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準備完了な映画:マトリックス リローデット

いろいろやってくれて、楽しいなあ、という感想。アクションやVFXが工夫されてて、見ごたえはありました。俳優の動きも前作より早くなってる。本物のアクションスターのように動く。前作はそこまでじゃなかった。
ストーリーは大きな謎の一つが解けるけど、ああ、そっちのパターンなんだね、という印象。展開はあまりないし、普通。でも重要なのはあの世界を映像化してしまうことなので。ドラゴンボールを思い出したり、ラストはほとんどギャグなんですが。やはりスターウォーズと一緒で、結末に向けての準備を整える映画ですな。
モーフィアス、好きだなあ。今回“セラフ”が格好よくて、どうやらこれがジェット・リーの断った役だな、と思い当たる。でもコリン・チャウで適任だったのではないでしょうか。
なんでもいいけどこのパンフレットの巨大化の流れはどうにかしてほしい。面白かったり、いい俳優を見つけると買うのだが、高いし邪魔です。

ああX-MEN2も観たのに感想書くの忘れてた。
忘れる程度の出来です。悪くはないけど、ちょっと描き方が散漫になってました。ギリギリ星3つで。


満足度 ★★★☆/KENSEI 030630
四国での伯父・伯母夫婦の言葉を。

伯父の昔やっていた仕事について話した。伯父は鉄筋の骨組みをつくる専門の“とび”だった。若い頃は東京まで来て、ビルやらダムやらの骨組みをつくっていた。
「自分で選んだ道を行くことじゃ。若いから、間違うこともある。あるけど、もし自分が選んだ道じゃったら、全部まっさらになってしまっても、なんにも気になりゃせん。また始めりゃええ」

式場に向かうバスの中、ぼくは伯母に尋ねた。
「伯母さんはどうやって伯父さんと知り合ったのさ」
「いうたら親戚じゃ。そいで知り合ったけども、親が認めてくれんで、遠い町で6、7年逃げて暮らしちょった」
「そんなことやったの?」
「ああ、若かったからの……いまにしてみれば、それほどの価値がないこと知っとるから、せんだろうけどの」


四国覚書/KENSEI 030629
巷では讃岐うどんが流行しているそうで、うまさはもう随分前から知っているから、同じ四国にルーツを持つ者としてはうれしい限りである。
ただ、おそらく日本で一番おいしい讃岐うどんを、世の人は食べることができない。ぼくがいままでで一番おいしかった讃岐うどんは「宇高連絡線」の上で食べたうどんだからだ。
宇高連絡線は、広島の宇野と、香川の高松を結んでいた連絡線である。
星空の下、瀬戸内の工場や港の明かりを遠くに眺めながら、デッキで食べたうどんは忘れられない。
瀬戸大橋の完成とともに連絡船は廃止されてしまった。特急が通ったおかげで随分便利になったから、文句はない。文句はないのだが。

四国に行ったときは、いつも満点の星に驚いていた。天鵞絨の上へ宝石をちりばめたような……という描写を真実に感じるのだ。四国でも山に近い町なので、工場地帯の照明は届かない。でも、星は消えていた。
十年ほど前から、道が整備され、道路沿いに次々と店が建ち始めたからだ。いわゆる〈郊外〉型店舗。全国にあるような車で乗り付ける種類の店舗だ。〈郊外〉が田舎を明るくし、星空を暗くしていく。

今回驚いたのは駅前商店街の空洞化だ。
いまはどこの町の商店街もそうなのかもしれない。駅前に立派なアーケードのある商店街があるのだが、開いている店のほうが少ないのだ。客はぼく一人である。土曜の夕刻ということもあるだろうが、その店が閉まっているのか、廃業しているのかくらいの区別はつく。廃業しているとおぼしき店は3割を超えていた。みな車で大型スーパーに行ってしまうのだろう。

ぼくがこの町に住んだらどうなるだろうか、考えてみたが、やはりスーパーに行ってしまうだろう。なにしろ店がみんな廃業しているのだから。
日本の大店法は、駅前商店街のような零細小売業を守るために、都市部への大型店舗の出店を規制したそうなのだが、結果ルール無用の郊外へ進出していき、都市部が空洞化するという現象が起きた。人口などと同じように経済もドーナツ化してしまったのだ。
アメリカにならってモータリゼーション社会が発展してしまったせいもあるだろう。
このまま日本中を〈郊外〉にしてしまう勢いである。

尾道を訪れたときもそうだった。駅前の商店街がさびれていて、これはなんとかしないと大変なことになるだろう、と感じた。
直接の原因は不況かもしれないが、根本の原因はそうではない。
同時に高知や広島を訪れたときは、にぎやかだったものの、駅前が新宿や池袋と変わらず(人口密度は違うが)、味気なかった覚えがある。札幌は予想より小さくて驚いたが、もうこういった大都市は仕方ない。地方の中の〈東京〉を目指すしかないのだから。
でも特色を失っていってしまうのは、怖いことのはずなのだ。

都市化、すなわち近代化、文明化。
文明化はなにも悪いことではないと思う。たとえようもないほど大きな恩恵がある。でもたとえようもないほど失ってしまうものだって大きいはずだ。
たとえ一杯の讃岐うどんであったとしても。

ぼくは原因をおぼろげにつかみつつあるが、対処法がよくわからずにいる。
でもどこかを歩くたびに感じる、違和感はずっと消えないままだ。



讃岐うどんと都市化/KENSEI 030628
近頃うまいそばを食べていない、と食卓で話題になった。
父と母がまずいそばの店を挙げていく。ではうまいそば屋はないのか、と尋ねると、あるにはあるのだが、久しく行っていないから、いまでもあるかわからないという。ぼくの大伯母たち二人組が遊びにきたときに食べに行った、と。
「覚えてないよ。いつの話?」
「そりゃそうよ。あんたが生まれる前のことだもん」
「それならもう30年前の……30年!?」
自分で言って驚いた。30年、経過しているのだ。生まれてから。

時代も変わるはずである。


昭和は遠くになりにけり/KENSEI 030626
結婚式というものに初めて出た。
四国に住む従兄が式を挙げた。

結婚パーティーというものには出たことがある。バイト先の社員さんが結婚するので、バイト仲間みんなで祝いに行ったのだ。そのときは新郎の友人たちの“手作り感覚”というか、仲間内だけで通る“おふざけ”が満載されていて、式を計画したり、進行している人間は楽しかったのだろうが、周囲は放置されているような印象が強く残った。
ほかの伝聞からも、きっと退屈なものなのだろうなあ、と予測していた。

一族40人がマイクロバスに揺られ、式場に着く。ここはコペンハーゲンですか? と疑いたくなるような瀟洒な建物と、庭園。教会まで敷地内に建っている。
伯母たちと母が揃って着物に着替えに行く。ぼくの父は8人兄弟の末っ子で、もう5人しか残っていない。伯母が3人。伯父と父。それぞれつれあいがいたりいなかったりするが、あわせれば計10人、ぼくには伯父と伯母がいる。 四国、大阪、東京、名古屋。何かあるたびに祖父の家に集まってくる。今回結婚する従兄が祖父の家を継いでいるから、総領がようやく身を固めたわけだ。

スーツに着替え、時間を伯父たちと潰す。従兄姉は歳が離れている人ばかりで、その子どもたちはまだ小学生。ジジイに囲まれているのが一番楽だ。
ようやく支度が整い、両家親族で写真撮影。新郎の従兄弟は6歳上で、よくいえば逞しい、悪くいえばかなりゴツイ。銀色のタキシード姿はどう見ても、プロレスラーのブロマイドである。
続いて式。しかも教会で行うという。ぼくはヤハウェの名も、イエスの名も唱えたりはしないが、そうしたいというのであれば、つきあうしかない。
新婦と父がヴァージンロードを腕を組んで歩く。結婚行進曲。コリントの信徒への手紙……愛は寛容であり、愛は情深い……というやつ。そして賛美歌。みなどうにか歌おうとするのがけなげである。神父とオルガン奏者の声だけが高らかに響く。いつも思う。賛美歌は2番までなら黙って聞いていられるが、さすがに3番は飽きる。
ふと考える。これはきっと祝いの「技術」なのだ。引き合いが悪いが、仏教は怨霊を払う最新システムとして導入された「テクノロジー」である。おそらく戦後、結婚を祝う最新システムとして導入されたのだ。そう思い至ればこれもひどく日本的だ。
指輪の交換があって、説教があって、最後は庭園に出て新郎新婦がチャペルを鳴らした。いままで降っていた小雨が止んで、緑の上に白いドレスと銀のタキシードが映えていた。伯母……今回結婚する従兄弟の母である……は胸元に伯父の遺影を抱いていた。伯父は先年他界した。同時に伯母の心労を思った。伯母は伯父の嫁である。ぼくたちと直接の血縁はない。それでも伯父の代わりに親族を束ねている。
夷荻の神でもなんでもいい。もし心あるならば、この新郎新婦に祝福を。願った。ほかの誰でもない。夫婦のためでもない。伯母のために、だ。

続いて披露宴が始まる。あわせて70人ほどの披露宴だった。
「最初は家族だけでやるつもりだった」
と従兄は話していた。ところが電気の配線工事を仕事にしている従兄は、この式場のオープンにかかわっていたのだ。支配人に結婚を報告したら、ぜひウチで、と断れなかったそうである。支配人も式に参加して喜んでいたから、よい仲間なのだろう。縁は大事にすべきである。参加者はほとんど親族。それからお互いの勤め先の人たち。田舎のことである。小さな会社で、身内のようにつきあっている人たちだ。
ぼくは伯父・伯母、両親とテーブルを囲んだ。新郎新婦が登場する。BGMはB'z。新婦が好きなことを従兄から聞いていたので、苦笑する。
ここからは伝聞にきくプログラムが展開していった。 乾杯、ケーキカット。司会は式場の女性職員だが、計算されつくした名調子に吹き出しそうになる。
大勢のなかから、手の感触だけで新婦を探すゲーム。ゲームに混じるのが伯母やら甥っ子というのが妙に微笑ましい。
祝辞はあったものの、少ない。そもそも親族ばかりだからだ。
同僚が歌を披露する。新婦の父も涙を流して歌う。最後は新郎が「真夏の果実」を熱唱して愛を誓い、「ムーラン・ルージュ!」かよ! とツッコミたくなる。(「ロミオとジュリエット」も可)
ひどく不思議な暖かさに満ちていた。

キャンドルサービスは、新郎新婦が二人で液体を、各テーブルに用意された器に注ぐ、というのが主流のようだ(発光キャンドルというらしい)。
大阪に住む伯父がテーブルにやってきた新婦を、初対面なのに「ちゃん」づけで呼ぶ。
「頼むで! こいつを頼むで!」
いつからそんなに親しくなったんだよ、と指摘したが、その気持ちはわかる。新婦の横顔を見た。
(あなたは、この家の〈血〉と〈名〉を受ける。あなたを縛るものだが、あなたを護るものでもある。あなたもこの〈血〉と〈名〉に誇りを感じられれば幸いだ)
父が言った。
「映画化はされないけど、これが我がファミリーだ」

フィナーレ。新婦から両親への手紙の朗読。新しい両親への花束贈呈。従兄の目が赤くなっていた。司会の名調子が流れる。
「どれだけ、お父様もこの姿をご覧になりたかったでしょう」
ぼくは伯父のことを思い出し、急に目頭へ熱いものがこみあげた。
名調子は当たり前のことをただ繰り返しただけだ。でも、当たり前のことに真実はある。
同時に父のことを考えた。
「俺はおじいちゃんなんて呼ばれる前に死にたいね」
……安心しろ。そっちの可能性が高い。

伯父伯母がこぞって、次はKENの式で東京見物だという。
当時に、また背が伸びたんじゃないか、という。
そして「なんだ、もう帰るのか。1人で平気か」という。
人をいくつだと思っているのだ。

四国へ行くと帰ってきた気分になる。
暮らしたこともない。数年に一度しか顔を出さない。でもたしかにここはぼくの帰るべき場所である。
家と土地、そして人。
すべてが結びつく。

四国はまぎれもなく、ぼくの故郷である。



ファミリー/KENSEI 030625
宮本常一という民俗学者がいる。佐野眞一さんの本で知り、読んでいるのだが、この人の本を読まずに歴史だの日本だのを語るのは、ひどく浅薄なことだったと恥じ入る。

いま読んでいる本に「子供をさがす」という短い文章がある。とある村で起きた出来事を記している。
ある日、母親に叱られて子どもが外に出ていき、そのまま姿を隠した。夕食の時分を過ぎても帰ってこないので、警防団に捜してもらうことになった。放送が流れる。父親が夜に戻ってくると、子どもはひっこりと姿を現す。子どもは家の戸袋に隠れていたのだが、騒ぎが大きくなったために出るに出られなかったのだ。
見つかったと放送が流れると、村人たちが戻ってきて喜びの挨拶をする。放送を聞いて捜しにいってくれていたのだ。そのとき、お互いに知らせあったわけでも、誰かが指示したわけでもないのに、みながそれぞれ別の場所へ捜しに出ている。警防団以外は、心当たりを勝手に捜した結果なのだが、実に計画的な行動になっているのだ。
宮本は「村の人たちが、子どもの家の事情や暮らし方を知りつくしているということであろう」と推測している。宮本は続ける。
ところがそうして真剣に村人が探し回っている最中、道にたむろして、子のいなくなったことを中心にうわさ話に熱中している人たちがいた。子どもの家の批評をしたり、海へでもはまって、もう死んでしまっただろうなどと言っている。村人ではあるが、近頃よそから来てこの土地に住みついた人々である。日ごろの交際は、古くからの村人と何のこだわりもなしにおこなわれており、通婚もなされている。しかし、こういうときには決して捜査に参加しようともしなければ、まったくの他人ごとで、しようのないことをしでかしたものだとうわさだけしている。ある意味で村の意志以外の人々であった。いざというときには村人にとっては役にたたない人であるともいえる。
40年ほど前の出来事だ。もうこんな世界は存在していない。
だからこそ思う。いま日本には、この国の意志以外の人しか、いないのかもしれない。


この国の意志/KENSEI 030624
「恋愛寫眞」の予告を見て、ひさびさ邦画に興味がわいた。調べてみると結構おもしろそうな邦画が出てきている。

たいがいは野郎4人組などで劇場へ行くものだから、観るのは決まってハリウッドの大作だ。先日は「X-MEN2」。おそらく次は「マトリックス・リローデット」。
「千と千尋」の映画評を書いたときにクラスメイトから「KENSEIくんはカノジョいないんでしょ、誰と観たの?」と聞かれ、「ヤローのダチです」と素直に答えたら、「むなしい人生だねー」と即断されたが余計なお世話である。
ただ野郎3人で「タイタニック」を観にいったときは、周囲がカップルばかりで驚いた記憶があるので、そう評価されることも仕方ないことなのだろう。

考えてみれば、恋愛映画を観に劇場へ行くというのは、ぼくにとってひどく難しいことだ。
ぼくもまた1人で映画館へ行くことができない人間である。なんだかそっちのほうが「むなしい人生」のような気分になる。慣れの問題なのかもしれないが。 だからどうしても親しい男の友人と行くことが多く、話題作ばかり選んでしまう。ミニシアター系の映画に興味を抱くこともあるのだが、つきあってくれる友人はいない。そのときはレンタルビデオで借りてしまう。最近はDVDを購入するようになった。
映画に誘える男の友人も少ないというのに、女の友人といったら皆無に等しい。加えて恋愛映画だと、男同士はもちろん気色悪いし、女性が相手でも、なんだかデートっぽくて嫌な気がする。

……やはり慣れていないだけなのだろうか。その女性が映画好きなら構わないような気もするが、うーん。なんだかやはり恋人と行くものという観念がある。 その点女性はいい。女性二人でラブストーリーを観に行くことに、抵抗感はないだろう。男二人だと周囲の抵抗感が増すだろう。

結局、劇場に行くのは感動を共有したいわけである。すなわち、女性の友人となにかを共有するわけにはいかない、という節度の表れなのかもしれない。
これも境界(ボーダー)。
己の中の常識を、侮らないほうがいいと感じる日々である。


恋愛映画館/KENSEI 030619
編集プロダクションで仕事をしていて、いつも不満に感じることは誰が「最終的な責任者」なのかわからないことだ。クライアント(出版社)なのか、著者なのか、それとも自社(プロダクション)なのか。
問題があれば責任をとらされることは自明だ。だからできる限りのことをするが、クライアントの思いつきで簡単に仕様が変更になる。計画は決められているから、自社からの提案が通ることも皆無だ。
なら完全に指示通りに動こうとすると、それだけでは仕事が進まない。面倒なことは「お任せします」の一言である。どうせなら読み手に向かって仕事をしたいが、クライアントの都合が最優先なのだ。

学校の課題でレポートを書くことになって、とあるメーカーの社長さんに話を聞いた。そのときの言葉が耳に残っている。
「いま日本の企業が元気をなくしてしまったのは、部品しかつくらなくなっちゃったからだよ。流れ作業で目の前のものしかつくらないから」
自分がなにかをつくるとき、全部にかかわれば、責任も、愛着も、自覚も生まれるだろう。もちろん現在の大量生産・大量消費の世の中では不可能な発想だ。

大量生産は近代化の代名詞であり、近代化とは規格化を意味する。高名なのがフォード式の流れ作業だ。フォード式を食べ物に応用したのがマクドナルド。服に応用したのがGAP。すなわちユニクロである。
ハンバーガーもある時期まではコックのつくる食事だった。マクドナルド兄弟はハンバーガーと調理の工程を規格化し、分業化する。バンズの大きさ。ピクルスの枚数。肉のグラム数。焼く時間、積む手順。人間も手分けする。焼く人間。挟む人間。決まった作業によって効率のよい生産が可能となる。そのときからすべては〈製品〉になった。
いつどこで誰がつくっても変わらぬ味。いつどこで誰が食べても変わらぬ味。
マクドナルドは近代化=規格化=均質化の極みだろうと考える。

次に来るのが流通の改革だ。流通によって価格の競争が始まる。店頭での値引きは、戦前の日本に存在しない。“主婦の店ダイエー”の隆盛がもっとも顕著だが“いいものをどんどん安く”売ることが始まる。〈いいもの〉を売っているうちはいい。
“安く流通させるために100ある工程なら、その製品にとって必要のない要素を取り除き、70の工程で完成させる。そうして価格を下げる”
という製品が生産されるようになる。
たとえばワイシャツならワイシャツを成立させる70の要素を規格化する。省略化されたワイシャツ70%が〈ワイシャツ〉として販売される。庶民に“手が届く”という贅沢を与え、中流という実感をもたらした。だがその贅沢は〈規格化〉された贅沢である。

企業努力という表現を使うことができるかもしれない。ただ工業製品はともかく、文化とかかわりの深いものは、長い歴史のなかでつちかわれて形作られたものだ。現代の視点だけで見て不要な要素を省くことは、畏(おそ)れを知らない行為である。
改革者は常に畏れを知らない。自分の行為がもたらす成果を、遥か未来にまで見通せる人間だけが、真の勇気を持って行動できる。しかしいまの企業にあふれているのは“蛮勇”だけだろう。目先の利益を追わなければならないシステムの前で、不祥事の山が築かれるのは“蛮勇”のためではないか。

余談だか歴史上“天才”と称される人物は、想像力が同時代に生きる人間の誰1人として及ばなかったからこそ“天才”と称される。
信長、カエサルといった名前が挙げられるだろう。
二人に共通して言えることは、改革者であるがゆえに、殺されているということだ。
それほど歴史の揺り戻しは激しい。

アウトソーシングもまた、近代化の支流だろう。ある規格化された作業を繰り返させるために、一部の業務だけを取り出してみせる。
編集プロダクションもまた、アウトソーシングの流れに適応している。出版は2兆円産業。そこに約4000社がひしめいているという。情報もまた浪費される。安く済ませるためには、下請けが必要なのだ。出版業界も不況の風を受けて、いま以上にアウトソーシング化が進むといわれている。
アウトソーシングを推し進めれば、人材を育成するために遣う経費が減るわけだ。維持・管理する手間も省ける。合理的ではあるだろうが、仕事の質はどうなのだろう。
一般職の採用をやめ、正社員は総合職のみとし、派遣社員を活用する企業が増加した時期があった。だか一部商社では再び一般職を復活させる動きも出てきたという。連携がうまくとれない、というのが理由だそうだ。「かかわる」ことなしに、連携など考えられるはずもない。

仕事に「かかわっている」という実感が持てるかどうか。重要なのはその実感であることはすでにわかっている。どんな会社であろうと、仕事とは組織のなかで力を発揮することだ。評価は1年や2年で明らかになるものではないだろう。でも最初から「かかわる」ことを否定した関係に実感など存在するのだろうか。存在するとしても、現時点で、ぼくはいささか屈折した実感しか持ち合わせていないのだけれど。

長々と、思いつくままに書いてしまったが、いま世の中が是としている流れは、どう見返してみても社会の活力を奪うための方策にしか感じられない。

近代化がもたらしたもの/KENSEI 030615
なんでそんなに先輩が苦手なんだ、という疑問があるかもしれないので、どんな人物なのか特徴を載せてみよう。

1.仕事中に口笛を吹く。
 もちろん大きな音ではなくて、かすかにならす笛だが、横でこれをずっとやられる。
2.歌を歌っている。
 口笛を吹いていないときは小声で歌っている。
3.突然舌鼓をうつ。
 なんだか知らないが、大きな舌鼓をうつ。
4.ドナルド・ダック
 いきなり頬で息を出し入れして、ガチョウのように首を振る。
5.カトちゃんのくしゃみ
 へーっぷし(?)と、どう考えても周囲にアピールしてくしゃみをする。
6.すすって飲み物を飲む。
 これもかなりわざとらしく、大きな音をたててすする。意識してやらなければできないほど見事なすすり上げである。吐息つき。
7.ちらかす
 すべてのデスクと、デスクの用具を自分のもののように使い、そのままにしていく。特に隣のぼくの机は、いつの間にか先輩が座ってる頻度が高い。翌朝、知らない書類で埋まっていたりする。同時に所有している文房具がなくなっている。
8.ペンを口でくわえる
 いつもペンを口でくわえながら仕事をする。だから貸したペンはそのまま先輩のものである。返されても困る。
9.貸して、とって
 なんでもいいが、すぐに人へ用事を頼む。それがどうも「そこの消しゴムとって」だとか、手が届く範囲の用事である。自立した社会人のやることだろうか。

いつも感じるのは、どうも先輩は相当なさみしがりやというか、周囲にかまってもらいたい願望が強いことだ。だからいろいろアピールしているようだが、その心理まで読み取れるので付き合う気になれない。
後輩なら叱り飛ばしているだろう。だから苦手、として近寄っていないのかもしれない。

まるで片想いなんじゃないかというほど先輩のことを気にしているが、ときめきとはほど遠い世界である。

ホワイトノイズのように/KENSEI 030610
会社における昼休みの過ごし方というのは難しい。
バイト先は自分の裁量で、11時半から1時半のあいだに1時間休憩することになっている。
外食はしないので、たいてい自分の机でとるわけだが、まだ脇のデスクでは先輩が仕事をしていたりする。ぼくはこの先輩が人間的にではなく、生理的に苦手なので、隣でものを食べたくない。同時に隣でものを食べてほしくない。

編集学校のクラスメイトが、やはり同じようなことを言っていた。会社を3日でやめた理由が「社長のメシの食い方が汚かったから」だというのだ。
「昼飯に連れてってもらったんだけど、そいつの食べ方ってのがつくった人に申し訳ないと思わないのか? てくらい汚い食べ方で、その上偉そうに社会人の心得とかを説教するわけ。その前にお前人間としてどうなんだよ、と思ったら働けなかったね」

うまく不在の時間を見つけて食事をするわけだが、困るのは残った時間である。なにかをしていなければ、先輩と和やかに会話しなければならない。それはできる限り避けたい。
本も読める環境ではない。読んでいればなにを読んでいるか話さなければならない。自分の読んでいる本を解説するのは、ひどく困ることだ。とくにいま読んでいるのは誰も知らないようなマイナーな哲学書だったりするので、タイトルさえ言うのが、格好つけてるようで、むずがゆい。
インターネットというのも手としてはあるが、残念ながらぼくの端末は先輩の隣なのだ。仕事時以外、横に座りたくない。加えて毎日では飽きる。必要な情報があるときは、最大限に使ってサイトを巡るが、それくらい集中できなければ先輩の横は耐えられるものではない。
(単にぼくが人のことを気にする質であるだけなのだが)

そこにiBookというすばらしい選択肢が現れた。2.2kgという重さはこたえたが、身体もなまっていたしちょうどいい。連日会社に持ちこんで文章を書いていた。会社のフォルダにはまさか文章を残せない。
文を書き始めてしまえば、ほかは気にしないですむ。おかげで連日サイトも更新できたわけだが、なんだか気取っているような気もしていた。

嵐山光三郎の「不良社員の条件」を立ち読みする。面白かったら買おうかな、などと数節に目を通したら「昼休みに本なんか読むな!」という発言があった。
サラリーマンが出世するにはある程度能力があればいい。あとは感情をいかにコントロールしていけるかなのだ、という発言で、頭が良いことをアピールしていいことはない、という。本は自宅で隠れて読め、と。
納得する。自分ができることをひけらかせば、男同士では生意気だと思われたり、嫉妬も起こる。男の嫉妬ほど厄介なことはないだろう。iBookも同じようなものだ。健全な社会人を目指すぼくとしては断念するしかなかった。

本も読めない。文も書けない。では何をすればいいんだろう。普通の会社で、普通の社員は何をしているのだろう。椎名誠の小説のなかでバレーボールをする光景が出てきたが、バレーボールはさすがにないだろう。
そうなってくるとソリティアかマインスイーパーか。GBAか。同僚と話すのか……どれにせよなじめない答えばかりである。

結局、昼休みは社内にいるときは、とらないことに決めた。
その分残業が減るので、一石二鳥である。


どうしても暇なら書店で立ち読み/KENSEI 030609
以前バイトをクビになって、就職活動がうまくいかなくて落ちこんだとき、「いますぐどこでもいいから就職して、見合いして、誰でもいいから結婚してやる!」と自暴自棄(?)になった。
現在でも突発的にこの発作は起こる。安穏と生活していればすぐに治まるのだが、なにかにつまずくと不意に襲ってくる。前向きに後ろ向きで、むしろ正当な感情だろう。理性は応援している。ただ感情が納得してくれない。
(できる・できないの指摘は別にして。あと脳内禁止)

妹と居間で夜中に鉢合わせると、休日の前なら話しこむときがある。ぼくが自暴自棄について語ったとき、妹が大阪商人のような調子でなぐさめてきたことがあった。
「まあまあお兄ちゃん。そうヤケにならずに。そんな悲観的になることないって」
「……なんだかオレ、当たり前の幸せがすごく欲しくなったんだよ」
「焦ることないって。仕事だって相手だってそのうち見つかるよ。見合いなんて早いって。そんなにカッコわるいわけじゃないし、大丈夫だよ」
「んー、じゃあたとえばオレは世の男性を基準にして、だいたい100点満点でどれくらいの位置にいるんだろうね」
「50点くらいかな?」
……平均点以下じゃん。

平均点以下の男/KENSEI 030603
「トニオ・クレエゲル」を読んだ。
これは心に残る名作です。十代で読んでたら感涙してたかもしれない。いまでさえ、その一節一節が忘れがたいほどだから。

一方数年前に「若きウェルテルの悩み」を読んだときは大笑いした。そんな展開ないでしょう、と。ゲーテが「この小さな書物を心の友にするがよい」と冒頭に書き記していたが、ウェルテルは友にはならんなー、などとその一文を笑い飛ばしていたのだ。

最近ウェルテルを笑えません

でもやはり心の友はトニオ/KENSEI 030602

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