永久機関の底で

秋月 ねづ

 俺は国道をゆっくりと歩いていた。道沿いに立ち並ぶ大きな店のネオンと行きかう車のヘッドライトが俺を照らしている。
 俺はあるバーに向かって歩いていた。俺が年に二度ほど、精神状態が最悪なときにだけ行くことにしていた店だ。別にカウンセリングをしてくれるとか、オシボリを持ったお姉ちゃんが慰めてくれるとかいうような特殊な店というわけでなく、どこにでもある普通の田舎のバーだ。じゃあ何故そこに行くかというと、立地的に丁度良い場所にあるからだ。俺の実家から歩いて二時間十五分かかる。それだけの理由だ。
 十八の年の始めに俺は沈んだ気分を癒すには、ひたすら歩くのが一番早いと気づいた。俺は考え事をしながら足がオカシクなるまで歩きつづけてクタクタになると、どんなときでも少しはましな気分になることに気づいたのだ。それからはそれが俺のやり方になって、俺は大学へ行くために東京に出るまでの二年間、落ち込むたびに地元を歩き続け実家を中心にした広い範囲の地理を把握した。そして、俺はそのバーを見つけたのだった。そのバーは俺がクタクタになってしゃがみ込みたくなるとオアシスのように俺の前に現れて、飲み物を提供してくれる。俺は幾分晴れた気分でスツールに腰を下ろして、ビールを飲み、壁に掛かったサーフボードを眺め、アロハを着たバーテンダーと話をした。年に二度ほどしか来ないのにも関わらず、バーテンダーたちは俺のことを良く覚えていて、親切にしてくれた。僕の人生のサイクルにおいて得がたい店だった。
 だが、東京ではそういう店は得られなかった。俺は代官山のアパートを中心に歩き回ったが、ある店は近すぎて、ある店は遠すぎるといった具合で見つからなかったのだ。仕方無しに俺はグルグルと複雑なルートを取ってその近すぎる店に行くことにした。だが実家の時のように国道に沿って真っ直ぐ歩くというほうが、俺の気分は晴れたし、その店はよれよれのジーンズとTシャツの俺をあまり親切に扱ってはくれなかった。そして今回の長い憂鬱の原因であるミサトに会ったのもその店だった。初めて会ったときミサトはクリーム色のスーツを着て、友達と一緒に飲んでいた。俺はバーテンダーの義理トーク(酒代の中に含まれると思われる)に義理で付き合っていて、ミサトはトイレに立って俺の後ろを通り過ぎるときに、俺のジーンズに付いていた緑の染みに気づいて、「血が付いてますよ」と言ったのだ。俺が「あっ、ほんとだ」と言って笑うと、ミサトは
「ほんとは何の染みなんですか?」と俺に訊いたから俺が「油絵具だよ」というと「絵描きさん何ですか?」とミサトが訊いて俺が「美大生だよ」と言うと、ミサトは尊敬の眼差しで俺を見て、バーテンダーたちも「ホー」とか言って、その店における俺の株が少し上がったのだった。
 俺がその店を気に食わなかった理由の一つは、近すぎて本当に精神的に沈んでいない時でも行けてしまうということだった。実家の方の店は多少の憂鬱くらいでは歩ける距離ではなかったから、年に二回くらいで済んだのだが、代官山の店では、バーテンダー達に妙な具合に一目置かれるようになったのと、酒好きの俺(大学の友達が俺に付き合うにも限度があった)が一人で酒が飲める場所を探していたこともあって、週に何度か通うようになってしまった。そのバーに何度も通うようになると、バーの常連であったミサトとも何度も顔を会わせるようになり、「次はいつ来るんですか?」とか訊かれて一緒に飲むようになり「描いてる絵が見たいです」とか「どんな所に住んでるんですか?」とか訊かれて結局俺達は付き合うことになった。ミサトはバーの近くにある信用金庫に勤めていて、そのまた近くで、親の遺産の生前分与のかたちで買ってもらった広いマンションに住んでいた。俺達はお互いの住まいを行き来して(俺が行くことが多かったが)、特に言うべきことも無い普通の恋愛を続けて、俺が大学を卒業するまでそのステレオ的な恋愛関係は続いた。
 四年で俺は大学を卒業したが、絵を捨てきれず、かといってすぐに絵で食っていけると言うわけでもなかった。仕送りも打ち切られ、細々としたバイトの給金だけでは、狭いアパートとはいえ代官山の部屋を維持することも出来ず、なし崩し的に俺はミサトの部屋に転がり込んだ。ミサトは嬉しそうだったが、俺は複雑な気持ちだった。ミサトは俺の絵が好きで、俺の才能を信じていたが、俺はミサトほど自分の才能を信じてなかった。ただ絵を描くのが好きだっただけだ。ミサトは信用金庫で働いて、俺の為に飯を作った。俺は不安定な足場で絵を書き続けて、二年経つと俺より一つ年上のミサトは二十七になった。ミサトが二十七になる一日前に俺は荷物をまとめて実家に送った。俺がいなくなったあとしばらく、ミサトはこの油の匂いに悩まされるかと思うと悲しくなって、窓を開けて俺は白いキャンパスで空気を仰いで入れ替えた。そして俺は荷物を詰めたリュックを背負って、初めてミサトの勤める信用金庫に行った。ミサトは事務服を着て窓口にいて、俺が前に立つと微笑みかけたが、俺の背中で膨れ上がった荷物を見て、口元を引き締めた。「両替してください」と俺は言ってトレーに五千円札一枚とマンションの合鍵を置いた。ミサトは小さくため息を吐いて「少々お待ちください」と言って、トレーを下げて歩いていって、戻ってきて、百円玉がビニールで筒状に包まれたものをトレーに置いて「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。俺も会釈をして、田舎に戻ってきたのだ。
 そして俺は田舎の国道を歩いている。俺は今、実家近くのコンビニでアルバイトをしながら、絵を描き続けている。ミサトは何をしているだろう? あの子は初めからこんな男と付き合うべきではなかったのだ。そもそもすべての女の子は、絵具染みの付いたヨレヨレのジーパンと、千円しないTシャツを着て、バイトの給料は酒代と画材代に消えて、読んでいる文庫本の背表紙には古本屋の100円のシールが付いている男となんて付き合うべきではない。俺が女だったら絶対嫌だ。鼻にも引っ掛けない。信用金庫の窓口に並ぶ人の列が他の子よりも長く出来るミサトみたいな女はもっともっといい思いをするべきなのだ。カシミヤのスーツを着ている男にふかひれやアワビやオマールや上海ガニを食べに連れてってもらったりするべきなのだ。いい服を着せてもらって最高の酒を飲ませてもらうべきなのだ。そう考えたら、俺は堪らなくなってしまった。俺とテーブルでシメジのバター炒めを摘みながら缶のウメッシュを美味しそうに飲んでいるミサトを見て涙が出そうになったとき、もう終わりだと思った。
 ふくらはぎが痛くなってきた頃、俺はバーに辿りついた。バーに入ると若い男のグループが俺を睨んだが、マスターの親しげな「久しぶり」という声で彼らは元の会話に戻っていった。最寄の電車の駅から歩いて三時間も掛かるような田舎では見たことの無い客が来ることは稀なのでとりあえず睨まれてしまうのだ。それは敵意というより、防衛の威嚇なので気にすることは無い。それにしても、客層が変わってしまった。俺が前に来たころには年上ばかりだったが、今では年下ばかりになってしまったようだ。もしかしたらバーの客の年齢層というのは一定なのかもしれない。
 俺はミサトのことを考えながら飲んで、マスターに東京のことを話しながら飲んだ。マスターも東京帰りだったので意外に会話が弾んだ。二時間ばかり飲んで会計をしてもらった。僕は「細かくてもいいかな?」と笑ってミサトに両替してもらったまま使えずにいた百円玉の筒を出した。マスターは笑って「面白い冗談だな」と言ったが、「明日両替に行かなくて良くて助かるよ」と言いながらお釣りをくれた。
 俺は店を出て、煙草に火をつけた。気分は幾分良いようだ。俺は帰り道を歩き出した。明日は答えを出さなきゃならないが、俺の気持ちは大体決まった。コンビニバイトの同じシフトのヒトミに付き合ってくれと言われているのだ。ヒトミはかわいい子だが、まだ十九歳だ。ヒトミは初めて会った時俺にこう言ったのだ。コンビニの裏でビールケースに腰を下ろして煙草を吸う俺のジーンズを指差して「血が付いていますよ」って。


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