第1章


 『理解と不理解について』

「……そこを、通してくれますか?」
 終礼の終わった教室。6月の穏やかな気候にはそぐわない、緊迫した声が佐伯早枝の口から漏れる。
 クラスメイト達は帰り支度を済ませ、我先にと教室から飛び出していく。一度しかない高校一年という時間を、無駄に使う事を惜しむかのように。
 誰一人、早枝の方には顔も向けずに。
「嫌、だね」
 志賀隆徳は早枝に立ち塞がるように、その広い肩幅を突き出した。顔には笑みまで浮かべて。
―自分が優位に立っていると思っているからこそ、できる笑い方だ。
 早枝は思う。左右は志賀の連れによって行方を阻まれていたし、後ろに下がっても状況が悪化するだけだ。
 そういった早枝の苦しい立場を、志賀は分かっていて笑っている。それが早枝には癪に障って仕方なかった。
「……どうしてですか?」
 低い、ゾッとするほど冷たい声で早枝は聞く。敵意を隠そうともせずに。
―どうせ悪意と対峙する事に、私は慣れているから……。
 それは諦念と呼ばれるものに違いなかった。早枝の心に、澱んだ靄のような絶望が満ちる。彼女が彼女であるというだけで向けられる悪意。早枝は子供の頃から、そういった悪意に慣れなければ生きていけなかった。
「『どうして』だって?」
 ひどく楽しそうに笑いながら、志賀は携帯のストラップを神経質そうに指先でもてあそんだ。
「それはな、佐伯……お前が人の心を読む事ができる、異質な存在だからだよ……」
 早枝の表情に刹那、動揺が走る。だが彼女はそれをすぐに押し殺す。
「へぇ……」
 不出来な冗談を聞かされた、と言わんばかりに早枝は見据え返す。凛と。自分はそのような中傷には一歩も引く気がないと、全身で語っている。
「『人の心を読む事ができる』……ね。高校生が本気で言うには、あまりに非現実的に過ぎると思いますけど?」
「そうだな、俺もそう思うぜ」
 意外な事に、志賀は早枝の言葉を肯定した。拍子抜けする早枝に、しかし志賀は「でもな……」と言葉を続ける。
「どれだけ非現実的だとしても、俺達にはそれを信じるだけの根拠があるのさ……予言が届いているからな」
 予言。聞いた事がある、と早枝は思う。この菫崎高等学校の生徒の間にまことしやかに流れる噂だ。
 携帯に見知らぬアドレスからメールが届く。『限られた一部の人間』へと。そこに書かれているのは未来予知。そして、その予言が外れていた事はないと言う。
「都市伝説だと思っていましたけど……本当に実在しているとは思っていなかったわ」
「ああ、予言は本当にあるんだよ。俺達だけはその事を知っているんだ。その予言がどれだけ正確に未来を言い当てるのかも。そして今日送られてきた7通目になる最新のメール。そこには書かれていたのさ。佐伯、お前が人の心を読むことができる異端だと。そうした歪みは駆除するべきだと、ね」
「……随分と安っぽい選民思想ですね」
 目を細め、早枝は何でもない事のように毒を吐いた。相手の心を不意に抉るように。
「……なんだと?」
 志賀の表情が変わる。机を大きな音をたてて殴る。だが、そういった暴力を示唆する行動にも、早枝は一歩もひこうとはしなかった。
「だって、そうでしょう? 私を異端だと言って排除しようとする。『予言メールを受け取る事のできる限られた人間』が。他の人達から見れば、貴方たちだって十分に異端のはずなのに」
 志賀は言葉に詰まる。それからすぐに反論の言葉が出なかった自分を恥じるように、彼は声を荒げた。
「俺達はお前なんかと違う!」
「へぇ……どこが、どういうふうにですか?」
 好戦的にも見える瞳で、早枝は尋ね返す。
「それにまず、貴方が言う事はつじつまがあっていないんですけど? 貴方達が受信するのは『予言』メールであるはずですよね? それなのに今回のメールは予言ではない。普通に考えたとしたら、今回のメールは誰かが予言を騙って送ったものだと判断するのが妥当だと思いますけど?」
 切りこむように鋭く、早枝は意見を叩きつけた。だが意外な事に、志賀は早枝の意見を聞いて、逆に落ちつきを取り戻したようだった。
「生憎だが佐伯、それは違うんだ」
 おかしそうに志賀は嘲笑ってみせた。理解の足りない子供を相手にした時のように。
「俺達は予言メールを誰にも見せない。それは余計な騒動を起こしたくないと言う、メール送信者の意思を尊重しているからだ。だから俺達以外にメールに書かれている、とある符号を知っている人間はいない。その符号が今回のメールにも記されていたんだよ。そのメールが騙りでない何よりの証拠のはずだ」
 『反論はないだろう?』と言わんばかりに志賀は言葉を終えた。予言メールには必ず共通の一文が挿入される。彼らしか知らないはずの、それはデータだった。
「だとしたら、話は逆に簡単になりますね……」
 だが志賀の話を聞いて、早枝は逆に目を冴え冴えとしてみせた。
「他にその情報を知る人間がいないという仮設に基づくなら、今回のメールが予言でない以上、送信する事のできる人間は限定されざるを得ない……」
 強さを秘めた瞳。その瞳で射抜くように早枝は言い切った。
「つまり、貴方達の誰か……よ」
「……今、なんて言った?」
 志賀の表情からニヤニヤとした笑みが消えた。
「お前は……『俺達の中に裏切り者がいる』と、そう言っているのか?」
「裏切り、なんて一言も言ってないわ。私はただ、私を中傷するメールを書いたのは、この中の誰かでしょう? と言っているのよ」
 言葉を言い終えようとした時だった、瞳を覗き込むように志賀は頭を早枝に近づける。そして怒りを必死に抑えているように、震える声を出した。
「何で……俺達がそんな事をしなくてはいけない? そんな事を言われなくてはいけない? 俺達は選ばれた人間なんだ。お前や、お前の父親とは違う!」
―……やれやれ。やっぱり、そこに話は到達するんだね。
「私は、父とは違いますけど?」
 今にも肩をすくめそうな態度で、早枝は反論を試みる。
「私はいつも佐伯早枝という個人でしかない。それ以上でも、それ以下でもない。それなのに、私を判断する材料として父親を引き合いに出すのはアンフェアだと思いませんか?」
 何度となく繰り返してきた……そして一度たりとも論理的な反論が返ってきた事のない、それは意見だった。
「……何を『自分は悪くない』って顔をしてるんだ?」
 志賀の指が、まるで何か別の生き物のように蠢く。今にも吹き出しそうな暴力の衝動を堪えて。
「お前、どれだけ父親がこの街に迷惑をかけているか分かってるのか! ……厚い面の皮をしてるんだな、信じられねぇよ。俺がお前だったら、恥ずかしくて外も歩けないぜ」
 それは侮蔑の言葉に違いなかった。今までの人生の中で、早枝が言われ続けてきた……彼女にとってはありふれた言葉。
 だけど一番、言われたくはない言葉。
「それは……私の父が、ああいった職業をしているから、ですか?」
 他の事が理由であるはずはない、と思いながらも確認をする。
 佐伯早枝の父親……佐伯信久は新興宗教の教祖と目される人物であった。『最初は違っていたんだよ』と父は言っていた。『元は興信所と言うか、探偵と言うか……そういった事をしていたんだよ』と。それが時間を経て、いつの間にか摩り替わる。おそらく、父が有能過ぎるのが悪かったのだろう。彼女は思う。彼は依頼された事を黙々とこなし続け、そしてミスを犯さなかった。名声は高まり、やがて一部の熱狂的シンパにより宗教と目されるようになっていく。だから彼女は、父の仕事が嫌いだった。そんな……距離の測れない人間と関係を保ち続けなくてはいけない、父の仕事が。
 ここで問題になるのは、それが宗教か否かではない。元来、新興宗教とは『私達は宗教でない』と言うものだからだ。否定すればするだけ泥沼にはまる。自己の経験により、早枝早枝はそれを痛いほどに良く理解していた。
「そうだぜ。お前まさか、実の父親のしている事を『私には関係ない』とか言い出すんじゃないだろうな?」
「そんな事は言いませんよ?」
 早枝は眼鏡を中指でそっと上げると、腕を組む。『悪い癖ね』と彼女は思う。彼女の意識は今や、最高に研ぎ澄まされていた。敵意や悪意、そうした物を相手の言葉に見出すと、彼女はそれを論破する以外の何も、意識できなくなる。
「言うはずないわ……そんな当たり前の事を」
 開け放たれていた窓からザアッと風が吹き、早枝の長い髪を揺らす。志賀は彼女の視線が酷薄に自分を捕らえているのに気づき、音をたてて唾を飲み込んだ。
「私は私……佐伯信久の娘、ではなく佐伯早枝個人。父のレプリカでもないし、父の事を盲目的に信じてもいない。私はただ、氾濫する情報の中から信じるに足りる物を探す……他でもない、私自身の判断によって。個人の判断という物が、いかにあやふやで曖昧で頼りない物だとしても……私は判断し、選択をするの。私は父と同じ人間ではないのだから!」
 叩きつけるような早枝の言葉に、男子生徒達がひるむ。ただし、一人を除いて。
「……何、勝手な事言ってんだ? お前、反省が足りないんじゃないのか?」
「反省? 反省なんてする必要はないわ。むしろ反省をするなら、志賀君の方じゃないんですか?」
 優しげな……それでいて聞く者の背をゾクリとさせるような口調で早枝は言った。
「反省……俺に反省する、どんな理由があると言うんだ……言ってみろ!」
「志賀君が嘘をついているから、ですよ?」
「……ほう?」
 志賀の目がバネじかけの玩具みたいに揺れ、そして早枝を捉えて止まる。
―やり過ぎ……かな?
 早枝は思う。だけど口から溢れるように飛び出てくる言葉を抑える事はできない。何かに急き立てられるように、彼女は言葉を継ぎ足し続ける。
「俺が嘘をついているなんて、どうして分かる?」
「簡単ですよ?」
 早枝はクスクスとおかしそうに笑った。
「志賀君が言ったんですよね? 『佐伯早枝には人の心を読む事ができる』って。私は……それを一度も否定していませんけど?」
 時間が止まったように志賀が感じたのは、誰もが呼吸を一瞬……止めたからだった。
「貴方達は信じたんですよね? そのメールの内容を。おめでとう……正解ですよ? まさか心の底では信じていなかったって事はないですよね?」
「じゃ……じゃあ」
 息切れを起こしたように、眩暈にうなされるように、志賀はそれを尋ねる。
「お前は……俺がどんな嘘をついているか分かると言うのか?」
 それは暗に志賀が『嘘をついている』事を認めてしまった台詞。だが彼は魅入られたように、それに気づかない。
「全てが見える訳じゃないよ……見える物はいつも限られている。例えば……志賀君が予言メールを理由に、私を傷つけたがっている事とか、ね?」
 志賀の顔色が変わった。
「だけど、それだけじゃない……何かが隠されている。曖昧で……歪んでいて……だけど『見覚えのある何か』が」
 その言葉を言い終えた時だった。志賀の手が早枝の髪に伸びる。そして無造作に掴むと、そのまま勢いをつけ引き下ろした。
「くっ!」
 苦痛に顔を歪める早枝。対照的に志賀は顔色一つ変えず、そのまま髪を引き上げる。
「それ以上……俺を見るなっ!」
 早枝の視界が漆黒に染まる。志賀の手のひらで目の前を遮られたのだと気づく。苦痛がこめかみを襲う。頭が握りつぶされそうな程に痛む。
 触れてはいけない所に触れてしまったのかも知れない、早枝は思う。だけど、失敗したとは思わない。敵意を向けてくる人間には毅然として立ち向かう。それが彼女の生き方だったから。他の生き方はできないから。
「お、おい……志賀!」
 慌てた男子生徒が志賀に声をかける。だが彼に声が届いているようには見えなかった。緊迫した空気が辺りに漂う。
 その時だった。
 その緊迫した雰囲気にそぐわない、飄々とした声が響いたのは。
「いい加減に起きろっつってるだろうが、堀田アッ!」

 甲高く、そして小気味の良い音が教室内に響き渡った。
「……ん? は……はわぁ……」
 それに続いて、いかにも寝起きと言った欠伸。そこには週刊漫画雑誌を持った曽根誠直と、その雑誌で叩かれた頭をさすりながら体を起こす堀田佳宏の姿があった。
「……朝か?」
「お前の体内時間だと、きっとそうなんだろうな」
 ふぅ、と一つ息をついて堀田は立ちあがる。
「俺の事なんか起こさないでそのまま帰れば良いんだぜ、曽根。何度も言っているけど、俺はお前の事なんか嫌いなんだからな」
「気が合うな、僕もお前の事は嫌いだよ。だから傍にいるのさ。いつか寝首を掻き切ってやろうと思ってね」
 爽やかに不毛な会話を交わす二人。冗談なのか、そうでないのか測りかねる口調で。
「堀田……」
 何故か声を震わせ、志賀は堀田を見続ける。生徒達の帰った教室に、それは奇妙な程に鮮明に響いた。
「ん?」
 名前を呼ばれ、堀田の視線が志賀に移り……そして止まる。志賀の手から力が抜け、その瞬間を見逃さずに早枝は、その手を振り解く。
 意外な事に、志賀は早枝を追おうとはしなかった。ただ堀田に歪んだ笑みを向ける。まるで、本当に忌避すべき存在がそこに現れたかのように。
「やぁやぁ志賀君。君は今、何をしていたのかな?」
 底抜けに明るい口調で、堀田が声をかける。その姿を見て、曽根が思いきり顔を歪めるのを早枝は見た。
「俺が何をしていようが、堀田……テメェには関係ないだろ?」
「確かに関係ないな。だが……首を突っ込むのは俺の自由だぜ?」
 奇妙に楽しげに堀田は言葉を続ける。まるで先程までの緊迫した雰囲気を和らげようとしているかのように。
―いや……違う、むしろ逆効果になっている。
 早枝は思う。今や音を立てて聞こえてきそうな程に、辺りの雰囲気は緊迫した物になっていた。
「一応、俺は自称フェミニストなもんでね。女の子に暴力が振るわれているのを見過ごす訳にはいかないんだよな」
 言葉を裏切るように、堀田はその言葉を楽しそうに口にする。『まずい』と早枝は思う。このままだと、取り返しがつかない事態になりそうだ、と。
 駆け寄ろうとする早枝。その視界の端に何かが映り……彼女はその足を止める。
「……曽根君?」
 驚きの声を上げる早枝。それも当然かも知れない。今にも一触即発だという状況の中、何事もないかのように曽根は鞄を下げ、クラスを出て行こうとしていたのだから。
「な……どこに行こうとしてるの?」
 『佐伯か』言いながら曽根は振り返る。
「決まっているだろ、授業は全て終了している。良い子は帰る時間さ」
「何で、そんな呑気な事を言ってるの? 状況がどんなだか、見えていないの?」
「見えているさ、だから帰るんだ」
 何も分かっていないんだな、という顔をして曽根は答える。
「佐伯は、堀田がああやって笑うところを見た事があるか?」
「いえ……」
 見た事はなかった。堀田はいつも仏頂面を浮かべ、皆がクラスに溶け込んでいく中、頑なに理解を拒むような態度ばかり取っていたのだから。
「だろうな……それじゃ、いい機会だから覚えておくといい。ああやって機嫌良さそうに堀田が笑っている時、堀田に近寄るのは―」
 一呼吸置いてから、曽根は言葉を続けた。
「最悪だ」
 曽根の言い方はひどく物々しくて、早枝は笑い出しそうになる。だけど笑えない。曽根が本気で言っているのが、彼女には見えてしまったから。
―どういう事……?
 考える時間が早枝に与えられる事はなかった。教室に罵声が響く。誰の、何て考えるまでもない。
 志賀だ。
「フェミニストね……お前に一番、似合わない言葉だと思うのは俺だけか? 気に入らないんだよ、堀田。いつもいつも遠くから他人を見下しているようなお前の目がよ」
「俺は別に他人を見下したりなんて、してないぜ?」
 言いながら堀田は無造作に志賀に近づいていく。
「むしろ羨んでいるんだ、自分以外の人の事を。きっと誰でもそうであるようにね。だから、俺は志賀の事だってちゃんと羨んでいる」
 そして薄ら笑いを浮かべながら、堀田は囁くように口を開いた。
「お前みたいに鈍感に人を傷つけられたら、どれだけ楽しいだろう、ってね」
「堀田ァッ!」
 跳ねるように志賀が腕を伸ばす。だが手は虚空を掴む。
 逃げたのではない。堀田は志賀になお一歩、踏み込んでみせたのだった。
「そんな怒るなよ、志賀。俺はちゃんとお前の事を理解しているさ」
「お前に……俺の何が分かると言うんだ?」
 息がかかるほど近い距離、堀田は悠然と微笑んだ。
「分かるさ……」
 堀田が言いかけた時だった。早枝は奇妙な耳鳴りを感じる。
 まるでTVの砂嵐のような、激しいノイズを撒き散らす耳鳴りを。
―これは……何?
 早枝は堪えきれずに、机に手をついた。耳鳴りは益々ひどくなっていく。不思議なのは、早枝以外の誰もが、そんなノイズを聞いているようには見えない事だった。
「聞こえているのは……私だけなの?」
 誰にも聞こえない、小さな呟き。歪んでいくノイズの中、それは彼女自身にすら届かないようで。
「分かるんだよ、志賀……お前がどんなに嫌だろうとな。お前と同じ位置に、俺もいた事があるんだから……」
 そんなノイズの中、堀田の声が鮮明に早枝の耳に届く……合図のように。早枝は見る。歪んでいく景色の中、堀田の瞳だけが清らかに闇を湛えているのを。それは純粋な悪意、或いは絶望の結晶。『彼はその瞳で、何を見ているんだろう?』早枝は思わずにはいられなかった。
 そして堀田の口から言葉がこぼれた。彼の悪意を、そのまま切り取ってみせたように。

『今度は佐伯の家に石を投げつけてやろうって考えているんだろう? 志賀』

 意味が分からなかった。その言葉が何を呼び起こすのかも。ただ……その言葉が何を意図して紡がれたのかだけは、克明過ぎるほどに分かった。
 志賀の胸には大きな刃が刺さっている。痛みすら感じられないほどに鋭く、決して癒える事がないほど深く。堀田は志賀を傷つけるためだけに言葉を口にした。それが早枝には見えた。そんなにも抉るように人を傷つける言葉を、早枝は初めて見て。
「あ……」
 志賀が声をあげる。弛緩した喉から漏れてしまっただけのような声を。そして段々と思考が回復していき―
 志賀は激昂した。
「堀田ァッ!」
 襟首を掴んで締め上げる。とっさにかわす事ができず、堀田は苦しげに喉を鳴らす。
「お前、何で、何でその事を!」
「痛いだろ、離せよ。それとも……『まだ説明が足りない』ってお前は言うのか、志賀?」
 志賀の手から力が抜けていく。そこから消えていかないのはただ、敵意だけ。だけど……志賀は、それ以上に何かをしようとはしなかった。彼は明らかに堀田の言葉を恐れている。まるで彼が隠している傷を、ざらついた手で堀田が撫で上げたかのように。
「もし、お前がそれを誰かに話したら……」
 言葉は誓いをたてるように吐き出された。
「俺は何があってもお前を許さないからな……堀田」
堀田は答えずに、ただ一度だけ肩をすくめてみせた。
「……行くぞ」
「あ、ああ……!」
 志賀とその連れが、大きな音を立てながら教室を去って行く。後に残されるのは堀田と早枝。曽根は気づかない間に去って行ってしまっていた。
 さっきまで、あれ程に早枝を苦しめていた耳鳴りが今はもう聞こえなくて。彼女の耳を打つのは痛いくらいに完全な静謐だった。
「あ……」
「また……かよ。どうしてこう、いつも俺は楽な方へと……」
 うつむいて言葉を落とす堀田。その言葉は苦痛に満ちていた。人を傷つけ、その事に傷つく苦しみに。
 だけど……
「……堀田君?」
 早枝には彼が苦しみながらもなお、笑っているように見えた。
「ん……? ああ……佐伯か」
 顔を上げ佐伯を見る堀田。まるで今まで彼女の事など、忘れていたみたいに。
「どうしたんだ、帰らないのか?」
「帰る前に、言っておく事がありますから」
 そう言って佐伯は軽く頭を下げてみせた。
「助けてくれて……どうも、ありがとう」
 堀田の表情が驚きに満ちる。全く予想していなかった言葉を耳にしたかのように。
「ああ……気にしなくて良い」
 堀田は冷たく笑ってみせる。
「別に佐伯のためにした訳じゃない。俺はただ、誰でもいいから他人を傷つけたかっただけなのさ。いつもそうさ。俺はいつも、他人を傷つけずには生きていけないのだから」
 あからさまな拒絶だった。だけど早枝は、その言葉を聞いて不快そうな顔はしなかった。彼女はただ、興味深そうに彼の顔を見る。
「堀田君って……面白いね」
「面白い? 俺がか?」
 早枝は軽く頷いてみせる。
「そうだよ、面白いよ……? どうして、そんなにまで、人からの理解を拒もうとするのか……面白いと思うよ?」
「……そんなのは当たり前の事だろ?」
 堀田は自分の机に歩み寄ると、鞄を肩にかける。
「人間は他人を理解する事なんてできない。できるのは理解したような気になる事だけ。あいつなら俺の事を分かってくれるかも知れない。俺ならあいつの事を分かってやれるかも知れない。そうした勘違いを共有する事しか俺達にはできないんだよ」
「それは……ひどく悲しい事だと思う?」
「いいや、違う。それは、ひどくかけがえのない事だ。そう思えるからこそ、俺達は生きていようなんて思う事が出来る。ただ……」
 堀田は歩きながら言葉を続ける。
「理解を与えてもらおうと媚びて生きる事は、俺にはできない……ただ、それだけさ」
 そして彼はドアを開ける。風が吹き込む。澱んだ空気を全て洗い流してしまうかのように。その姿を早枝は共感をもって受け入れる事ができた。
 馴れ合うのではなく、理解を求めず、不理解を恐れない……そうした関係を堀田とならば築けるような気がした。
「勘違い……なのかな?」
 堀田の言葉を借りるなら、そういった理解は全て勘違いなのだろう。でも、それでも構わなかった。行動の全てに理由をつける必要なんてない。
「ただ……面白そうだから、でも良いよね?」
 言って早枝は駆け出した。堀田が後ろ手でドアを閉めきろうとする、その前に駈け抜けるために。
 彼となら理解し合えるかもしれないという、勘違いを信じて。


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