anarchists's column back number
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ずっと終電で帰っていたものが一段落ついて、久しぶりにかなり早く地元についた。コンビニに立ち寄ると、食品が大盛りに並んでいてうれしくなる。
遅くなると腹が減るので夜食を求める。棚を見ると、サンドイッチの二択という状態だったりする。かつての共産圏のマーケットのようにがらんどうだ。
好きなヨーグルトは例外なく売り切れである。POSの発達はいいが、悲しいことだ。

真夜中の共産圏/KENSEI 021128
編集者養成の講座に通い始めた。
毎回のように実践的な課題が出されて、現場で編集長クラスの人が採点してくれる。
今回は本格的な「企画」に関する講座で、提出した課題の講評が行われた。総合週刊誌の記事を企画するというもの。「読まれたらどうしよう〜」「なんか厳しいこと言われそうだね」などと盛り上がる。生徒のたてた企画タイトル一覧表が配られ、講師がコメントしていく。無難な助言を、あるいは柔らかく欠点を指摘する。
「通用しそうな企画が今回4つある」
と話して、ときおり感心した様子で着眼点の良さを語る。もし誉められちゃったらどうしよう、と空想したのもつかの間、一言ずつ順番に来ていたのを跳ばされた。

またしても井の中の蛙かよ……

ほめられず けなされず/KENSEI 021127
別れた恋人と再会して酒が飲めるか?
この質問に対して大抵の男は「無理」と答えるのではないだろうか。

そろそろ忘年会のシーズンだ。友人同士で行うとき幹事を引き受けることが多いが、ある仲間では必ず忘年会・新年会を2回行う。帰省や仕事による集まり具合にもよるが、最大計4回開かれることもある。どうして、と聞かれれば、グループ内に別れた恋人同士がいるからである。
ぼくらは双方と友人なので、どちらとも酒がのみたい。
しかし男の方は「それは勘弁してくれ」。
女の方は「連れてきたければ連れてくれば?」。
両者の態度は著しく違う。男性は自分から別れを選んでいる。一方的にわだかまりを覚えているのは男性のようだ。

実は以前にもう一例あって、少人数で飲むときにたまたま別れたカップルを呼んでしまった。女性には男性が来ることを知らせていて、彼女は「元気にしてるか会ってみたい」と話していた。
彼女へ連絡がついたのが飲みの直前だったから、男性に知らせるのを怠ってしまう。ちなみにこちらも男性が別れを切り出していて、振られた方が会いたいと言っているからと安心していた。
予想に反して飲み会の間ずっと二人の視線は合うことがなく、冷え冷えとした会をつくるという致命的なミスをおかしてしまう。以来男性は誘いに乗らなくなってしまった。だけでなく現在は音信不通だ。

その事例を踏まえ、別の組では男性に配慮して2回にわけて開いている。たまたま別の友人グループで忘年会の話題になり、口に上らせた。すると女性陣から猛反発を食らう。
「それは自分勝手だよ」
というのである。
友人でいいやつであるから、必死で弁護してしまう。
「よほどひどいフリ方をしたのかといえば、そういうわけではない。思うに、男の根底にはこの女を幸せにしようという想いがあり、自分の責任ではあるが、果たすことができなかった。その罪悪感があるのではないか?」
ぼくは考えながらそんなことを語った。するとまたしても反論があった。
「それならなおさら自分を傷つけたくないから逃げているだけで、女性が会いたいと願っているなら、男は顔を合わせてお互いの関係を正常化すべきだ。だって、お互いが好きで過ごした時間を否定してはいけないから」
ぼくは困った。まったく無理して二人を会わせる必要はない、と感じているからだ。会うべきだと主張するのは蔑視的な言い方かもしれないが、女性だからではないか?

するとセキちゃん(男性)から反論があった。
「KEN、それは女性だからじゃないよ。俺も彼女たちと同じ意見。それに別れてから会うカップルだって世の中にはいるよ」
「そういう(会わない)男って、最悪だと思う。女だからでもいいけど、わたしは絶対そんな男と付き合わない」
正面に座る友人がが断言する。苦笑してセキちゃんを指差す。
「じゃあ、こういう男を捜してもらうしかないな〜 でも、俺は物語はそこで終わらせるべきだと思うけどなー」
「KENちゃんはロマンチストだね」
今度は苦笑されてしまう。ふと気付いて言った。
「思うんだけどさ、セキちゃんてどこか思考が中性的というか、必ず意見を聞くと女性側に重なるときがあるよな。もちろん、男性、女性というのは極端なものの見方だけど」
不思議なもので、話したとき男女で真っ二つに割れる論題というものがある。しかしセキちゃんはそんなテーマでも大概女性寄りである。
「んなことないよ。それはKENの偏見だよ」
「すくなくともロマンチストではないしね」
「俺だってロマンチストだよ」
「リアリストだよ。絶対」
「んなことねーよ」
「あ、わかる。例えばね、どこかで追い詰められたとするでしょ。そのときにKENちゃんはいかに美しく死ぬかを選ぶタイプ。セキちゃんはどうやったら生き延びれるかを選ぶタイプ」
「まさにそう。俺は玉砕することを選ぶだろうね。セキちゃんはいつもそう……どこか現実をわきまえてる」
「まあ、それだったらわかるかなあ。……それに前別れた女について別の連中と話しても、たぶんみんな反対するだろうしな」

振られた男性の意見は聞いていないから完璧ではないけれど。
もし男がロマンチストで、女がリアリストだとしたら。
終わった恋を終わったままにするのがロマンなのかもしれない。


ロマンチスト・リアリスト/KENSEI 021124
目尻に皺が出てきている。
数年前には兆候すらなかったのだから不思議だ。皺ができたからといってどうということもない。むしろ興味深く観察してしまった。しかし自分の身体に戻せないものが刻まれていくのはなんだか嫌な気分である。「老い」という無縁と信じていたものの歩み寄りを感じるからか。
「男の人だからそうなんだよ。女だったら、もう、それどころじゃない大騒ぎよ」
と語ったのは友人の女性だ。ぼくより少し上で大台に乗っているのだが、眺めても皺は発見できない。手入れに余念がないのだろうか。でも美しさを保つ努力をするのはいいことだと思う。

それにしても年齢を顕著に感じるようになるのは25を越えてからである。みな口を揃えていうのだが、25を越えると「吐くまで飲めなくなった」というのだ。
衰えを日々かみ締めている。

OVER AGE/KENSEI 021122
ていうか、久しぶりに再会した後輩(♀)が、完全な2ちゃんねらーになっていたってのはどうなのよ?


ええ、君のことです/KENSEI 021121
新しいコートを買わねばならない。ノースフェイスのダウンジャケット(黒)を持ってはいるのだが、羽があちこちから生えてくるうえ、肩のあたりが紫色に変色してきた。元から贋物をつかまされていた。我慢して着てきたのだ。

ダウンジャケットは買った当日から、羽が衣服についてきた。脱ぐと下に着たシャツやセーターに無数の白い羽がまとわりついている。ショップに交換を要求したが、品を換えても同じで、結局返品はきかなかった。縫い目からすぐ白い羽が頭を出す。色違いを持っている坊やに聞くと羽が出る気配は何年着てもないという。
当時上野でバイトしていたから、アメ横で買ったのだが、その後買った黒セッターも贋物(並行輸入品で正規品ではない)なので、以来上野で買い物はしていない。ぼくなりの大枚をはたいた結果が連敗続きで、常日頃ファッションのアドバイザーを求めている。

実は今年注目しているパーカーがあって、軍用で完全防寒の上、12個もポケットがあり、シルエットも洗練されている。
ただし値段が8万円だというのだ。
これは買いなのかなあ。どうなのかなあ。
みんなどれくらいお金をかけるものなのかなあ。

多々服装的失敗2/KENSEI 021120
江藤淳さんの著作を読んでいる。まだ読み始めたばかりだから、内容に触れることは避けるが、日米というものについての感慨を思い出した。
その昔、日本人が「エコノミック・アニマル」と称された時代があった。そのころぼくは「エコノミック・アニマル」という響きに恥じいったものだ。日本人はなんて薄汚い民族なのだと。
しかし時を経て、ぼく自身の仕事に対する姿勢と照らし合わせて考えるに、当時から日本人が金のために働くということはなかったのではないか。そう感じ始めた。もちろん儲かればうれしいが、目の前の仕事をひたすらこなすうちに、もしくは会社のため、家族のため、同僚のため、夢中で働くうちに業績が伸びていた。そんなところではないだろうか。
血を流すほどに励む根底に、親和動機(他者と仲良くなろうとする気持ち)が拠り所となる民族である。むしろ最近の若者のほうが金を稼げなければ働かないという利己心が強いのではないだろうか。

ぼくは「エコノミック・アニマル」という言葉に、むしろ欧米諸国の浅はかさを見る。つまりは働くということに関して、金銭以上の目的を見出せないという自身の姿をさらしているからだ。
懸命に仕事をこなす人間を、あれは金がほしいのだと指差す民族こそ「エコノミック・アニマル」だろう。すなわち、真の悪魔とは、人を悪魔として陥れるものに他ならないからだ。
誰かが誰かを評するというのは、評する立場の存在をも浮かび上がらせる。肝に銘じておくことの一つだろう。

どちらが「真」の/KENSEI 021119
飲み会のたびに友人から、
「読んだよ」とか、
「今日のこと書いてよ」と言われるようになってしまった。幸か不幸か。
最初は要望になるべく応えるようにしていた。しかし毎回特別なことがあるわけではない。書こうと思えば書けるのだが、披露するほどでもない。苦笑してごまかすことが増えていた。
そう考えるとこの数週間ずっと、出来事はそんな調子だ。書こうと思えば書けるのだが、掲載するほどではない。当然更新も滞りがちになる。

坊やから連絡があって、会うことになった。本を探すのを手伝ってほしいというのだ。それならお手の物である。神田の古書店を巡り、三省堂で棚前に陣取る。ついでに秋葉原まで歩いてみる。いくらでも記すことはあるのに、取り立てて今日のネタにしようとは感じない。夕食をとりながら坊やと話す。楽しい話や、含蓄に富んだ発言は出てくる(「30を過ぎた女から好かれていると感じるのは80%錯覚である」とか)。それでもいつものように、なにか「これ」という印象を受けない。坊やが急激に変わるわけがない。なら刺激をつかめないのは、話を聞いているぼく自身の問題だ。そう思い至る。

連日更新していたころ、どんな些細なことでもネタにしようと気張っていた。飲み会にせよそうだ。書くつもりで臨めば、まったく違った物語が拓けたかもしれない。
常にアンテナを立てよ。ぼくが選ぼうとしている商売は、そういうものではなかったか。
猛省する。
事件が起こるわけではない。ぼくが調理するから文章になるのだ。
ネタはあくまでネタ(素材)である。

素材/KENSEI 021117
この一週間ほど、連日帰宅が十二時を超えていた。今日は早く帰れたなーと感じて家に着いたのは十時半で、勤め人の苦労を思い知る。バイトの身だから責任は断続的なものに過ぎない。一年を通してこのスケジュールをこなしている人は相当量いるはずだ。

とある小さな出版社の仕事を請けて、ぼくが中心になりDTPの作業を行っていた。恐ろしいことにDTPと印刷について知識の豊富な人間が社内にいない。いままで簡単なDTPは行ってきたようなのだが、写真を交えてのDTPは例がないというのである。しかも300点近くある。
スキャナはフラッドベッド。一応業務用ではあるらしいが、きちんとした印刷所の持つスキャナとは雲泥の差だ。これでスキャンして、レタッチ(画像修正)する。印刷用としては、大丈夫だろうが、素晴らしいわけではない。
写真の点数が多い書籍のわりには、レイアウトの指定はいいかげん。書籍からスキャンしてくれというものもかなりある。しかも無断使用だ。こちらは印刷を勉強したといっても素人である。最低限のレタッチしかできないうえに、元々の画像が悪い。こんなの商業出版物にしていいのか? とさえ感じる。(じゃあなんでこんな仕事請けたんだろうと思うが、思っても事態は進まない。)
加えて担当さんがせっかちな人で、綱渡りでやっているところへ電話で催促が相次ぐ。うんざりして切れる。なんとかできるだけのことをやろうと「速さと質の両立」にこだわっていたが、「質」を完全に破棄することに決めた。普段なら工夫や試行錯誤を凝らすところを、無視して機械的に作業を進める。もちろん最低限のことはこなしてある。
期日を二日越えてしまったが、まず午前中に半分を、夕方に半分を、渡すことで決着した。午前中に仕上げた分を持っていくと、小さなオフィスで年配の男性が一人パソコンをたたいている。担当さんだ。コーヒーを出してくれる。書籍作りの苦労などを聞く。わかってはいるのだが、悪い人ではない。むしろちょっと頑固そうだがきさくなおっさんである。やはり仕事の品質を向上させるためには、円滑に人間関係を築くことも重要だなあと感じる。今回質を下げたのはこの人のせっかちなところだよ、などと責任転嫁する。電話はやはりいけない。会って話さないといけない。そうすることでわかることがある。というよりも、お互い顔をみると強いことは言えないからだろう。
夜仕上げて顔を出す。一人は担当さんで、さらに二人の年配の男性がオフィス で働いていた。担当さんに残りの分を渡すだけで帰ろうとすると、引きとめられる。社長と役員だ、と紹介される。二人とも優しそうなおじさんだ。担当さんが手近なコーヒーカップに蓋の開いたビンからレモネードを注ぐ。あんたそれ昼に俺が飲んだコーヒーカップでしょ、と言いたくなる。洗わず放置されていたものだ。黒い粉が浮いているが、礼儀で口をつける。老人会に遊びにきてしまった孫のような気分になる。片付けたいことが多いのでひたすら帰る意志を示していると、社長さんが外へ通じるドアから缶コーヒーを持って現れる。社長さん自ら表の自販機で買ってきてくれたのだ。
「いやさ、朝ならコーヒーいれてあるんだけど、もう飲んじゃったからさ」
腰を浮かしていたところなので困っていると、担当さんが、
「持っていきなよ」
と言ってくれる。ごちそうさまです、と受け取って外へ出た。
適当な仕事はいつも痛烈に後悔する。

夜道を、温かくて甘いコーヒー片手に、飲みつつ、歩いていく。
画像は校正の入った分を訂正して返すとき、質の高いものになっているだろう。

適当な仕事/KENSEI 021113
女性の「香り」に弱い。
元々匂いに過敏な性質である。神経質といってもよい。
きつすぎる香りは苦手だ。デパートの化粧品売り場などを歩くと酔ってしまう。時折つけすぎの男性などと隣り合わせて気分が悪くなる。

それでもふと通りすがった残り香や、たまたまスタバなどで並んだ香りに反応してしまったりする。砂糖菓子のような華やかさ。水を感じさせるしっとりとした空気。清潔そうなシャンプーの甘さ。よいと思う香りの女性を見つめてしまう。特に上質のバーボンを思わせる滑らかな香りが好きで、アンダーノートの艶めかしさを夢想して悔しがったりする。きっと誰かが肌から堪能している。
「シンメトリな男」(竹内久美子)によればいい男・いい女は香りもいいそうだ。だから香水をつけて少しでも近づこうとする。いつか自分でも試してみたいとは考えるが、いま一つ似合わないという気がしてならない。逆に意外さという意味では面白いかもしれない。
でも不思議なもので、ぼくが一番ときめいたのはハンドクリームの匂いがする女の子だった。(まあ要は、本屋はいつも手荒れする商売ってことです)

最近ショックだったのは、会社でいい香りだな。だれの残り香だろう。と感心していたら、トイレの除菌スプレーの匂いだったことです。

残り香/KENSEI 021109
掲示板でネタになっている「ダメ人間度チェック」をやってみた。

結果 - ダメ人間度チェック2002ver2.0最終版

47 点 : ダメ格付B 普通のヒト(真面目タイプ)
ダメ人間とは、無縁な人間ですが......心の奥底に
ダメ人間に成りたいと感じている部分が少しあるみたいです。
できれば、このまま普通の人間として生きて欲しいです。
そうです、無理にダメ人間に成ろうと思わないで下さい...

その方が幸せです、そう絶対幸せです。世の中には
ダメ人間から、普通の人間になろうと努力している人が
いるぐらいですから........まっすぐこのまま生きましょう。

そして、まっすぐ生きる為にも、このダメ協にて
ダメ人間の実態を観察する事も一つの方法でしょう。
最後に、ダメ協にハマリ過ぎてダメ人間の道に
来ないように注意してください、お願いします。


……ここでみんなを観察していれば大丈夫そうだな。

ダメ人間実態観察満載/KENSEI 021107
畏友・迦楼羅は食の範囲が狭い。共に行動することが多いのだが、いざ食事となると大抵ファーストフードになってしまう。
まず熱いものが苦手である。かなりの猫舌だ。冷たいものも苦手である。胃腸が弱い。たとえばアイスクリームなどめったに口にしない。また刺激物が苦手である。辛いものは食べられない。胡椒やマスタードなども苦手。
加えて麺類は避けたい。パスタ類は大嫌い。うどんも嫌。ラーメンと日本そばはなんとか我慢できるようである。
さらには、食事をしたあと動き出すまでに小休止が必要である。十五分は座っていないと体がついて行かない。混雑店は不可能だ。
となると食事には店選びが重要になって気を遣う。
「おまえは俺の彼女か?」
と突っ込みを入れたこともあるくらいだ。

こうなってくるとやはりファーストフードが無難なのだが、毎回では飽きがくる。迦楼羅は食物摂取に対する関心が希薄だからいいが、こちらはそうもいかない。いろいろ試したところ、最近はラーメンが定番になってきた。迦楼羅も冷まして時間をかければラーメンなら食べられる。新宿界隈で休日を過ごすのだが、話題のラーメン屋には事欠かない。空く時間帯を狙って次々とラーメン屋を開拓する。
しかし、そろそろラーメンにも飽き始めた。バイト先の先輩からうまいカレー屋の話を聞く。ちょうど映画館のそばにあるので話した。迦楼羅は辛いものは無理なので通り掛かりのネタであったのだが、
「昼はそこでいいんじゃないの?」
と言う。半信半疑で街を移動する。スタバに行こうと考えていたからだ。スタバはいま凝っているし、迦楼羅の条件にも合致する。
「本当にカレーでいいのか?」
「別に一番辛くないカレーを頼めばいいだけだから」
「本格的なインドカレーだぞ。保証できんが」
「……君はオレの好き嫌いが激しいって言うが、君は注文がうるさい。だからカレーで決めてしまっ方がいいよ」
真っ向から指摘されて黙り込む。たしかに、どんなものでもぼくは表立って好き嫌いは言わない。ただしいざなにか行動を起こそうとするとき、常に優柔不断である。もっと良い選択肢があるのではないかと考えてしまい、なかなか決められず街をさまようことになる(ときもある)。それに付き合ってはいられないということだろう。
きっと二人の生き方にも共通して言えることなのかもしれない。そんなことを思う。

カレー屋はバイキング形式で、一番辛くなさそうなカレーをよそって迦楼羅は食べていたが、案の定ほとんど食べられず終了。
こっちはおかわりした。うまいカレーだった。

カレーライフスタイル/KENSEI 021106
父に捧ぐ映画:ロード・トゥ・パーディション

マフィア。父と子。すべてのアメリカ的な神話を集めたら、こうした映画ができあがるのではないだろうか。
俳優は文句なし。葛藤も見事である。だが展開がすべて読める。アメリカの時代劇かもしれないと唐突に感じる。つまり「おとっさんお粥ができたよ」「いつもすまないねえ〜ゴホッゴホッ(←せきの音)」と同質の価値観が眼前では繰り広げられているのだ。
監督は「アメリカン・ビューティー」のサム・メンデス。これもアメリカを描いたという意味では延長線上の作品であろう。行き届いた濃やかな演出。工夫のなされたカメラショット。飽きさせずに最後まで見せる手腕は高く評価できる。(同行した迦楼羅によればむしろ日本的手法を持つ監督で、黒澤のニオイがプンプンするそうだ。)
あまりにも定型の、理想化された父親と息子像を示す意味はなんなのだろう。
いや、きっとそうではない。こうした物語を常に人は求めている。ラブストーリーが供給過多なように。ぼくに必要ないということだけで。

満足度 ★★★/KENSEI 021102
ぼくは感心されるほど不器用な人間である。以前も掲示板に書いたが。
たとえば右手に鍵を持って左手にゴミを持っていたりする。
ゴミを捨てるつもりでゴミ箱の前まで行って、なぜか鍵を投げ入れてしまう。そんなことがよくある。

いまもひとつ困ったことがあって、会社でお茶をいれて茶碗を洗うのは新人の仕事なのだが、スポンジにハンドソープをつけてしまうのだ。洗い場が狭い。ハンドソープと食器の洗剤が並んでいる。手前がハンドソープで奥が洗剤。スポンジをつかんでハンドソープをつけてしまう。わかっているのに何回もハンドソープをつけてしまう。あわててスポンジを洗って洗剤を付け直す。茶碗を洗う。

「薬用」って書いてあるし、大丈夫だよね?

不器用というか粗忽/KENSEI 021101

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