anarchists's column back number
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会社は本郷三丁目にある。東大のすぐそばだ。歩いていたら立て続けに正門の位置を聞かれた。
(ボクってそんなに頭よさそうに見えるのかしらん)
などと喜んでしまう自分はかなりおバカだと思う。

ちなみに赤門と正門は違うらしい/KENSEI 030530
コンビニでアルバイトしていたころ、午前中だけ勤務という時期があった。帰り道、正午すぎに児童公園の脇を通り過ぎる。晴れた日にはいつも、工場の青年たち4人がサッカーをしていた。無邪気な笑い声が響く。完璧だ、と思った。
ひと夏のあいだサッカーは続いた。それから勤務の時間帯が変わってしまったので、あのサッカーがどうなったのかは知らない。だがあの青年たちは完璧な夏をすごしていた。

残業で頭が朦朧となり、ツナサンドが唐突に食べたくなった。ブラックコーヒーとともに。Macの前からゆるゆると立ち上がり、会社を出る。もうコンビニくらいしか開いていない。夢遊病者のようにぬるい夜風に吹かれた。脳のなかを文章化してみると……
(あー……つなさんど〜……つなさんど〜〜……あー……つなさんど〜……ど〜……あー)
という具合である。こういうときは常に目指す店に目標物がなく、2軒3軒と意地になって探し回る破目になる。覚悟していたとおり、1番近いコンビニは売り切れだった。やっぱりそんなものか。そんなものなのか。覚醒した脳が軋むように叫ぶ。
(神仏よ。どうせぼくは夢もかなわず、好きな女性の気持ちもつかめず、悲惨のまま人生を終えるでしょう。だったらツナサンドくらい手にさせてください!)
2軒目であっさりとツナサンドは見つかる。そんなわけでぼくの命運はあの晩で尽きてしまった。あとは終焉まで、溶けるように死んでいくのみである。

母親がTVを観ながら、独り大声で相槌をうっていた。
「これはおいしそうねえ〜」
などと感想を言っている。
偶然耳にし、当惑しながら、言い捨てた。
「……独り言は孤独の証だ。やめた方がいい」
いたたまれなくなって、家から散歩に出た。
誰もが、老いる。老いるのはまだいいだろう。孤独なのは、ぼくにも一因があるのだろうか。そう考えるとすまない気持ちで一杯になる。
おそらく普通に幸せになろうと生きてきたのだ。嫁と孫に囲まれて、ただ平凡にすごす毎日を。求めるのは平凡さと堅実さのみである。
そんな日常すら返せない、自分は情けない。

「胡桃のような人生」という沢木耕太郎のエッセイがある。あるタクシー運転手について語った一編だ。完璧に見える人生を送る人は、完璧であるという自覚などもたない。
同時に人生は常に悲惨なものだ。ありとあらゆる悲惨さを受け入れて、平然と生きていけない。自分のことを多感だとは思わない。トニオ・クレエゲルではない。ぼくはただ増上慢で、真と善と美を見る力があると信じていて、真も善も美ももたない。それだけのことだ。

このままでは、ぼくはダメになるな。
また感じ始めている。すっかり気の抜けた仕事振りが身についてしまって、原因を動機の低さにしている。悪い癖だ。
専門書の編集プロダクションは、技術屋である。だから本の内容や優劣は問わないのだ。理想も発想もない。出来がすべてだ。
同期で入ってきたアルバイトと話す。1歳下のその彼は、
「とりあえず正社員目指します。4〜5年やって」
と事もなげに言う。ぼくはもう、次を目指そうとしているのに。
じゃあなにがやりたいのだ、はっきりとはわからない。だから定着しない。定着しないからものにならない。ものにならなければ、いつまでも半端者である。
そんなことは百も承知なのだが。

工場へ出勤する。午前中から汗だくになる。仲間に冗談を飛ばす。昼飯を食べて、腹ごなしはサッカーだ。午後。少し眠いがコーヒーとタバコでごまかす。夕方急に納期の迫った仕事が入ってくる。残業になる。休日の前なら仲間とビールでも飲みに行く。いつもは帰って妻相手に晩酌だ。もう子どもがいるかもしれない。目を細めひざの上に座らせる。そして日が巡り、サッカーは続く。

あの緑のまぶしい児童公園のサッカーへ、ぼくは永遠に仲間入りすることはできない。

パーフェクト サマー/KENSEI 030529
迦楼羅について語るとき、必ず畏友という称をつける。
親友ではない。互いにとって〈かけがえのない友人〉ではない。ぼくはそういっても構いはしないが、向こうは腐れ縁ぐらいにしか感じていないだろう。
出会ったのはもう15年前だ。こちらが一方的にほれこみ、なにかと理由をつけて遊びに行った。すさまじかったのは迦楼羅が浪人で、ぼくが近所のコンビニでバイトしていた頃だ。週に5日は部屋に押しかけて、問答していた。哲学であったり、歴史であったり、迦楼羅の返答に飽きることはなかった。
隆慶一郎の小説「一夢庵風流記」に、直江兼続にほれこんだ前田慶次郎が、連日兼続邸を訪問する下りがある。「うーんなんかオレみたい」と感じ、のちに迦楼羅に話したら「俺も思った」とのこと。ほれたら一途なのが慶次郎の悪いところだが、ぼくもそうなのかもしれない。
以来迦楼羅は常に畏友である。ぼくのほうが学校に通ったり、あちこち飲み回っていて情報は豊富なはずだが、そうして持ち帰った感慨や思考よりも、会社との往復をくり返している迦楼羅のほうがよほど上質の結論を有している。

なにか心に引っかかりを覚えたときは、まず迦楼羅と話に行く。景観についてこのサイトの住人と飲んだとき論争になって、一つも反論できなかったのだが、どうも得心がいかなかった。家は服と同じ。土地は資本主義なんだからどう使おうと勝手。はたして本当だろうか。
「それは空気の話をしてるんでしょ」
「空気?」
ばかさ加減丸出しで、オウム返しに聞いた。
「空気と一緒。みんなが空間のなかで共有するものだから、君は気にしてるのさ」
「空間というのは公共のものであるということか」
「それからみんなよくやるけど、二つの問題を混同しないほうがいい。君は歴史的なことについていっているの。反論は経済でされてるんだから、平行線に決まってる。俺や君みたいに歴史が好きで、歴史的なものを尊重したいと感じなければ、なにをいっても無駄さ」
「では経済的な観点から反論は可能か?」
「無理だね。経済が根本になってしまっている世の中だから」
「貧しい時代だな」
「仕方ないよ」
そのあとだいたい「もっと自分の頭で考えろ」といわれる。それから景観に関してはちゃんと本を読み、自分で考えた。ただ手がかりはやはり迦楼羅である。

ファンタジーでいえば、迦楼羅は森にすむ賢者のようなものだ。ぼくは周辺を旅する行商人あたりか。旅先であった不思議な出来事や、腹立たしいことを迦楼羅にぶつけてみる。すると新しい切り口で物事が語られる。ぼくは納得し、その答えを踏まえながらまた旅をする。
探偵ものならぼくがワトソンで、やつはホームズだ。できれば探偵役になってみたかったが、頭が悪いぼくにその役回りは来ないようである。

15年間話していて、飽きることも尽きることも、まだまだない。
(もちろん24時間一緒にいるわけではないから、正確にはなんともいえないが)
もし迦楼羅が女だったらな……ふと考えることがある。悪くない。ぜひパートナーにしたいものだ。人生のなにかの局面で、話をしたいと感じる。釣り合いもとれている。

「俺は絶対嫌だ」と迦楼羅はいうだろうけど。


畏友/KENSEI 030528
「このあいだね、新しく入ってきた高校生の女の子がね、いいこといってたよ。お母さんに“つりあう人”とつきあいなさい、っていわれたんだって」
先輩とコーヒーを飲みながら、そんな話もした。
「……至言ですね」
「わかってるお母さんだね」
「でもそのつりあう人ってのが、難しいですね」
「そりゃそうだよ。だって、みんな自分がわからないんだもの」


つりあう人/KENSEI 030526
「KENに話したかな。留学のことについて聞いてきた女の子のこと」
ぼくは先輩と八重洲ブックセンターにあるコーヒーショップに入り、話していた。
おぼえてますよ。なにか進展があったんですか?」
「……留学先が決定しましたー、ありがとうございましたーって、このあいだすごくにこやかに挨拶されたよ。今月出発だって」
「……」
「それだけ」
「……」

予定は未定でかつ決定/KENSEI 030525
歌舞伎を見に行った。五月の特筆すべき出来事はそのくらいだ。あとはネタにできないほど痛い心情や、絶え間ない愚考を積み重ねているだけで、実に平穏な日々である。
古典芸能を鑑賞してみたいという熱が急激に高まり、手始めに歌舞伎を選んだ。歌舞伎は千円で鑑賞できることを知っていたからだ。一幕見席という仕組みがある。歌舞伎座は四階まで席があり、一階席で全幕を通して観るときちんとした金額がかかるが、四階席で一幕(演目)ごとに観たなら、必要なのは千 円札一枚だ。野球の外野席に近い感覚だろうか。
ぼくたちが狙ったのは「幡随長兵衛」。ちなみに旗本奴と大げんかを繰り広げた町奴の頭領である。こうした歴史の雑学がないと歌舞伎を鑑賞するのは難しいのかもしれない。江戸の庶民には周知の人物なのだが。
「ジーパンで歌舞伎座に?」
母が驚く。歌舞伎にいくのなら着飾るのが当然だからだ。女性なら着物を着る。一幕見席だから大丈夫だろうと答え、銀座に向かう。
「そういえばジーパンで銀座を歩くの、昔は恥ずかしかったなあ」
同行した先輩の発言だ。二人ともジーンズをはいている。東銀座で周囲を見渡せば、男も女もビジネススーツ姿が多い。歳はぼくたちとそう変わらなく見えるのに、着ている服装の合計金額が二桁違いそうな人もいる。ただ道行く人から奇異の視線を投げられないほどには、カジュアルな格好の人も混じっている。
四階に上がる席は入り口が別になっていて、ロビーに出入りすることができない。加えてエレベーターやエスカレーターもついていない。おそらく学生や若者を想定しているのだ。それでも年輩の御夫婦や、親子連れ(といってもお年寄りと中年女性)などが並んでいる。ぼくらもその列に並んで入場する。急な階段を上り切って中へ入ると、意外に狭い全容と、舞台、三階席が見おろせる。一階席・二階席は視界に入らない構造になっていた。左右へのびた通路の前に三列だけ並んだ席。三階席のすぐ後ろにつく形だ。敷居があるので前へは行けない。
驚いたのは三階席もくだけた服装の人が多かったことだ。近所にでも行くような格好である。ちょうど昼時の幕間でみな昼食をとっていたのだが、これもまた揃いも揃ってコンビニの袋から食べ物とペットボトルを取り出している。芝居見物といえば、弁当も楽しみのうちのはず。精一杯着飾り、おいしい弁当を食べる。これがなくして江戸歌舞伎の見物とはいえないのではないか。自分を棚にあげそんなことを感じる。だからこそぼくは四階席からこっそり見にきたのだが。

垣根を取り払うことが、戦後の日本の目標だった。なにかを行うとき、こうあらねばならないとか、こうであるべきであるとか、強制する観念を嫌った。自由に近づくために。「べき」という言葉で語られる観念は相対化され、「こだわり」と称される個人的な感情としてくくられてしまった。
どんな服装であろうが自由、なにをどう食べようが自由。
否定できる理由が見当たらないのは、ぼくもまた歴史から断絶されてしまった世代の人間だからだろうか。

ちらりと見えた二階席は、着飾った御夫人たちが芝居を堪能しているようで、一安心だった。
はじめての歌舞伎の感想は……うーん。途中寝そうになった。
先輩は実際に寝た。
あと隣に座った人が、連日四階席に通いつめている人らしく、実に大きな声でで掛け声をかけるんけど(「○○屋!」てやつですね)、微妙にタイミングを外していて、いらついた。四階席なんだからかけるなよ、というのは逆に野暮なことなのだろうか。
調べてみたら通常〈大向こう〉(=三階席)から声がかかるそうである。似たようなものかもしれないが、四階席とは〈境界〉が存在してるはずだ。

歌舞伎と「べき」論/KENSEI 030520
この文章は先週からiBookで書いている。畏友・迦楼羅が12インチのNew iBookへと買い替え、不要になったものを借りているのだ。おそらくいくばくかの対価を支払って譲り受けることになるだろう。
スタバへ入ってiBookを広げていると「おいらってもしかしてコスモポリタン?」などと誇大な妄想がよぎる。

クラシック音楽を聞きはじめた。チャイコフスキーを聴きながら本を読む。コーヒーの香りが部屋に満ちる。ふと我に返り、苦笑する。情景の描写だけならまるで〈おぼっちゃん〉じゃないか。文庫本が山と積まれた五畳の狭い自室だ。せんべい布団が敷きっぱなしになっている。

身の丈にあわせたスタイルを営むのは、ひどく難しい。

i STYLE/KENSEI 030519
地元(というか隣町のJRの駅前)にスターバックスコーヒーができた。行ってみると店内は、よく見かける客層が比較的少なく、中年の男女やおばあちゃんたちの休憩所となっている。なんだか巣鴨みたいです。
家族連れが多数を占めると予測していたのだけれど、ここまで雑多な人が集まるとは。珍しいから入ってみようという好奇心もあるのだろうが、なんだかそぐわない雰囲気の人もいる。別段カフェを権威にしようというわけではないが、109の中に男だけで入るわけにはいかないように、店にも物語が存在する。
休憩にコーヒーを一杯。考えてみれば昔から日本には〈茶店〉があったわけで、エスプレッソ・カフェが定着したことを驚くマーケッターがいるけれど、よほど頭がグローバル化しているのだろう。〈喫茶店〉が妙に敷居を高くしたせいかもしれない。気軽に立ち寄るには喫茶店は閉鎖的すぎる空間だ。むしろ受け皿のない町づくりが問題だったのかもしれない。

すべての場に、すべての人を立ち入らせてはいけない。ある場には、ある人しか入れない。正しいことではないだろうか。
なぜならボーダー(境界)はオーダー(秩序)であるからだ。すなわちボーダーレス(無境界)はオーダーレス(無秩序)につながる。オーダーレスを推奨するのが民主主義であり、実行するのが資本主義ではないかと考えている。

むしろ最近はぼく自身をカフェが似合うようなスタイルに作り替えようとしていた。スタイルとは消費の形態だと定義したい。消費の形態でしか、資本主義の個は存在できないようだからだ。
経済的なものと、その他の歴史的なもの・文化的なもの・政治的なものが対立した時、常に経済が勝者となる。そんなことはないと反抗してきたのだが、どうやら動かしがたい事実のようだ。
消費が価値を流通にのせる以上、価値観を行動化することにつながる。価値観は思想を越えることができないから、そこには行動規範がつきまとう。消費は思想を反映する。ゆえに思想に基づいた消費を行うことが、選挙の投票と同等以上に重要なのではないか。そう感じる。

スタバは実に興味深い考察の対象だ。

スタバ経済哲学/KENSEI 030518
夜道で男を見た。タバコの灯が顎のあたりで揺れている。すれ違い、ふと視線をやる。外灯から届く光に映えた、白目とケーキの箱。薄闇の中でもかぶった野球帽は年代ものであることがわかり、シャツからは汗と脂の浮いた匂いが漂ってくる。
男はそのまま脇のスナックへ吸い込まれていった。

どこの町にでもある近所のスナックだ。ママと呼ばれる中年の女性と、ママよりは少し年下の女性が二人で切り盛りしているような。薄くカラオケの歌声が漏れてくる。男が手にしていた箱は、これもどこの町でもあるチェーン店のケーキで、いまどきの子どもは買ってやっても喜ばないかもしれない。

店に入った男は箱の蓋をカウンターの上で開けて、
「ほらママ、ケーキ買ってきたよ」
などと言っているのだろうか。
ママはどびきりの笑みで喜んでみせるのだろうか。

ケーキと孤独/KENSEI 030515
「KENSEIさんは愛がありますね」と言われた。

ぼくは単純な男である。
だからこそ無用な関わりは持ちたくない。
「KENって、興味のない人には本当に興味がないよね」
と感心されたこともある。
(これが当時まったく興味のわかなかった女性の発言なので、なんだか意味深長だ)

嫌な人には近づかないし、悪口には同調しない。
人物評はするが、肯定できるから批評もできるという考えだ。「あいつはああいうところがダメだ」という発言は、評した人物を受け入れているからできるのである。
だから人に対してなにか意見するときは、たいてい“善い”方向へ行ってもらいたいと感じたときだ。もちろんぼくの信じる善い方向に過ぎない。
不思議なことに、どんなに嫌っている人物でも、正面きってなにかを言うときは、どうにかして矯正できないかと方策を探っている。余計なお世話だ。
その余計なお世話が興味のある人物だと増幅される。だから「愛がある」という評価に繋がったのだろう。

ある夜、知り合ったばかりの人たちと飲んだ。一人が電話でぼくを呼びだしたのだ。いま飲んでいるから来ないか。残業も早く片付いたので、駆けつける。人には添うてみよ。あまり知らない人なら、まずは接してみなければ。
表面だけの会話でなく、かなり際どい話もあり、それそれの人柄をつかめたような気がした。いろいろな人がいるものだな、というのがこの歳になっても浮かぶ感想だ。打ち解けた雰囲気が続いて、その日はお開きになった。
ぼくはそのうちの一人と連れ立って駅までの道を歩いた。しばらく黙っていた知人が一言。
「……あいつとはもう二度と飲みたくないな」
硬直した。だってあんなにも親しくおしゃべりしてたじゃないか。

ぼくは愛があるというより、ただ単純な人間なのだろう。ひたすらに。

愛だけならいつでもある/KENSEI 030511
あなたは占いを信じるほうですか?

ぼくは意外と信じてしまうほうである。一見「運命に従ってたまるか!」という面構えをしているらしい。ただぼく自身は血液型や星座、おみくじといったものを、意外と指標にしている人間だ。あくまである程度までだが。
ちなみに動物占いならぼくは「羊」である。ガンダム占いなら「プロトタイプガンダム」。だからどんな人物と相性がいいということもわかっている。
動物占いなら同じ「羊」。ガンダム占いなら「ガンタンク」と相性がいい。堅物で地道な努力を続ける人だ。血液型ならA型である。
みなが同じとは限らないが、理由はわかる。安心して組織や流れを任せ行動することができるからだ。ふまじめな人間といると、義務感から場を引き締めにかかる。逆にまじめな人間がいれば、安心して飛びまわれる。休もうが先行しようが自由だ。遊軍扱いが好きなのである。

畏友・迦楼羅は理系の上、冷静な人物である。しかし不思議と話題に占いを用意している。動物占いも、ガンダム占いも、迦楼羅から得た情報は多い。先日も職場の同僚にガンダム占いの結果を教えてあげたのだという。
「つきあってる彼女さんとか、奥さんとか、みんな同僚よりも性能がいいんだ。やっぱ立場も強いって」
「お前が占いを語るというのも、考えてみれば妙なものだな」
「だって、あきらめられるじゃないか。相性が悪いんだから仕方がないって」
上司でも、同僚でも、どうやっても相容れない人間はいるものだ。なぜあいつはあんなやつなのだろう。……相性が悪いからだ。そう考えれば、明快に割り切れはしないが、承服はできる。占いの効用は、少なくとも対人関係においてはこの現状肯定に尽きるのだという。
同僚のなかに自分がボールで彼女がリックドムのカップルがいたそうだ。連邦とジオンのMS/MAの組み合わせは、相性が悪い。性能差がある上、連邦とジオンではいいことなどありそうもない。
「現に同僚も彼女さんと、なにをやっても合わないねって話してるらしいよ」
それでも一緒にいるのは、現状を肯定しているからなのだろうか。

重要なのは、あるものはあり、ないものはない、そう認めることなのかもしれない。占いは手がかりに過ぎず。

占いの効用/KENSEI 030506
学校に頼りすぎじゃないか、と言われる。
確かにこの十年、アルバイトしながら様々な学校に通った。予備校、大学、シナリオ教室、印刷、そして編集・ライター。通うごとにできることの幅は広がったが、なに一つものになっていない。
人から学んだだけでは伸びないのだ。仕事に就けば、否応なく自分を使うことになる。自身で磨く意識を持ち動けば、結果として能力がついていく。
自分で稼いで学費を払ったから、一人前の気分でいた。しかし十年たってもまだ半人前のままだ。子どもは大人を気取り続けると、大人になりきれないという。似たような状況かもしれない。

KENSEIくんは、自分でなにに向いていると思う? と聞かれた。
「優等生」
と答えると、友人は大笑いしたが、笑いごとではないのである。

学生気分/KENSEI 030505
なんだか知らないがぼくの周囲は春めいている。
就職だの合格だの、妊娠だの両想いだの、なにかの節目が次々と友人たちに訪れている。
その極みが同年代の親類で、この夏、従兄弟と又従兄弟からそれぞれ結婚する報せが届いた。とくに付き合いの深い又従兄弟は同い年。いままで浮いた話一つなかったのだが、ここへきて急速に進展を見せた。
母親がしきりに「親は子どもが結婚してくれれば安心して死ねる」などとぼくに説く。やたらと大家族もののTV番組を見せるし、一方的にこちらが話題を打ち切らない限りは、延々と「家庭」「夫婦」の効用について解説する。
だ・か・ら、いないんだよ。無い袖は振れません。
実家から逃亡を計画中である。

でもこの春パワー、まだまだ続きそうな気配です。

春パワー/KENSEI 030502

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