第12章


『epilogue』

「痛ッ……」
 包帯を取り替える時、思わず堀田は声を上げる。その声があまりに大げさだったので、看護婦さんはクスクスと笑った。
 堀田は頭をポリポリと掻いた。
「……はい、良いですよ」
 薬を塗り、真新しい包帯に交換してくれた後に看護婦さんはそう言って部屋を出て行こうとする。
「あ……あの……」
 堀田の声に、彼女は振り向く。
「はい、なんですか?」
「少し……出歩いても良いですか」
「ええ、構いませんよ。傷自体も治りかけていますし……でも、敷地から外には出ないでくださいね」
 部屋に一人残されてから、堀田はゆっくりと床に足を下ろす。トントン、と何度か床を蹴ってみると、稀に痛みが走るくらいで大分治癒しているようだった。
「さて、と……」
 曽根が学校から姿を消してから、すでに半月がたっていた。その時の流れを、病棟から足を踏み出した堀田は体で実感する。汗ばむような陽射し、目が痛くなるような陽光。それを見て堀田は、夏っていうのは原色で溢れかえっているのだと思い出した。人はいつも色々な事を忘れたり思い出したりする。
 堀田は公衆電話に歩みより、コインを滑りこませる。携帯電話を持ちこめないと不便だな……堀田は思ったが、当然の事だし、別に我慢できない不便さではなかった。
 数度の呼び出し音の後、聞き覚えのある声が堀田の耳に届く。
「はい……佐伯ですが」
「俺だ。だいぶ体調が良くなったんでね……お礼を言っておこうかと思ってね」
「ああ……気にしなくて良いですよ。別に……大した事じゃないですから」
 堀田は結局……意識を失うほどの怪我をして、佐伯の父が関与している病院に入院する事が出来た。
「いや、十分に大した事さ。あんな大怪我をして……理由を聞かれないっていうのは正直、ありがたいしな」
 おどけた口調で言う堀田。確かに彼が負った怪我は理由を追求されなくてはおかしいほどのものだったから。
 堀田の口調に苦笑を返す早枝。
「心配……したんですよ。ふざけてないで、ちゃんと怪我を治してくださいね……」
「ああ、分かってる」
 堀田は笑って言う。
「まだ……何も終わってはいないのだからな」
「え?」
 早枝が意味を問いかけようとした時だった。不意に電話は切られ、そこにはツーツーと機械音だけが残される。
「……どういう意味?」
 早枝は電話を置く。
「うん? 友達からか?」
 奥のリビングから早枝の父親である、佐伯信久が顔を出す。
 早枝は体を固くする。父親の放つ鋭い眼光に射すくめられて。信久は、そうした威圧感を持っている人間だった。
「……そうだよ。父さんには関係が無いですけどね」
 言って背を向ける早枝。その背に信久は声をかける。
「ちょっと待ちなさい、早枝」
 渋々と振りかえる早枝。そして彼女は息を飲む。信久は真剣な眼差しで早枝を見据えていた。
「お前……最近、何か事件に巻き込まれなかったか?」
 早枝の心臓が跳ねる。同様を押し殺しながら彼女は返答をする。
「事件、そう呼べるかどうか分からないですけど……。でも、それは全て解決しました。父さんが心配するような事は何一つありません」
「そうか……そうお前に思わせるだけの人間なんだな。だけど早枝……覚えておくんだ」
 低い声、信久は早枝の足元を揺るがすように続ける。
「お前の経験した、その事件は……まだ、何一つ終わってはいない。未だ、歪み続けているぞ」

 日陰にベンチがあったので、堀田はそこに腰掛けた。日溜りの中から急に移動したので、本来の陰りよりももっと暗く、まるで暗闇の中にいるように感じる。堀田はじっと瞳が正常に戻るのを待った。
 深い闇、黒、その中で堀田は思い出す。見る、黒い闇の中から紅い紅い血が流れ出す幻覚を。
『違う……違うんだって……堀田君……』
 思い出すのはいつものシーンだ。堀田が史麻を傷つけたシーン。何度もやりなおしたいと願い、そして誰もと同じように取り返しがつかない過去。
 呼吸ができない程に苦しかった、後悔はいつも緩やかに胸を締め上げる。
 あの時……俺は彼女に何を言いたいのか、何を伝えたいのかを一生懸命に考えた。そして堀田は……気づいた。
 彼が言いたかった言葉が、本当はどのようなものであるのかに。
『ごめん……』素直に言葉が出てきた。『傷つけたい訳じゃない……そうだ、俺はいつだって誰かを傷つけたいだなんて思ってはいなかった。ただ……ただ、寂しかったんだ』
 涙が不意に零れる、堰を切ったように、息もできないくらいに。堀田は思う。こんなふうに泣いたのはもう、どれだけ幼い時の事だったろう、と。
『お前が俺から離れていくなんて、想像もしていなかった。なんて薄弱な想像力。そんなんだから……俺はいつまでたっても駄目なままなのだろうな』
 嗚咽混じりに、途切れ途切れに、堀田は言う。必死に涙を堪えながら。
『ああ……でも、最後に一つだけ言わせてくれないか?』
 涙を恥ずかしさから荒々しく拭い、そしてゆっくりと微笑んでみせた。
『俺……お前の事が、ずっと好きだった。今はまだ、素直に口にする事ができないけど……だけど、お前が傍にいて欲しい人を、お前が見つけ、そしてそれが叶ったのなら……俺は、喜んであげるべきなんだろうな』
 喜んでくれると思った。人を傷つける事しかできなかった自分が、彼女のおかげで人に優しくする事を覚えられた。苦しくても、傷ついていても、その苦しみや痛さを相手に返そうとしないで済むように、彼女のおかげでなれた。俺に優しさを教えてくれた彼女なら、きっとそれを喜んでくれる。そう思った。
 だけど、彼女の表情は凍り付いていた。まるで彼の痛みを、そのまま感じとってしまったかのように。
『あ……あははは』史麻は笑う。まるで、そうする以外にする事が見つけられないかのように。『何で、何でそんなに……苦しくて、胸が潰れそうなのに、堀田君は笑っていられるの?』
 苦しいのは俺がお前に寄りかかっていたからだ。堀田は思う。幼稚な愛情、対象に対する自己同一化、一人では何もできはしないのだと。だからきっと……こんなにもやり切れないんだ。
 史麻の顔が苦痛に歪む、ノイズが辺りに撒き散らされる。そして……堀田は見る。
 彼女の胸の奥の奥の方。そこが傷つき、抉れ、紅い液体がとめどなく溢れ出ているのを。あれは血だ。彼女の心が傷つき、そこから血が流れ出ているんだ。堀田は愕然とする。彼女のためと思って口にした言葉。
 それが、こんなにも彼女を傷つけてしまうなんて。
『何で? どうして堀田君は、そうやって大切な事を口に出さないの? そんなんじゃ分からないよ! わた、私……堀田君を傷つけたい訳じゃなかった、のに……』
 涙が一粒、零れた。
 堀田は何も言えなかった。彼女が背を向け走り去って行く、開いた傷をそのままに。それをただずっと見ているしかできなかった。彼女が自分の視界から消えるまでずっと。
 それが……最後の出会いになるとは思いもせず。
「曽根……お前は間違っていなかった。彼女を殺したのは……俺さ」
 呟く彼の声を、風が掻き消す。
「戻って来いよ、曽根。そして俺を罵ってくれ。お前の復讐は……まだ始まったばかりなのだから」
 堀田はベンチから立ち上がり、そこから立ち去って行く。残されるのは足音。そして……。
『ピシッ』
 どこかで何かがまた、歪む音。


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