先日食事をした先輩はぼくより少し年上。三十を越えている。ひょうきんで、ボケ倒すタイプのキャラだ。たまに放置されるほど恒常的に明るい。ぼくが辞めてかなり経つが、先輩は相変わらずのようだ。コーヒーを飲みながら遅くまで話しこんだ。
以前アルバイトしていた店は、某専門店街にあって、休憩所をフロアごとに共用している。ある朝先輩が出勤すると、突然別の店の女の子が話しかけてきた。店は違っても、同じ時間に食事をとる人は会釈の一つも交わすようになる。先輩はすべての人に挨拶する。だがその女の子はそういった関係でもない。
「わたし実は留学したいんですけど、そちらの店には留学を経験してる方っていますか?」
店にちょうど志望する国の経験者がいたので、引き合わせることができた。それ以来立ち話をする間柄になったという。
「で、KENに聞きたいんだけど、どう思う?」
「なにがですか?」
「普通、初めて話す人間に、そんなこと聞くかね。しかも男だよ?」
それならぼくだって感じていた。でも男が陥る、深い罠が存在しているかもしれない。
「……話しかけやすかっただけかもしれませんよ?」
「そうかなあ」
「……ともかく情報が欲しかったとか」
「あれからね、よく休憩室で会うんだよ。出勤すると、ちょうど休憩に来てるんだよね。食事の時間帯は違うから、いままで本当に何度かしか見かけたことないのに、留学の話をしてから、もう3回も会ってる。もしかしたら……」
「かわいい子ですか?」
「かわいいんだよ」
「ともかく現象から女性の気持ちを読み取ろうなんて、ぼくらには無理な相談ですよ。重要なのは先輩の気持ちじゃないですか?」
「……」
先輩のやけに長い沈黙が、答えが選択肢に含まれていなかったことを暗に示す。
「実は気になる子がいるんだよねー」
先輩はいま職場のアルバイトに惹かれていた。随分年上であることを自嘲しつつも、懸命に話しかけているし、その子が学園祭に参加していることを聞くと、見学にも行ったのだという。
「それはやりすぎなんじゃ……」
「そう思ったんだけどさ」
しかも本人は見つけられなかった。あとで遊びに行ったことを話題にはできたけれど、それから当の女の子からは敬遠されている。少なくとも先輩はそう感じている。
「もうダメかな、と思うんだよね。ねえKENどうよこれは。こういうときに、自分を想ってくれてそうな女の子が現れて、かわいくて。でも俺はやっぱりあの子と……」
「……」
「エッチしたい」
イスから転げ落ちそうになるのを踏ん張って、体勢を立て直す。
「……知りませんよ。ただ、否定する必要はないでしょう。じっくり見極めていけばいいんじゃないですか」
まったく。わかったような口を利く。そんなことは先輩だって百も承知だろうに。それにしても若者だらけのなかを、先輩は独り、どんな顔をして歩いたのだろう。悪いが、苦笑してしまう。
「KENだって好かれたことあったじゃないか」
先輩がやり返そうとぼくを指差す。ぼくと先輩はそのころ昼食はおろか帰りも同じ方向で、出勤の日が重なると朝から夜まで一緒に過ごしていた。
「そんなこともありましたね」
二人で忍び笑いをもらす。ぼくが生涯唯一の「本命チョコ」をもらったのはこのバイト先を辞めるときだった。バレンタインデーもとっくに過ぎていたのだが、出番が最後の日、先輩と二人帰ろうと休憩室を出たら、あとから誰かに追いつかれた。
振り返ると、ほとんど話したこともない、新人の女性で(といっても年上だった)、なにかを察したらしい先輩は消えようとして、得体の知れない恐怖を覚えたぼくは先輩の腕を必死でつかまえた。
「これ、二人で食べてください!」
紙袋を強引に押し付けられ、女性はヒステリックな笑いを残しながら駆け去っていく。駅のホームで紙袋を開けたら手紙とチョコレートが入っていた。頭痛の種が増えたというのが正直な感想で、なんの因果でこのオレなんか好きになるヤツが出てくるんだ、と苦い気分でやりきれなかった。いい男は掃いて捨てるほどいるだろうに。その女性とはメールを数度交わして、正式に断った。好きではない人を、いきなり好きになれはしない。
もっともその半年後、今度は自分が同じように「自爆テロ」としょうたくんが採点した劇を演じる。異動や卒業のときにはありがちな展開だ。ぼくも自分がアルバイトを辞めるせいだった。
「あまり親しくないうちに、自分の気持ちが盛り上がっちゃうとそうなるよねー」
先輩が共感をこめてうなずく。そのときに、ぼくはこいつがフェアなゲームであることを悟った。忠実にアンフェアなのだ。そして恋に文脈(コンテキスト)がないことを思い知る。映画の脚本のように伏線も理由も必要ない。
あのときと違って、少しはゲームのルールをかじった。先輩は骨の髄まで沁みている。だからまず親しくなろうとしているのだ。
「俺はちょっとやそっとのことでは、挫けたりはしないよ」
でも同時に、ダメなものはダメだということも承知している。
先輩がどんな選択をするのかはわからない。だがそれにしても恋は滑稽なものだ。どこか情けなくて、格好つけられなくて。まさか自分の身に訪れるとは微塵も予測していない。
でも出会った瞬間から、すでに確定している。
PLAY THE GAME/KENSEI 030201
冬の澄んだ大気のなか、青空を仰いだ。よく空を見上げる。あれほど深く高かった秋空が、いつのまにか薄く奥行きをなくしていく。水色の冬空は明るく晴れ渡り、ビルの合間に広がっている。その朝、気の趣くままたどった思索が不意に言葉を選び示した。
「世界を愛することと、知ることはまったく別のことだ」
それはそうだが、と上辺だけの格言めいた短文を怪しむ。
真意を理解したのは、会社からの帰り道だった。
透明な黄昏なかで佇む。
(ああ、こんなにもこの街を、いやこの世界を愛しているのだなあ)
オレンジ。ラベンダー。水晶のような天球に溶けこんだ色。美しさへ自然と覚えた感慨に、確信がこみ上げる。
私は世界に愛されたいと望んだ。
だから世界について知ろうと考えた。
すなわち決して愛されることはない。
世の中には健全な人間が存在する。
健全とはなにか。
世界を愛し、すべてを愛し、また世界に、すべてに愛されていることを微塵も疑わない人間のことだ。
また世界もそういった人間を愛するだろう。
私は愛されることを望むがあまり、世界を知ろうとしたのである。どうすれば愛されるのか。ルールを理解し、吸収し、健全な真似をする。分析して解釈して定義する。常に想定不可能な命題を眼前へ突きつけられながら。
私は世界の愛を死ぬまで信じることができないだろう。
学生時代の友人たちと飲んだ。職場の人間関係で一人は「お局様」に我慢の限界。一人は自分が倒れる寸前。両者ともに強烈な性格(キャラクター)を所持するだけに、周囲との調整が必須である。とくに後者の友人Tは、私が言うのもなんだがオタクだ。変人だ。自覚もある。だから勤め先で人格(パーソナリティ)を「真面目」に設定し、性格を隠し通した。そのせいか完全に孤立してしまっている。個性を出さなかったことが薄気味悪さに繋がったのではないかと推察するが、本当のところはわからない。ともかく部署をともにする同僚から結婚式に招待されないようでは、隔絶を確信しなくてはならないだろう。
人間関係でそんなことはないのか、と二人が私に聞くので、最初はつまずくかもしれないが、最終的には解決できる、と返答した。
「だって、それだけ気を遣うからね。おそらく最後はみんな(私のことを)好きになるんじゃないかな」
「……やたら大胆に小心なことをおっしゃるね」
私は人に好かれるために、好かれる術、同時に嫌われる行動を必死で学んだ。好かれる術を磨き、嫌われる行動を避ける。反応を観察し、兆候は見逃さない。少しでも着目すべき手段、対象に感銘を与える手段を持つ人間がいれば、隣に立ち模倣した。マニュアルは歳を重ねることに厚くなり、手順が省略化され、効率を高めることができている。
だが「本当の私」はまったく愛されていない。月並みな台詞だ。吐くのが恥ずかしいほど平凡な台詞である。私は現時点で受容されている。だがその受容は媚と紙一重の小心さが産んだものである。
友人Tは以前、私を名づけて「豪華な箱」と呼んだ。「後ろにファスナーがついている」とも。私は私を演技し、その舞台を降りるわけにはいかない。少なくとも私はそう信じている。友人Tは演技に失敗した。友人Tは私を上手の人間だと感じたようだ。少しばかり羨ましいと言った。私は反駁した。
「違う。知人として尊敬される人間かもしれないが、愛される人間ではない。愛される人間というのは秋月のような人間のことを言うんだ」
なにかと秋月を私は引き合いに出す。その理由は秋月が健全さを感じさせる人間だからである。私はその日の夕暮れに思い至った、世界についての考察を語った。
「秋月のような人間は、周りにあるすべてを愛し、かつ愛されていることを疑わない。だから愛し、愛されることができる」
「なるほど。たしかに秋月くんはすべてを愛している。それでいてあれほど面白いことが言えるやつはちょっといない」
友人Tはその「世界」という発想そのものがKENSEIっぽいとした上で、私のことを「真っ直ぐ屈折している」と評した。
愛することと知ることは異なることである。
だが私には知ることしかできないだろう。
世界に永遠の片想いをする。
永遠の片想い/KENSEI 030126