anarchists's column back number
(@n@)
KENSEIは振られ話しか書かないということが定評になって安心だ。
「7年おくれのクリスマス」が少女マンガに描いたようなハッピーエンドだったせいもあり、お約束だの、サラダデイズだの言われたい放題だった。
お約束というのは定石の展開と結末のことだろう。理論どおり進行していく。
期待さえ外さなければお約束好きな人は好意的に受け取ってくれるだろう。しかし物語の地平を切り開くような力がなければ創作は無意義に等しい。ただの絵空事を紡ぎ続けても仕方がない。
ぼくは恋愛小説の分野ではおそらく、これ以上伸びることはない。嘘の話は書けても、嘘の感情は書けないからだ。なんでじゃあ恋愛小説ばっか書いてるんだと言えば、一番の課題だからである。
畏友・迦楼羅にも指摘されたことがある。
「君は恋愛とかすぐにネタにするけど、一向に君自身の話は聞かないね」
「……モテないんだよ」
人間関係でも仕事でも課題はあるが、糸口さえつかめないことは少ない。能力を駆使すれば大抵は解決可能だ。元来平坦な人生を歩んでいる。その地平で恋愛だけが楼閣のように遥か高いところにある。言うなれば神は存在するか否かという問いと同じくらい、証明の難しい次元にある。

近代について勉強していくと、根底にキリスト教が存在していることがわかる。特に人権という観念の基盤には「予定説」の衝撃がある。宗教改革で唱えられた予定説はカルヴァンの大発明だが、一言で言えば、
「救われるものは救われるし、救われないものは救われない」
ということである。
すべては神の決めることであって、些細な人間の行動で神の基準を計ることはできない。聖書のどこにも「こうすれば救われる」などという方法は書いていない。どう生きようが救われる人間は、万能である神によってすでに「予定」されているのだ。
浄土真宗を連想する人がいるかもしれない。現代の日本人ならば「それがどうした」と別段構わないだろう。しかし呼吸するようにキリストを信仰してきた人々は、地獄が目の前に拓けたような心地だったのではないだろうか。その救いを求める狂乱から、神の前では誰も無力=平等=人権であるとか、資本主義だとかが生まれてくるのだが、長くなるから省略。
ぼくの示したいことはもうおわかりだろう。
「愛されるものは愛されるし、愛されないものは愛されない」
ひどく残酷なこの思想は、そのまま女性にも適用される。
ただそれだけのことがどれだけの焦燥と無力を感じさせることか。
「相惚れの果報」と浅田次郎は書いた。果報は寝て待てず狂騒する。

ここまで書いてきて、自分がいかに近代人であるかを思い知る。宮台真司の本を読んだからだ。近代の「恋愛」という観念は12世紀のトルバドール(吟遊詩人)が始まりなのだという。その系譜が少女マンガに脈々と受け継がれていると宮台真司は指摘する。その論はひどくぼくをうろたえさせた。本自体はひどくつまらくて「テレクラは革新的! テレクラは最高! テレクラ万歳!」と書いてあるだけなのだが(これだと読解力が無い人みたいだから書いておくと、宮台のお得意「第四空間」とは結局アノミーだし、倉阪鬼一郎のつぶやく「明るいニヒリズム」に過ぎない)、マンガについて触れた章はうなった。
確かに伝統的な感覚であれば、恋よりも「行為」である。土着の観念に恋愛などない。舶来のものだ。非日常のなかへ巻き込まれる情熱などではなく、慢性的な性愛。情愛の世界である。
たとえばある島にはこんな風習があったそうだ。結婚の決定は島の親世代が行う。もし当事者が拒否したら、島の側にある小島……ほんの十数メートルしかない小島だ……にある小屋へ二人を食料とともに押し込めてしまう。二週間もして迎えに行けば二人は文句を言わないそうである。
「燃えよ剣」(司馬遼太郎)にも序盤「くらやみ祭」が描かれる。「男も女も古代人にかえって、手当たり次第に通じ合う」そんな祭りはいたるところで繰り広げられた。おおらかな世界だった。

「要はでもバランスなんちゃうん?」
しょうたくんが言う。
「好きなのも重要やし、側にいるんも重要やし」
さすがにぼくのような空論家とは違う。
非日常こそが恋愛の条件なら、失い続けることが恋愛の宿命だろう。気がつけばそこにあるもの、とはミスチルが歌ったことだ。けれど憧れ一方のぼくは気づきもせず通り過ぎているのだろう。近代と伝統などと記せば大袈裟だが、要は現実を知れということかもしれない。

つまりなにが言いたいのかというと、早く少女マンガ脳から卒業したいってことです。

愛の予定説/KENSEI 021031
スターバックスに通い始めている。近くのスタバでコーヒーを買ってから出社するのが癖になってきた。つい先日、二日酔いを醒ましたくて立ち寄ったのがきっかけだ。毎朝飲むコーヒーでは足りなくて、濃い、缶コーヒーでは再現できない感覚が欲しかったのだ。コーヒーには利尿作用があり、含まれるカフェインには鎮痛作用がある。
コーヒー中毒でタバコ嫌いというぼくにとって格好の店なのだが、独特な注文方法や若者が集まるという敷居の高さで回避してきた経緯がある。馴れてしまえばどうということもないのは、すべてに共通して言えることだ。特に「ショートで本日のコーヒー」という伝家の宝刀をつかんでからは、困ることもなくなった。毎回味の違いを比較して楽しんでいる。

実家で暮らしているのだが、法事で両親がいない朝があった。当然朝食は用意されない。普段なら前日のうちにパンの一つも買い置きしておくのだが、給料日直後だったこともあり、スタバで求めることにしてみる。フードメニューに手を伸ばしたことはなかったからだ。
本日のコーヒーを注文して、気になったメープルオートナッツスコーンをつける。食欲があったのでチキンサラダサンドも頼んでみた。袋に入れてもらって会社の席へ持ち帰る。まだ誰も出社してきていない部屋でチキンサラダサンドを口に運ぶ。うまい。
予想以上である。マスタードの効き方がいいのだ。不思議に思ってパッケージの原材料を確認する。ハニーマスタードと書いてある。ハニーだよ。これからはハニーだねハニー。
コーヒーを時折挟みつつサンドイッチを終え、続いてメープルオートナッツスコーンをかじる。好みです。メープルソースの風味とナッツとスコーンの組み合わせ。予想通り非常に好みです。やみつきです。コーヒーにもこれ以上ないです。
なんだが幸せな気分になって、贅沢な朝というのはこういうものであろうなあ、と簡単に人生を満喫している自分に苦笑した。

そんなことを考えていたら、新聞で「スターバックス誘致運動」が起こっているのを知る。スターバックスは日本に約400店舗。東京都には166店舗もあるのに、長野県には意外なことに1店もない。そこで長野(の若者だろうおそらく)から5000人分の署名が提出されたのだという。都内で働いて関東に住んでいる者にとって、スタバは珍しくもない光景だが、運動の中心になっている人物によれば「身近に体験できる都会であり、海外」なのだという。
そういった視点で見たことはなかった。
というよりも「郊外」とはやはりそういった幻影の集合体なのだろうか。考察は始まったばかりだ。目が離せない。つぎはカレーツナサンドを狙うのだ。

ただコーヒーとサンドイッチとスコーンで金800円なり。ぼくにとって、現在抜きん出て……実質的にも……贅沢な朝食である。

考察はこれからだ/KENSEI 021030
飲み会が好きである。とくに「(@n@)rchist's」の飲み会は感性的な刺激が強く、なにを措いても駆けつけたものであった。
秋月くんのようにすべてに飲み会が優先するほどではないが、出ないと損をした気になるのはもっと始末に悪い。様々な飲み会には、できる限り都合をつけて参加しているつもりだ。

なかには涙をのんで断るときもある。先日など女の子が二人、男が三人という組み合わせで飲みが決まったのだが、男友だちが異様にやる気を見せていたので、2対2にするため辞退した。非常に満足な成果だったらしいので、自己犠牲の甲斐もあったというものだ。ほかにも金銭的に都合がつかなかったりして断ることもある。しかし、今日の誘いは少し違った。
もともと幹事は合コンをするつもりだったのものが、話が流れ普通の飲み会になり、その埋め合わせとして呼ばれることになったというのだ。ぼくは半ば憤慨して断ろうとした。
「このKENSEI様を埋め合わせに使おうとは太え料簡だ。誰でも女と飲めりゃあ尻尾振って着いてくるとでも思ってんのかい?(ええ行きますとも!←本音)なめてもらっちゃあ困るな〜!」
という気分でとりあえず参加を見合わせる返答をしたのだが、同時にこのプライドの高さはなんだろうと当惑する。この気難しさがモテない理由なのだろうかと内省して、あることに気づいた。ぼくは100%必要とされる場面でないと出陣できないのである。

もし自分に自信があるなら、必要の度合いが1%だとしても平気で出席するだろう。なぜなら自身の存在によって必要のパーセンテージを上昇させることができる(上昇を確信している。もしくは元々100%だと信じている)からだ。1%は過信だが、50%ならどうだろう。聞くところによると50%くらいで人間はやってみようと行動に移すそうである。そこを努力や奮闘で70%であるとか80%にしていくのだ。0%か100%かというのは自信のない証拠。すなわち当たって砕けるという心境であり、自我の不安定さの証明である。
そういった弱さは克服したとは思っても、心の形態というのは変わらないものだなあ。つくづく感じる。

プライドの高さは自信のなさであり、弱さの現われでもある。
きっとそれこそが非モテの要因なんでしょうなあ。

プライドの逆説/KENSEI 021028
出版不況と言われて久しい。様々に対策が講じられている。ぼくも本好き元書店アルバイトであるから、私見くらいは持っている。少なくともコミックスに対する再版制は停止すべきだとか。
再版制を全面撤廃すれば出版点数が減って価格が上昇する。安易な出版物が淘汰され、良質な書が目に留まりやすくなる可能性もあるが、同時に市場へ迎合する「商品」が席捲する可能性もある。(そのかわり絶版が減るというのは「本の雑誌」の分析にあった覚えが)

ホッブスの「リヴァイアサン」がこのところずっと読みたくて、探していた。高校のころ友人がファンタジー小説と勘違いしたエピソードは披露した。文庫化されているのだ。たしか岩波文庫から出ていたはずだ。
目録を確認する。驚くべきことに絶版していた。
古本を禁じ手としている身となると、手段は絶たれたに等しい。
ぼくは岩波文庫があまり好きではない。山本夏彦さんの本を読んでからだ。いかにもアカデミックという売り。良書を提供しているのだというポーズ。それまでは古典を多く抱えてるし良心的な出版社だと信じていた。だから返品できないのは仕方ない、と素朴に納得していたのだが……もしかしたらそれはただの傲慢ではないかと読んで感じ、ついに確信した。

岩波は出版社としては例外的に返品できない版元なのである。
そもそも返品を許さない、というのは良書を辛抱強く提供している、という建前があってこそだろう。良書、という表現は的確ではないかもしれない……しかし少なくとも出版側はそう信じているのではないだろうか。
それだけの大見得を切り続けている会社が、名著を絶版にしてどうする?
儲けるために新商品を繰り出して、そちらは返品させずに、売れないからといって古典を絶版する。(出版社で重版未定なだけで、注文が溜まれば再版する腹づもりなのかもしれないが……)だとしたら最初に提示した良書のみをずっと切らさず作り続けて欲しいものだ。それが「返品不可」に対する誠意なのではないだろうか。

さらに出版各社に問いただしたいのは、文庫が絶版ってのはどういうことなのだ、と。歴史的にも普遍性を有した書であるから、広く長く読んでもらうために文庫化するのではないのか。
文庫は儲けをとるものではないはずだ。それがいまでは一定した売り上げを保つための定番商品と化している。ぼくにしても置き場や懐の都合で文庫ばかり購読しているから、大きなことは言えた義理ではないのだが、本分を失っていはしないか。

「人は本に金を惜しむ」とは山本夏彦翁の言葉である。映画なら2時間2千円。だが同じ金額を人は書に振り分けない。
モンテーニュの「エセー」が中公クラシックスで復刊していた。給料が出た日に書店で発見したのだが、3冊で4千5百円。しかも装丁がただの新書でだ。塩野七生のルネサンス著作集くらい美しい装丁なら集めてもいいかな。うーんでも読んでる暇あるのだろうか、などと言い訳をつけて結局購入しなかった。
ただ同じ日にビル・エヴァンスのCDを数枚手に入れるつもりで、予算が1万円組まれていた事情を考え、前記の台詞を思い返していた。そこへいきなりの訃報である。
まだ真の本好きとは言えないのかもな、と感じつつ、また一人常識を持った大人が去ってしまったことに無常を覚える。

山本夏彦氏の冥福を心からお祈りしたいと思う。

故、とつけねばいけないのか/KENSEI 021027
予備校時代の友人たちと遊ぶ機会が増えている。もう10年近い付き合いになるが、何年かに一度会って酒を飲み、お互いの無事を確認しあうのがずっと通例だった。
予備校のころの友人と言うと珍しがられるが、土曜は授業をサボってカラオケに行ったりボーリングをしたり不良予備校生。大学合格の飲みでは一人急性アルコール中毒で救急車を呼び、翌年の再会飲みではやはり一人倒れて救急車を呼び、そのたびに親御さんが駆けつけるという迷惑この上ない仲間だった。 それぞれ大学に入ると集まる回数は減り、社会人になると転勤や結婚などでますます集まれる人数も減った。
それでも関東近郊に残っている人間は、時折飲んではいたのだが、この数ヶ月繰り返し顔をあわせている。なかなかこの歳になると遊び仲間は増えない。貴重な再発掘なのだろう。
ぼくが長らく失業生活をしていたことをみんな知っている。
「新しく編集補助のバイトを始めた」
と言ったら、友人の女性に、
「似合うね、編集って」
と感心された。

このよく行事を発案する友人は、シングル・マザーである。4歳の息子トモヤと一緒に暮らしている。大抵は親子一緒にぼくらと行動する。さすがに飲み会のときは顔を出さないが、無愛想で照れ屋のトモヤは現在ぼくらの中心になっている。
大人たちに連れまわされるのはトモヤにとって鬱陶しいだけかもしれない。想像して同情するが、ママのそばが一番いいはずだと納得したりもする。
しかし同時期に受験で悩んでいた仲間が、結婚して出産して離婚までしているのだ。数年前の正月、年賀状で結婚した旨が伝えられたのだが寝耳に水で、離婚したこともしばらく経ってから聞いた。ちょうどみんなが大学生活に忙しいころで、やり取りに間隔が空いていたころだ。
予備校時代の彼女の印象は薄い。ちょっと鈍くてかわいい子、ぐらいの認識でそれほど仲が良いわけではなかった。ただ勉強はあまり得意ではなかったようで、専門学校に通っているのだとやはり後々飲み会で聞いた。ちなみにヴォーカリストを養成する学校で、歌はいまでも抜群に上手い。
結局結婚して出産して、働いている。
あのころの彼女がなにを目指していたのか知らない。でも大学は端から無理だったのではないか。一方的に判定して悪いが、話せば数分でわかる。人の話を壊滅的に聞いていない。秩序だった手立てが出てこない。ちょっと鈍いどころではない。疲れてため息が出るほどの「天然」振りも持ち合わせている。乗る予定の船に乗船できない、などのハプニングは日常茶飯事である。

それでもたくましく子どもを育てている。疲れて歩けないと言い出せば抱きかかえ遅れず並んで歩く。悪さをすれば真剣に叱る。一人で遊びに参加するときも真っ先に考えるのはトモヤへの土産だし、話はついついトモヤのことへ向かってしまう。立派にやってるなー、感心せずにはいられない。
人生はいつも試行錯誤だ。
早い時期に目標が定まっていれば……切にそう後悔することがある。スタートの癖が遅いならなおさらだ。大学だって学部を選んでおけば。通いながらバイトも考えればよかった。足りないことを数えると過ぎた時間は惜しみきれない。
でもふと、他人からは遠回りに見えても、幸せをつかんでいる人もいる。勝手に彼女へ自分の姿を重ねているだけかもしれない。だけど彼女の言葉はうれしかったし、それだけでなく、ぼくも彼女へこう伝えたいと感じている。
「似合うね、トモヤの母親」

にあうね/KENSEI 021025
いま手がけている仕事は社会科の資料集なのだが、以前新聞の切抜きをただ寄せ集めたものだと批判した。そのときは知らなかったのだが、資料集というものが大概はそうしてつくられるらしい。新聞で指定されるのは通常「朝日」か「毎日」で、写真も自ずと両新聞社のライブラリに頼むことになる。
執筆者は大学の教授と現役の教員で構成されている。みなリベラルでやたら市民団体とか運動とかデモとか好きだ。韓国と中国も大好きだ。だからたまに「○旗」の記事から写真を転載してくれと依頼がくる。でも「赤○」に接触するのは勘弁してくれと頼んだら、さすがに政治色が強いものは避けようということになった。

メディアにもあまり取り上げられない団体を紹介する記事は、子どもたちにどれだけ優良な情報となっているか俄かに判断しかねる。なかには応援したくなる若者たちもいるが、同時にあまり相手をしたくない組織もある。
とある団体はフリーターの地位向上を目指して活動している組織だが、そのスローガンは「いつでもどこでも時給千円」だそうな。どうせなら自分たちで会社を興してから言ってもらいたい。
またある組織は反戦デモを行っているのだが、ただ闇雲に反対しているわけではないという。
「考えることが重要だと思うんです。だからただ反対するのんじゃなくて、みんなで集まって、まず考えよう、注意を向けようと訴えているんです」
一人じゃなにもできないんですか? と口からこぼれそうになるのを飲み込む。

でも一番悪質な組織は「なるほど。そうですよねー」と心にも無い相槌を打つぼくと、ぼくを雇って活用している会社だと思う。

悪の組織/KENSEI 021024
また学校に通うつもりで、予定を立てている。
こういうことを書くと、KENSEIさん勉強熱心ですね、真面目ですね、と褒めてくれる人がいるが、大きな間違いである。
ぼくは勉強が大嫌いで、不真面目だから学校に通うのである。

とある友人と先日遊んだのだが、昼食をとって、話をして、ゲームセンターへ行き「連邦VSジオン」をやって、別れた。別れ際、
「帰ってなにをしようかなあ」
と背伸びしながら言うと、友人は、
「帰らず喫茶店で勉強してくかな」
とつぶやいた。どうやら常日頃喫茶店で資格の試験勉強をしているらしい。真面目で勉強熱心な人というのは、一人で自然に机に向える人のことを言うのだ。

ぼくは絶対に自習なんてできない。だから学校に通い自縄自縛するのである。

勤勉/KENSEI 021023
社員さんがどんどん辞めていってしまう。
いまのバイト先は給料も安く、残業代も出ない。加えて週休二日でない上に、休日出勤したときの代休も認められていない。バイトとはいえ社内では中堅扱いになってきた。小さい会社だからだ。
先輩たちの送別会で席の近かった先輩と話した。先輩は飲みながら、劣悪さは辞める十分条件ではあったが、真の動機は別だと断言した。
「女だ!」
苦笑する。確かに女性社員は年配の方が一人いるのみである。今度行く職場は女性社員が約半数いるのだと力説していた。

同僚が次々結婚していっている友人がいる。出費ばかりかさんでいるようだが、パートナーとはいつ出会ったのか、と思わず質問したらしい。
「そしたらさ、学生のときだって言うんだよ」
学生のとき、ぼくらは勉学やら酒やらに励んでいて、異性に振り向いてもらう努力を怠っていた。
「もっとがんばっておけば良かった……」
社会人になると出会いが皆無だよ〜と働いている奴から脅されたことがある。しかし理解するのはいつもその場になってからだ。とくに友人はぼくと違って経済的にも将来的にも安定しているので、学生の頃より考える余地が出来てきたのだろう。覆水盆にかえらず。

同窓生に奇妙な男がいた。もう十年ほど前の話だ。そいつは中学を出てすぐ鳶職を始めたのだが「女に不自由したことはない」と豪語していた。秘訣を聞く。すると彼女が欲しくなると、中学のときの部活の後輩を名簿順に訪ねるのだという。そして「お前いま彼氏いないなら俺と付き合わない?」と誘うのだ。
女子が多い部活だったし、自宅周辺に集中しているから効率もいい。そのとき嫌だったりダメだったなら構わないし、つきあってもいいという女の子を彼女にする。
自慢げに披露された手法。ぼくは半ば呆然と聞いた記憶がある。
いまは例外的かもしれないが、不思議な出会いもあるのだなあと感心している。
ちなみに車でマメに送り迎えなどする、気の回る彼氏であった。多少はマシだと思うから、後輩たちだって相手にしたのではなかろうか。

出会わなければなにも始まらない。
けれど確率論を始める前に、結局どこまで理想を求めるのか、そういう話になるのかなあと感じている。

恋愛難民/KENSEI 021022
自転車で買い物や友人の家へ向かう途中、建て替えている家や、新しく分譲される家の前を通ることがある。いつも感じるのは「これはなに風建築なのだろう?」ということだ。流行によって簡単に家の外観が変化していく。
ある家などは「南欧風」とでも表現したら良いのだろうか、唐突に瀟洒な平屋へ建て替えられていた。芝生とテラス。カフェレストランにでもなるのかと思ったら、普通の一家が住んでいる。ほかにも表面だけレンガ造りの家であるとか、安っぽい現代美術のような家であるとか、枚挙に暇がない。

ちなみに東京の高層ビル群はロスの街並みと瓜二つなのだという。まだ無機質なほうが抵抗感は薄い。個性がない。世界中のどことでも言える。つまりはグローバルということだ。
さすがに世界とまではいかないが、開発が進むと日本のどことでもとれる風景ができていく。正にぼくの街がそれで、都内へ通じる道路が開通したのだが、その周辺はアスファルトとコンクリートが無表情に居座っている。
地方へ旅したときにも同じような失望を覚えたことがある。広島へ行こうが、高知へいこうが、大同小異である。もちろん独自の部分もたくさんある。ただ通り過ぎるこちらには新宿や池袋とあまりかわらない。

最近硬めの入門書を読みこなしている。本のなかでこれからは文明と文化が対立する時代ではないか、そう推測する人物が多かった。近代と伝統の対立だ。(西部邁・小林よしのり、佐伯啓思、それからクリエーターの佐藤雅彦も同じような危惧を抱いていた)すべてがグローバリズムの下で押しつぶされていく。その反発がタリバンの自爆テロだった、という意見は的を得ていると思う。民主主義・資本主義というイデオロギーが世界を塗りつぶしていく。

それは家で言えば高層ビルと古民家の対立なのではないかと思い至る。世界標準を目標に近代化を推し進めれば、建物はすべて高層ビル群になっていく。日本らしさを大事にするなら日本家屋を守っていくしかないということだ。
ぼくは田舎に住み暮らした経験が無い。だから「ダッシュ村」くらいTV化されたイメージしかないのだが、あの生活が文脈として受け継がれた家が無くなれば、伝統は消え去る。

ぼくはいつも感じていた違和感、冒頭でも記したとまどいに答えを得た気分だった。思うに、郊外というのはアイデンティティの空白地帯なのではなかろうか。近代化された都市でもなく、伝統に縛られた村落でもない。「街」という空間はいまの日本人を象徴しているように感じられる。
中途半端に効率を優先させたマンション。「檻」と畏友迦楼羅は嫌忌している。
なんの脈絡もない建売の一戸建て。「日本風」とでも称すべきか。
虫食いのようにいきなり外国から切り取られたような一角が現れる。
ガーデニングもどこか非日常である。
櫛の歯が欠けたような街並みは断片化された文化と知識を示しているのではないか。いまさら紙と木の家の返れとは誰も同意できない。だからこそ怠慢の歪みが現在を襲っているのだろう。日本人としてのアイデンティティを曖昧にしたまま時代が過ぎて行った。だから真に「日本」の文化として積み重ねられたされた建築が育たなかったのではないか。
ぼくは新築される家屋を見るたびに「この家に住むのはどこの国の人間なのだろう」と感じているのだ。

先日友人たちと都立庭園美術館へ行った。アールデコ調の建築物に感嘆し、銀食器のフォルムの美しさにうなった。帰り道白金台を散歩した。外国のような街に友人たちは素直に憧れを表した。ぼくも例えば異国風ののものや、洗練されたものに憧憬は抱く。NYで暮らしてみたいとか、イギリスの風景であるとか。しかしただ安易にその雰囲気を移植してしまうのは別の感覚だ。ぼくはNYで生活してみたいのであって、NYみたいなビルを建ててくれと言っているわけではない。どこかの誰かは違うのだろう。イギリスの家をそのまま日本に置いてしまう。私的な空間が、嗜好を反映して、景観を食いつぶす。そう嘆かずにはいられない。

日本の郊外にあるのはハイブリッドですらない。アノミー(無連帯)である。
すなわち日本を席巻しているのはアノミーである。


郊外とアノミー/KENSEI 021019
携帯電話の振動が苦手である。
予告なく飛び出す振動音に、不意をつかれ全身が驚きで痙攣する。
机上へ放置してある携帯電話。文を書いているとすっかり存在を忘れる。明滅と騒音が静寂を襲う。ぼくは大袈裟なほど反応して半ば腰を浮かす。

通話が苦手である。
通話した人間は例外なく、ぼくの素っ気なさに意外を覚えるのではないか。営業中の電話ならいざ知らず、用件以外の通話は御免だし、用件の伝達が終われば一瞬でも早く断ち切りたい。暇だから長電話しよう、というのは論外である。どうせならば会って話したい。だから切りたがる調子が伝わるのか、電話はほとんどかかってこない。しかも強引に終了するので後味が良くない。

携帯のメールが苦手である。
繰り返すが用件のないやりとりは無意味と感じる。付き合わされるのは労苦である。メールは通話と違い、気楽ではある。だからスケジュール調整や、ちょっとした質問に活用している。ただこれでコミュニケーションを促進しようとは思わない。
携帯のメルアドを教えた次の日の朝、女の子の友だちから、
「おはよう」
とメッセージが入って、
「こういうメールは送らないように」
と返信した男である。それから教えるときにきつく言い含めるので、ますます女性陣からの人気は下落中である。

ならば持たなければ良いではないか。ぼく自身もそう確信して学生時代は小馬鹿にしていたものだ。しかし変節した。理由の一つは就職活動で、本当の動機はバイトしていた書店を辞めるからだった。
仲良くなった人が多かった。それでいてちゃんと家を訪ねたり遊びに行ったりということはほとんど無かった。つまりは職場だけの付き合いだったのだ。ぼくの人間関係は大方がそんなもので、それでいいと感じていた。つまり残る友だちは残り、残らない友だちは残らない。偏屈者の経験論である。
ただあまりにも理不尽な首切りだったので、寂しかったのだろう。つながりを残しておきたかった。卒業のときのようにノートを回すのも大袈裟だ。携帯を買ってみんなと番号を交換した。
それから便利さに手放せずにいる。幹事役のときなど必需品になっていて、これなら学生の頃から持っておけば良かったなあと悔いている。

でも苦手である。嫌いと言っても良い。
ただ「つながり」の鍵として携帯電話は必須だ。仕事でも、遊びでも。
昔のように教室か部室に顔を出せばつかまるという間柄ではなくなってしまったから。
学生の頃から携帯していれば、彼女ができるチャンスも多くなったのだろうか。自問してみる。でも、
「いまなにしてる?」
とかメールが送られてきたら、
「メールが鬱陶しいと感じてる」
と返信していたかもしれない。
携帯の有無は無関係のような気がしてきた。

偏屈者の携帯電話/KENSEI 021013
最近は日比谷公園がお気に入りだ。仕事の都合で霞ヶ関周辺に出没することが多く、昼に立ち寄れるよう動いている。今日も噴水の側で握り飯を頬張ってきた。ぼくの昼食は恥ずかしながら母の握ってくれる握り飯である。ペットボトルのお茶とともに連日食べている。
昼食代がかからないのはありがたいのだが、困るときもある。出先で雨に降られたり、昼食をとるタイミングを逃し、外が暗くなってしまったときだ。屋外は使えないし、かといって店屋に入るわけにもいかない。社内にいるときは別段構わないのだが……
以前に利用していた公園は、雨やどりできる木の下にベンチがあって、なんとか濡れることは免れていた。しかし日比谷公園はちょうどよい席がない。

資料集めをしていて、日比谷図書館にも足繁く通い始めた。すると地下に食堂があることに気づく。朝食を抜かしていて、昼時猛烈に空腹を覚えた日があった。食堂を活用する。カレーうどんを注文し、手持ちの握り飯を食べた。意外と寛容らしい。厳しい視線は飛んでこない。
昨日、昼を摂る時間がなくて、夕方になってしまった。握り飯は持っている。図書館で調べものを終え、ともかく補給することに。夕食もそれほど遠くない。たくさん食べない方がいい。食べるなら握り飯だけだ。食堂へ下りる。
それでもお茶くらい買ったほうが良心的だろうな。ぼくは脇にある自動販売機へ向かった。数字で選択する方式の自販機で、ウーロン茶のパックを買おうと番号を押す。するとアームはいちごオレをつかんで取り出し口に放り込んだ。パックの上にある番号を押すのだと思ったのだが、どうやら下にある数字を押す仕組みらしい。いちいち交換を要求するのも面倒くさいのでそのままテーブルにつく。いちごオレを喉に流し込む。乾いていた喉へ甘い液体が滑り落ちていく。握り飯をかじる。具は昆布で、和風の旨味をなめらかな苺の香りが包んで予想以上の困惑が頭蓋に染み渡る。ありえない味の組み合わせだ。しかし五感を殺して咀嚼に専念する。いちごオレなんて数年ぶり(以上か)に飲んだ。

一息ついて、周囲を見渡す。よく見れば食堂のものではなくて、自分の弁当やコンビニの袋からパンを取り出している人もいる。ぼくだけではない。ちゃっかりと食堂のサービスであるホットのお茶や冷水とともに食している人もいるようだ。
そのとき横のテーブルに年配の女性が座った。手提げから500ミリリットルの紙パックを取り出す。グレープフルーツのジュースだった。意外である。お茶かなにかを飲むものだと予想していたからだ。これだけ歳を重ねた人が夕食にパンというのも考えにくいから、お弁当かなにかだろう。もしかすると甘いものと飯粒というのは世の中で標準なのだろうか。
女性はいきなりスーパーなどで売っている生うどんの袋を引っ張り出した。三玉で一つになっているような生うどんだ。紙パックの口はわずかに開いている。一気にパックの上部を破る。蓋のない長方体の形にする。どうやら最初から空だったようだ。うどんを一玉押し込み、手提げからめんつゆのビンをつかみ出す。そのままつゆを差し入れる。

あ、ありえねー


紙パックジュースとありえない食事/KENSEI 021011
ある日ぼくはねづと飲んでいた。
「最近はワインも、ニュージーランドがいいらしいね。安いし」
ねづはゆっくりとグラスを下ろした。
「……俺にワインについて語る気?」


秋月ねづとの対話V/KENSEI 021007
新しいバイトの話をしようと思う。
ぼくはとある編集プロダクションでアルバイトを始めた。編集補助という名称だが、実態は写真収集が主な業務である。編集も、校正も、ライティングも行わない。書籍に使用する写真を探し出し、入手するのが仕事だ。
いま会社では現代社会の教材を作成している。執筆者の先生方から送られてくる原稿を、編集者がまとめる。たとえばその中でケネディの演説の写真を入れる、と指定があれば持っている新聞社や業者(フォトエージェンシーという)に問い合わせをして、借りてくる。どちらかといえば営業に近い仕事をしている。

肝心の本の内容だが、原稿はほとんどが朝日新聞か毎日新聞からのコピペである。本当に切って貼ってくるのだ。執筆者はこんな原稿を送ってきて恥ずかしくはないのだろうか。疑問を覚えている。未だに慰安婦であるとか、南京大虐殺がまともに取り上げられてるのは苦笑を禁じえない。(慰安婦などは「日本軍慰安婦」と微妙に表現が変えられている。下衆のやることである)教科書に掲載されているから仕方のないことなのだろう。
先日も南京虐殺の写真を借りてきたのだが、これだって本当に南京虐殺の写真かどうかは謎なのだ。そういう名目で業者は貸し出しているが、確証はあるのだろうか。検証も終わっていない不確定な歴史上の事件なのだ。執筆者の先生方はことさらに人権や平和、戦争の悲惨さを誇示しようとしてる。記事や集める写真から感じ取るが、周回遅れのレースにつきあわされているようで、少々困る。

教科書や授業なんかまともに聞かないから別にいいじゃないか。そんな感想もあるだろう。畏友・迦楼羅などは小学生のとき、
「あ、これは国が洗脳しようしてるんだ」
と教科書を読んで気づき、以来授業をまともに受けることはなくなったという。
教育が本質的に洗脳であるという指摘はもっともだが、知った上で必要なことを自力で構築し学び取っていける人間がどれだけいるだろう。迦楼羅はいわゆるロジカル・シンキングを体現したような頭脳の持ち主である。ぼくのような間抜けは、真面目かつ素直に内容を信じ込んでしまう。ぼくの場合洗脳からの脱却には読書量が幸いしたわけだが、巡り巡って自分が片棒をかつぐ破目になろうとは思いも寄らなかった。

仕事だから全力でやっている。ここで声を上げても無意味を通り越して損しかありえないからだ。いつかこの経験を別の機会に活かすことのみ考えている。
職場もいい人ばかりだし、仕事自体に不満はないが。
もしかしたら長くは続かないかもしれないな。


片棒/KENSEI 021006
会社に行く前用事があって(仕事絡み)、一度出てから帰宅。一時間遅れて出社することになった。父と玄関を出るタイミングが同じになり、通り道の地下鉄の駅まで車に乗せてくれることに。助手席へ乗り込んで、二人きりではなかなか話題がないことに改めて気づく。ほんの数分なのだが。
普段ならTVがあるので連想したことや関連することを話していればいい。だが今朝は道路渋滞の具合や抜け道のルートなどを話していたら、会話が途切れてしまった。おかしいな。父が沈黙を埋めるように言葉を差し出してきた。
「俺、失業するかもしれん」
驚きよりも、あ、来たかという感想のほうが早かった。
この歳になると友人たちの父親も人員削減の対象になったり、倒れて入院したりしている。然るべき局面が訪れただけのことなのだが、準備不足は否定できない。順調ならそこそこのキャリアを積み、充分な給料を得ていることも可能な年齢だ。ある程度人生設計を描くことだってできているはずだ。今の時代そうはいかないという見方もあるが、ここまで経済的にも将来的にも不安定ではないはず。
「ま、食うのくらいどうとでもなる。警備員でもやればいいし、工事現場で棒振ったっていいしな」
力強さを感じる。気楽な明るさで言い切る父は、本当にどうにかしてしまうだろう。さすが我が父。と安心しながらも、自分の尻に火がついていることも否定できない。
「だから、自分の身は自分で立てるようにしてください」
からかうように微笑されて、苦笑を返す。

一日仕事が手につかず、今後の計画を練っていた。主に経済的な問題だ。頭の中で家族全体の総収入や支出を計算して、予想される必要なものをリストアップしていく。生活を変える必要があるだろうが、ぼくが協力すればなんとかなる。言い聞かせて家路につく。
理想は現実との勝負でもある。バイトをしながら学校にもう一回通おうと思っている。金銭は否定できない痛烈な現実だ。運がいい。ぼくには養う人が存在しない。むしろますますそういった生活からは遠のくことになるだろう。いまさら始めたことを降りるつもりはない。

結果、父は職を失わなかった。異動になっただけだった。胸をなでおろす。だがどちらにせよぼくはコラムに書いていたと思う。
時間は立ち止まらない。
人生は確実に流れていく。
わかってはいるが、忘れてしまう。思い知らされた。


少年、学成り難し/KENSEI 021005
書いてはみるものだ。
先日新しいブーツについて記したが、アドバイスのメールが舞い込む。
匿名が条件ということで、ここで紹介させていただく。

>オリーブグリーン(の色名が端的だと思う)靴の話。
>渋い暖色系が合いそうです。レンガや柿,辛子,
>勇気があれば深みのある朱赤やサーモンピンクなども。
>デニムのブルーやカーキ系(オリーブに中途半端に近い)
>のチノパンは確かにピンときませんね。
>やはり暖色の色相からきている茶系やキャメルが合います。

渋い暖色とは意外だった。
仕方ないのでグレーか、ブラックのジーンズを合わせようと考えていた。これからの季節なら茶のコーデュロイがいいかもしれない。
コートも新調したいので、構想に踏まえつつ探していこうと考える。

>先日のコラムを拝見。
>実は私もそうなんですー。エロマンガは違うけれど,
>ナイトキャップ依存です。ハッキリ言って。

ナイトキャップ。寝酒のことだ。

>ある日帰りが遅くなり,自販機がストップしていました。
>家のアルコール類のストックがなく,
>思案した挙句,通りすがりの小汚い焼肉屋さんに立ち寄り,
>「あのぅ,ビール分けてください」と乞うたことがあります。
>落ちるところまで落ちた,と思いました。

>翌朝目覚めの悪さに後悔の日々です。
>一体どうしたらいいのでしょう

……すいません。
ぼくからもお礼にアドバイスを差し上げたかったのですが、力不足でなにも返答できそうにありません。


ダメはダメを呼ぶ/KENSEI 021003
出社して宅配便の仕分けをしていたら、隣の部署の先輩社員に、
「KENSEIくんは前もどこかで編集をしてたの?」
と聞かれる。
「いえ……ずっとフリーターでしたし、印刷の勉強をしましたけど、編集はなりたくてもなれませんでしたねえ」
「あ、そうなんだ。てっきり」
「なんでそんな風に思ったんですか?」
「編集者って、君のような感じの人が多いんだよ。大抵はみんなそういうな印象なんだ」
「適職だって言われてるようでうれしいですね」
「そう考えていいんじゃない?」
先輩の言葉に、素直に微笑んだ。無邪気なものだ。どんなタイプかはいまひとつわからないというのに。
そう考えると逆に、あとはやる気と実力に次第になる。なりたいもの、やりたいことができないのは、すべて自身の責任になってくる。自由とはそういうことだし、自分で選択するというのはそういうことだ。
夢は容赦がない。苦しいことも多いだろう。天才ではないから。
でも憧れに「似合う」と言われるのはくすぐったいけど気持ちいい。
夢に押しつぶされないくらいの、力量を身に付けたい。そう誓った朝だった。


ただの日記/KENSEI 021002
あなたの理想の腕時計を、形容詞を交え具体的に説明してください。

この設問、一昔前に流行した心理テストのものだ。「実はこれ……」で始まる分析を明かすときにはちょっとした優越感があった。
実はこれ「あなたの理想の恋人像」である。
ぼくはこの問いに明快に答えた。
「鬱陶しい。いらない」

ぼくが時計を取り出すと、初対面の人は無邪気に興味を示す。
腕時計はしない。最近は携帯電話を代用にする人もいるようだが、もう10年も前からしていない。汗かきですぐ肌が赤くかゆくなってしまう。それが嫌でポケットに入れて持ち歩いていたが、二個落として止めた。とくに二つ目は父の時計を借りていたので、ひたすら後悔に浸かった。
そんなぼくに母が用意してくれたのが鉄道時計である。懐中時計のようだが、蓋がついていない。列車やバスの車掌さんが古くは身に付けていたものだという。以来愛用している。だからぼくは答えた。
「鬱陶しい。いらない」

ところが地元の友人を見回すとみな腕時計をしていない。ぼくの鉄道時計をみて発想したのかどうかはわからないが、みな懐中時計を使い始めた。困ったことにそれから例外なく艶聞を聞かない。基本的に本とゲームと映画があれば生きていける人たちなのだ。
この心理テストは当たる。そう思えてならない。

つまり、窮屈なものは受け入れられないということだ。


ANSWER/KENSEI 021001

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