわけないでしょ。ほんとはインターハイに行けた高橋君が羨ましかったんでしょ?」
女は諭すようにそう言う。僕はビールを飲んだ。
「アイツはいいんだよ。俺は高校のときはちっともアイツが好きでなかったし、正直、俺より卓球が上手いのも許せなかったけど、良かったって後で思った。アイツはいい奴過ぎるから、アイツの価値を示す明らかなモノサシとしてインターハイがあったのは良いことだった」
僕は微笑む。昔の僕の回路は自分より、どんな些細なことでも、秀でた人間はすべて憎むように設定されていたのだ。人生経験で丸くなった今では、自分より総合的に下だと思われる人間、何とか勝っている相手まで、にならキリストのような大いなる愛を注げるくらい成長した。
「アイツは、俺と仲良く出来て良かった、なんて言うんだぜ。この俺とだよ。この安い男と友達になれて良かっただってよ。はっ。笑い話だろ」
僕はビールを呷って、五百円玉をバーテンダーに見せた。彼は僕の指から無理やり硬貨をもぎ取って、引き換えにギネスを置いていく。
「高橋君は優しい人だったよね。確かに」
女はそう言う。
「私、あの子嫌いじゃなかったな」
女は正面のウイスキーの瓶を眺めて、俺は女を眺めた。
「俺とどっちが良かった?」
僕はそう女に訊いた。相手が故人だって、そこのところは譲れない。女はため息を吐く。
「あんたのダメなところって、そういうトコだね」
女はそう言って、首を振って、僕の質問には答えなかった。僕は恨めしく女を見たが、問い詰めたところできっと言ってはくれないだろうと諦めた。
「今日、通夜に何で行かなかった?」
僕はそう訊いた。女は首を振った。
「私、黒い服が似合わないから」
女はそう呟く。僕は何度か頷いた。僕はスーツのポケットの中から通夜でくすねてきたワンカップを出して、女に渡した。
「飲めよ。供養だ」
僕がそう言うと、女は頷いて、ワンカップの蓋を取って、半分ほどに減ったカクテルの中に注ぎ込んだ。
「無くなって初めて大切さが分かる、とかいう話を聞いたことがあるけど、あれは本当だな。アイツは実に便利な男だった」
と僕は言った。
「アルコールが一滴も飲めなかったから、飲みに行く時はいつも車の運転を頼めたからな。俺は帰り必ず、アイツの車の後部座席で横になって、グルグル回る景色と、吐き気と、いつも戦ってた。たまに負けて、車を汚してもアイツは別に嫌な顔もしなかったよ。アイツが居なくなって、俺はこれからどうやって飲みに行けばいいんだろう。全く」
僕がそう言うと、女は、僕だったら絶対飲まない液体に口をつけながら、僕を睨んだ。
「一人で歩いて行けよ! あんた、ホント最低」
「いや、違うよ。ただ寂しがり屋なだけなんだ」
僕はそう言った。
「最低と言うなら、アイツのほうが最低だ。酒も飲まないくせに、肝臓なんて悪くしやがって。肝臓が悪いってのは、俺のお気に入りの冗談だったんだぜ!」
僕は煙草を咥えた。
「これからは、それを言うたびにアイツの顔が出てくるだろうよ。台無しだぜ」
女はまた、ため息を吐いた。
「いい人は早死にするってホントね。あんたが酒を飲みすぎて、実際肝臓悪くして代わりに死ねば良かったんだけど、あんたはちっとも死ななそうだね」
女はそう言う。僕は首を振った。
「いいや。俺は繊細なんだ。長いこと無いかもしれんよ。お前の思いの丈を伝えるなら今のうちかもしれない」
「ハヤク・シネ!」
女は間髪いれずに、思いの丈を僕に吐き出した。僕は寂しそうに見えるような表情で何度か頷いて、前を向いてビールを煽った。僕の『本当は友人が死んでしまって悲しくてやりきれないのを、今まで何とか冗談で誤魔化していたんだよ』という演技は功を奏して、女は僕の肩にそっと手を置いた。僕は俯いて、彼女のほっそりとした手の上に自分の手を乗せた。
「何だか、スカスカになっちまったよ」
僕は俯いたままそう言ったが、それは演技とかじゃなくて、本当の気持ちだった。アイツともう遊べなくなってしまったと思うと、涙さえ出そうだった。
「俺にはアイツが必要だったんだよ」
俺はそう呟く。アイツのことを考えながら、酒場までの道を一人とぼとぼ歩く自分。酒が飲みたいのに相手が見つからなくて、アイツの携帯電話をつい鳴らしてみる自分。ずっと考えていると、本当にカワイそうなのは俺なのかアイツなのか良く分からなくなってきたけど、きっと二人ともカワイそうなんだろうって思う。
僕は女の手を握った。
「もう暫く付き合ってくれないか?」
と顔を上げて女を見て僕は言った。もうバーテンダーはモップなんか持ち出して、僕と女に今スグに出て行って欲しいような雰囲気だったので、僕らは河岸を変えなければならなかった。
「いいよ。供養なんでしょ?」
女は仕方ないといったふうに頷いた。
「もちろん」
僕は傷心の男の疲れた表情で言った。でもそれは半分くらいしか演技ではなかった。僕は正直、精神的に疲弊していたけど、まだ眠りたくなかったのだ。女は立ち上がった。
「じゃあ、違う店に行こうか」
女はそう言う。僕は笑みを浮かべて立ち上がった。女は歩き出して、僕は彼女に従った。バーテンダーの義理の声に押し出されるように店を出る。女は街灯の下で振り返って微笑む。
「先に言っておくけど、あたし、あんたと寝たりしないからね」
女はそう言う。それを聞いて、僕は声に出して笑った。
「何でだよ? 供養じゃないか」
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