雪待ち

煎餅屋 光圀

 さらさらと音を立てて、2月の東京に煙る様な雨が降っていた。
 東京上空には−35度の寒気団がやってきていて、もうすぐ雪が 降って来るだろう。僕の隣では小さく白い息を吐きながら、ラジオ に耳を押しつけてヨリが天気予報を聞いている。
「さんがくぶでは、もう雪が降ってるって。こっちももうすぐだね」
 ヨリは僕の方を見ながらそう言って楽しそうに笑うと、そのまま 空を見上げて手をさしのべる。
「早く、雪、降らないかなあ」
 ヨリは目を輝かせて、さっきから同じ事を何度も呟いている。
 どこから仕入れてきた情報か、その年一番最初の雪に願い事をす ると、きっと叶うって、本気で思っているらしい。子供らしいって 言うか、なんて言うか。
「ねえ、パパは神様に何をお願いするの?」
 さすがに待つのに飽きたのか、ヨリは僕にいろんな事を聞いてく る。僕は少し考えたふりをして腕を組むと、目を細めてヨリを見つ めた。
「そうだなあ、僕だったら……ヨリがピーマン食べてくれますよう に、かな?」
 僕はそう言ってニヤリと笑う。ヨリは顔を真っ赤にして僕の腕を 拳で叩いた。僕は両手をあげて降参し、それからヨリの頭を軽く撫 でる。
「うー、それだけは駄目だもん」
 そう言ったヨリの目はすでに涙目だった。僕は笑いながらヨリ の頭をくしゃくしゃと撫でる。暖かい癖っ毛が指に絡まって、冷え きった指がじんとした。
「でも……お願いすれば叶うんだろ?」
 僕はくすくす笑ってヨリに言う。ヨリは無きべそを掻きながら、 小さく華をすすった。
「駄目なんだもん……」
 そう小さい声で呟いたヨリを見て、僕は少しいじめすぎたか?  って思う。僕は保温ポットから暖かいココアをヨリのマグに注いで やり、懐からタバコを取り出して火を付けて呟く。
「で? ヨリは何をお願いするんだ?」
 ヨリは暖かいココアをすすると笑顔で僕を見つめる。我が娘なが ら単純な奴だ。僕はホッとした反面、半ばあきれてもいた。
「ヨリはねえ、将来のこと」
 ヨリはそう嬉しそうに言い。
「看護婦さんになるの!」
 と言ったときには、ヨリのマグは空っぽだった。
 僕は、微笑みながらヨリのほっぺたを指でつついて立ち上がり。 「がんばれ」って呟いて台所に歩いていく。
 冷蔵庫から牛乳を取り出してミルクパンにかけると、ヨリの嬉し そうな笑顔が思い浮かんだ。
『看護婦さんになるの!』
 そう言ったヨリの堂々とした姿は、僕の鼻先にむず痒く奇妙な感 傷を思い出させる。あれは、自分の夢が叶うって信じて疑わない目 だ……それに対して、僕はがんばれとしか言ってあげられない。
 しゅんしゅんと音を立てて、牛乳がミルクパンに膜を張る。僕は 慌てて火を止めると、買い置きの粉末ココアを大さじで2杯入れた。
「……」
 僕は少しだけ考えて、大さじに半分だけ粉末ココアを追加する。
「世の中の苦さなんて、その内嫌ってほど味わうんだし。今ぐらい は甘い夢を見ていれば良いさ」
 僕はそう微笑んで呟き、保温ポットにココアを注ぐと、自分用に インスタントコーヒーを入れた。それから戸棚の中のチーズクラッ カーを皿にいれ、ヨリの待つ縁側に戻る。
 ヨリは祈っているように、黙って中空を見つめていた。僕はヨリ の傍らに座り、黙ってマグに暖かいココアをそそぎ入れる。
「ねえ、パパの夢ってなんだったの?」
 ヨリが中空を見つめたまま不意に呟き、僕の手は一瞬だけ止まっ た。ヨリは僕に視線を移し、僕は懐からタバコを取り出して火を付 ける。
「僕?」
 ヨリは無言で頷いた。僕は苦笑して空を見つめる。
「若い頃、僕はパン屋になりたかった」
 縁側に座ってタバコを吸いながら僕は呟いた。
 白い息を紫煙と一緒に吐き出すと、蛍光灯と夜の闇の境目でくる くる回りながら、雨に混じって溶けていくの見える。ヨリはそれを 見つめて微笑むと、僕の真似をしてホウって小さく吐息を吐く。
「どうしてならなかったの?」
 ヨリはそう言うと赤いマグに口を付けて、スプーンの向こうから 僕を見つめた。牛乳で入れたココアはとても暖かな湯気を立ててい て、ヨリの声に甘いカカオの臭いが混じって香る。やがてそれは雨 の臭いに混じって溶けていった。
「ん……」僕は小さく呟くと、白い湯気を立てるマグからコーヒー を一口呑む。
「戦争をしなかった。勇気が無かったんだ」
 僕はそう言って、壁に掛かった温度計を見つめる。気温はすでに 氷点下で、あと一時間もしないうちに雨は雪に変わるだろう。
 僕は立ち上がって押入に行くと、ヨリの座っているチェアーに毛 布を掛けてやり、それからココアのお代わりを注いであげた。ヨリ は必死に何かを考えている様子で僕を見つめ、やがて首をひねって 言う。
「うー、ねえパパ、ヨリには良く分からないんだけど、パン屋さん と戦争との間にどういう関係があるの?」
 そう言ったヨリの目はすでに涙目だった。
 僕はクスリと笑い、ヨリの頭に手を置いて呟く。
「長い話だよ。長い割に古くて、どうってこと無い話……」
 そう言いながらヨリの髪の毛をくしゃくしゃと撫でると、ヨリは 僕の手を掴んで微笑んだ。
「むかしむかしだね?」
 僕は苦笑しながら頷き、庭の椿に目をやる。冬の刺すような冷気 の中。それでも椿は白い花を咲かせて雨に咲いていた
「むかしむかし、あるところに椿が好きなお姫様がいました……」
 僕はそう言って、チーズクラッカーを一枚囓る。ヨリは目を輝か せて僕の話を待っていた。僕はタバコを2口吸って灰皿に押しつけ る。
「お姫様はピアノがとても好きで、小さい頃から何度も一等賞を取 るくらい沢山練習もしていたんだ。実際とても上手だったね、将来 はピアニストになるんだって、周りの誰もが思ってた」
 僕はそう言ってヨリの手を握った。ヨリは少しビックリした顔を したけど、僕の手を離そうとはしない。僕は微笑んでコーヒーをす する。
「やがてお姫様はね、ある貧乏な若いパン職人と恋をしたんだ。そ れは滑稽なほど身分違いな恋でね、周りの人には秘密にしなくては ならなかった」
 僕は思わず苦笑する、それほどコーヒーは苦かった。
「でもね……秘密っていうのは、何時までも隠しておける物じゃ無 いんだ。その事が王様にばれて、2人は引き離されてしまうんだよ」  僕はそう言ってため息をついた。ヨリはきょとんとした顔をして 僕を見つめる。
「なんで?」
 ヨリは首をひねって僕に尋ねた。
「なんでだろうね? きっと、身分が違う2人が付き合うと、困る 人が沢山いたんじゃないかな?」
 僕は微笑んでそう答える。ヨリはますます分からないって顔をし て僕を見つめた。
「その若いパン職人にも、なんでなのか良く分からなかった。だか ら、お姫様の手を取って逃げることにしたんだ」
 僕はそう言って空を見つめる。その頃僕は若くて、何にも入って ない無いポケットの中の物が信じられたんだ。
「パン職人にはお姫様が、お姫様にはパン職人が世界の全てだった。 2人は何も持ってなかったけど、お互いがいれば何も要らないって 思ったんだ……失ってしまった物の大きさにも気付かずに」
 でも、空っぽのポケットにはやっぱり何にも入って無くて……そ の事に気付いたときには、もう戻れない状態になっていた……
 僕はヨリを見つめて思い出す。僕はなんて馬鹿だったんだろうっ て。
「最初に、その事に気付いたのはお姫様だった。優しい両親、天涯 付きのベット、そして、何より大好きだったピアノを失った……パ ン職人は貧乏で、彼女にピアノを贈る事が出来なかったんだ」
 僕はあまりに悔しくて唇を血がにじむほど噛みしめた。ヨリは僕 を見つめて少しだけ悲しそうな顔をする。僕はそれに気付いたけど 上手く笑うことが出来なかった。
「……彼女は……お姫様は、それでもパン職人を責めなかった。だ から余計にパン職人は自分を許せなかったんだ」
 ヨリは僕を見つめて言う。
「何が許せなかったの?」
 僕は、少し考えて答えた。
「信じられなかった事がさ」
 僕はそう言ってコーヒーに口を付ける。コーヒーはすでに冷え切 っていて、とても苦くて不味かった。
「本当にお互いが世界の全てなら、本当にポケットの中の物を信じ ていたなら。一角の、立派なパン職人になってから、大手を振って 彼女を迎えに行けば良かったんだ……でも、パン職人にはそれが出 来なかった、若かったんだね」
 僕は白い息を吐きながら考える。僕が彼女の為にしてあげられた 事、しなくてはならなかった事って、彼女を連れて逃げる事じゃ無 かったんだ。それは戦うこと。たとえたった一人で、勝ち目のない 戦争だったとしても……いや、違うな。本当はそうじゃない。そん なんじゃ無いんだ。
「それからパン職人はね、パンを焼くことを止めたんだ。お姫様か らピアノを奪ってしまった罪滅ぼしのために、自分のたった一つの 夢を捨てることを選んだ……そんな事、何にもならないって分かっ ていたのに」
 僕は、空を見上げる。雨に混じって白い雪が一つ、二つと暗闇に 舞っていた。ヨリはそれを見つけて目を瞑る。僕も初雪に祈った。 せめてこの子の夢が叶いますようにって。
 ヨリは言う。
「パン職人さんは、今は幸せじゃ無いの?」
 僕は首を振った。ヨリは雪を見つめて微笑んだ。
 僕は言う。
「幸せの形にもいろいろあるのさ。もしかしたら、浅い夢を見て妥 協しているだけなのかも知れない。何かを掴むって言う事は、何か を諦めるって事なのかも知れない。もしかしたら違うのかも知れな い。ただ、彼等は……」
 僕たちは……一度に一つしか掴めなかったんだ。でけどそれは本 当に欲しい物、何に変えても手に入れなくてはならない物だった。 それだけは本当なんだ……ああ、そうか、そう言うことだったんだ。  今更になって僕は思う。あまりに滑稽で涙が出そうになった。僕 が本当にしなくてはならない事って、すごく簡単な事だったんだ。
 僕は微笑むと、ヨリに言う。
「さ、お話はお終い。お祈りが済んだら歯を磨いて寝なさい」
 ヨリは空を見つめて、なごり惜しそうにため息をつくと。
「はーい」と言ってチェアーから立ち上がった。それから、少し何 かを考えてから僕に言う。
「ねえパパ、ママにごめんなさいって謝るの?」
 僕は苦笑して首を振る。ヨリは首を傾げて僕を見つめた。
「違うよ、僕の……パン職人のしなくてはいけないことはね」
 僕は呟いて椅子から立ち上がる。もう何年も彼女を待たせている んだ。一刻も早く伝えてあげたい。
「謝ることでもなく、夢を諦めることでも、傷をなめ合うことでも 無いんだ。ありがとうって一言いう。ただそれだけなんだよ」


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