雨宿り

煎餅屋 光圀

 時計が右腕で雨に濡れるのを見た。
 時間は午前1時。夜半から降り出した雨は、今日のお昼まで止むことは無いだろうと天気予報で言っていたけど、そんな先の事は今の僕らには関係ない。今この時に降る雨をなんとかしてくれるなら、明日1日雨が振り続けようといっこうにかまいはしないのだ。
 僕の隣でゆうが可愛くくしゃみをした。僕は来ていたオーバーを肩に掛けてやる。
「雨・・・・・・、止まないね」
 ゆうが僕の方をちらりと見て身震いする。僕はおそるおそるゆうの反対の肩に手を回して抱き寄せた。ゆうは肩の手を一瞬だけ見たがそれ以上何も言わなかった。
「寒い?」
 僕は内心ドキドキしていたので、それを隠すためにゆうに優しく話しかける。ゆうは微笑んで首を振った。
 雨は轟と音をたててアスファルトをうち、薄汚れた地面でもやを作った。僕らの目の前でまた一つ繁華街の電気が消える。それは意地の悪い悪魔が僕の心のよりどころを、一つ一つハンマーでたたき壊している様にも見える。
「雨、嫌い?」
 ゆうは小首を傾げて僕に言った。僕の内心の焦りとは裏腹にゆうはとても楽しそうだ。
「たった今から嫌いになりそうだよ」
 僕は真っ暗な空を見上げて呟く。
「君のお父さんに、なんて言われるか分からない」
 ゆうは僕を悪戯っぽい目で見た。
「もう、家の娘に会うことは揺るさん!、とか?」
 そう言ってクスクス笑うゆうを、僕はばつの悪そうな目で見る。
「笑い事じゃ無いんだよ、君だって外出禁止ぐらいにはなるかもしれない」
 僕がそう言うと、ゆうはますます楽しそうに笑った。
「ならないと思うよ、パパ、甘いから・・・・・・」
「君には、だろ?」
 ゆうはコクンと頷き、僕はまた一つため息を付いた。
 目の前のラーメン屋の電気が消えると辺りはすっかり暗くなってしまった。こんな闇の中で浮かび上がるのは、ゆうの白いブラウスと僕の白いスニーカーだけだ。僕は塗れて透けているゆうの胸元に少しドキドキして目線をそらす。ゆうはそれに気づいてあわててオーバーの胸元を合わせて僕を横目で睨んだ。
「見えた・・・・・・?」
「何が?」
 僕は無理に平静を装ったけど、つい口元が笑ってしまう。
「うそ!」
 そう言うとゆうは顔を真っ赤にして僕の腕をつねる、僕は笑ってゆうの手を握った。
「だって、しょうが無いじゃないか、見えちゃったんだから」
「知らない!」
 そう言ってゆうはすねたようにそっぽを向く。その仕草があまりに可愛らしかったので、僕は思わず後ろからゆうを抱きしめてしまった。心臓の音がドラムのように頭の中で鳴り響いていて、僕は幸せのあまりどうにかなりそうだった。ずっとこうしていたかったけど、ゆうは僕の腕の中でかすかに震えていて、その事実が僕を打ちのめすのに、さして時間はかからなかった。
「ごめん」
 思わずそう言って手を離した僕を、ゆうはだまって見つめている。そして口元に少しだけ笑みを見せると静かに目を閉じた。頭の中が混乱して何も考えられない。僕は急いで目を閉じてその唇に触れる。
 雨の匂い・・・・・・、静寂の中で雨の匂いと音だけを僕は感じた。胸の高鳴りや、唇の感触、それにゆうの匂いとか色々あったはずなのに、二つの影が離れたとき、覚えているのはそれだけだった。長い夢を見ていた様な気分で目を開けると、驚くほど近くにゆうがいた。世界が一変するほどの出来事のような気がしたけど、別に何も変わっていない、だけど落胆よりも高揚感の方がずっと大きくて不思議な感じだった。
 ゆうは顔を真っ赤にしながら、ぼくを見つめてこういった。
「まだ、雨、嫌い?」
「たった今から好きになりそうだよ」
 僕がそう言ってゆうの髪をなでると、ゆうの顔はトマトみたいに真っ赤になった。
「・・・・・・そろそろ許してあげてもいいかな?」
 そう言ったゆうの声は見事に上ずっていたので、思わず僕も笑ってしまう。
「ゆるすって、何を?、さっきのこと?」
 僕がそう言うと、ゆうはクスクス笑って鞄の中から折り畳みの傘を取り出した。あまりのことに二の句が告げられないでいる僕を見て、ゆうが伏し目がちに尋ねる。
「一緒に怒られてくれる?」
 僕は怒っていいのか、笑っていいのかなんとも複雑な気分だったが、幸せそうなゆうを見ていたらそんなことはどうでも良くなってしまった。僕は微笑んでゆうを抱き寄せるとこう呟いた。
「いいよ、でも怒られるのは僕だけのような気がするんだけど・・・・・・」
 ゆうはうなずいて、そして悪戯っぽく笑った。
「パパも貴方も、甘いから・・・・・・」
「ゆうには、だろ?」
 そう言うと、ゆうはコクンと頷いた。


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