Fade In-Out

KENSEI

 両側は押し迫るような黒い雑木林。細い道。明るい月。すこし淀んで見える のは、暑さの残滓が空気に残っているからだろう。電信柱。街灯が一定の間隔 をおいて続いている。
 温い風が粒子のようにまとわりつく。前を歩く由里子の肩も、きっと手を置 けば手のひらへ貼りつくに違いない。汗ばかりかいて、なんの実りもない1日 だった。由里子から呼び出したくせに、このところずっと続いている不満や小 言を繰り返されただけ。反論するのにも疲れて聞き流したら、今度は由里子が 黙った。用意してあったプランもあるにはあったが、お互いがなんとなくこれ 以上いても無駄なことを悟っていた。由里子は、今も黙々と家路を急いでいる。  終わりかな……漠然と感じていたものが、形を結びつつある。こうやって送 るのも最後になるかもしれない。そうすると淡い感慨のようなものが胸をよぎ った。この道を何度通ったことだろう。
 由里子の家は駅から20分ほど歩いたところにあるのだが、駅前の商店街を 抜けるとすぐにこんな光景が広がる。この暗がりを抜けると、新興住宅地が、 あきれるくらい同じ顔をして並んでいる。最初のデートの日だった。この夜道 の話を聞いて、ひどく遠回りだが送っていった。由里子は遠慮しながらも、う れしかったのだろう。
「じゃあね。またね」
 と微笑んでくれた。そこから始まったし、こうして送ることが二人の習慣に なった。夜道は二人を親密にしてくれたと思う。自然に手をつなげるようにな ったし、大事な打ち明け話も聞けた。こんな暑苦しい夜にだって、由里子が無 理やり腕を絡めてきて、暑いのにそれでも離れられない。そんな夜だってあっ たのだ。簡単なことだった。ぼくには夢があって、由里子はもう待てないと言 う。時給ではなくて、月給をもらって欲しい、と。由里子は夢を追うぼくが好 きだと言ってくれた。でも、夢だけを追わないで欲しい、と。現実を見て、と。
 道の先に、空の星と同じくらい街の灯が見え始める。トンネルの出口に着い たような、錯覚。この先にあるのは明るい住宅街だった。
 由里子は街灯の下、振りかえる。いつも、ここまでしか送らない。送らせて くれない。ぼくはこの出口で引き返す。家の前まで送ることは、なんとなく避 けていた。きっと由里子の両親と顔をあわすことが困った事態だからだろう。 由里子もそうだ。たぶん、両親に紹介されるというのは、結婚を前提としてし まう。由里子も、ぼくもそうした年齢にさしかかっていた。考えすぎかもしれ ないが、少なくともぼくらにとってはそうだった。いつかそんな空想をしてみ たときもある。「お嬢さんを私にください!」なんて時代錯誤な台詞を。
「じゃ……」
 由里子が口を開いたとき、頭上にある街灯が、消えた。
 一瞬の間をおいて、再び点灯する。
 ぼくらは揃って街灯を見上げて、そのことがおかしくて、笑い合った。
 街灯は、また消えて、点いた。タイミングを早めながら、ときには遅らせな がら、点滅する。由里子が現れては、見えなくなる。不思議な幻想のように。 瞬きでもするように。甲高い音を立てて明滅する。ぼくらは、息をひそめるよ うにして街灯を見守った。見届けたいのか、視線の力で救おうというのか、わ からない。リズミカルに、ときにはテンポを外して、街灯が踊っているように も感じた。
 弾けるような音ともに、突然の闇が訪れた。緑色の残像。立ち尽くしたまま、 動くことができなかった。遠くの方で、排気音が響いた。虫の鳴き声。草の匂 い。
 ふと柑橘系の心地よい香りが流れてきた。由里子の匂いだった。由里子の汗 ばんだ肩へ、腕を回すイメージ。この胸のなかに、由里子はいてくれている。 今はまだいてくれているのだ。由里子の存在を意識した。この通いなれた夜道 を、ぼくは嫌になったわけではない。由里子が嫌になったわけではない。まだ、 早いんじゃないか? 結論を出すのは。まだ早いんじゃないか? ぼくは唐突 に思い至った。この街灯のように、今は消えかかっている。でも、まだそれは ……
 調子はずれのトライアングルみたいな響きで、街灯が光を取り戻した。ぼく はなにかを言おうとした。その前には由里子の満面の笑みがあった。その笑み がぼくの言葉を封じた。
「じゃあ、ね、さよなら」
 街灯が照らし出したその笑みでぼくは理解した。
 もう、その輝きがぼくには向いていないことを。
 由里子は踵をかえすと、出口の向こうへと去って行った。


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