家飲み

秋月 ねづ

 午後七時頃に、体が震えるほどの地鳴りがドカンと一発このシェルターを揺すってから、僕らは酒を飲むくらいしか、やることが無くなってしまった。

「案外あっけないもんだ」
 コーラ味のCHUPA CHAPSが僕の口の中でジンと交じり合って溶ける。アイコの家のソファーは上等で体が沈み込んで包まれるようだ。僕はリモコンでテレビの100以上あるチャンネルを次々と回していく。が、もう大半は砂嵐だ。キャビネットの前で健二がアイコのオヤジのワインを次々と開けていく。
「あんたそんなに飲むの?」
 恵が、その健二の開けているワインの一本を手にとって自分のグラスに注いで飲む。健二はへへ、と笑う。
「俺さ、コルクが上手く抜けるようになりたいんだ」
「ばーか」
 恵はそう言って、僕の沈むソファーに腰を下ろす。
「ねえ、マキ。そのチャンネルをクルクル回すの止めてくれないかなー。あたし、頭おかしくなりそう」
 僕はしなだれかかる恵を横目で睨みながらチャンネルを渡した。
「あたしのオヤジがそうなのよ」
 チャンネルを受け取って、恵は続ける。うるせえよ。僕はお前のオヤジなんかに興味はないんだ。
「野球か何か気になるのか知らないけどさ、あたしが見てるのに、CMのたびにチャンネルを変えちゃうのよ」
 恵は笑う。やめてくれ。

「ああっ、いらいらするわ。あの男。そんなに嫌いなら、さっさとあの女と別れろっていうの」
 そう言いながら、アイコが不倫の相手との電話を終えて部屋に戻ってくる。そして悲鳴を上げる。
「馬鹿健二! あんたそのワイン一本幾らすると思ってんのよ。グランヴァンだよ! あんたが一ヶ月バイトするより高いんだから」
「だから、コルクのさ……」
「それであたし、どうしたと思う? ねえ、マキ、聞いてる」
「ああ」
 僕は入り乱れる声をかいくぐって、恵に返事をした。僕はグラスの底の方に残るジンを煽った。空のグラスの匂いを嗅ぐと強いねずの実の香。上等な酒だ。上等な家、上等なソファー、上等な酒。
「あたし、オヤジからリモコンをもぎ取って、庭に放ってやったわ。その時は夏でね、庭に鈴虫だかキリギリスだか鳴いてたけど、あたしがリモコン投げたらミンナ黙ってね」
 うるさいなあ。僕は恵の頬っぺたをつまんで、こっちを向かせると、キスをして恵の口をふさいだ。僕が唇を話すと、恵は放心したように黙った。
「うるさいよ」
 僕が静かに言うと、恵は何度も唇を手の甲で拭う。
「最低よ。あんた」
 恵は静かに泣き出して、健二は口笛を吹く。アイコは黙って煙草に火を点けた。恵は立ち上がる。
「何? おうちに帰るの?」
 そう言った健二にワインの瓶を投げつけた。
「トイレよ」
 恵はそう言って出ていって、ワインの瓶は鈍い音を立てて健二の腕に当たり、顔をしかめた。
「いてー」
 健二はそう言って、腕にかかったワインを広げるように擦る。アイコはラグに染みた赤いワインを足の指で二三度押す。そのたびにラグからワインが染み出てアイコの親指を赤く染めた。アイコは溜め息を吐く。アイコは歩いて、さっきまで恵のいた場所に腰を下ろす。
「あんなやり方ってないと思うよ」
 アイコは言う。僕に話し掛けないでくれ。
「気が立ってるんだ。ジンを飲むといつもそうだ」
 アイコは僕の腕に手を置く。触らないでくれ。
「ワインに変えなさいよ」
 アイコは健二が開けたワインを指差した。
「私たち仲良くしないとね」
 アイコはそう言って、僕はこめかみを押さえながら何度も肯いた。健二が立ち上がって、うやうやしい態度で僕のグラスにワインを注ぎ込む。コップの底、ジンの跡がワインの赤に押しつぶされていく。僕は叫び出しそうになる。僕は大きく何度も息を吸って、その反吐のような叫びを押し戻す。僕は立ち上がる。
「恵に謝ってくるよ」
 僕はドアを開けて部屋を出る。薄暗くてひんやりとしたコンクリート打ちっぱなしの廊下に恵がうずくまって泣いている。僕は恵の肩に手をかけた。
「ごめんよ。苛々してたんだ。ホントはそんなことするつもりじゃなかった」
 恵はしゃくりあげながら、僕を見上げる。
「うちは貧乏だったの」
 恵は言う。僕は肯く。
「僕の家だってそうさ」
 恵は僕の笑顔を見て安心したように息を吐き出す。
「じゃあ、優しくしてくれるよね」
 そう言って、恵は立ち上がって目を閉じる。僕は恵の頬っぺたに手を置いて、そうっと唇を合わせた。長く。

「そうそう。今、アイコのところにいるんだ。そう、知ってるだろ。代議士の。そうそう。だから心配しなくていいよ、うん」
 ホントにトイレに行った恵と分かれ、部屋に戻ると健二が親と電話をしていた。アイコは健二を睨んでいる。
「おい!」
 僕は叫んで、健二から携帯を奪い取ると壁に向かってオーバースローで思い切り投げつけた。携帯は幾つもの破片に弾け飛んでバラバラになる。
「マナーは守れよ」
 僕はそう言ったが、投球練習もしないで、全力投球したので肩が外れそうだった。素足を組み替えてアイコは笑う。
「さすが県選抜」
 僕は今まで座っていた場所に戻って、灰皿にワインを空けて、ジンを注ぎ直した。残ったワインがジンを薄くピンクに染める。健二はしょ気たように黙って、ワインの瓶から抜き取ったコルクをフローリングに積み上げてる。
「生きてるって全く素晴らしい」
 僕はそう言って、グラスを掲げる。アイコは黙って、短くなった煙草を赤ワインが溜まった灰皿の中に沈める。フィルターが徐々に赤く染まっていく。恵が部屋に戻ってくる。もう普通の顔だ。
「よし乾杯しよう!」
 僕はそう言って、ソファーの上に立ちあがる。恵は部屋の入り口で立ったまま、アイコは胡散臭そうに、健二は放心して僕を見た。
「何に、よ」
 アイコが苛立ったように言う。
「何もかもに」
 僕は歌うように言う。
「ステキな仲間に、ステキな酒に、ステキなソファーに、ステキな部屋に……」
「ヤメテよ!」
 アイコは叫ぶ。
「好きでお金持ちの家に生まれたんじゃない。ヤメテよ。そんなふうに言うのヤメテよ」
 アイコは俯いて、恵がアイコの側に座ってアイコを抱え込むように抱く。恵はアイコ越しに僕を睨む。僕は溜め息をついて座り込む。相当、酔っ払ってるようだ。僕はグラスのジンを飲み干して、テーブルに置く。
「すまなかったな」
 そう言って、僕は立ち上がる。
「こんな良い酒を飲むのは久しぶりだから、悪酔いしちまった。ゴメンなアイコ。僕はもう帰るよ」
 僕は歩き出そうとするが、ふらついてしまい、テーブルに手をつく。
「そういえば、今日は僕の母さんの誕生日でね。お前も早く帰れよって、オヤジに言われてたんだ。うちは貧乏で、家も築40年、2DKの借家だけど、家族の誕生日だけは飯が豪勢でね。アイコや健二なんて普段から旨いもの食ってるものかもしれないけど、うちの今日の晩飯も捨てたもんじゃないぜ」
 僕はフラフラとドアのノブに掴まって寄りかかる。
「じゃあ、皆さん。ごきげんよう」
 僕はドアを開けて廊下に出る。アイコのつんざくような悲鳴が聞こえる。
「恵! 止めてよ! あいつホントに出ちゃうわよ」

 僕はフラフラと廊下を歩いて行き、階段を登って天井の入り口、銀行の金庫を思わせる取っ手に手をかけた。追いかけてきた恵が僕を取っ手から引き離して壁に押し付ける。
「僕は帰りたいんだよ」
 僕はそう呟く。恵の目から涙が溢れる。
「あたしだって帰りたい。でも帰れない。帰るところなんてもうない!」
 恵は僕の体に手を回して子供のように泣き始める。恵の涙が僕のTシャツに染み込んで、急激に僕を醒ましていく。僕は恵の髪の中に手を入れて梳かした。
「何だか悪い気がしてな」
 僕はそう言う。恵は顔を上げて僕を見る。
「オヤジとおふくろと妹に。ホントだったら僕は家の居間の畳の上で座ってた。おふくろと妹は台所に立ってご馳走を作って、僕とオヤジはビールでも飲みながら、プロ野球でも見ているはずだった。網戸の外は夕暮れで涼しい風が入って来て、今日はおふくろの42回目の誕生日だった」
 僕は恵の髪を撫でつける。恵の頬に涙が伝う。
「結局、全部すっぽかしちまったなって」
 僕はそう言って、鼻をすすった。
「ゴメンな、恵」
 僕は言う。
「ここを開けるわけにはいかないよな。きっと放射能とかが危ないんだろう。でも、さっきジンを飲んでて思った。
 ここを出て、外に出て、走っていけばまだ追いつけるような気がした。もう、おふくろの誕生日会は終わってるだろうけど、貧乏人たちの行列はまだ遠くへは行ってなくて、それにはまだ、追いつけるように思えたんだ」
 僕がそう言うと、はっとした表情で恵は僕を見た。
「ごめんな」

 僕らが部屋に戻ると、健二が手を振った。健二はご機嫌で、ソファーを占領している。右手にはワインの瓶が握られている。アイコはワインに濡れたラグに座り込んで、携帯電話をいじっている。
「おかしいな……」
 アイコは何度もそう言う。
「とうちゃんの携帯、何度かけても圏外なんだ」
「見ろよ」
 健二はテレビを指差す。テレビでは悲壮な顔をした中年が大きな日本地図を丸でグリグリ囲んでる。
「一発で関東は全滅だってよ」
 健二はワインをらっぱで飲む。
「おかしいな……」
「日本に撃ち込まれた核は計八発。北海道、東北、関東、中部、関西、中国、四国、九州。多すぎるくらいだよ、威力としては。あの丸一つの大きさを見ろよ。四発も撃てば充分だったな。無駄遣いだよ。俺ならもっと効率よく撃つね」
 健二は笑う。
「他の国も大変だってよ。アメリカロシアイギリスフランス他ヨーロッパにアジアにアフリカオセアニア。地球は穴ボコだらけだよ」
 健二は起き上がって歌うように言う。
「おかしいな……」
 アイコがそう言うと、健二はアイコを睨み付ける。
「おかしかねえよ! お前のオヤジは車で移動中だった。外に居たんだろ? なら生きてるわけねえよ!」
 アイコは健二を見たが、すぐに下を向いて唇を噛んで泣き始める。僕が健二に近寄ろうとするのを恵が止めて、自分が近づいて行く。
「ばーか」
 恵はそう言って、健二の持つ瓶を引っ手繰って、奴の頭の上で逆さにした。ワインは流れ落ちて健二の髪を濡らす。
「お前は・誰の・お陰で・生きているんだ?」
 恵はそう言って、空になった瓶を捨て、床に置いてあった新しいワインを健二の上に注ぐ。
「このシェルターは誰の物だ?」
 健二はワインまみれになって顔を拭う。白いシャツが赤く染まっていく。
「核爆弾が降るから、シェルターに急いで入れって……」
 恵は新しい瓶を取る。
「電話してくれたのは誰だ?」
 恵はそう言いながら、ワインを注ぎ続ける。白い皮のソファーにもワインが滴っていく。僕は舌打ちをした。座れねえじゃねえか。
「お前は命の恩人にそんな口を聞くのか?」
 恵はそう言って、ワイン塗れの健二の頬を叩いた。僕はしゃがみ込んで、唇を噛んで涙を耐えるアイコの耳に口を寄せた。僕は小さく呟く。
「ありがとな。恵が言った通り、俺達が生きてるのはオヤジさんのお陰だ。オヤジさんが外に居たのだって、本当に偉い政治家だからだろ? 汚ねえ奴は一番先に隠れてるはずだもんな。多分、皆の為に走り回ってたんだろ」
 アイコは僕の肩に顔を当てて泣き出す。
「アイコ、ごめん」
 よろよろと健二が近づいてくる。僕は健二を睨みつけた。健二はその場で座り込んで泣き出す。
「許してやれよ。アイコ」
 僕は言う。
「健二は悪い奴じゃない。ただオカシクなってるんだ。健二だけじゃない。俺も恵も、アイコお前だってみんなオカシクなってる。分かるだろ?」
 アイコは顔を僕の肩につけたまま、僕の手の甲を握る。
「わたしたち仲良くしないと」
 アイコは震える声で言って、僕は肯いた。

 部屋の中は至る所に赤ワインが飛び散って、僕らはめいめい、濡れていないところを見つけて腰を下ろした。テレビでは生存者救出方法が放映されていたが、誰もそれに注意を向けず、ただ黙っていた。僕らはもう待つ事のほかにすることはないのだ。僕は壁に寄りかかりジンを舐めるように飲みながら、知り合いの顔を一つ一つ思い浮かべていった。その殆どがシェルターなんて持っていなくて、あの行列に加わって歩いているんだと思うと、まるで死んでしまったのが自分であるかのように思えた。周りの人たちが皆死んでしまうことと、自分が死ぬことの悲しみはきっと似ているんだろうと僕は思った。
「……相川、中村、三宅、稲本、石橋……」
「やめなよ」
 僕はいつの間にか彼らの名前を数え呟いていて、恵に止められて気づいた。僕は意識的に口をつぐんだが、頭の中で右から現れて、真ん中の柵を飛び越えて、左へ消えて行く知り合いの数は増えていくばかりだった。家族から始まり同級生、野球仲間、顔しか知らない奴まで一通り過ぎると僕は横になり、毛足の長いカーペットに顔を埋めた。目を閉じると暗闇が回り始めて、耳鳴りがした。そしてすぐに睡魔がやってきた。僕は手を伸ばして、そっとグラスを遠くに置いた。寝返っても零さないように。
「こんな状況でも眠れるんだな」
 僕は漠然とそう思った。


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