A Drop Of Snow

KENSEI

 在室と表示されたプレートを確認してから、研究室の扉を開けた。細長く白壁に囲まれた部屋。正面の壁には窓があり、レポートや書籍が山積みにされた机に西日が通り抜けている。部屋の中央にあるブルーの彩り。粕谷友香が長い髪を揺らしてこちらを見た。粕谷は表情をうかがうように上目遣いで会釈する。俺も目礼を返すが、言葉に詰まってしまう。肺が緊迫する。呼吸が浅くなる。どこかぎこちない体の運びを意識しながら、少しだけ部屋に足を踏み入れて扉を閉める。室内の暖気はやわらかな香りに満ちていた。必要以上に、粕谷の存在を感じさせる。
 無言の時が流れた。
 青いセーターを視界に入れないようにしながら、周囲の壁に設えてある本棚を眺める。天井まで届く蔵書は原書がほとんどを占める。毎年本で百万は借金をつくるのだここの住人は。うらやましい限りの話だった。粕谷が部屋を出る気配はなく、俺も譲ってこの部屋を出るわけにはいかない。粕谷になにか話しかけたいと思った。暖房が効きすぎている。違う。体温が上がっているのだ。上着をぬぐ。息を大きくついて、口を開いた。
「……あの、ツトムくん、いやセンセイは?」
「あ。えーと教務課。すぐ戻るとおっしゃってたけど」
 早口で粕谷は答えて、また沈黙が広がる。廊下を学生がしゃべりながら通り過ぎるのが聞こえる。スニーカーが擦れる音を響かせながら。遠ざかる足音に耳を澄ます。足音が消えたとき、ようやく話題を一つ見つけて、放った。
「留学のこと?」
 学期末のテスト期間が始まる直前。みんながノートの確保に追われる中、暢気に先生と歓談しようなどいうやつは滅多にいまい。手続きの期限がもうすぐやってくる。粕谷が迷っていることは人づてに聞いていた。粕谷はあきらめるかもしれない。
 粕谷が俺を見た。首筋に血が上るのを感じる。悟られないように視線を並ぶ背表紙に逸らしてから言った。
「……行けよ、ドイツ。チャンスだろ? 行っちまえ」

 痛いほど張り詰めた大気を、灰色の絵の具を塗り重ねたような空が覆っている。雪の気配がした。ニュースでも夜から雪だと、アナウンサーがにこやかに告げていた。期末テストがすべて終了し、ゼミ論の提出も終わり、今夜は打ち上げが行われる。
 夕暮れが訪れようとしている街は、閑散としている。キャンパスへの歩道を歩きながら、くだらない夢想を浮かべていた。酔った粕谷と二人、雪の街を歩いている。そして俺は出会って初めて話したときの思い出を語る。留学から帰ってくるのを待ってるから。雪の中で俺は粕谷に告げる。寒風が吹き付けてくるが、心は高揚していた。

 ゼミに入って間もないころ、酒好きなツトムくんの主催で、やはり飲み会があった。偶然隣の席に座った粕谷は、酔いもあったか熱心にのグロピウスの魅力について語った。
「へえー本当に粕谷は好きなんだな」
「そんなの。普通だよ。だって、みんなそうでしょ?」
「俺はただ偏差値があったからこの学部を選んだ」
「……それだけ? 本当にそれだけ?」
 粕谷がすがるような瞳になるので、俺は取り繕った。
「……ま、そのなかでも興味を持てそうな分野ってのはあったけど」
 安心したように粕谷は微笑んだ。
 その日から、俺の神経は俺を惑わし始めた。
 だから本気で学び始めたんだ。

 大学図書館にまとめて本を返却して、学食で待ち合わせた崇文と会った。崇文は今夜の幹事で、ゼミのまとめ役でもある。ツトムくんを会場へ案内するために早めに出てきているのだ。俺は集合時間より少し前に崇文から呼びたされていた。妙に歯切れの悪い誘いだった。学食の卓で向かい合って座ってからも、不味いコーヒーばかりすすって話を切り出そうとしない。崇文は時計を気にしながら、つまらないネタをしきりに披露していた。しびれを切らして、聞いた。
「いい加減にしろよ。なんの用なんだ?」
 崇文は驚いたように俺を見て、うつむく。やれやれ、これだからと口の中で呟いた。聞こえている。そして気を取り直したように顔を上げた。
「なにか最近、粕谷にキツイこと言わなかったか?」
「なんだよ。いきなり」
「……粕谷、お前に嫌われてるんじゃないか、って気にしてたぞ」
 俺は冷水でも浴びせられた気分になった。
「なんの話だ?」
「留学のこと。本当なら成績が一番いいお前が行くはずだったから」
「ああ……」
 やっと納得がいく。あんなに強い調子で言ったから、怯えさせてしまったのかもしれない。どうしていつも俺はあんな調子になってしまうのだろう。
「別に俺は、行きたいと思ったら、自力でも行くよ。そんな風に遠慮してほしくないから言ってるんだろ?」
「お前は粕谷に厳しすぎるよ」
「お前はいくらタイプだからって、甘すぎる。そうやって落とすつもりか?」
「茶化すな」
 崇文が苦笑する。俺も口の端だけで笑ってみせる。。
「そんなに深刻な話かよ。ツトムくんが選んだんだし粕谷が一番才能あるんだよ。俺はそう思うから背中を押しただけさ」
「……」
「……どうした?」
「俺は行ってほしくないなあ。わがままなのかもしれないけど」
「……」

 ツトムくんはにこやかで、それでいて深い洞察を感じさせる視線で、俺を見ていた。俺は見抜かれたって構いやしない気持ちで、言った。
「先生からも強く粕谷を説得してやってくれませんか?」
 粕谷はツトムくんとの話も早々に研究室から帰ってしまっていた。俺がいたのが気になったのだろう。なんにせよ好都合だった。
「やっぱり粕谷が留学すべきです。辞退なんて、させないでください」
「それでいいのか? 君は」
「もちろんです」
「それでいいなら、いいさ」

 宴会は、襖を蹴破るほどの勢いで繰り広げられていた。もちろん実際に蹴破って、叱られたのだが。それぞれのテーブルで存分に笑い、飲む。座敷を駆け巡る。俺は粕谷の横を崇文がキープしているのを横目に、ちっとも粕谷と話せないことに焦りを覚えた。でも大丈夫だ。二次会もあるし、帰りもある。留学の意思を確認するだけだ。そう言い聞かせながらツトムくんに酌をし、仲間に冗談を飛ばしていた。
 崇文が、俺を手招きしたのは宴も半ばを過ぎたころだ。一つ席をずれて粕谷の横を譲った。俺は渡りに船だとは思ったが、わずらわしいように腰を下ろした。そんなことで喜ぶのはスタイルじゃなかった。崇文が俺に低い声で言った。
「……ちゃんと粕谷と話しておけよ」
 崇文の気配りに感心しつつ、テーブルの一点を見つめたままの粕谷を見つめた。表情は垂れた髪のせいで見えない。気楽な調子で話しかける。
「粕谷、どうするんだ? 留学」
 粕谷は押し黙ったままだ。
「もう、手続き、終了したのか?」
「……わたし、辞退する。行って。きっとそのほうがいい」
 前を向いたままの粕谷から、平坦な声音が聞こえる。
「……なんで?」
 俺は酔いが悪い方向に傾くのを感じた。頭が世界を揺らす。
「だって、そんな勇気ないよ。絶対無理だよ……」
「勇気がない?」
 予想以上に大きくなってしまった声に、周囲が俺を見た。わかってはいたが、止めることができなかった。
「粕谷。俺はお前が辞退しても行かないぜ? だって、そんなの俺に失礼だと思わないか?」
「おい」
 崇文の手が肩にかかる。振り払って粕谷の横顔に続けた。
「間違ってるならなんとでも言ってくれ。でも、能力があるから選ばれたんだ。勇気がないからなんて、そんな理由、ないよ」
「……」
 酒宴の雰囲気がしぼむ。息を飲む周囲のテーブルから、一切の雑音が消えた。くぐもった隣室の笑いが、白々しくしみる。
 粕谷のすすり上げる声が静かに伝わってくる。
 俺は呆然とすすり上げ始めた粕谷を見つめている。
「ほら、お前酔ってるよ。覚ましてこいよ」
 崇文が俺の腕をつかんで、立たせた。なによりも泣かせてしまった自分自身にショックで、自分の頬を叩いた。女の子が粕谷の周囲に集まって、なぐさめはじめる。ツトムくんが優しく語りかける。俺はひどく遠い情景を眺めるように部屋の隅に押しやられ、突っ立っている。
 かむりを振りながら表へ歩いた。居酒屋から表に出ると、雪が降っていた。手のひらで雪を受け止める。すでに赤い手のひらで雪が溶ける。足早に人々は帰路を歩く。激しい後悔と戦いながら、雪の中へ歩みだした。俺は粕谷を泣かせて、雪の中をこうして歩くために行動したわけではなかった。頭に積もった雪を払いながら、ただ吐き出すだけの息がひどく白いのに気づいた。寒さで急に震えがきた。商店街を戻りながら、理性を立て直した。謝らなくてはならない。時計を見る。もうすぐみんなが座敷を出る時間だ。
 居酒屋の前に仲間が待ってくれているのが見えた。走ったが、酔いですぐに息があがってしまう。何度も歩き、走る。粕谷が見える。笑っている。俺は駆け寄った。
「粕谷俺は!」
 粕谷が俺を見た。少し弱弱しく微笑んだ。胸に血が張りついたような気がして、なにも喉へと搾り出すことができなかった。言葉が出口を失ってなんどもから回りした。ほんの数秒だったのか。それとも数分だったのか。
「まったくすぐむきになるんだから」
「ホラ上着」
「二次会行くぞ二次会!」
 仲間たちに包まれる。すべてが途切れてしまった気がして、俺は粕谷を見つめたまま、仲間に身をゆだねた。
「粕谷さんはどうする?」
「……雪だし、帰る。ゴメンね」
「そうか。おーい! 二次会行くやつこっちねー!」
 ほぼ全員が二次会にいく流れに加わった。
「粕谷、送っていくよ。途中まで同じ駅だろ」
 崇文が粕谷に声をかけた。粕谷は崇文を見た。俺は仲間に押しやられながら歩道を歩いていた。崇文が去り際笑いかけてくる。
「お前ら飲みすぎんなよあんまり」
「ああ、そうだなー」
「粕谷さーん、おやすみー!」
 雪の中遠ざかっていく二つの背中を見送る無言のまま。
 平気だ。まだ謝るチャンスはある。粕谷は留学しないのだから。

 春休みが終わるまで、俺は崇文とも粕谷とも会う機会はなかった。
 新しい学期が始まったとき、俺は一つの噂を耳にした。
 崇文と粕谷が付き合っているという噂だった。
「本当だよ」
 なにげく装った問いに、崇文は答えた。
「あの、ゼミ飲みの雪の夜からだ。あの日、家まで送っていった。あの夜から……」
「……」
 粕谷とはゼミでも顔をあわせてはいたが、もう二人きりでのグロピウスの話をする機会はなくなった。
 留学の枠は他のゼミの推薦枠を2つにして行われた。ツトムくんは相変わらずだ。ある日、俺が研究室でツトムくんと二人きりになったとき、ツトムくんはひっそりと言った。
「君は、優秀な生徒だよ。そしてとても優しい」
 その言葉は、手のひらで溶けた雪みたいに、小さな雫になった。


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